青空

ねじまげ世界の冒険の、冒頭をチラ見せいたします!

    二

 事態がうごきはじめたのは、数日後のことだった。その日は前日からの雨がつづいた。家には彼女だけがいた。夫は仕事にいき、娘は学校だった。午前十時すぎ、クロネコヤマトの宅配が、彼女に荷物をとどけてきた。
 高村利菜の郷里は千葉県多賀郡の神保町だが、いまは東京の一戸建てに暮らしている。荷物をおくってきたのは、その郷里にすむ竹村佳代子で、利菜とは幼稚園のころからつづく幼なじみの親友である。佳代子は、これも小学校からの腐れ縁だった寛太と結婚し、十九年がたった今では、二人で自然農園をやっている。
 利菜は中学の卒業とともに、県外の女子校にかよいはじめ、大学も就職も東京だった。神保町とはずっと疎遠だったのだが、佳代子と数人の仲間とだけは、ずっと交友がつづいている。
 利菜は段ボールを居間まではこんだ。佳代子がホームセンターからもらってきた段ボールには、薄く土がついていた。いつものように野菜を送ってきたらしい。箱をひらくと、新聞紙でくるまれた野菜がある。
 佳代子が野菜をとどけてくるのは毎月のことで宅配などめずらしくなかったが、今回は新聞の上に封筒がある。茶色の便箋がのっていた。
 佳代子が手紙を? と彼女はいぶかしんだ。用があるのなら電話をかけてくればいいと思った。佳代子は筆まめな方ではなかったからだ。
 そういえば……と彼女は気がつく。この数ヶ月は電話のやりとりすらしていない。以前は三日とあけずに連絡をとりあっていたのに? 彼女がかけなかったのではなく、向こうからもかかってはこなかった。
 封筒をうらがえした。これといって署名はない。胸騒ぎがした。封筒を机に置きなおす。佳代子にもなにかあったのではないかという直観がした。不眠症では半年もなやんでいたのに、佳代子に相談する気にならなかったこと自体が不思議だ。友だちは大勢いるが、かくべつ思い入れのある親友といえば、佳代子をおいてほかにない。出版された絵本をまず見せたのは佳代子だし、結婚の報告を真っ先にしたのも佳代子だった。だれにも打ち明けられない悩みも、佳代子になら相談できた。ともに初潮を経験した友人とは、そういうものではないのか? 幼なじみといえば自然とはずかしいところも知ってしまうものだし、なんといっても佳代子は利菜に関するいろんな秘密をにぎっていたのである。
 彼女は表に面したガラス戸に目をむけた。そのとき、六人の子どもたちが小雨のなかに立っているように見えたが、気のせいだったようだ。彼女は大きく息をついて、封筒に視線を戻した。
 不眠症がはじまったのが昨年の十二月……三月のなかばからは、夢遊病がはじまった。ロフトに隠れていたこともあるし、庭に出ていたこともある。二日前は風呂場にかくれていた。
 目を覚ますと、バスタブにうずくまっていた。シャワーからは小雨のように水が落ち、ずぶぬれになって、泣きながら膝をかかえていた。部屋は真っ暗闇だったが、突如として明かりがついた。どこにいるかを悟った。
 バスタブのカーテンはしまっていたが、そこに人影がうつっていた。
「誰……」
 と梨菜はつぶやいた。夫のはずはない。輪郭でそれを察した。立ち上がって、カーテンを開けた。
 そこにはずぶ濡れの女が、着物と長い髪をたらして立っていた。彼女は溺死女だと思い、悲鳴をあげ尻もちをついた。激痛に顔をしかめそれでも急いで顔をあげたが、そこではカーテンがかすかに揺れているだけで何もいなかった。誰も。
 彼女はシャワーを止めた。ずぶ濡れの体をみおろした。いつもの幻覚にしてはできすぎだな、と暗い笑みをもらし、服を着替え、台所の椅子にすわり、何が起こったのかを考えた。包丁をもち、何事かを考えながら、ほうれんそうを切った。みそ汁をつくり、目玉焼きをつくり、食卓にならべていると、家族が起きてきた。たまたま早く起きたのよ、と説明した。たまたま不眠症になったし、たまたま幻覚を見るようになったのよ、と考えた。二日前のことである。
