ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

□  その五 ロビン・フッド、不死の王と対決すること

○     1

「ジョン、大丈夫か?」
 とロビンはその見知らぬ土地で起き上がった。ジョンも剣を支えに立ち上がる。
「ああ」
「どうやら、武器は持ってきたようだ。が矢のほとんどをなくしてしまったな」
 ロビンが体を確かめると、腰の剣はある。が矢筒の中身はほとんど落としてしまっていた。自慢のイチイの矢も二本きりしかない。彼は肩に引っかけた弓を外して、矢を番えた。ジョンは大剣を左脇に引きつけるようにして立てて構え、ロビンの背後を守っている。
「一体、ここはどこだ?」
「わからねえ。どこかの部屋みてえだ」
 が、それがただの部屋でないのはすぐに知れた。下は豪奢な絨毯、右手には暖炉もあり、側には高級なソファーもあるが、すべてが霞がかっていて、おまけに壁だろう場所には真っ黒な影が漂っていた。ロビンが見上げると天井がなく、真っ黒なオーロラが揺らめいているようにも見える。モーティアナが生みだした異空間にいようとは、ロビンには知るよしもない。そして、その空の一角を切り裂くようにしてなにかがやってくるのが見えた。見えたというよりも、彼らが感じたのは邪悪な気配そのものだった。その怪鳥の影は速度を増し巨大になり、彼らの前に舞い降りた。
「モルドレッド……」
 ロビンはわずかに顎をだす仕草をした。ジョンがすばやく周囲を見回す。その間ロビンはモルドレッドの眉間に狙いをつけたまま、視線をそらさない。
「やつの他は誰もいねえ。一人だ」
 ロビンはかすかにうなずいた。
「どうやらモーティアナは本当にお前の部下だったようだな」
 モルドレッドが歩を進めてくる。「その部下に貴様は嵌められたのだ。イングランドで死ねるのはうれしかろう。この世界の王は俺だ!」
「ちがう。貴様はアーサー王の息子などでは断じてない! たとえ、貴様が真の王だろうと、俺は認めない。市民を虐殺し、化け物を飼い慣らしてなにが王か! 貴様がイングランドになにをもたらす! 王とは民のために存在すべきもの。貴様は死しかもたらさない……」
「言うことはそれだけか、ロビン・フッド……」
 モルドレッドは動いたとも見えない動きでいつの間にか剣をとりだしていた。その黒剣は周囲の黒気を身に纏い、吸い取るかのように巨大になっていく。モルドレッドは巨大な剣を軽々と操った。
「どのみち、貴様はここで死ぬのだ。諸侯を集め、俺への反撃を企てていたようだが、それらもすべては無用のことだ!」
 周囲の邪気はモルドレッドに反応するかのように伸び縮みしている。そのたびにロビンの視界は眩んだ。ロビンとジョンは方向感覚をなくしてよろめいた。
 ロビンはそうはいかんと呟き、なんとか身をまっすぐに立てた。
「悪略もここで終わりだ、悪童。貴様はここで殺す」
「あいにくと私は死なない。お前たちの小僧が言わなかったか。私が死なないのではなく、死ねないのだと。聖杯の力――」とモルドレッドは言った。「――神の力はいまだ私の体に宿っている。お前たちに私は殺せない」
 ジョンが否定するように鼻から強く息を吹く、首を左右に激しく振った。彼の全身がモルドレッドを否定している。
 ロビンは気合いの威声を放ち、弓弦を離した。その矢は部屋に満ちる黒気を飛ばした。
 ロビンはモルドレッドが手を振るのを見た。光と風が半円に広がり、ロビンの矢は幾重にも割れて吹き飛んだ。
 ばかな、とジョンが側で言った。ロビンの指は無意識に二矢目をつかんだが、残るのは一本切りだ。ジョンがそれを押さえるようにこう囁いた。
「あいつに矢は通じねえ。だが、太助はモーティアナの使い魔を斬ってる」
 モルドレッドが口元に拳を当て、ゲタゲタと笑う。ジョンはカッとなったが、今度はロビンが抑えた。
「お前たち、この俺をあの女の使い魔などと同一視するつもりか。ロクスリー、お前はかほどに間抜けなのか!」
 ロビンは弓を捨て、矢を腰に差すと、愛剣を引き抜いた。正直なところ彼には自信がない。まともに手を合わすのはこれが初めてだが、モルドレッドが驚異的な力を発揮するところはパレスチナでいやというほど目にしてきた。
「イングランドの人民が貴様ごときに希望をかけているとは、嘆かわしいどころか腹が立つわ! さっさと八つ裂きになり、この世からいぬがいい!」
