ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

□  その二 ほらふき男爵、かく現りき

○     1

 暗闇だった。その闇の中で洋一が覚えているのは、体の痛みと心の痛み、院長の放ったアンモニアの臭気。日本酒のまじった、あの臭いときたら……。
 時折身じろぎをしたが、その身じろぎすら、体に走る激痛のために、苦痛ですらあった。彼は、暗闇のなかで涙した。院長の痛烈なことばの数々は、受け入れるべからず両親の死を、むりやり喉に押しこんだ。もう二人には会えないんだ、と思うと、つらかった。自分も、この世から、消えてしまいたかった。
 これからは、自分が家族だ、と院長は言った。洋一は、「あんな家族なら、欲しくないよ……」と、闇の中で答えた。
 洋一は闇の中で横たわったまま、夜が明けるのを待った。夜が明けたとて、ここを出られるわけでもないのだが、院長に逆らって、ふたたび虐待が行われれば、拘束はさらに長引くものと思われる。
「父さんも、母さんも、ぼくをちゃんと育ててくれたんだ……お前なんか」
 熱いものが喉にかかって、先を続けられなかった。びっくりするほど、熱い涙がこみ上げて、しゃくり上げて泣いたのだった。
 あんなふうに言われっぱなしで、自分や父さんにたいして、もうしわけがなかった。なんとすれば、両親はもう反論なんてできないのだから、彼こそがあの院長に、きっと言ってやらなければならなかったのだ。
 それから、洋一は院長に言われたことを、一生懸命考えてみた。
 大人からこんなふうに扱われたからには、自分が悪いことをしたからじゃないかと疑ったのだ。
 だけど、院長の発した言葉の数々は、彼にとって大半が意味不明なものだったし、自分のどこが悪かったのかはわからなかった。
 洋一は涙をこぼしたが、院長に聞こえないよう、必死に嗚咽をかみころした。
 それから、誓約書の規則をやぶったら、刑務所にいれられるなんてほんとかな? と考えた。いくら彼が小学生とはいえ、多少の知識はある。院長の言葉は信じがたかったが、それでも彼は子供だ。
 刑務所がここよりもおっかないところなのは、ほんとかもしれない。あそこは、罪を犯した大人が入るところだ。
 事態がこれ以上悪くなるなんて、それこそお笑いぐさだが、今の洋一にはすべてが悲観的に見えた。生活と人生のすべてがひっくりかえった小学生が、奈落の底まで落ちこんだとして、それを攻められる人なんて、きっと三千世界にいやしないのである。

○     2

 さて、牧村洋一は、体をのたくる激痛に歯を鳴らしながら、なんとか手をつき身を起こした。闇に目がなれて、涙をぬぐい落としてみると、そこがデスクや本棚のおかれた狭い物置であることがわかった。
 洋一は立ち上がって、扉に鍵がかかっているか確かめようかと思ったが、足を振り上げ、暴れ狂う院長の姿がなんども脳裏をよぎって、立つことすらかなわなかった。そんなふうにおびえるのは腹立たしくもあったが、院長の殴打は彼のガッツを根こそぎ持ち去ってしまったものらしい。
 洋一は腫れ上がった瞼の下で、部屋の端にカーテンが掛かっているのを見た。一瞬、映画の主人公よろしく、そこから逃げだす自分を想像したが、怪我で思うように動けない今、逃げだしたところで捕まるのは時間の問題だといえた。車で来たから、自分のいた洋館がどのあたりにあり、どのぐらいの距離があるのか皆目わからなかった。ここを出たところで、家に帰り着くのはむりだと彼は考えた。なによりも、自分が逃げだすことを、院長は望んでいるような気がして(望んでいるのは、その結果行われる虐待をだ)、洋一は行動を起こす気になれなかった。
 窓があると思われるカーテンの向こうから、ホトホトと中をおとなう物音がしたのは、洋一がしばらくここに身をひそめていようと、考えることすら放棄しようとした、まさにそのときだったのである。