 彼女自身は、そうした幻覚などの症状には、すべてなにかしらの遠因があるのだと考えていた。無作為におこっているのではなく、ある一定のまとまりがあったからだ。無意識のうちに行動しているときは、なにかから逃げようとしていることが多かったし、例の悪夢も、おなじ内容をくりかえし見ているようだった。
 佳代子の文面はつぎのようなものだった。
『まいど。ゲンキでやってるか? おひさしぶりです、竹村佳代子でございます。梅雨もちかごろ盛りがついて、こっちじゃあざんざんぶりがつづいてる。ここんとこあんたともご無沙汰だったんで、手紙を書こうかとおもう。こっちじゃあ近所の小学生を十人ばかりひきうけて、農園をてつだってもらった。収穫があったんであんたにおくる。そっちはどう? あんたは元気か?』
 佳代子は簡単にご無沙汰だったと書いているが、彼女たちはメールのやりとりすらしていない。不眠症がはじまってからは、ふっつりと連絡がとだえていたのではないかと思って、彼女は眉をしかめた。半年もご無沙汰がつづけば、身のうえを心配しだしてもおかしくはない。
 佳代子の手紙はこうつづいた。
『さいきん電話もしてなかったけど、あんたのことは気にはしてる。あんただってあたしのことを気にかけてくれているとは思うけど』
「ほんというと、あんたのことはかけらも思い出さなかったよ……」
 利菜は茶をいれた。手が震えていたので、彼女はますます落ちこんだ。体の病気ならまだ対処のしようがあるよ、と彼女はおもって、熱い玄米茶をひとくち飲んだ。
『最近こっちは物騒でね、ちっぽけな町のくせに犯罪はよくあるし、子どもが連れ去られる事件が頻発して、うちの坊主も集団下校なんてやってる。東京より不安全なぐらいよ。こんな田舎で、割にあわないと思わない? うちの農園も、ちょっかいを出されてまいってる。警察にとどけたりはしてないけどね。いやがらせをされる覚えはないんだけどね……。できのいいスイカはぜんぶ踏みつぶされてるし、温室のビニールをひっぺがされたこともある。そんなわけで、あんたには聴いてほしい愚痴がいっぱいあるのよ。電話をしたかったけど、それだとうまくつたえられるか自信がない。根暗な話になりそうだしね……』
「だからなにがあったのよ」
 手紙に話しかけながら、無意識のうちにポットをなでた。猫がいればいいのだが、二ヶ月前に家出をして、それきり戻ってきていない。
 一枚目の紙をめくったとき、彼女が目にしたのは、不眠症という文字だった。
『こういう子どもじみたいたずらもたまらないけれど、一番まいってるのは眠れないことなのよ。去年の暮れあたりから寝つきが悪くなってるのに気づいたけど、それがよくならないまま今もつづいてる。いまじゃあ一時間とねむれない。悪い夢ばかりみるし。あんたにだけは打ち明けるけど、幻覚までみるようになった』
 佳代子の文字は急速になぐり書きになり、読むのも難しいぐらいの字面がつづいた。利菜は、苦労しながらも必死によんだ。夢中になってペンをはしらす姿が、容易に想像できた。理不尽だが、おなじ悩みをもつ人間をみつけて、どっと安心したのである。
『寛太のやつもおなじだった。別に夜の営みに精を出してるわけじゃないんだけど。眠れないし、幻覚をみてるらしい。つまり夫婦そろって不眠症にかかったというわけ。あたしたちはそのうち好転するものと思いこみ、たがいにその話しをしなかったけど、症状はだんだん重くなってくるし、黙っているなんて不可能だった。二ヶ月前、あたしたちは悩みをうち明け合った』
「それはうらやましい限りね」
 といらだちをにじませる。彼女はおなじ症状で苦しむ相手がそばにいない。
 秀男も不眠症にかかればいいのに。
 佳代子はほんとうに思いつくままに、ひとり思索にふけりながら筆をはしらせたらしい。手紙はだんだんと自己独白めいてくる。
『あたしたちは話すうちに、子どものころ似たような体験があったことをおもいだした。たしか小学四年か五年のころだ。あたしたちは不眠症にかかり、集団で幻覚をみるようになった。子どものころそんなことがあったなんて、思い出しても信じることができなかった。不眠症が伝染するなんてあたしはきいたことがないし、そんな強烈な体験を、うっかり忘れたりするものだろうか?
