青空

ねじまげ世界の冒険の、冒頭をチラ見せいたします!

朗読版も用意しました!

第一部 おまもりさま

 章前 二〇二〇年 梅雨

    一

 また、あの夢だ。
 彼女は布団の重みを感じ、かっと目を見開いた。暗闇のなかで、目をしばたく。汗をびっしょりかいている。悪夢のために体はこわばり、息をつめてさえいたが、そこが自宅の寝室だとわかると、やっと呼吸をつくことができた。
 やせこけて、おもやつれがしている。暗闇で、目がランランと光っている。うすいピンクのパジャマを着ているが、その明るい色合いは、女の深刻な状況をかんがみるに、なんともふつりあいな感じがした。
 布団のなかで曲がった膝を伸ばすと、こわばった背筋がきしんで痛かった。彼女は眉をひそめながら、目が覚めるたびに浮かぶあの言葉を、いまいましい思いでうけとめる。
 世界はねじ曲げられている……という言葉。
「またあの夢か……」
 泣きたい気分で一人ごちると、額に手をやり、大粒の汗をぬぐった。辺りは暗く、部屋はしんとしている。時計の音が、ほとほと鳴るばかりで、あとは夫の寝息がするだけだ。
 彼女は三十七才の主婦で、名前は高村利菜と言った。高村秀男とは結婚して十二年がたち、小五の娘を一人もうけている。昨年、絵本を出版したこと以外は、ごく普通の主婦だと、自分では思っていた。
 不眠症、不眠症、という言葉が浮かぶ。昨晩は何時に眠ったのかと、焦燥にかられる。さいごに時計の針を確認したときは、夜中の二時だった。いまは三時半である。その間、熟睡の感覚は、一度もなかった。
 睡眠時間が減りはじめたのは、昨年の十二月――いまでは一時間も眠ればいい方だ。
 体を起こそうとすると、関節がきしんで痛かった。筋肉は、オーバーヒート寸前のエンジンみたいだ。不眠症と悪夢が始まって五ヶ月がたち、自分が限界に来ていることを知った。
 ベッドの上で身をよじらし、夫を起こさないよう、注意をして、布団をどかす。鏡をみると、頬のこけた女がいて、その女の光る瞳が見え、泣いていたんだな、と彼女は思って、鼻をすすり、夫に背をむける。泣くほど怖がっていたのに、夢の内容はさっぱり思いだせない。
 床に足をおろし、つめたい板間の感触に吐息をつく。動悸がおさまるのを待つ。
 ゆっくりと立ち上がる。体がふらついた。すっくと身をたてると、胃袋の中身がさかのぼるのをこらえる。
 時計とにらめっこをするうちに、吐き気はとおざかる。部屋を歩くと、足下もしっかりした。
 額と腰に手をあてるおなじみのポーズで、なじみの不眠症問題にとりくんだ。
 はじめのうちは、体をつかっていないのが原因かと思った。ジョギングもしたし、水泳もやった。つまらない本を読んだり、コーヒーを断ったり、蜂蜜をたべたり、呼吸を深くしてみたり、あらゆる努力をおこなったが、効果はなかった。自立訓練法を試みたこともある。ヨガもやってみた。かかりつけの医者に相談もしたが、無駄だった。だいいち睡眠とは、努力をするようなことなのだろうか? 眠るのは、自然なことではないのか?
 眠いときに眠るのは天国だと思う。要求と行為が合致する。眠れる健常人は、神経の問題だと彼女に言うが、それならば彼女はこのところずっとトゲトゲしていた。朝がきても疲れが抜けないのだから当然だし、じわじわとだが、自分が鈍くなっていくのがわかる。精神を満たしているのは、不安と強迫観念だ。
 頭が回らない、気が利かなくなる、注意力は散漫で、神経過敏になっている。娘に手をあげたこともある。それにたいし、反省もしている。
 彼女は右のこめかみをもみながら――実のところ頭痛もしていたのである――部屋を歩き回った。
「こんなことをしたってどうせ名案なんか浮かばないわよ!」