○     3

 洋一はびっくりして目をしばたかせた。誰? と声をかけたのだが、喉からは空気の漏れるかすれた音しかでなかった。院長の言葉と打撃は、彼をすっかり萎縮させていた。あの院長が、窓にまわって見張っているんだろうか? と考えた。
 洋一は、もうなにもかもが嫌になり、また涙をこぼしながら横たわろうとした。そのとき、
「洋一、洋一……」
 窓の外にいる誰かが、彼の名を呼んだ。院長の声ではなかったが、洋一はかえりみなかった。
「ぼくはもういない。牧村洋一は死んじゃったんだ……」
 洋一は空耳だろうと、背を向けつづけた。ひどい激痛で、考えることすら億劫だった。すると、
「洋一、おらんのか? おのれ、返事がない。奥村、玄関にまわって様子を見てきてくれ」
 玄関っ?
 洋一は体を痛めたことも忘れて、身をひるがえした。
 たいへんだ、そんなことになったら、院長がまた目を覚ましちゃう。
 洋一は立ち上がってとめようとしたが、院長に痛めつけられた足のために、その場に膝をついてしまった。
「待って……」と彼は院長に聞こえないよう細心の注意をはらって、外の男に声をかけた。「ぼくならここにいる。よけいなこと、しないでよ」
「おお、洋一、そこにいたか」
 洋一は外の男の無遠慮な大声に腹が立った。
「ちくしょう、ぼくはこんなに苦労してるのに、なんでそんな大声をだすんだよ」
 というと、身も世もなく泣けてきた。
「うむ、この窓には鍵がかかっておるな」
「格子もじゃまですな」
 別の男が言った。
「洋一よ、わしらに手を貸して欲しい。まずは窓を開けて、顔を見せてくれ。洋一」
 洋一は耳をうたがった。ぼくの方こそ、人の手を借りなきゃ立てないぐらいなのに、手を貸してくれだって?
 いったいどうなっているんだろうという疑惑が心をかすったが、洋一は心にわいたかすかな希望にすがりついた。スーパーヒーローを信じるには彼は年をとりすぎていたけれど、それでも外の男たちが自分のことを知っていて(でなければ、なんで名前を呼んだりするだろう!)、院長とは無関係の人間であることだけはわかった(そうでなければ、なんで窓から呼びかけたりするだろう!)。
「役所の人なの?」
 洋一は言った。足立という人の様子から見て、あの人たちは、あたごの実態を少しは理解しているようだった(それなのに自分をひきわたすとはひどい話だが)。ひょっとしたら、外にいるのは父さんの友人かもしれない。
 ともあれ、いまの洋一は、なんにでもすがりつきたい気持ちだった。彼は痛む足を引きずり、ソファーやデスクに手をついて、窓ににじり寄りはじめた。
「待って、すぐに開けるから、待ってよ。玄関にはまわっちゃだめなんだ」
「おお、洋一、なつかしきわが友よ。顔を見るのも久方ぶりなら、声を聞くのも久方ぶり……」
 外の男は、舞い踊るような声音で言った。洋一は、どうにも変な人だな、と泣き笑いの顔に滴をつけながら、窓へと向かっている。
「待ってよ。院長に痛めつけられたんだ」