 寛太とあたしは、新ちゃんと達郎ちゃんにもこのことを話した。すると、二人も不眠症で悩んでいることがわかった』
 新治と達郎というのは、郷里にすむ尾上兄弟だ。いまも交友がつづく幼なじみたちである。
『症状が出はじめたのはみんなおなじ時期で、悪夢をみるという点でも、共通している。あたしたちはあの夏、おなじような経験をした仲間のことをおもいだした。あたしたち四人をのぞけば、後はあんたと紗英がいる。ふたりも不眠症にかかっているんじゃないだろうか? あたしたちはよくよく話しあったが、あの夏に関するあたしたちの記憶は、ほとんど抜け落ちていた。あたしにはあんたが覚えているかどうか確証がない。だけど、あんたは、あたしたちとちがう体験をしている。四人であつまって話をするうちに、新ちゃんが、とつぜん思いだしたように立ち上がってわめいた。稲光にあったみたいな顔だった。あの夏に、利菜が両神山で遭難した、と。あんたは二十五年前、あの山でひとり遭難した。ちょうどみんなで幻覚をみていた時期だった。二十年以上も忘れていたけれど、でもあたしは思い出すことができた、あたしたちは。あんたはどうなの?』
「おぼえてないわよ!」
 利菜は手紙をなげ捨てた。しかしおぼえていたのである。佳代子の手紙は彼女の記憶も呼びもどした。朝礼台にのぼる、自分の姿がうかんでくる。あれは無事かえったことを、みんなに知らせる集会だと彼女はさとり、佳代子たちと自転車を走らす姿や、あの子たちと笑いあう姿を思い出す。あのころ――佳代子、紗英、新治、達郎、寛太の五人はいちばんの親友だった。いまにいたっても交友がつづくほど、親密な友だちだった。だけど、二十五年前に自分たちが抱えた深刻な悩みのことは、すっかり忘れていたのである。
 大人になって、昔のことを話しあうのは、幼なじみの特権だ。しかし、これまでに不眠症の話が出たことはいちどもなかった。遭難のことも。幻覚を見たことも。
 彼女はふたたび外に目をやった。すると、二十五年前の子どもたちが、ずぶ濡れの庭に立っていた。六人の子どもたちが、雨に濡れながら。
 彼女は手紙をとり落とした。
「あんたたち、あんたたちも苦しんでたんだ……」
 と彼女は言った。彼女はこわごわしながら、ちらばった手紙をかきあつめる。外では雨が吹きしぶいている。しまい忘れたタオルが、風になびいている。子どもたちは一様に暗い表情をして彼女をみつめる。あの子たちが寄ってきはしないかと、彼女は不安になる。
 二十五年前の佳代子が、子ども時代の自分のとなりに立っていた。おさげを編んで、そばかすを散らした顔の佳代子。二十五年もたつのに、ここにいる佳代子はあのころとおなじ格好をしている。デニムのつなぎを着て、両手をポケットに突っこんでいる。なんでも入れられるから、でかいポケットのついたのが好きで、寛太を殴るのが趣味だった。おなじ県営マンションに住んでいた佳代子。兄弟が多くていつもめんどうを押しつけられるんだと、腹立ちまぎれに愚痴をこぼした佳代子が、どんよりと濁った目をして立っている。
 あのころ、県営マンションにはあと二人の親友がいて、それが達郎と新治の兄弟だった。達郎はひとつ年上で、リトルリーグのヒーローだった。高校のとき肩をこわして職人の道にすすんだが、当時はプロを嘱望された逸材でもあった。そこにいる一同のなかでは、いちばん背が高い。ほお骨がぐりぐりと突きでて、佳代子にはホームベースとあだ名された。
