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浮幽士 司馬

   6

 李玄は自分も立ち上がりながら、
「馬鹿な、父上のはずがない。師匠と戦ったばかりじゃないか。こんなに早く回復できるはずがない」
 だが、汪豹の存在はどんどん近づいてくる。
「李玄。お主、汪豹が動けぬことを黙っていたな」
 羌櫂は責めるような口調ではなかった。そのことが李玄は恐ろしかった。戦う覚悟を決めたとわかったからだ。
「別界の者に、鉄斎殿の結界はやぶれん」
 と朱仙も霊符を取り出し、準備を始めた。
 朱仙叔父、と李玄は朱仙の袖を掴んだ。「あれは父上じゃない。きっと何者かに操られているんだ」
「だとしても、我々を襲ってくることに変わりはない」
 鳳仙はすでに鉄斎の体に帯を回している。
 朱仙は李玄の肩を叩き、「二人を連れて逃げろ。兄上のことは我々で食い止める」
 李玄はさらに袖を引いた。叔父のことが本気で心配だった。里中から嫌われた自分を、この叔父だけはかばってくれたからだ。
「朱仙叔父は父上を殺す気がないんだろ?」と言う。「でも、父上は二人を殺そうとするかもしれない」
 羌櫂が、
「かもしれん。だが、手を合わせれば、汪豹の身に何が起こったのかわかるはずだ」と口をはさんで、表に向かいだした。「お主の父が普通でないことは、すでにわかったはずだ。お主も身が危うくなれば、迷うことなく奴を殺せ。それができぬのならば逃げろ」
 李玄の背中に何かが乗った。朱仙が鉄斎の体をかぶせているのだ。朱仙は耳を近づけると、
「鉄斎殿が目を覚まさぬのはおかしい。何か術を施されているのかもしれん」
「なんの術を?」
「わからん。新術かもしれんぞ」
 でなければ、羌櫂や朱仙が見抜けぬはずはない。
 李玄は顔を上げる。鳳仙が彼の手をとったからだ。
「もう行くぞ、李玄。大勢いても逃げにくくなるだけだ」
「俺は足手まといにはならない」
 と意地を張ったが、
「誰もそんなことは言っていない。だが、お主は汪豹どのを攻撃できまい。覚悟がきまらんのなら、この場は去ることだ」
 鳳仙の言葉が、甘言のように身を揺らした。確かに父親には会いたくない。殺され掛かったのは今朝のことなのだ。
 朱仙はさっと身を寄せて、
「羌櫂は里の者が言うような男ではない。案ずるな」
 とはいえ、李玄はちっとも安心できない。朱仙は励ますように肩を抱き、
「必ず後から追いかける。鉄斎殿を安全なところにお連れし、霊力の回復を待て」
 李玄はうなずいた。彼に逃亡を決意させたのは、背中におった鉄斎だった。
 この世で一番偉いと思っていた師匠が、五体の力を抜かしてしなだれかかっている。
 朱仙が李玄の頬を、いかつい大きな手ではさんだ。李玄は嫌がった。が、ふいに幼子に戻ったような気がする。朱仙は力強い声で言った。
「お主は忌み子などではない。里の者もきっといつかはわかってくれる。お前は――お前はいずれ立派な奴になる。俺は信じているぞ」
 李玄の鼻がふいにふくらんだ。幼児から彼の面倒を見てくれた叔父の腕を、無数に思い出すようだった。彼は鳳仙に見られているのもかまわず大声を上げた。
「朱仙叔父、俺朱仙叔父に感謝してるよ。朱仙叔父がいてくれたから、俺は……」
 朱仙はふいに涙をうかして、顔をそむけた。
「もう行け、李玄」
 李玄は鳳仙を連れて板敷きに出た。廊下を走り、端にある引き戸を開けると、斜面に伸びる竹林が目に入る。
 実のところ、李玄は汪豹が怖かった。自分に向けた殺意は本物だ。彼にとっては霊術を使っての実戦も初めてだし、他人に殺され掛かったのもあれが初めてのことだ。
 これまで平和な里の中にいて、普通に修行をして普通に暮らすことしか考えていなかった。
 なによりも、彼は、自分が明確な殺意を抱く最初の人間が、尊敬していた父親だとは、思いもしなかったのである。
 李玄はその思いを振り払うように頭を振った。
 ちくしょう、あんなの父上であるもんか。
「デュナン」と彼は背後をついてくる契約霊に声をかける。「お前はここに残って三人の様子を確かめてくれ。頼めるか?」
 デュナンは一瞬迷う顔を見せたが、わずかにうなずくと廊下を引き返した。
 鳳仙、と彼は境内を見つめる鳳仙に声をかけた。
「下に別界の町がある。そこに逃げこもう」
 鳳仙は無言でうなずいた。落ち着き払ってはいたが、いくぶん顔が青いようにも見える。いくら天才でも、実戦ははじめてのはずだ。李玄はそのことにいくらか安堵しながら、疲れた体を引きずり、鳳仙をつれ、竹林へと逃げこんだ。

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