 洋一はやっとの思いで窓にたどりついた。薄い緑のカーテンを月明かりが照らし、外ではまだこの夜にみた満月が照っているようだった。自宅であんパンを食べ、本を読んでいた時分のことを思いだすと、すべてが夢であるような気になった。
 ああ、この痛みだけでも、夢と消えてくれたらいいのに。
 洋一はカーテンに手をかけた。咳きこむと、白い息の中に血の飛沫がまじり、ぞっとした。口の中もずいぶん切ったようだった。
「なにがあったのだ洋一、しっかりせい」と表の御仁は慌てた様子だ。「我らには危険が迫っておる。気を抜いてはいかんぞ」
 抜いたりするもんか。
 カーテンを引き開けた。そして、口をあんぐりと開けた。
 格子の向こうにはどでかい鷲鼻をした、白髪の男が立っていた。十八世紀の貴族が被っていたような、豪奢な絹の帽子を頭に乗せている。その帽子からは大きな鳥のはねが飛び出し、ひらひらと揺れていた。洋一が絵本でみた貴族の挿絵を想像したのは、男の目が青かったからだ。本物の白人で、しかも、その髪は、ルイ十六世のように幾重にもカールをまいていた。窓の向こうに立っているから全身は見えないが、大昔の赤い軍服めいたものを着こめかしている。背も高いようだった。
 洋一は顔をゆがめてカーテンを閉めようとした。頭がおかしくなったと思ったからである。
「どうした?」
 とその赤づくめの服を着こんだ白人の老爺は言った。洋一は老人をよくよく見直した。彼の服はナポレオンが着ていた服みたいに紐やボタンがあちこちについて、装飾がほどこされている。おまけに腰にはサーベルをさしている。
「本物なの?」
「なにをいってる。こどものころ会ったろう?」
「記憶にないよ。あんた、誰?」
「わしはミュンヒハウゼン男爵。お前の父の親友にして、よき仲間、お前の名付け親でもある」
 洋一は顔を上げた。両親から、自分の名前をつけたのは、外国人だと聞いていたからだ。だが、洋一の頭ではミュンヒハウゼンの名が、いくつもの連想をともなって、ぐるぐると回っていた。
 ミュンヒ、ハウゼン。
「でも、ぼくその名前きいたことあるよ。家にある本に出てたもん」
「いかにも。わしこそがほらふき男爵」
「なにをいってんだ。父さんのともだちだって? じゃあなんでこんなときに仮装してるんだよっ」
 洋一は窓を開けた。十二月の冷たい空気がしのびこんできた。男爵の背後には、着物をめかしこんだ小柄な男が立っている。頭の上に乗っかっているのはちょんまげみたいだ。月代こそ剃っていないが、腰には刀を差している。
 最初の男はミュンヒハウゼンの仮装で、こっちは侍の仮装をしてる……洋一の心に、むらむらと怒りがわいた。しかも、男のわきには、洋一とおなじぐらいの年恰好の少年が、男と似たような格好をして立っていた。その少年も、おもちゃみたいな刀をさしている。
「誰だよ!」
 声がすっとんきょうに高くなった。
 ミュンヒハウゼンがふりむいた。
「彼は奥村左右衛門之丞真行。お前の両親の友人だ。あれは奥村太助と申すもの。奥村の子息である」
 洋一は怒りに身を震わせる。
「ぼくの父さんも母さんも死んじゃって、あさってには葬式があるんだぞ。ともだちならなんでそんなふざけた格好をしてるんだよ」