 達郎のとなりに立つ、ちっちゃなネズミ男が新治である。二人の兄弟はおなじTシャツを着ている。本が好きで、利菜が絵本を書くことを、いちばんに喜んだのが新治だった。のび太がかけるみたいな、まん丸めがねに水滴がつき、彼の目玉はみえなくなっている(あの奥には目玉なんてないんだと思って、利菜はぞっとする)。
 列のはじっこで、すねたように口をとがらせている丸坊主の小僧が寛太だ。小学生当時の寛太は、じいさんにいつも丸刈りにされて、それで坊主頭だったのである。彼の顔をながれる雨の筋は、子どもたちのなかでもいちばん多く太い。喧嘩っぱやくて、神保小では問題児あつかい。いまではりっぱに仕事をこなして、トライヤルウィークの生徒のうけいれだってやっている。
 反対端にいるのは、紗英だ。中学に入学すると同時に、急速に背をのばし、男の子たちにからかわれた背いたかのっぽの紗英も、このころは利菜たちと頭をならべている。肩までの髪からしずくが垂れている。黒いフリルのついたお上品なワンピースを着てる。彼女たちがママゴンとよんだ母親が、いつもそんな服をきせるのである。
「あんたもなの?」
 と彼女は言った。このなかで町をはなれているのは、自分と紗英だけだった。紗英はいまではスチューワデスになり、世界中を飛びまわっている。結局ママゴンは、この子に足かせをつけるなんてできなかったのだ。線のほそかった紗英も、人一倍の粘りをみせ、文字どおりにあの町を巣立っていったのである。
 新治と達郎は、いまでは二人で木工房を開いている。木にかんするものならなんでもつくってしまう、手作り工場をたちあげたのだ。利菜がデザインを手伝うこともある。二人とも絵の趣味を知っていたし、彼女の腕をかってもいた。
 だけど、そこにいる子どもたちにとっては、まだとおい未来の話だった。あのころは大人になるなんて夢にも思わなかった。小学校生活のおしまいなんて、まだまだ考えられなかった。
 一同のまんなかにいるのが、利菜だった。小学五年生の彼女は、ながく髪を伸ばしている。やせっぽちの脚にジーンズがぺったりとはりつく。まつげをとおして雨が目にはいるのか、まぶたをしばたたいている。
「あんたたちみんな……」と彼女は言葉をうしなう。「でも……なんでよ、なんでわたしたちはそんな目にあったの? どうやって解決したのよ」
 気がつくと、彼女はいつにない行動に出ていた、幻覚に話しかけ、あまつさえ幻覚に近づこうとしたのである。あれは幻覚じゃないと、なぜとはしらない確信をもった。いままで見てきたものも、全部幻覚などではなかったのだ。
 あの子たちの足は、ぬかるみにめりこんでいる、影まであった。溺死女は髪を落としていった。自分のものだとごまかしたが、ちがう。彼女の髪はストレートなのにあの髪はちぢれていた。旦那がほかの女でもいれたんでしょ、と、笑ってごまかそうとしたのだが、そんなはずはなかったのだ。
 戸口のすぐそばまできて、きゅうに恐ろしくなり、利菜はサッシをあけるかわりに、カーテンをしめた。ガラスに背をくっつけた。心臓がはげしく鳴った。佳代子は記憶がない、と言った。記憶がぬけおちている、と書いていた。利菜もまた、遭難の日々とその後の記憶がない。思いだせないのではなく、その部分の記憶が、すっぽりとぬけおちている感じだった。佳代子たちはなにかを思いだした様子だが、彼女にはもどってこないのだ……。
 そのとき、背中で声がした。ガラスに子どもの利菜が口をつけ、そっとささやいてくる。「両神山にもどるのよ……」
「帰りなさいよ。あんたはあたしじゃない、あたしの友だちなんかじゃない。あんたたちみんな……」
 みんな? みんな、何だというのだ? 幻覚なのか?