 壁を殴りつけたくなる。疲れをとるために眠るのに、眠るために疲れはてるとはどういうことだ?
 途方にくれた。不眠症がすべてを鈍らせている。判断力も、思考力も、記憶力も、生きる気力も削りとっている。いまでは感情をおさえることも難しかった。人にくらべれば寛大な方だったのに、神経過敏でヒステリーの兆候がつねにある。
 口答えをしたからなに、とつぶやく。あの子の顔をはりとばしたのに、正当な理由はなかった。やつ当たりをしたのである。
 いまでは鉢植えにさえ腹がたつ。体調はつねにくずれて貧血気味だし、それに幻覚をよく見るのである。声をきくし、誰もいないのに人の気配をかんじたりする。脳腫瘍でもあるんだろうか?
 医者には、ストレスをためないこと、などと言われたが、そのことにもまたぞろ腹がたってきた。
「ストレスがたまってなにが悪いの? ストレスをためるな? 助言をどうも、役に立つわよ。ついでにストレスをためない方法も教えろってんだ。眠れないからストレスがたまるんだ! 人の百倍高給とるくせに、旦那とおなじことしか言えないのか。不眠症はたいしたことじゃない? 夜中に死にたいぐらいイラつくのがたいしたことじゃない? たいしたことじゃないんなら、いますぐ治せ!」
「利菜?」
 声をかけられ、利菜は自分が一人ごとをつぶやいていたことに気がついた(つぶやくというより怒鳴っていたが)。彼女はばつの悪い気持ちでふりむいた。秀男がベッドのうえで、体を起こしていた。
 秀男とは、講文社の職場で知りあった。利菜は大学の頃から原稿の持ちこみをしており、そのまま出版社に就職をしたのである。秀男は三つ年上で、彼女の上司だった。気のつよい彼女は、仕事のうえでは何度もぶつかりあったが、一年後には結婚し、その一年後には子どもが生まれたので仕事をやめた。
 その後、秀男は編集長になり、雑誌をいくつも抱えている。利菜に絵本の仕事をもちかけたのも、この秀男である。
「眠れないのか?」
 秀男はベッドの上から体をのばしナイトテーブルの明かりをつけた。部屋がすこし明るくなった。
 彼女は鼻で笑いとばし、「おもしろい質問するじゃない。眠ってるように見えるんなら、そういって」
「また八つ当たりか」
 秀男はグラスを手にとった。錠剤入りの瓶をもう片方の腕にもち、今年いくどめかになる質問をくりかえした。
「薬は飲んでるか?」
「飲んでない……」彼女は爪をかみはじめ、秀男はその手元をみている。
「飲んだほうがいい」
 彼はペットボトルを手にとり、ミネラルウォーターをコップについだ。薬瓶のふたをまわすと、錠剤を手に落とした。ベッドを降り、近づいてきた。
「欲しくない……」涙声で言う。
「そんなに苦いのか?」秀男は鼻を錠剤にちかづける。「においは悪くないぞ。飲め」
 利菜は強情に腕をくんだ。「いやよ」
「飲めよ」
 秀男がなおも手をつきだしてくると、彼女は薬をうばいとった。
「いらないわよ!」
 と壁に叩きつける。錠剤の一粒は、粉々になり床に落ちた。ほかの粒は周囲に散った。
 彼女はあとじさった。
「欲しくない……欲しくないのよ……飲んでも効かないんだもん」
「はじめは効いたじゃないか」
 秀男のおちつきぶりに、利菜はまた腹をたてた。
「それは最初だけよ!」怒りでふるえながらにらむ。「それはね、たしかに眠れたわよ。でもあのときだってすぐに目が覚めたのよ。あんたには言わなかったけど……」
「そうなのか?」
「そうよ。まぬけ面しないで。すぐに眠れたけど、すぐに目が覚めたのよ。もう薬なんて飲まないわ。眠れなくたってけっこうよ」
「そうやってやけをおこすのはやめろよ」秀男はがまんづよく腰に手をあてた。「眠らなくて平気なのか? まいってるのはわかるだろう?」