「お前こそずいぶんではないか」ミュンヒハウゼンは落ち着きはらって、鷲鼻の下のちょび髭をなでた。「ひさしぶりにあったというのに、ふざけたとはなんだ。お前を見つけだすのには苦労したのだぞ。しかし、お前の身に起きたことを思えば……」
 ここでミュンヒハウゼンは口をぽかんと開けた。
「その傷はどうした?」
 自分では気づかなかったが、洋一の姿はまったくひどかった。まぶたも唇も腫れ上がっているし、やけどをしたところは広範囲に炎症をおこしている。殴られすぎたのか、ろれつもおかしくなっていた。
「ここの院長にやられたんだ」
 思いだすだけでも悔しく、くちびるをかみしめる。ミュンヒハウゼンと奥村が顔を見合わせた。
「何者だ?」
 と、男爵は怒りを押し隠した声で(隠しきれていなかったけれど)言った。
「ここの院長だよ。団野院長。知ってて来たんじゃないの?」
 男爵は渋い顔をした。
「われわれは今日になってようやくこちらに到着したのだ。だが、一歩間に合わず恭一たちは救えなかった」
 洋一の頭で、またも疑問が渦を巻いた。その疑問は、心を締めつける荒縄のようだった。
 救えなかった――救えなかったと男爵は言った。両親は交通事故で死んだと聞いている。事故は突発的に起こるものだ。なのに、救えなかったとはどういうことだろう?
 奥村が、「男爵、そやつもウインディゴの手のものかもしれませぬ。急ぎましょう」
「ウインディゴってなにっ?」
 洋一はとうとう悲鳴を上げた。ミュンヒハウゼンと奥村がまた顔を見合わせた。「知らんのか?」と男爵は逆に面食らったようだ。
「知るわけないよ。ぼくはあんたたちのことだって知らないんだぞ」
 奥村が、
「ともあれ、ここから救い出しましょう」
 と言った。洋一は初めて奥村と目があった。気づかわしげな視線だった。それは、両親が彼にいつもかけてくれた視線だった。不覚にも、洋一は鼻っ柱が熱くなった。
「だめだよ、ぼく契約書にサインしちゃった。ここを出たら、ぼくは刑務所にいれられるんだ」
「なんの話だ?」とミュンヒハウゼン。
「契約書なんだ。院長にいわれたんだ。ぼくはこの養護院を出てはいけないし、ここのことを誰かに話してもいけない。ぼくはもう二度とここから出られない……」
 洋一が涙ながらに訴えると、男爵は怒りに身を震わせた。
「わしはお前の洋館に立ち寄り、お前はお前を保護する施設に入れられたと聞いた。わしは、お前がこの国とこの国の役人に保護されていると信じた。だが、来てみればどうだ。わが親愛なる友人の息子にして名付けの子は、痛めつけられ、目も覆わんばかりのありさま」
「でも、ぼく……」
「しっかりしろ洋一、人を保護する法はあっても、人を縛る法などないぞ。さしづめそやつはウィンディゴに支配されておるのだろう。だが、わしらが来たからには安心しろ。お前の身は必ずや守ってやる」
 その申し出に、洋一の顔はかがやき、胸は熱い思いでみたされた(ウィンディゴのことはさっぱりわからなかったけど)。洋一は目の前をじゃまするデスクを乗り越え、格子に近づこうとした。だが、そのとき、彼の背後で扉が開き、廊下の明かりが暗い物置に差しこんだ。