 彼女にはとても幻覚だとは思えなかった。だから、「偽物じゃない……」とそれだけを言った。ひどく正確な表現におもえた。
 鼻をすすりながら机にもどった。手紙をおいて、気がおちつくのを待った。秀男がもどってくれば、そんなばかなと一笑にふしてくれるにちがいない。幻覚に話しかけるなんて、ばかだなといってくれるにちがいないと彼女は思ったのだが、読みかけの手紙はまだ目の前にあり、記憶はたしかに戻ってきていた。利菜は紗英の心配もした。不眠症と幻覚があのころの仲間に起こっているのなら、あの子もおなじ体験をしていて不思議はない。
 利菜は佳代子の手紙に目をやり、「まいった。頭がいかれたのがあたしだけじゃないなんて」と額をかかえた。「頼りのあんたまでいかれてるとはね」
 佳代子の手紙を、読まずにたたんで物思いにふけった。そういえば、あのころはみんなが問題をかかえていた。佳代子には片親しかなくて、なのにその母親は娘も知らない男の子どもを産んだ。だから、当時は佳代子も白い目で見られていた。
 佳代子の母親は、情緒不安定なところがあった。機嫌がよいときはいいが、かっとなると娘に暴力をふるうのである。佳代子はいつも妹や弟をかばっていた。だから、母親の暴力はもっとも佳代子にむけられた。頬を腫らしたり、体に傷をつくっていることがよくあった。そんなときは利菜も佳代子の母親に、憎しみをおぼえたものである。彼女は考える。あの子はどうなんだろうか? あの子も母親を憎んでいたんだろうか?
 ガラス戸を、ドン! とはたかれた。子どもの声で佳代子が叫んだ。「もちろん憎んでたわよ! あいつが嫌いだったんだ! 殺してやろうと思ってたんだ!」
「消えなさいよ! 佳代子はそんなこと思いやしないわ! あんたは佳代子じゃない!」
 利菜は、そちらを見もせずに言ったのだが、「ひどいよ……」と佳代子の傷ついた声がきこえたときは、さすがに表に目をむけた。カーテンには人影すら映っていなかった。
 佳代子だけではない、新治と達郎の兄弟だって大問題だった。佳代子も利菜も、当時は自分たちよりあの兄弟に関心をもっていた。他人の問題に目をむけることで、自分たちの問題から、顔をそむけていたのかもしれないが。
 尾上兄弟が、小学二年と三年だったころ、二人の両親が離婚した。母親が子どもたちをひきとったのだが、その二年後には再婚してしまった。あたらしい父親はとてもいい人だったのだが、達郎は大きくなっていたせいか、まるでなつこうとしなかった。ボロアパートに住む本物の父親を、しょっちゅう訪ねていた。泊まることもあるみたいよ、と、当時からゴシップ好きだった佳代子が話してくれたこともある。
 一方で新治はあたらしい父親になつくようになった。家族がうまくいくよう、新治なりに心をくばっていたようで、そのせいか彼は他人の顔色をひどく気にする子どもになっていた。兄弟はいまでこそ同じ仕事についているが、あのころはうまくいっていなかったのだ。話もせず、顔をあわせることもなく、互いにさけているようだった。別にどっちになつこうがかまわないと思うのだが、二人は子どもだったから、お互いにどう接していいかわからなかったようだ。その後、どうやったか知らないが、あの兄弟なりに折り合いをつけたわけだ。
 紗英はカナダからの帰国子女だったが、やはり両親がうまくいっていなかった。カナダにいたころは仲良くやっていたそうだが、工場が倒産し、家族が日本に戻ってからは、父親は家に寄りつかなくなっていった。あの子の母親は、娘にすべての関心をそそぐようになった。そうしないと、娘も離れていくというかのように。紗英を規則と塾でしばりづけにし、友だちにすら口を出した。暴力こそふるわなかったが、ヒステリーで、言葉で紗英を傷つけた。