「当然よ。あたしがいつもどおりに見えるの? あんたこんな女に惚れたわけ?」彼女は両腕を広げて、首を左右に振りたてる。「まいってなにが悪いわけ? ろくに眠れなくてごめんなさいね」
「その早口と身振りは変わってないぞ」彼は彼女のまねをした。「オーバーアクション」
「あんたも、あたしを怒らすのはあいかわらずね」利菜は腕をくんだ。秀男が肩をすくめた。彼女の物真似をまだやめない。「あんたはいっしょに働いてるころからいっつもそうよ。あたしがいらついてるのが見えない?」
「感情は見えないし、おまえは怒ると頭がまわる」
「いまはあんたにキレてんのよ」と吐き捨てる。「八つ当たりだけどね」
「それも変わってない」秀男はふくみ笑いをもらす。
「そうね。絵本を書き出してまたぞろ上司と部下にもどったわけだし。礼でもいおうか?」
「ごほびに薬を飲めよ」
「いやよ」
「効くかもしれないだろう」
 彼女は本気で腹をたて、きつくいった。「薬を飲むともっと自分がだめになるのよ。にぶくなんの。わかったっ?」
 秀男は彼女の語気に口ごもった。ふざけるのをやめて本腰になったが、方途がなかった。利菜はもともと不眠症になるような性格をしていない。絵本の仕事が終わって、燃え尽き症候群でも出たのか、ライターズブロックかと思ったが、そんなありきたりなもののせいにするには、彼女の症状はおもかった。毎日小一時間と眠れていないし、日頃の挙動もおかしいのである。認めたくはなかったが、精神的な病に見えた。
 不眠症がここまできた以上、薬を試してみるのは良策だと思えたが、当の妻兼部下が拒否している。秀男は腕をくんだまま弱りはてた。
「どうしてやったらいいんだ。眠れない理由がわからないし……ストレスが……」
「ストレスのせいじゃないっていってるでしょ!」
 利菜の大声が、切り裂くように部屋をみたした。秀男は表情を硬くした。
「おい、大声をだすな。純子が起きるだろう」
 二人はだまった。ややあって、彼女は言った。
「起きたからなんなの。あの子はいつでも眠れるじゃない」
 秀男は傷ついた表情をみせたが、顔はふせなかった。
「そんなふうにいうなよ。そこはおまえらしくないね」
 利菜はだまって唇をかむ。不眠症がすすむと、ばかな言葉が出るもんだ。
 秀男はだまってポケットに手をつっこんだ。今度はちいさく肩をすくめた。「仕事はすすんでるか?」ときいた。秀男は、利菜の気晴らしになるかと思い、ライターの仕事をいくつか持ちかけていた。
「ぜんぜん。あんたが編集長じゃなきゃ、とっくにお払い箱かもね」
「心配ないよ」秀男は言った。「おまえは才能あるから」
 利菜は鼻でわらったが、べつに嫌みな笑いではなかった。
「あたしをのせんのも、あいかわらず上手よね」
「ああ」秀男は一瞬とまどうように顔をふせたが、まっすぐにみつめ、「おまえが不眠症でも幻覚をみても。夜中におきておれにあたっても、関係はかわらないよ。いまでも惚れてるからな」
 と秀男は言った。彼の目はつよく、おかげで彼女は彼の言葉を信じた。ときどき率直なことをいって喜ばすのもかわらないな、と彼女は思った。このところ、二人の関係はうまくいっていなかったが、彼女だっていまでも彼が好きだった。
 秀男は、「おれもストレスが原因とは思ってない。おまえここんとこ、ほんとにおかしいもんな」
 率直なご意見どうも、と利菜は思った。
 二人は思い思いの行動をとった。利菜はポケットに手をつっこむと、ぷらぷらと歩きまわり、秀男はおなじ場所で、踵を浮かせてはおろすのをくりかえし、腕を組んで考えている。
 秀男はやがてぽつりと、「実家に戻るか?」
 利菜は立ち止まり、険のある表情をみせた。「なによそれ」
「純子も春休みだろう。寛ちゃんとこでも泊まって、のんびりしてきたらどうだ?」