 モルドレッドの怒声は衝撃となって二人の体を打ち据えた。ロビン・フッドが片膝をつき、ジョンが巨体を泳がせる。
「あのやろう、ほんとに魔法を使いやがる」
「あいつを殺るぞ! 右にまわれジョン!」
 ロビンは勢いよく跳ね起き、左に向かって駆けだした。ジョンは右へ。二人はモルドレッドの左右から呼吸をあわせて斬りかかる。ロビンが今ややつの首を斬り裂かんとしたところ、モルドレッドがマントを払い、黒光りのする大剣を手にとった。かと思うと、二人の剣をいともたやすくはねのけた。
 ジョンは負けじと体当たりせんばかりに斬りかかるが、モルドレッドの剛剣は彼の一撃をたやすく打ち落とした。激しい金属音がたち、折られると直覚したジョンはモルドレッドの威力を利用し体をひねると、剣を抱くようにして地面に転がる。ジョンが確かめると、両刃の剣は片側だけが無数の刃こぼれを起こしている。まるで戦場をいくつも渡り歩いたような有り様だ。ちびのジョンは目をしばたたく。モルドレッドの剣速は太助の抜刀術にまさらんばかりだったし、その力強さは比べものにならない。「なんて野郎だ」
 一方、ジョンの一撃を跳ね上げた黒剣は、ほとんど稲光となって片膝をつくロビンの頭上に降ってきた。ロビンは左に転がる、脇腹をかすめるようにして黒剣が滑り、大理石を切りとった。腹部に痛みを感じるが、かまっていられない。モルドレッドは丸太のようにでかい黒剣を風車のごとく回して後を追ってきたからだ。ロビンは夢中で床を転がる。もう顔を上げていられない。ゴオゴオという黒剣の唸りが耳を満たし、恐怖が五感を支配する。
 ジョンがモルドレッドの背後にまわるが、モルドレッドはすぐさま気づいて剣を飛ばした。ジョンはあやうく剣で受けたがたたらをふんだ。鉄片が飛んで、靴の下で音を立てる。
「くそ! なんだこの力は!」
 ロビンはその隙に大あわてで立ち上がる。
 モルドレッドは二人を威嚇しつつ、ゲタゲタと笑った。その表情の奥には五百の赤子が潜んでいて、二人の背筋は冷え冷えとした。
 あの剛力は赤子の力でも借りてやがるのか。
「俺は円卓の騎士の内でも最も強かったろう! ガウェインよりも力強く、トリスタンよりも速かった! 俺とまともに戦えたのはランスロットぐらいなものだ!」
 ロビンはモルドレッドの言葉が終わらぬうちに、真っ向から剣を振り下ろす。ロビンとて剣術は達人の腕だ。だが、モルドレッドは軽々と受けたばかりか、両腕を突き上げ、ロビンを宙に放り上げた。
 ロビンは鎖帷子を鳴らして地面を転がる。彼はすぐさま起き上がって、モルドレッドに駆け寄った。
 ロビンとジョンは互いに身を入れ替えながら、モルドレッドの体といわず足もいとわず、数十合と剣を見舞った。そのたびにモルドレッドの剛剣に押し返される。ロビンはもう大汗をかいている。肩で息をしながら、目をしばたたき、頭を振った。モルドレッドの姿がロビンの中でどんどん大きくなってきた。おそろしいことに、モルドレッドの懐に隠れて、こどもたちが幾人も自分を見返しているようだった。
 ロビン・フッドは自分自身を叱咤した。目を見開いて、あいつをようく見ろ! ここで殺さなくてどうする! だが、ロビンの目眩はどんどんひどくなる。視界の中で五百の目玉がグルグルと回りだした。ロビンはついに剣を取り落とした。
 ロビンが惑ううちに、ジョンは再度攻撃をしかけている。剣を上段に舞いあげると、黒剣がついてきた。男たちの頭上でふたつの剣がからみあった。
 ジョンは目をみはった。自分は両腕だというのに、片腕のモルドレッドが剣をやすやすと押しかえしてきたからだ。あまつさえ腰が浮き上がるのを感じる。この男の怪力と来たら、自分をこども扱いだ。ジョンは顔を真っ赤にして剣を押し返そうとした。そのとき、モルドレッドの空手がふところに伸び、さっと短剣を引き抜いたかと思うと、ジョンの肋を深々と刺した。
「あうう、あう」
「ジョン!」
 ロビンはハッと目を覚まして剣を拾った。
 モルドレッドはジョンの体を仰向けにすると、ブーツの底であばら骨を砕き、投げ出された片腕を踏みつけへし折った。ロビンは夢中でジョンを助けに行く。すると、モルドレッドはふりむきざまに、短剣で彼の頬を切り裂いた。
「他人の心配をしている場合か、ロビン・フッド!」
「くそっ」
 頬を拭い、その血を柄になすりつけ、モルドレッドにうちかかる。だが、モルドレッドの鉄壁をやぶるにかなわず、剛剣におしかえされて、否応なく腰が浮いてきた。
 まともにうけられん! だめだ剣ではかなわんぞ!
