其の八 きちがい屋敷をお逃げなさい
家政婦長がどこかへ消えた後、ネッチたちはトラビスの部屋にかけこんだ。
「聞いてよトラビスっ。みんなひどいんだ!」
ナーシェルは今日一日でおこった厄介ごとを、おもいつくままに話した。
「それでね、家政婦長なんか食べられない料理を出して、それがいやなら御飯は抜きだなんていうんだ」
ナーシェルが必死にうったえると、
「ここではそんなのしょっちゅうだよ。言っただろう? ここはきちがい屋敷なんだから、にげた方がいいって」
力なくわらうトラビスを、奇妙におもって聞いてみた。
「トラビスはなんで逃げないの?」
みんなはもっともだと思ってうなずいた。
トラビスはうつむいたかと思うと、憑かれたように話はじめた。
「ぼくもさいきん妙なんだ。ときどき自分で自分がわからなくなって、ひどくゆかいな気分になる。そんなときは、ふだんは思いもよらないようなことを、平気で考えるんだ……」
トラビスはぐっと首をもたげた。
「ほら。今がそうだよ」
トラビスはこうこつとした笑顔を向けてきた。口が裂けるほどおおきくなった。そのくせ目だけはわらっていない。
トラビスは、すでに狂っていたのだ。
あのやさしいトラビスはどこかに消え、もうひとりきちがいがあらわれたようだった。ナーシェルはそれが同一人物だとはとても理解できなかった。
「うけけけけけっ」
トラビスは立ち上がって、きちがいじみた笑声を上げはじめた。
「うわあああああ!」
ナーシェルたちは大声でわめきながら、扉をけやぶり、トラビスに背をむけにげだした。
すると、廊下のさきに家政婦長がたっていた。
ナーシェルたちはその場で立往生してしまった。後ろからは、きちがいになったトラビスが、首をがくがくさせながら近づいてくる。
「あの……なんですか?」
ナーシェルはいまにも消えいりそうな声で、家政婦長に問いかけた。
「公爵夫人がおよびだよ。ついてきな」
家政婦長はアゴをしゃくると、こちらの返事はまるできかずに歩きはじめた。
ナーシェルたちはこまったように顔をみあわせたが、後ろからはトラビスがちかづいてくる。
一同はしかたなく、家政婦長の後についていった。
家政婦長はルリー公爵夫人の部屋に案内した。
ナーシェルたちがはいってみると、ひどくあつい。これは部屋の中央でおおきな鍋を煮ているためだった。
鍋をみつめるうちに、ネッチたちの腹がグーとなった。今日ははたらきづめだったうえに、なにも食べていないのである。
鍋の中身はただのお湯で、なにもはいっていなかった。
「なにを煮るの?」
「お前にきまっているだろう」
家政婦長はおそろしい目つきで、ナーシェルをにらみおろした。
「あたしの旦那はかたくてまずかった。おまえはどうだろうね?」
ネッチたちはいっしゅん冗談だろうとおもったが、公爵夫人は以前とおなじ笑顔をうかべたままだった。
ネッチは、東の牢屋で、ルリー公爵夫人がいった言葉をおもいだした。
公爵夫人はナーシェルをみて、おいしそう、おいしそうと言ったのだっ。
「ほんとうにおいしそうな子供だこと」
夫人はまたおなじ言葉をくりかえした。
決定的だった。公爵夫人は、本気でナーシェルを煮て食おうとしているらしい。
「そんなのいやだよ!」
ナーシェルが泣き顔でさけぶと、ネッチが素早くその体をさらって、小脇にかかえた。
ふうせん男爵が床のじゅうたんをひっぱり大鍋をひっくりかえした。
「うぎゃあ!」
公爵夫人が、にたった湯をあびて悲鳴を上げた。
家政婦長が、おたけびを上げてかけよってきた。そこをトラゾーが、足をひっかけけころがす。
「おお、強いぞ、トラゾーっ」
とシングルハットが、ナーシェルの肩にのって歓声を上げた。
家政婦長がころんでくれたのは、もちろんまぐれ以外の何者でもないが、トラゾーにとってはまさに面目躍如のできごとである。
当然、鼻息もあらく見得をきりはじめた。
「ふっ、このていどでおどろいてもらっちゃあ、あいこまるっ。サムライ一匹、ころがしましょう家政婦長。男トラゾー、おみせしましょうこの技を。艱難辛苦ものりこえまして、男トラゾー一人立、ち……あれっ?」
トラゾーはきょとんと部屋をみまわした。
トラゾーが見得をきっている間に、みんなはすたこら逃げていた。
「うう……」
後ろでは、家政婦長がはやくも立ち上がりかけている。
「待ってくれぇ~」
トラゾーはあわててナーシェルたちの後をおいかけた。