○     4

 団野は部屋に入ってくるなり、開口一番、
「なにをしている」
 と言った。団野は男爵たちに度肝をぬかれたようだ。彼らから目を離すことができなかったが、それでも洋一のもとに駆け寄り、彼をデスクから引きはがすことはできた。洋一が、体にはしった激痛に悲鳴を上げ、表の三人が怒りを発した。
「なんだお前らは」と団野は言った。「ここは俺の敷地内だぞ。なんだ……おかしな格好をしやがって! とっとと出ていけ!」
「貴様などにいわれなくとも出ていくわい」と、男爵は、口辺に唾をとばしてわめいた。「ただし、その子も一緒だぞ。我が輩こそは、その子の真の保護者だからな」
「なにをいってやがる、この餓鬼にもう身寄りはいないんだ」
 そういって、洋一の頭を押さえつけた。団野のローブからただよう酒の香りが、強く彼の鼻腔をみたした。このさき洋一は、酒の臭いを嗅ぐたびに、真っ赤な唇を、叫びの唾でぬらす団野のことを思いだす。
 開け放たれた窓からは、真冬の冷気が、かんかんと部屋に注ぎこむのに、団野の体からは、狂気の熱気が漂いだすかのようだ。現に、団野は、零下に近い室温のなかで汗をかき、真夜中だというのにきれいになでつけた前髪を、額に幾筋もたらしている……。
 洋一は、団野が手荒くあつかう体の痛みよりも、心の痛みのほうが強かった。男爵はああいってくれるけれど、ぼくの身内はもういないんだ――
「だから痛めつけてもいいというのか?」
 奥村はまるで居合い斬りをしかけるかのように、低く腰を落としている。彼が低音の押し殺した声でいうと、団野ははっと洋一を見下ろした。
「この子はうちの院生だ。院生は規則にしたがう必要がある。院生はしつける必要だってある」院長は燃えたぎる眼光で、奥村たちをみわたした。「ここでは団体生活をおこなっているんだ! 規則をさだめてしたがわせなければ、院内の生活はどうなる! 院内の規律は! それにこどもを鍛えるのは俺の役目だぞ! この俺の使命! だから――」
「だまれ、この若造!」と男爵は手にしたサーベルで地面をつき、雄々しく腕を振り上げた。あふれんばかりの情熱という点では、かれも団野に負けてはいない。「その子は我が同胞にして我が家族! 手をあげるものは何人たりともゆるさんぞ!」
「俺があずかったんだ!」と院長は唾を飛ばしてわめいた。「俺がこの子の親代わりだ! おいっ!」
 団野は洋一の右手をつかみ上げる。洋一は骨が砕けるんじゃないかと思ったが、団野から目線をはずせなかった。ちょっとでも視線を外したら、また痛めつけられると信じていたからだ。
「オマエはここの生徒だ」団野は洋一のほおを拳で殴りつけた。男爵たちが、抗議の悲鳴を上げた。「ここの院生こそがオマエの家族だ!」もう一度。「俺がオマエの親で!」もう一度。「オマエは息子なんだ! わかったかわかったかわかったか」
 団野はそう連呼しながら、洋一の頭をこずきつづけた。男爵たちがなにかを叫んでいるが、洋一の心には、もう団野に殺される恐れしかない。
 舌が口の中でふくれあがり、気管をふさいで、息もできなくなった。もう息をしたくなかった。恐怖心が彼の体を殺しにかかっていた。
 だが、こめかみから流れだした血が、床に落ちた瞬間、ショック死しかかっていた身のこわばりがとけた。血は、事故を連想させた。両親の姿が、彼の目蓋に浮かんだ。両親はいなくなったけれど、彼の体は、二人の記憶を誰よりも色濃く残している。その点で、洋一の両親は、この世とつながっている。洋一は、自分が死んだら、二人は本当にこの世から消えていなくなってしまうんじゃないかと、そう信じたのだ。
 血の水滴がまた三つ――洋一はふりむき、団野の姿を視界にとらえた。
 ふりあがる団野の拳のタイミングを見計らうと、かの拳が舞い降りかけた瞬間、身をひるがえし、戸口にむかって駆けだした。団野は目標をうしなって、身をふらつかせている。男爵は、走れ、玄関まで走れ、と、狂ったように叫んでいる。
 洋一は走った。ふらつく足で、痛む肋を腫れ上がった指で押さえ、自由への扉めがけて駆けぬけた。後ろからは団野が狂気の熱を帯びた罵声を上げ、スリッパをばたつかせ、音も高らかに追ってくる。追いついてくる。玄関が見えた。廊下を曲がって、一歩二歩、廊下をなかばまで来たときには、彼はゴールを目前にひかえたマラソンランナーのように疲労困憊だ。洋一はドアノブに向かって、めいっぱいに手を伸ばした。
 団野は彼の襟首をひっつかみ、その自由への逃避行を阻止したのだった。