 ロビンは必死で攻撃をかわしながら一計を案じた。
 モルドレッドが斜斬りを繰りだしたところで、ロビンはわざと両手の力を抜いた。剣が勢いよく吹き飛び床をすべっていく。モルドレッドが虚をつかれその体が流れると、すぐさま懐に飛びこみ、腰にさした矢を引きぬいて、モルドレッドの目玉をしたたか刺した。
 モルドレッドが悲鳴を上げてよろめく。
「どうだ、悪童! 恐れいったか!」
 ロビンが剣を拾おうとすると、その手を小さな手がつかんだ。
 ロビンが見下ろすと、彼の腕をつかみあげているのは数人のこどもたちだった。ロビンはあやうく剣を離すところだった。その子たちは呪詛のこもる眼でロビンを見上げている。ジョンが、まさか、とつぶやくのが聞こえた。
「くそ、離せ」背後では目玉をつぶされたモルドレッドが盛大に呪いの声を上げている。ロビンはほとんど懇願するように、「かわいそうだが、お主らは死人だ。手を離せっ」
「ロクスリー!!」
 モルドレッドが右目を押さえて駆け寄ってくる。指の隙間からは血がダラダラと流れている。残った目玉は血走り、怒りの形相もすさまじい。ロビンは喉をつかみ上げられる、剛力がぎりぎりと筋肉をおした。気管がおしつぶされそうだ。
「ロクスリー、俺の体に傷をつけたな!」
 ロビンが膝をつく、ゴボゴボと喉音がたつ。それでもしゃにむに剣をつかんだ。こどもたちがしがみつくのも構わず、じわじわと腕を上げた。モルドレッドは両腕をつかってロビンの首を締め上げていたが、血で滑っているのが幸いだった。ロビンはその間に、歯を食いしばり、こどもたちの亡霊を引きずりながら、モルドレッドのみぞおちに深く剣を突き入れた。
 モルドレッドが目を見開く。けれど、ロビンの喉にかかる力は弱まらない。モルドレッドは血を吐きながらもさらに怒りを増し、ロビンの喉を揺すり絞め殺そうとしはじめる。
「ジョン……」
 長剣は確かにモルドレッドの脇腹を深く突き貫いている。その刃を伝う血液はロビンの指まで届いていたが、その血液が変化をはじめた。血溜まりから小さな腕が何本も生える。ロビンは眼を見開いた。その小さな手は刃にベトペタとまとわりつき、剣を押し戻しはじめたからだ。
 くそ、聖杯の力か
「ジョン、こいつの首を落とせ……!」
「首を落としても死ぬものか、聖杯の力を侮るなよ!」
 ロビンはついに屈して両膝を折った。ロビンは酸欠で真っ赤になりながら、押し戻そうとする力と戦った。
「貴様に俺は殺せんぞ。あのアーサーも俺は殺せなかった」
 ちびのジョンは隊長を助けようともがいた。だが、ロビンを邪魔したこどもたちが、今度は彼の体を抑えつけている。
「やめてくれ、俺にロビンを助けさせてくれ!」
 こどもたちは数人しかいないのに、五百人分の重さがかかっているかのようだ。こどもの一人が(女の子だ。五歳ぐらいの)彼の首に腕を回して何事かささやく。彼に死者の声は聞こえなかったが、唇の動きだけは感じた。古代の英語で彼に呪詛を吹きこんでいる。体温が急速に下がり、体が震えだした。そのとき、異様な気配を感じて、ジョンは顔を上げた。なぜかこどもたちもそちらを向いた。
 モルドレッドの背後になにかがいる。いるとしか思えない。それは空中に立ち上がる影のゆらめきのようだ。その妖気は、真っ黒なオーロラだった。モルドレッドの頭よりはるかに高い位置に、引き裂かれた赤い目がのぞいている。引き裂かれた口が見えた。いまや暗黒の男を形作ろうとしている。
「まさか……」
 ジョンはその男に畏怖を感じつぶやいた。思い出したのは、洋一と太助のことだ。あのこどもたちが言っていたことは、本当だったのだ。
「ウィンディゴか――」

