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浮幽士 司馬

   12

 ――李玄、よく感得するのだ。体でなにが起こっているか、霊力をどう扱っているのかを。会得して忘れるな
 はい、と李玄は言った。彼も必死だった。文字通り、師匠はこの修行に命をかけたのである。八十年を越える修行の日々で身に付けた霊術の力が、李玄の霊体に及んでいく。彼は悲鳴をのみこむ。体中に霊力の通る経路が開き始めたからだ。
 全身に霊路が張り巡らされ、霊力は何倍にも増したかのようだった。李玄も霊線、霊丹を配置する、という言葉こそ知っていたが、こんなにも明確な物だとは思わなかった。雑然としていた霊力が、ついに機能をはじめた。鉄斎は外界の霊力を自在に取りこんでいく。それを丹田に練り上げ、外界に解き放ち、結界術を施していく。
 すごいこれが師匠の霊術か
 李玄は瞠目しながらも、夢中で鉄斎の動きを追っていった。それはある意味で容易なことだ。鉄斎は彼の脳を用いて生み出しているからだ。
 李玄の脳神経は激しく活性化し、霊術のための回路がつぎつぎと形成されていく。こんな真似をつづけたら、精神に異常をきたすか、脳溢血を起こすかのどちらかだろう。画然たる進化とともに、脳細胞を痛めつけられていたのも事実だった。鉄斎は上丹に霊力を掻き集めては、傷ついた脳を修復していった。その霊術は途方もない。全ての作業を同時におこなっているのである。
 鉄斎が封印の場所に選んだのは、用具部屋のような小さな一室である。そこに自身の遺体をおいておとりとするつもりだった。肉体には魂こそ宿らなかったが、禁縛術は残っている。死後硬直の始まった死体に結跏趺坐をくませると部屋の中央に安置した。
 魂の痛哭に苦しみながらも、多重結界術を施す。その遺体から霊道を地下に伸ばしていった。部屋の外では、死角となる位置で、鳳仙が小さな結界を張っている。鉄斎は彼女まで霊道をつなげていく。
「鉄斎殿! ご無理をなされぬよう!」
 鳳仙がこらえきれずに叫んだ。そもそも曲霊となった鉄斎を封じる方法を二人は知らないのだ。
 強引な契約術を用いたつけは、着実に出始めていた。李玄は魂を結びつけているから、四魂が乱れむしばまれていく様子が手に取るようにわかるのだ。
 ――司馬殿、もう限界だ、とデュナンも言った。
 思えばあのとき、鉄斎が脇に立ち上がったときから、李玄は師匠の異常に気づいていた。鉄斎が感じていたのは、絶望的な孤独と不安である。直霊(天とつながる魂)と切り離され、師匠の四魂はバラバラになりかけている。李玄はいにしえの霊術使いたちがどのようにして曲霊となったか、わかるようだった。あのとき鉄斎の目は虚ろで寄る辺を無くしたように見えたのだ。
 鉄斎は霊道を強化しながら鳳仙の元に向かう。
「ここから霊力を注ぎ込むのですね」
 と鳳仙が言った。すでに彼女からは霊力が流れ出している。禁縛術を通して、汪豹に吸い取られているはずだ。李玄はいつもの彼にはない空白の漂う表情で彼女を見おろしている。呼吸は乱れ、彼女を見ているようで見ていない。最後の力でどうにか自分を保っているようだった。
「霊力を注げば、玄武はわしが生きていると思うはずだ。決して動いてはならぬ。最後の封印術は任せたぞ」
 鳳仙は三つ指をついて頭を下げた。顔の隠れる寸前、涙が頬を伝うのを見た。
「鉄斎師父、最後のご教授ありがとうございました」
 李玄の顔から鉄斎がのき、若々しい表情が現れる。「師匠、もう十分です」と一息に言った。
「玄武をここまでおびき寄せるのだ」と鉄斎が口を借りる。「お主の霊術はまだ完璧ではない。無理はするな」