 両親が離婚したのは、寛太のところも同じである。寛太は鷹揚で男っぽいところのあるやつだったが、なにかの拍子にひどくひねくれた面を見せることがあった。学校で喧嘩をしては、じいちゃんが呼び出されていた。利菜たちが彼の家に泊まりに行くようになってからは乱暴も少しはおさまったが、あいかわらずのじいちゃん子で、母親にあまりかまっていないようだった。子どもが母親にかまうとは、おかしな言い方だが。
「あんたはどうなのよ……」
 子どもの利菜の声が、すぐ近くでした。
「そうね、わたしも問題はあった……」
 彼女は悲しい気持ちでおもう。子どもの頃はひどい貧乏で、あの町ですむ最底辺のぼろアパートで暮らしていた。県営マンションにうつる前のことだ。中野区の克美荘というところにいた。父親はあまり働かず、職を転々とした。母親はいつも苦労していた。妊娠もしていた。
 彼女はいまでもあのアパートを思いだす。割れたガラスをテープでとめた窓、きしむ床、暗い階段、そこに住む零細な、人、人、人。トイレは共同で風呂はなく、洗濯機は表にあり二階建てで、瓦屋根で、廊下は窓にせっしていて明るいがすきま風に底冷えがした。春よりも冬の木枯らしが似合い、日中の日差しよりも夜の暗がりが似合う。貧乏な学生が騒ぎ、おばさんたちは母親をいじめた。
「片桐さん……片桐さんにいじめられてた」
 片桐さんには、髪をきってもらった思い出がある。彼女が三つの時である。ざんばらの髪にされたのか、虎刈りにされたのか(まさかそこまでひどくないだろう)、いまとなっては思い出せない。けれど、母親が頭を撫でながら、泣いていたのを覚えている。学生たちが怒ったが、片桐には文句すらいえなかった。あのアパートでは、主のような存在だった。片桐の亭主はいい人ではあったが、嫁には文句もいえずに小さくなっていた。母親はあそこで流産をした。
 そのうち父親が県営マンションのくじを引き当て、暮らし向きは好転した。父親は仕事についた。二人はいまも問題を抱えながら、あの県営マンションに暮らしている。
 だけど、あの年に佳代子の母親が子どもを産んだ。利菜の母親が信子という名前をつけた。生まれるはずだった、子どものために考えていた名前だった。そのせいか、夫婦の仲はふたたび冷めはじめた。利菜はまた克美荘にもどるのではないかと、恐々としたものである。
 彼女はまた思いだした。あの頃、母親は新興宗教にはまっていたのだ。なんという名の宗教だったか?
 当時、彼女たちはそれぞれの問題をかかえ、そのために結束をつよくした。だれか問題を抱えた仲間をそばにおくことで、安心していたのかもしれない。あの子たちだけは本当の仲間だったが、集団で不眠症や幻覚にかかるなど、いまの彼女には考えられなかった。手紙に目をおとし、佳代子が両神山と不眠症をむすびつけたように書いているのを不思議に思った。
 手紙をひらく。ごくりと唾をのみながら、つづきを読みはじめる。
『当時の事件をおぼえていたのは寛太だった。あたしたちは、少しずつ記憶をとりもどしていった。あたしたちはまわりの状況も、二十五年前とにかよっていることに気がついた。あのころも、神保町とまわりの町では、犯罪が多発していた。行方不明や、傷害事件がかなりあったし、それに両神山では殺人事件があった。あんたが遭難したときは、殺人犯にさらわれたと噂がたったほどだ。あの山で死体が発見されたのは、遭難の直前だったんじゃないかと、慎ちゃんはいっていたけど。
 ねえ、あたしたちこの話題を二十年以上も口にしなかった。子どものころのことは会えばかならず口にするのに、このことは話題にすらのぼらなかった。だって思い出すことすらなかったんだから!