○     2

 ロビンとジョンが死の危機に瀕するころ、牧村洋一も苦しんでいた。
 手の関節が白くなるほどに万年筆を握りしめている。足下にはちっぽけな少年が手足を投げ出して横たわっている。絨毯にジュクジュクと広がる血液の染みが、奇妙なほどに大きく見えた。ふいに初めて会ったときの太助の光景、船の上でともに甲板掃除をしたことや、暗い倉庫でいがみ合ったことが思い起こされた。それらはけして楽しいことばかりであったはずがない。なのに二人の絆を深めているように思われた。ともに楽しんだわけじゃない。ともに苦しんで、時に命を預け合ってきた。だからこそ、洋一はやろうと思った。彼はソファに深く腰掛け、膝に両肘をつき、腕を垂らし、首も両肩の隙間に潜りこませるようにした。そして、全身を垂らして力を抜いていったのだが、それは恭一がよくやっていたリラックス法でもある。父親が無意識にしていた仕草を、その息子も無意識の内に真似ていたのだ。
 どうする? と彼は自問する。目の前にある事態は、アイディアの煮詰まりにも似ている。太助は喉を食いやぶられ、全身に毒が回ろうとしている。時間はない。つまり、彼は半死人を魔法めいた力で救わなければならないのだ。
 父親は登場人物を窮地に追いこめと言っていた。それはおもしろいストーリーづくりの基本なのだけど、その窮地から脱する解決法を彼の頭は思いつかない。
 つまるところ、洋一がやろうとしていることは、伝説の書をつかって新たな物語の流れを作ろうということなのだ。足下を見つめ、もし、これが小説なら、と考えた。状況が行き詰まったときにこそ、Qを出さなければならない。
 よく考えてみると、Qをだすということと、状況を見抜くということは似ている。Qをだすというのは、つまりはポイントをつかむということだった。ストーリーも言葉とおなじで、一つ一つ積み上げていくことに変わりはない。肝心なのは、いい加減で安易な解決策を求めないことだ。ていねいにやりさえすれば、前半に広げた話もうまくまとまるものだった。
 洋一が考えるに、小説としての状況は今では広がりきっている。ストーリーでいえば、後半も後半の大詰まりで、話を纏めに入らなければならない段階である。だからこそ、ヒントはこれまで広げた話の中に見つけるべきだった。解決策はこれまで起こったストーリーにあるはずだった。そうでなければ、伏線などというものはなりたたない。
 問題は、これが彼が書いた話ではないということだった。いいストーリーは前後の話が密接につながっている。そう父親は言わなかったか? 洋一は父親の語った言葉を不完全にしか理解していなかった。彼には知らない言葉、理解できない概念が多すぎたし、洋一がそうした言葉を完全に掌握するには、もう十年ばかりかかりそうだ。けれど、彼の才能は、恭一の伝えたかったことをまさにボディ感覚で咀嚼していたのだ。
「だけど、どうしたらいいんだ?」
 とつぶやく。今までと違って、ボンヤリとはしているが、冷静な声でもあった。男爵は物語の世界観を見抜いてそれを利用しろと言った。ロビンの世界でだって、死人が生き返ったりはしないのだ。確かにこの世界に魔法は存在するし、蛇に化ける魔女だっている。問題はこの場に味方となる魔法使いがいないことだろう(その魔法使いが死者を復活させられるとは限らないが)。小説ならその前後を書き直すことはいくらでもできる。だけど、この世界のコマはすべて出そろっている。そのコマの中に利用できるものがあるはずだ。なければ太助は救えない……。
「どう書きこむ? どう書けばいい……」
 傷が塞がって毒も抜けたと書くのか?
