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浮幽士 司馬

   7

 朱仙は、三人の後ろ姿を見送ると、表に出た。
 羌櫂は、霊力を四方に伸ばして、汪豹の探索を行っている。
 殺意をこれだけ感じているのに、境内は不思議と静かである。
 見つかったか、と訊くと、左右に首を振った。気配をこれだけ感じるのに、姿が見えない。
 兄上は鉄斎を追ったのではないか、と朱仙が疑ったとき、左方の空中に黒点が浮かび上がる。点は水平の線になり、その線はグルリと回転して、軌跡は巨大な円になった。
 高い金属音が轟き、二人は思わず耳を押さえる。
 漆黒の円内に、複雑な文様が、黒い飛沫をあげて走りだす。見たこともない法陣だ。
 おどろおどろしい瘴気を吹き上げ、黒い物質がポタポタと血雫のように地面に落ちた。
「なんだあれは?」
 羌櫂が地面に突き刺した剣を抜いた。片足をじんわりと踏み出して気息を整える。腰をわずかに落とし、呼吸を練りだしたのだが、そのときになって体内の異変に気がついた。霊力を練るほどに、体力が減っていく。細胞中から力が抜けていくようだ。鉄斎の回復のために、霊力を半分方つかっていた彼は、
「まずいぞ朱仙」と言った。

 渾身をとりまく悪配に心音を狂わせていたのは、朱仙も同じである。このときになっても実兄と戦う勇気がわかない。彼は身を守るようにして金剛杖をささげながら、必死に頭を巡らした。
 ――あの法陣、あれは司馬一族の術ではない。
 法陣の中央が膨れあがり、ぐんと黒液が突き出てくる。何者かが内側から腕を突きだしているのだ。
 羊膜を突き破るようにして、法陣は左右に割れた。空を駆けるようにして地に降り立ったのは、汪豹だった。
「兄上……」
 朱仙は李玄の話を聞いた後も、兄の変質を信じることができなかった。あれだけの術者が精神を乗っ取られるなどありえないと思ったのだ。けれど、本当だった。
 姿こそ汪豹だが、面構えは似ても似つかず、肝心の霊力の質が違う。
 今にして思うと、兄は優しいだけでなく、どこかしら気品を感じさせる男だった。目前の汪豹は、いかにも残酷で……それに粗野だった。体外にもれでる霊気が乱雑なのである。それは羌櫂も一目で見取ったらしく、
「何者か知らんが、汪豹の体を返してもらおうか」
 汪豹は口端を上げる。冷酷さが笑みの形で、その顔に刻まれている。
 朱仙はようやく金剛杖をかまえた。
 汪豹が言った。「ここは霊力の薄い別界だ。貴様らでは力を発揮できんぞ」
「それは貴様も同じのはず」
 と羌櫂は答えた。
 朱仙の疑念は尽きなかった。汪豹は激しい霊術合戦を繰り広げたと聞く。なのにこの力の充実はどうしたことだろう? 鉄斎の結界は消えていないのに?、
 朱仙は背後に向けて、
「デュナン! 側にいるなら聞いておけ! これは皇家の秘術だ!」
 朱仙は危険を承知で振り向いた。汪豹はその機を逃さなかった。獣が地上より伸び上がるようにして、懐に飛び込んできた。
 朱仙は気配を頼りに、金剛杖を立てた。
 霊力で固めた汪豹の手刀は、鉄の杖をど真ん中で両断する。
 汪豹の指先は、朱仙の臍の真上に突き刺さる。
 朱仙は霊力を集中して防ごうとしたが、汪豹の火のような霊力はたちまち皮肉をつらぬいた。
 朱仙は体をくの字に折った。内臓を引き裂かれ、人血がたちまち衣服を濡らしていく。背骨を断ち斬られると、朱仙は下半身の力がどっと抜けるのを感じた。
 汪豹は朱仙の巨体を引きずりながら、なおも前進する。朱仙は兄の二の腕をがっとつかんだ。
「兄上……」
「貴様の兄などと虫酸が走るわ」
 汪豹は歯を剥き出し、朱仙の体内で拳を固めた。
 朱仙は渾身の霊力を腹部に集めていたというのに、まるでふせぐことができなかった。
 臓腑は焼け、その苦しみに朱仙は絶叫した。
「朱仙!」
 羌櫂が駆けつけたときには、汪豹はたちまち姿をくらましていた。
 羌櫂は剣を下段に下げながら、顔をレーダーのようにして左右に振る。
 汪豹はいつの間に移動したのか、階段に立っていた。霊力で五体を高めたのでも、天地に姿をくらましたのでもない。空間を瞬時に移動したとしか思えない。
 ――司馬一族の術ではない。
 羌櫂は、朱仙の言葉の意味を知った。
「おのれ、汪豹! 気を違えたか!」
 羌櫂は剣で宙を斬った。彼の剣風は霊気のかまいたちとなって、汪豹に迫ったが、その目前にして霧散してしまう。
 羌櫂は思った。外界術はまずい、霊力を消耗しすぎる。
 さほど戦ってもいないのに、すでに肩で息をしている。
 首を巡らすと、境内にはいつのまにか結界が張り巡らされていた。
 濃い茶色の円陣が幾重にも走り、古代文字が蜘蛛の巣のようにその円陣をつないでいる。
 これでは逃げられない。
 羌櫂は観念した。朱仙に屈みこみ、手をかざした。霊力で傷を回復しようとしたのだが、霊力自体が朱仙にいかない。
 朱仙が彼の腕をつかみ、羌櫂は我に返る。
「奴の言うとおり、ここは別界だ。むだな霊力を使うな」
「ならば、なぜやつはあれほどの霊術を駆使できる」
 羌櫂はかえりみ気がついた。汪豹の手には、いつ取り出したのか、拳大の水晶が握られている。
「あの霊玉はなんだ? あれに霊力を溜めこんでいるのか?」
 羌櫂は足元の法陣を見やる。どうやら、あれが霊力を吸い取っているようだ。鉄斎の霊力が回復しなかったのは、そのせいかもしれない。汪豹がなんらかの術を施していたとしか思えなかった。あそこまで霊力を注ぎ込めば、全快とまではいかずとも、目を覚ましたはずである。
 羌櫂はなかば呆然としながらもフラフラと立ち上がる。そのとき朱仙が霊力をつかい語りかけてきた。
 ――李玄だ。膨大な霊力をもつ奴ならば、この別界でも戦えるはずだ。
「ばかな、奴は半人前ではないか」
 羌櫂が答えた時には、朱仙は苦しい身をおこしていた。背骨がへしおれているというのに、この男もすさまじい精神力である。朱仙は手印をくむと、残った霊力をふりしぼり結界の一部をこじ開ける。李玄の契約霊が結界に閉じこめられたと見取ってのことだった。
「逃げろ、デュナン」
 朱仙は地に頭を落とした。残された霊力がぐんぐんと結界へと吸い取られていく。朱仙は傷を回復させることができない。
 李玄……と朱仙は思う。子供のない朱仙にとって、息子のような存在だった。李玄はどんなに苦しくとも、自分の前では明るく振る舞う少年だった。何よりも無償で愛してくれた。
 李玄が実の父親に殺される姿など見たくもない。
 朱仙の指はまだ戦おうとしているのか、無意識のうちに金剛杖をさぐっていた。
 李玄、お前は死ぬな、本界に戻るんだ、と思いながら、朱仙は意識を無くしていった。

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