 李玄には師の気持ちがいやと言うほど伝わった。自分たちを残して行きたくないのだ。鉄斎から見れば、二人とも年端のいかぬ子供にすぎないのである。
 霊魂が体を抜けだした。不完全な幽体術で、もはや正体をなくしかけていた。
「鉄斎師父……」
 鳳仙が目に涙をうかべながらあらぬ方を探している。李玄はその手をそっと握って鉄斎の立つ位置を指し示してやった。
「契約術を解きます」
 ――手筈通りやるのだぞ
 李玄は言葉に詰まりながらもうなずいた。鉄斎は死んだ今も自分たちのことを気にかけている。
「ご心配なきよう」
 李玄は霊衣の裾をはらうと、身を整えて手印(印のこと)を組んだ。真言とともに二人をつなぐ幽力線が浮かび上がる。李玄は互いの絆を切っていく。糸が減るたびに鉄斎の存在は遠くなった。鉄斎の乱れた四魂が遠のいていき、李玄の負担も減っていった。それは鉄斎の支えが減ったということでもあった。
 李玄の渾身は突然の強風にぐらついた。彼は真言をやめて目を開く。鉄斎が急に苦しみ始めたのだ。嵐が突然現出したかのようだった。天井には台風のような雲がわいて風雨とともに渦を巻いている。鳳仙が膝を立て、
「李玄、間に合わなかった! このままでは曲霊に変わってしまう!」
「結界を出るな! デュナン、来てくれ!」
 鳳仙は結界の中にいるから外界の影響も受けていなかった。真四角の結界に雨が当たり弾けるのが見える。李玄は前屈みになって風に抗し、腕で雨を弾きながら雲の正体を確かめようとする。
 実のところ、二人は曲霊がどのようなものか知らない。大人たちは過去の事件を決して子供には決して語らなかったからだ。
「司馬殿、なんだあれは?」
 雲の中に裂け目が見える。巨大な目がまぶたを開けたかのようだった。中身はなく、どす黒い瘴気が雲を浸食するように漂い出している。李玄は玄武の術を思いだした。玄武は空間をわかる術を使いこなしていたはずだ。
「あれは、玄武の術ではござらん。法陣ではない」
 デュナンが言下に否定する。だが、李玄は霊門の向こうに人を見る。暗くて細部はわからないが、赤い目玉と長い鬣の子供をみたのだ。
 鉄斎が雲を見上げ、つぶやくのが聞こえる。――まがつひ
「曲霊だって?」と李玄。
「あれがそうなのか? 鉄斎殿が変わるのではないのか?」
 鳳仙が結界の中から手を伸ばし、李玄の腰にしがみつく。師匠の五体は音をたてて光芒を放ち、ひび割れを起こしていた。獣のごとき、牙に獣毛を生やし、人外に身を落とし始めている。
 ――このままじゃあ、師匠の四魂が裂ける
 合掌印を組むと、霊力を練り上げる。
「師匠、こらえてください! 曲霊などに負けないでくれ!」
 デュナンが風の縫い目をさくように体幹をくねらせる。李玄は体をデュナンに任せると、霊術に集中していく。これまでになかったほど意識の源泉まで深く沈み込んでいった。霊体には、鉄斎の操った霊線術と霊丹術が色濃く残っている。それらは霊力を、物質化あるいは身体化したものだった。鉄斎の築いた回路が、脳に残っているのが自分でもわかる。
 いけるぞ、自信をもつんだ。
 李玄は鉄斎の記憶を辿るようにして、霊力を練り上げ、体外に霊路を伸ばし、空間の裂け目そのものと結びつけていく。
「立ち去れ! 師匠は天に還るんだ! お前のところになんか行かない!」
 独鈷印を組み力を解き放つ。曲霊が霊路をつかみ上げた。霊路をつたい、曲霊の悪気が落ちてくる。李玄は邪悪な魂にふれて悶絶しかかる。どうにか耐えられたのはデュナンのおかげだった。デュナンの御魂が、崩れゆく四魂を支えてくれたからだ。