 寛太が遭難事件を思い出したのは、今回もあの山で殺人事件が起こったからだった。亡くなったのは六十代の男性で、林の中で絞殺されていた。テレビでもちらっとやったし、新聞にもちいさく載った。狭い町でのことだから自然に知ってはいたのに、あたしたちは四人であつまるまで、あのころのことを思い出すことができなかった。それで、あの日、寛太のやつが言いだしたのだ。両神山に、いまから行こうと』
 手紙をもつ手がふるえた。彼女は指のふるえにすら気づかなかった。佳代子たちは両神山に出かけたのだ。
 子どもの頃は、あの山にたびたびピクニックに出かけた。中腹には草原があり、そこへ家族ぐるみで出かけた。草原にはアスレチックがあり、確か山道にはハイキングコースもあった。
 吐息をみだし、額の汗をぬぐう。
 さきほどカーテンをひいたので、部屋はうす暗くなっている。立ちあがって電気をつけると、部屋の戸口に誰かがいて彼女は悲鳴をあげたが、つぎの瞬間には人影はきえて、彼女はいま見えたのは、野球帽をかぶった子どもの水死体だったのかと、推測をめぐらすばかりだった。
 すわりなおした彼女が目にしたものは、畳の上にできた水たまりだった。
 佳代子はあの夏に殺人事件が頻発したと書いてる……この幻覚もあの夏と関係があるのではないか。水死体を見たことがあるんだろうか?
 利菜は呼吸をととのえた。冷や汗がひくと、また手紙に目をおとし、佳代子の打ち明け話にもどっていった。
『両神山には二十年間出かけてない。あんたの事件があってからは、いちども。子どもを行かせたこともない。あの山のことはずっと忘れてたのよ……。
 両神山につくと草原はすっかりさま変わりして、ロッジがいくつも建ちならんで、いつの間にかキャンプ場になっていた。信じられる? ロッジはかなりでかく、小中学の林間学校のチラシが貼られている。記憶にあった場所とずいぶんちがうんでめんくらった。小川だけが、昔とおなじとこを流れてた。流れに沿って石がそえられていたし、アスレチックも新しくなっていた。駐車場の脇には、でっかい管理施設も建っていた。子どものころはジュースも買えないって不満をもらしたものだけど、いまでは販売機もあるし、ジュースどころかビールもたばこも買える。食堂もできてたわ。
 平日のせいか管理所はしまっていて、話を聞くことはできなかった。あたしたちは草原をみてまわった。子どものころはだだっぴろく感じたけど、大人になってきてみると、狭くなった感じだ(本当は杉を切り倒して、丘を広げてしまったらしい)。
 新ちゃんはこういったわ。キャンプ場のパンフレットは前に見たことがあるって。だけど、両神山のことだとは気づかなかったし、行こうとも思わなかった。彼、アスレチックには興味あるじゃない? 達兄とくんで、神保小の校庭に寄付もしたよね。だから、見にいきもしなかったのは、不思議だっていっていた。あたしたちはロッジの間をぬけて斜面をのぼった。あたしはおまもりさまの蔓壁がなくなってるのに気がついた』
「おまもりさま……」
 彼女は肘をついて両手で顔をおおった。草原の上にある杉林いったいを、地元の人はおまもりさまと呼んでいた。
 林と草原の境界には網がはられていた。そこに低木と杉の木から垂れた蔓草が何重にもからみつき、ぶあついカーテンのように、林の縁をおおっていた。彼女たちは見たままの印象から、「蔓壁」と名づけたのである。
 大人は子どもたちがおまもりさまに近づくのをいやがった。蔓壁は子どもたちを林から遠ざけるのに、格好の役目をはたしていた。あそこにちかづくと、大人たちが大あわてで飛んできた。休日に人があふれかえるようになっても、林の縁にござを広げる人はいなかったし、林を切り倒して草原をひろげようなどという、環境破壊団体もいなかった。奥には沼地があるという話だったし、まむしも出たからである。蔓草を刈りこもうとしないのは不思議だったが、子ども目にも、うす気味がわるかったのを覚えてる。