 洋一は駄目だと首を左右に振った。それだったら、裏付けがなくちゃいけない。アイディアを底支えするアイディアがいるのだ。脈絡のない話が現実化しないのは、シニックで証明済みだ。洋一の深層意識は、そんなアイディアはボツだと叫んでいた。彼は確かにちびでプロ作家でもなんでもないが、それでも正しいアイディアのなんたるかは知っている。
「なにかあるはずだ……これは物語なんだから」
 だんだんと没頭してきた。創作という行為が彼の心をつかまえかかっている。洋一は相変わらず太助を見ている。けれど、心はまったく別のものを映し出そうとしていた。周囲の音も遠のいて、耳鳴りだけが残っている。ひらめきがくるのは決まってこんな時だった。
 利用できるものか……
 洋一はブラックアウトのように視界がぼんやりとなるのを感じた。彼は観察眼に優れた少年だった。父親が鍛えた部分はあるにしろ、それらはおそらく天性の物だ。その観察眼の中に、なにかが引っかかていた。
 右腕だ――
 洋一は自分の右腕をじっと見つめた。視界がだんだんとはっきりしてきた。人を蘇らすことは出来ない。でも、太助はまだ死んでないぞ、と洋一は思う。死にかかっているけど――でも、ぼくも死にかかっているんじゃないのか?
「呪いか……」と彼は言った。意識がまたしゃんとした。「呪いだ。こいつは死の呪いじゃないか!」
 右腕をわずかにもちあげる。そのせいで、掌から肘へと伸びた亀裂がよく見えた。アジームの言ったとおりだったのだ。死の呪いはどんどん広がっている。今もだ。亀裂の縁からは、暗黒の気体が小さな手のように触手を伸ばしている。その勢力を広げ、彼を死に至らしめようとしている。
 モルドレッドのことを思いだした。あいつはこう言わなかっただろうか? お前の体に死を植えつけてやると。つまりこの黒い気体は死そのものなんじゃないだろうか? だから右腕が動きにくいのでは?
 ぼくは生きてるけど、右腕は死にかかってる。
 洋一は右腕をさすった。今までは気持ち悪くて素肌はろくにさわらなかった。亀裂の気体は思った通り、ハチミツのようにドロリとして、砂漠よりも乾いている。洋一はもう一度モルドレッドの姿を思い起こした。
 ここには死が集まってる。
 あいつは死を操ってる。
 この世界では死を操るやつがいる。
「ぼくは死とつながってる」
 なにかが頭の中ではじけていた。洋一は興奮に目を開く。ひらめきが脳髄を叩いてはやし立てている。いけるかもしれない。これならいけると洋一は思った。ひらめきのもたらし手は(それがなんであるのかはわからないが)今や祝いの鐘を打ち鳴らしている。直観の力強さが彼のハートをうっていた。頭は不安を、不確定要素を考えたがっていたが、彼の胸はGoサインを出していた。洋一は、これならやれるかもしれないと思った。
「太助にあるのも死だ。だったら死を移せばいいじゃないか」
 問題は処理の仕方だ。このアイディアを実行すれば、かれ自身が死を引き受けるということになる。今度はこっちが死ぬだけだ。
「いや、大丈夫だ」と首を左右に振った。「ぼくはあいつともつながってる。やれる、やれるぞ!」
 洋一は床に手をついた。伝説の書をその場に起き、もどかしい手つきで乱暴に開く。ページは風もないのに独りでに捲れて、止まった。おいでおいでをしているようにも、欲望の熱を放っているようにも見える。彼はわずかに怖じ気づく。
「落ち着くんだ……」