 二人は体を立て直すと、曲霊に向かって猛然と霊力を送りこむ。霊路がかがやき、霊門の陰で、曲霊が苦悶するのが見えた。李玄は霊路を広げると、先端を巨大な霊手に変えて曲霊の頭を抑えつける。霊門の奥へと押し戻していった。瘴気が彼の魂を再びおびやかしたが、霊力をふりしぼると、門の上下を抑えて目玉を閉じていく。裂け目からわき出た雲は、霊門に吸い込まれていった。風はやみ、雨は最後の小降りを残して消えた。
 構内は竜巻の通った後のような惨憺たる有様だった。李玄は呆然と曲霊の消えた箇所を見つめた。霊門は消えて、工場のランプが顔をあらわし、三人の人と霊魂を照らしている。
「師匠!」
 李玄は我にかえって、鳳仙の腕を振りほどくと、鉄斎の元にしゃがみこんだ。師の霊魂が幾重にもひび割れて、蒸気のようなものを発している。それに曲霊の放った瘴気だった。どす黒い気体が幽体のあちこちに貼りついて、鉄斎を苦しめている。曲霊はまだ去ったわけではないのだ。四魂が反魂すれば(邪悪化してしまうこと)鉄斎もまた曲霊に身を落とすのかもしれない。
 霊力を与えるしかない、と李玄は思った。伸ばした霊路をたぐり寄せると、鉄斎の幽体に繋げていった。
 ――よせ、李玄。玄武と戦うために、霊力を残しておけ。なんのために修行をつけたのだ
 鉄斎はこんこんと説得した。李玄も首を左右に振った。
「俺は師匠を放っておけない。だって、なんの恩返しもしてないじゃないか」
 このまま死なれたくないと思った。
 ――李玄
「天に還って下さい。師匠が曲霊になるところなんて見たくない」
 李玄は残りの霊力を使い果たしても構わないと思った。水が乾いた大地に染みこむようだ。彼の霊力は鉄斎の穢れを祓い、裂け目をつぎつぎとふさいでいく。李玄は自分でも知らぬ間に、魂鎮め(タマシズメ)を行っているのである。曲霊の存在は遠のいて、金色の煙は次第にやんでいった。幽体にまとわりついていた瘴気も、周囲に四散していく。李玄は霊力をとめて、日輪印をといた。
 直霊が戻ったのだろうか? 鉄斎の魂は金色の光の中にあった。その霊魂は陽光を放つように温かみをましている。ああ、師匠が消えてしまう。ぽつりと目尻を涙が落ちた。その魂は、里よりも遠い故郷に帰ろうとしている。デュナンと鳳仙が手を合わせて辞儀をしていた。
 霊魂の鉄斎には彼らの気持ちがじかに伝わる。光の中で彼は微笑む。世を去るときに、死を悼み涙を流してくれる者が側にいることは素晴らしいことだった。鉄斎もまたこの二人の弟子をどんなに愛していたか気づくことができたからである。
 李玄は濡れた地面に手をついた。鉄斎が光りに溶けていきながら語りかけてきた。
 ――どんな苦難もお主達なら乗り越えられる。四魂を磨き、立派な霊術使いになれ。司馬の者はみな見守っているぞ
 李玄はその場にひれ伏してしまった。
 これまでのさまざまなことが一度に蘇った。里一番の術者の弟子になったと威張ったこと。七つの頃から、共に寝起きをして、同じ物を食い、同じ物を見てきたこと。厳しい修行をして叱られたことや、褒められたこととか、他愛もない話を聞いて貰ったことが、ありがたいと彼は思った。師匠は自分に時間をくれて自分をつくってくれたから。本当はその全ての気持ちを伝えたかったのだが、もう時間はなく、鉄斎の二つの魂は、直霊に導かれて天へと還っていく。
「師匠、これまでありがとうございました! 師匠!」
 そして、二人は鉄斎の最後の遺言を聞いた。それは二人の切なる願いでもあった。魂が天へと召される最後に、鉄斎は、生き残れと告げたのだから。

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