 洋一は虎柄にもにた敷物のうえで、体をふりまわされた。
「貴様あ、契約書にサインしたろう! 忘れたのかあ!」
 団野はもう一度洋一をぶとうとした。洋一は両腕で頭を抱えながらわめいた。
「お前なんかぼくの両親じゃない! あんな契約書くそくらえだ! ぼくは、ぼくはあんなもの……」
 団野は洋一にのしかかり、顔を床にたたきつけ押さえつけた。洋一は苦しい息の下で、まだなにかをしゃべろうとした。かれ自身のためだけではなく、両親のために。ここでひきさがったら、一生団野のことをおびえて暮らさなきゃいけなくなるとわかっていた。だが、洋一は団野の膝で首をおさえつけられて、ほとんど窒息しかかっている。男爵が玄関扉を引き開けて、昔日の勇者のごとくおどりこんでこなければ、彼はきっと涙の下で意識をなくしていたにちがいない。
 洋一が顔を上げると、無敵の男がそこにいた。海賊が被るような金縁の黒帽子に、大きな鳥の尾羽をなびかせ、息も切らせて駆けこんでくる。ああ、そう、彼は年老いたフック船長のようでもある。だけど、彼はほらふき男爵その人だ。サーベルを手に傲然と立ち、ブーツの音も高らかに玄関口から上がりこんでくる。
「貴様、洋一から離れろ!」
 ミュンヒハウゼンは、扉を叩きあけた瞬間から絶叫をした。三百五十年の長きにわたって、人々に愛されつづけた男爵の義侠心に火がついた。彼はサーベルを引き抜いて突進したから、さしもの団野院長も、洋一の上から身をひきかけた。
「不法侵入だぞ」と彼は言った。「こんなことをしでかしてただですむと思うな! 警察は貴様らをとっつかまえるぞ、そんな刃物でこのわしを脅したんだからな!」
「なにをこのちょび髭の下郎!」
 と男爵は火のでるような絶叫を上げ、手にしたサーベルを床に突きたて、
「奥村、ここはわしに任せろお!」
 と背後の二人に呼ばわった。
「決闘じゃ」
 男爵は右の手袋を脱ぐと、団野にむかって放り投げた。
「その子と我が命をかけて決闘をもうしこむぞ! さあかかってこい!」

○     5

 団野はミュンヒハウゼンがそう宣言したあとも、まだ年若の奥村の方が脅威のようで、表の二人に油断なく視線をはしらせていた。男爵は両腕を上げて、ボクシングのポーズをとっている。団野を挑発するかのように、軽く拳をくりだした。
 洋一の体から、そっと圧力が遠のいた。
 団野は立ち上がり、うめき声をあげながら、ミュンヒハウゼンとにらみ合った。