 佳代子はおまもりさまのことをひとしきりつづっていた。
『子どものころは草原がかっこうの遊び場だったけど、大人になって来てみると、怖くてしかたなかった。山にいるのはあたしたちだけだった。草原は静かだった。鳥の声がいやによく聞こえた。蔓壁がなくなったせいか、あたしにはおまもりさまが口をあけて待ちかまえているクジラにみえた。あんたには馬鹿代子と笑いとばしてほしい。だれが蔓を切ったのか聞いてみたかったけど、てぢかには人がいなかった。管理所にも人をおいてない。閉鎖されたわけでもあるまいに……。
 あたしたちは林にはいってみるか話しあったけど、無人のロッジはなんとも不気味で、尻ごみをするまま帰ってしまった。
 不眠症とあの山が関係あるのか、あたしにはなんともいえない。だけど、二十五年前のあんたの遭難と集団幻覚は、ときをおなじくして起こってる。
 寛太はあんたがあの事件のことは覚えてないんじゃないかといってる。手紙を書くのも反対してた。あんたまで不眠症にかかってるなんて、ばかげた話だと寛太は言った。あの人らしくはないけれど、そんなふうには考えたくもない様子だった。だけど、いままで音信不通だったこと自体、あたしにとっては不安だった。
 あんたの身になにも起こっていないのならいい。だけど、もしあんたの身にあたしたちとおなじことが起こっているんなら気をつけてほしい。あんたの身におこってるのはたんなる不眠症ではないし、幻覚にもよくよく注意すること!
 どうにもならなくなったら電話しておいで。あたしたちはあんたの味方だし、なにが起こっているか理解もできる。もしかしたら、あたしの方があんたを必要としているのかもしれないけど。
 まわりがたとえ頼りにできなくとも、あたしだけは頼りにしてほしい。以上』
 読みおわると、最初のページを上にした。彼女は手紙をにらみつけながら、これは容易ならないなと考えた。佳代子は長々と書いているが、なんのことはない、これは警告の文面なのである。
 あんたはなにを思い出したの? と利菜は佳代子に問いかけた。事件のことを思いだすために山にいったはずなのに、手紙は核心にはふれないままに終わっている。なにも思いださなかったとは考えられない。佳代子は手紙の文面をこんなかたちで終えていたからである。
『最後にひとつだけ。ひまわりは咲いてなかったわ』
 ひまわり? 草原にひまわりなんて咲いていただろうか?
 手紙を読みかえしながら、彼女はこうつぶやいた。
「あの山でなにがあったのよ」
 佳代子の心配のほどが理解できた。電話をかけてこなかったのは、慎重に慎重を重ねたかったからだろう。そうでなければ手紙をよこすはずはない。
 佳代子のやつ、あたしも山に行くなんて言いだすのを怖がったんじゃないだろうか?
 殺人事件のことをたしかめるために、置きためた新聞をとりにいきたかったが、なかなか。腰をあげるには勇気がいった。手紙を読むあいだも、見られている気配を、ずっと感じていたからだ。
 表にはぜったいに顔をむけないと決めていたが、居間の畳には、子どもたちの人型が、長く影をおとしていた。電話が必要になるのはまもなくらしい。
 そうして、娘がもどってくるのを心待ちにしながら、彼女はたちあがろうともせず、佳代子の手紙を何度も何度も読みかえしていった。
 そこに、隠されたメッセージがあるというかのように。
 今夜は、ますます、眠れそうになかった。

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