「女二人追い出して、浮気相手でもつれこむ気?」と意地のわるい笑顔をみせた。
「浮気相手はいない」秀男はにやけた。「もてるけど」
 二人は互いにうつむいて、にやりと笑った。
 彼らはまた部屋をぶらつきはじめた。ときおり互いに目をやった。
「あんたなに考えてんの?」
「明日の仕事のこと」
「また雑誌をたちあげるんだって?」とあきれたように言う。
「そう」秀男は思いついたようにつけたす。「ああ、心配すんなよな。おまえの助けはいらないから」
「そんなこといって。仕事がつまったら原稿をまわすじゃない。いつもいつもいっつも」
「腕が落ちてなきゃ、こんども回してやる」
「もちろん落ちてるわよ……」
 落ちこんだ声でいうと、秀男がそっと近づく。「できることがあったら、なんでもするよ」と彼女を抱きよせる。
「不眠症は治せないけど?」
 秀男はすこし体を離して、彼女の額にキスをした。
「不眠症は治せないし、文も書けない。絵もだめだし。だから原稿はおまえに任す」
「頼りにしてるわよ、編集長」
「おれもおまえを頼りにしてる」と彼は言った。「わかるよなあ。お互いさまだってことぐらい」
「もちろん」と彼女は言う。「あたしだってあんたを頼りにしてる」
 秀男は利菜の髪をなでおろす。利菜はほっと吐息をつく。秀ちゃんはまだ私が好きだな、とのんびり思った。いいかげん愛想をつかされるかと思っていた。このところ、八つ当たりばかりしていたからだ。でも、八つ当たりをするところは秀男にだってある。秀男のいうとおり、確かにお互いさまで、まだ互いが必要だった。
「こんな女と離婚したら?」と心にもないことをいった。
「よせよ」と彼が言う。「おれにほれてるくせに」
「ほれてるのはあんたの方でしょ」利菜は秀男の肩をそっと噛む。「一目ぼれだったくせに」
「さきに告白したのはそっちだ」
「最初のデートでせまってきたの誰?」
「それはおれじゃない」秀男が笑った。「別の相手」
 秀男は彼女の背をなではじめた。二人はいつもの言い合いをつづけた。そのうち、彼は体をぴたりとくっつけ、軽く体をゆすりだした。
 彼女の右手をとった。
「なにしてんの?」
 さもゆかいげに声をたてた。
「おどってる」
 二人はわりと長い間踊った。やがて二人でベッドについた。行為を終えたあと、利菜は秀男のとなりで天井をみつめた。
 不安は消えてはいなかったが、いまは安心感も生まれている。彼は彼女と手をつないでる。互いを信じる気持ちは消えていない。二人が仕事上の上司と部下でしかなかったとき、秀男はよくこういった。「問題が見つかってよかった」そういって、肩をすくめてみせるのである。「なおせばもっとよくなる」
 彼女は眠れなかったが、起きる前より前向きだった。ただ、彼女はこうも思った。悪夢や幻覚の遠因は、このなぜとは知らない不安感にあるのだと。彼女は不安だ。医者のいうストレスなど関係なかった。強い不安を感じていた。
 強迫観念が、空気のように彼女をとりまいている。それでも利菜は、秀男のことを思い、一人娘を思い、あきらめないことを決めた。不眠症だって、いつかは解決するにちがいない。
 ところが、彼女の心中には、あの言葉が浮かんでもいた……世界はねじ曲がっている――という言葉。
 彼女は言った。
「世界はねじ曲がってなんかないよ。曲がってんのはあたしの性根の方」
 結局彼女は彼女の夫を信じ、彼女自身を信じたのである。問題をかかえるのもお互いさまだが、いままで前向きに解決してきたのだ。だめだったことはあるが、だめにしたことは一度もない。
 利菜はとなりで眠る秀男に、そっとつぶやいた。
「不眠症にはいちばん効果があるわよ」

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