 最初のうち、男爵は優勢だった。格闘技をかじっていたようで、軽快なジャブをくりだし、右左のフックを浴びせかけたが、団野も狂える闘争本能で盛んに応戦をした。
 男爵は、おそらくは七十になんなんとする老人である。男爵のはなった十発のパンチのうち、八割は相手方をとらえはしたが、団野のはなった二発の渾身のフックと右ストレートが男爵の顔面をとらえると、このはてなき闘争は完全な逆転劇を展開しはじめた。男爵は巧みなボクシング技術で、団野のくりだす闇雲な攻撃をかわしはしたが、あふれ出る鼻血で息を切らし、目にみえてスピードは鈍り、足下も不確かなものとなった。
 団野の拳が、男爵のこめかみをとらえると、奥村が刀に手をかけとびだしかけた。男爵は大手をふってこれを制し、
「来るな、奥村、これはわしとこいつの問題」
 と苦しい息の下で言った。
 洋一は、なんど男爵にサーベルをとってと言いかけたかわからない。だが、彼の目にやどる不屈の闘志が消えさるまでは、その言葉を口にすることはできなかった。なによりも、洋一は見たかった。かのミュンヒハウゼン男爵が、数々の困難劣等をのりこえて、恐怖の院長を討ち果たすところを。
 一方、男爵はその洋一の視線に気がついていた。明るい屋内灯の下で見ればどうだろう、我が名付け子の、惨憺たるようすは。かならず牧村親子を守るといいのこしてきた国の者たちに、もう顔向けもできない。
 だが、男爵の体は、その不屈の闘志にもかかわらず、自らの期待を裏切ろうとしていた。数刻もえない闘争で、体力は尽き果て、膝はその身を支えることすらおぼつかない。
 男爵は団野の狂い獅子のような猛攻をひたすら受けつづけるばかりで、反撃の余力ものこしていない。男爵の必死のブロックは、団野の若い力任せの攻撃を防ぎきれなくなった。男爵の腕は骨も砕けんばかりにはじかれ、団野の拳はついにその身に届きはじめた。アゴをはじかれボディブローをくらい、ミュンヒハウゼンはその身を屈しかけている。
 男爵はボクシング技術を捨てて、団野の腰にくみついた。彼は足腰を奮いたて、団野の体を押しこみ、壁際に体勢をもちこんだ。勢いあまって、ミュンヒハウゼンは頭蓋を壁につきあてたが、もうかまっていられない。団野は拳を振り上げ、ミュンヒハウゼンの痩せこけた老体をうちすえるが、男爵も腰にかぶりついてはなれない。彼は洋一の敵をとろうと必死だった。あまつさえは、この団野が洋一の両親を殺した憎い敵のような気になってきた。
 ミュンヒハウゼンは、足をつっぱって団野の胴体を圧迫した。団野が苦しんで攻撃の手をゆるめる。男爵は一瞬のすきをついて身を起こすと、団野の顎をめがけて、猛烈に身を突き上げた。
 骨の砕ける、いやな音があたりに響いた。男爵の頭突きは、団野のとがったあごを見事にとらえた。団野の体から急速に力が抜け、壁に向かって崩れかかった。
 男爵は身を離すことすら億劫になり、しばらくその体勢のまま団野に身をあずけていた。
 そのうち、団野は壁にもたれかかった姿勢のまま、ずるずると身をすべらせ、そのまま床まで崩れ落ちていった。

○     6

 洋一の見ている目の前で、男爵と院長はともに床まで頽れていった。洋一の目には二人が相打ったように見えた。だが、血を噴き、正体なく首をくゆらせる団野を見て、男爵の勝利を確信した。
「おみごと!」
 奥村が大声をあげてミュンヒハウゼンに駆けよった。
 男爵は重たそうに痩せた身をひきおこし、どっかりとあぐらをかいた。
 洋一は痛む膝をかばいながら立ち上がろうとした。奥村の息子が駆けつけ、脇に手をさしいれる。洋一は、痛む肋に顔をしかめながら、太助をみる。
 男爵は団野のことをいまいましそうに睨みつけながら、
「ここが物語の世界なら、首を刎ね落としてやるのに」
 洋一は、興奮にまぎれて、その言葉を聞きのがした。まだ、このときは。