 洋一は万年筆を持ったまま固まり、喉を湿らせようとした。これから最高の文章を書かなければならない。よい文でなくともいいから、力のある文章をひりだす必要がある。
 父親の懐かしい声がいう。文にするということは客観的に見るということだ――
「わかってる。やれるよ!」
 と洋一は久々に恭一に向かって答えていた。わかってるよ、お父さん。落ち着いて、淡々と書けっていうんだろ。タンタン、タンタン
 洋一はタンタンと呟きながら目を閉じまた開いた。いつもの文章とはちがうぞと思った。こいつはかれ自身のことをふくめて書かなければならないからだ。それも少し先の自分の姿を。「わかりやすく、わかりやすくだ」
「そうでないと、本はお前を取り殺すぞ」
 後ろから声がして、洋一はふりむいた。部屋の隅の天井の陰になにかがいる気がしたが、目をしばたたくと誰もいなかった。また伝説の書に目を戻した。
 洋一の発想は奇抜だったが、この世界では至極まっとうなものだった。モルドレッドは彼を呪うために、彼の体に死を植えつけた。それが太助を救う最後のピースだった。
 創作の興奮と死の恐怖で首はこわばり、気道が細くなる。指はやはり震えている。
 外からギャア! と悲鳴が聞こえた。洋一は驚いて飛び上がった。洋一は胸を押さえ、すぐさま本に立ち向かう。今は駄目だ。静かにしてくれ――彼は気を静めよう、大きく息を吸おうとしたが、唾を飲むばかりでそれすら喉につかえてしまった。
 ほとんど夢中で無心で書いた。本は狙い通り、文章を吸い取りはじめた。
『牧村洋一はモルドレッドの手により、その身に死を植えつけられていた。彼は死と密接につながっている。友人が目の前で死にかかる中、洋一はこう考えた。自分の身体が死とつながっているのなら、死の亀裂を通して太助の死をその体で引き受けることは出来ないだろうかと。つまり、彼はその死を自らの腕に引き寄せることにしたのだった。それは――』
「待ってよ……」
 震える声が喉から漏れた。洋一の腕から、死の霧が黒々と立ち上っている。その身に開いたどんな海溝よりも深い亀裂は、手首を遡り前腕を断ち割って肘を侵しだす。死の気配は煙のようにグワッと伸びて、体を取り巻きおいでおいでをするように頬を撫でる。
「待ってくれ、まだ早すぎるまだだ!」
 文を現実にする力は思いのほか速かったのだ。死が体をのっとりだしていた。太助に舞い落ちた死の力が、彼の体を戒めはじめた。
 続きを書かなきゃ!
 洋一はブルブルと震えながらも腕に力をこめる。ペンを取り落とさないよう、しっかりと掴む。紙が破れんばかりの筆圧で書いた。彼は自分の書く字を見て呻いた。ああ、なんて下手くそなんだ。
『果たして死の呪いは洋一の思惑通り、右腕の亀裂を通って洋一の体を立ち上りはじめた。そして、その死は洋一を死に至らしめるはずだったが、けれど』
「ああ――」
 洋一の呟きは残酷ほど絶望に満ちていた。太助はあまりにも死に近づき過ぎていた。その死を引き受けた洋一に広がる呪いもまた凄まじく性急だ。右目が白濁し、霞んできた。まるで眼球が弾けたみたいに、大粒の涙がこぼれだす。死をともなう黒い気体は右腕を冒し、黒い粘膜のように首を這い登り、体内に深く深く入りこむ。洋一は内臓がジワジワと死滅していくのをクッキリと感じていた。末期症状を迎えた負傷者よろしく震えながら、それでも文を書こうとしたが、指先はついにペンを取り落とした。
 腕が動かない。
 洋一はかすむ目でペンを探す。ない、ない! ペンを拾えない!