 ミュンヒハウゼンは、奥村に支えられて立ち上がった。洋一がちかづいた。
 男爵はこの数分の闘争で、めっきりと年老いたかのようだった。
「遅くなってすまなかったな」
 洋一に負けないくらいに顔を腫らした男爵が、彼の頭に手をおいて、
「恭一のことはすまなかった。あいつは立派なやつじゃった。しかし、お前も恭一に負けないぐらいに立派な男になったらしい。お前とわしはともにあやつに負けなかった。そうおもわんか?」
 男爵に言われて、洋一の目に涙がたまった。あやつとは院長のことなのだとは、容易にわかった。だけど、院長に痛めつけられても洋一の心が折れなかったのは、ひとえに男爵のはげましのあったおかげである。団野は彼の体を痛めつけた。けれども、それ以上に両親が死んだんだと思い知らされたとき、彼の心はへし折れる寸前までいった。団野の拳と言葉は愚風のようで、彼の身骨を砕こうとした。だが、その折れかけた細い身茎を支えてくれたのは、名付け親を名乗るやせっぽちの老人なのである。
 洋一は、この日一度たりとも口にできなかった疑問を、男爵になら話すことができた。ミュンヒハウゼンはたしかにほらふき男爵なのかもしれないが、いつわりは一言たりとももうさなかった。それは、男爵の心と言葉が、見事に一致しているからだった。だからうつむいてこう訊いた。
「父さんも母さんも、まちがいなく死んだんだ。そうでしょ?」
 頭におかれた男爵の手が、そのときだけは揺らいだようだった。
「牧村は世界中に仲間がおる、とびきり優秀なやつじゃった。わしはあいつが大好きじゃ。だが殺された。殺されたのだ」
「誰に?」
 洋一は、涙にくもる目で男爵をみあげた。彼はこのときだけは、まだ見ぬその相手をはっきりと憎んだ。
「洋一、お前にこのようなことをつたえるのはつらい……。ほらも吹けぬほらふき男爵、あいすまぬ」と男爵はポロポロと涙をこぼしながら頭をさげた。背後で奥村親子も泣きにくれている。「この奥村左右衛門之状真行は、恭一とともに旅した無二の仲間である。そして、恭一と薫の二人は、ウィンディゴの手によって命を落としたのだ。車の事故とは、見せかけだ」
 男爵は大きく鼻をすすった。
「ウィンディゴって? 外人?」
 男爵は迷うように、洋一の顔の上で視線をさまよわせた。
「話してよ」洋一は、男爵の豪奢な服の袖をとった。その服が、本物の絹の手ざわりであることを知った。「話してよ。ぼくには知る権利がある。そうでしょ?」
 男爵はだまって視線をそらす。
「ぼくは知りたいんだ。父さんも母さんもいつもぼくになにか隠してた。ぼくにはわからないことがいっぱいあるんだ。二人とも図書館をやってたって、ろくに働いてないのに、なんでうちには生活するだけの金があるのか、うちは市立の図書館でもなんでもないのに、それこそ私設の図書館なのに、世界中から本を集めたりしてる。父さんのところには世界中から手紙が届いてた。世界中に仲間がいるってのはうそじゃないんだ、きっと。だって、いろんな国の人が、電話をかけてきてたもん」
「まずは、おちつけ」
「いやだ」と洋一は男爵の手をふりはらった。「ぼくが立派に育ったって、本気で思ってるんなら話してよ。父さんも母さんも、ぼくがこどもだと思ったから話さなかったんだ。二人ともだまったまま死んじゃった。い、命を落とすぐらい、危険なことなのに……」
 そんなのひどいと思った。
「だから、話してよ男爵。ぼくは、ほんとのことが知りたいんだ」
 男爵は払われた肩に、もう一度両手をおいた。彼は片膝をつき、洋一と顔の高さをおなじくし、
「お前はほんとに見上げたやつだ。だが、この話は……いままで聞かされたことがなかったのだから、信用できるかできないか」
 彼は吐息のかわりに顔を垂れ、その面を上げ、
「お前にわしの知るすべてを話す。だが、恭一たちが死んだいま、わしらはお前の助けを借りねばならない。話を聞いたあと、お前にはこれからの生き方を決めてほしいのだ。お前は一人前の男だし、生き方を決める権利とてもっている。お前はもう、そういうことを決めていかねばならんのだ」
 男爵は、両親が死んだのだからだ、という言葉をのみこんだ。そのことを、洋一は直観で知りえた。洋一は、その重荷をかんじて体が震えたし、また涙がこぼれそうになった。だけど、どうあっても、そうしたことから逃げるわけにはいかないのだから、なんとか涙をのみこんだ。「わかったよ、男爵」
「わしはお前に強制はせん。あるいはわしらと来るより、ここにいた方が安全なこともあるだろう。そのことも、わかるか?」
 洋一はうなずいた。男爵は満足そうに頭をなでた。「それでいい。それでこそ、恭一の息子だ」
 男爵は、倒れている団野をかえりみて、きらりとその目を光らせた。
「さて、契約書とか言ったな」

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