 死が肺を冒し、血を吐くに及んで、彼はついに絶望したのだ。
「ああだめだ」と洋一。「駄目だ駄目だ! もう、死んじゃう……」

○     3

 ああ、ウィンディゴ様……。
 モーティアナは血の海に倒れ伏していた。太助の最後の一撃はこの魔女の心の臟を貫いていた。マーリンから与えられた力も、血液と一緒に流れ出していくかのようだ。モーティアナはどうにか階段に辿り着き、外気をしぼんだ肺に吸った。彼女は懐から血にまみれた水晶球をとりだし、一段下の階段に置く。もう限界だ、もう動けない、ウィンディゴ様……。と彼女は自らが尊師と呼ぶ人物を呼び出そうとする。なぜ助けて下さらないのです――
 ウィンディゴは水晶球の先にはおらず、最初から彼女の内側にいた。そうして、彼女が苦しみ死ぬのをまるで愉快な道化を見るようにあざ笑っていた。貴様はもう用済みだ、とウィンディゴは言い、モーティアナは薄れゆく視界を、閉じようとする瞼をこじ開けようとする。
 お前では小僧を殺せなかったな、だが、牧村の小僧を追いこむことはできた。小僧はまたも本をつかった。貴様の力をもらうぞ、モーティアナ
 モーティアナは悲鳴を上げたかったのだが、その胸はああ、ああとかすかな蠕動を繰り返すだけだった。モーティアナは残った力をウィンディゴに奪われた。彼女は小さな小動物のような頭をことりと階段に落とし、意識を薄れさせていったのだ。

○     4

 ミュンヒハウゼンは走っていた。急速に年老いたせいで、心臓は焼けるような痛みにあえいでいる。膝はそんな老人をあざ笑う。水分はなくなり、筋肉は固くなり、それでも彼は走っている。まるで、速く走れば少年たちの死を追い抜けるとでもいうかのようだ。実際のところ、あの魔女さえ死ねば奥村少年を救えるのではないのかと、ありえない願いをかけて走っていた。
 彼はモーティアナの残した血の痕を追っていた。部屋の守りは奥村に任せてきた。いまの奥村には復讐すらもきつかろう。待っていろ、三人とも待っていろ、と男爵は思う。わしがあやつをやっつけてやるぞ。
 廊下の先は行くほどに明るさを増していく。勝手口が開いて、外気が内部のよどんだ空気を追い払っているのだ。モーティアナが階段に、醜い猿膊を伸ばしている。
 ミュンヒハウゼンはひゅうひゅうと息を吐きサーベルを引き抜いた。
 男爵は戸口にぶつかりながらモーティアナの真上に立った。老婆はかすかにふりむいたが、その瞬間に太助の刺した傷が醜く裂ける。老婆の苦痛の顔は、なぜか笑っているようにも見えた。
 この老婆が数百年を生きたマーリンの弟子であるとはもはやかれも疑わない。小さな頭蓋の下で、魔女とは思えぬ赤い血が階段をそめ滴り落ちていた。髪はごっそり抜けたようだが、右腕だけは救いを求めるように空中に突きだされている。ミュンヒハウゼンは荒い呼吸を懸命に胸のうちにおさめながら老婆をみおろす。老婆の腕は力なく階段に投げだされ、もはや魂を失ったようにも見える。ミュンヒハウゼンは背後に異様な気配を受け、名を呼ばれたような気がした。ウィンディゴか? と心に疑ったが、彼はふりむかない。女の胸元につるぎを当てると、すばやく振り上げる。
 心臓を突き刺した瞬間、モーティの背中から、笑声を上げる巨顔が突風のように吹き上がり、男爵の体に飛びこんだ。ミュンヒハウゼンは、「ウィンディゴ……」と叫びを残して、大きく後ろへ跳び、モーティアナの残した血の中に倒れこんだ。
「ミュンヒハウゼン、貴様は邪魔だ! 眠っておれ!」
 男爵は無言の悲鳴とともに、背後にどうと倒れた。そして、二度と動かなくなった。ウィンディゴの陰は、その上で優雅に漂い、ミュンヒハウゼンの様子を確かめた。
 牧村の息子は着実に力をつけておる。だが、お前はじゃまだ。
 そして、家の奥に目を向ける。
 ふふふ、侍の小僧を復活させおったか。まあいい。お前の名付け親は封じたぞ。どうする小僧……
 そうして、ウィンディゴの姿は宙に消えた。アジームが戸口に駆けつけたときは、息すらせずに眠るミュンヒハウゼンと、モーティアナの死体があるだけだった。

○     5

 その名付け親が死したころ、牧村洋一もまた自らの血の中に倒れていた。手足がビクリビクリと震えている。洋一は無念な思いの中で死のうとしていた。ただ両親に謝りたかった。お父さん、お母さん、せっかく助けてもらったのに、ごめんなさい……と。
 死を吸いとるなどばかげた案だった。太助の味わった苦痛が彼の中にどんどんと入ってくる。洋一は身動きもせずに涙を流している。気がつくと真っ黒な影が目の前に立っていた。彼を見下ろしている。
「助けて、助けて……」
 彼は悲しい悲鳴を聞いた。それはかれ自身の喉が上げる狂おしくもか細い悲鳴だ。洋一はその悲鳴に目を覚まし、それでもまだ悲鳴を上げゴロゴロと喉を鳴らし、血を吐きながら左手で落とした万年筆を探り当てている。
 死にたくない。まだ死ねない。
 だが、もう目が見えなかった。太助の苦痛が全身を支配して、ついに意識が遠のいていく。

○     6

 そして、それとおなじくして、この物語の主人公ロビンもまた死に瀕していた。
 モルドレッドの左腕はロビン・フッドの命を奪おうとしていた。剛強のロビンもその喉首をへし折られんばかりだ。モルドレッドは傷の痛みに呻き、苦痛をもたらすロビンの存在を呪い上げた。普通の人間ならばモルドレッドをここまで傷つけることはなかったろう。やはりこのロクスリーという男には不可思議な面がある不確定要素がある。いっそこのままここで殺すべきだ!
「お前はおろかだロクスリー。真の王たるこの俺に逆らうなどと俺を討ち果たそうなどと。貴様の夢物語はここで終わりだ!」
 そのとき、ロビンは見たのだった。モルドレッド・デスチェインの背後に闇の男が立ち上がるのを。ウィンディゴだった。モーティアナの元を離れ、モルドレッドを籠絡するべく暗黒の部屋にやってきたウィンディゴの姿を、ついにロビンとジョンも目にしたのだ。
 こどもたちに身を塞がれたちびのジョンは言葉をなくし、ついでロビンを救おうと躍起になって腕をついた。しかし、死人となったこどもたちは、一人また一人と増え、彼の背中にまとわりつく。万鈞の重みが掛かり、ジョンは肘をついて苦痛に呻いた。赤子たちの泣き声が頭蓋を震わし轟くと、ジョンは一歩も動けなくなる。
 モルドレッドの体はウィンディゴと共に膨れ上がっていく。ロビンの体は宙に浮いた。モルドレッドはウィンディゴの力を受けて強大となっていた。ロビンの体に死の呪いを流しこむ。その呪いは急速にロビンの身を引き裂いた。そして、異空間の部屋が崩れだしたのはその時である。術者であるモーティアナが引き裂かれた心の臓を止めために、その魔力も潰えたのだ。調度がガラガラと崩れる。部屋はまるで墜落する飛行機のように揺れ、激しく傾いた。
 ロビンが地を蹴ろうと虚しく足を動かす。ロビンは胸に広がる激痛にあぶくを垂らしだす。ロビン・フッドは無音の絶叫をした。死の亀裂が喉から胸に降り、ついで四肢を引き裂きはじめたのだ。
「やめろお!」
 モルドレッドはジョンの悲しげな声を喜ぶ。声を大にして笑う。仇敵どものもがき苦しむさまは愉快この上ない。
「我が苦痛を貴様も受けろ、ロクスリー!」
 モルドレッドが異変を感じたのはその時だった。異変は体内にあった。何者かが彼の魂に働きかけている。モルドレッドは驚いて左右を見たが、侵入者はいない。当然だ。その者が入ろうとしたのは、彼の心の中だったのだから。
 モルドレッドの笑みは消え去った。彼は精神に意識を集中した。どうやら何者かが自分とつながりを持とうとしている。
 なんだ?
 脳裏にうかんだのは、古ぼけた本をもつ少年の姿だ。モルドレッドは顔を上げ、呆けたようにつぶやいた。
「あの小僧か……」

 ジョンは大勢のこどもたちの下、もがくのも忘れてその光景に見入っていた。なぜかこどもたちも呆然としていた。
 死がやってくる。
 モルドレッドはロビンを締め上げていた腕を離す。突然開いた傷口に驚いてのことだった。それは太助に空いたのとおなじ蛇の牙痕だ。モルドレッドは紫に染まる首の穴を押さえこもうとした。鮮血が指の隙間から吹き上がった。ビチャビチャと床に散る音が聞こえた。ロビンは力なく床に落ち、頭を痛打して跳ね返る。その体は死の呪いで真っ黒だ。それとおなじ禍々しい亀裂が、モルドレッドの体を覆いはじめた。
 ちびのジョンにとっては最後のチャンスだ。ロビンを救うには今しかない。
「ちくしょう、離せえ!」
 ジョンは声をかぎりに絶叫し、モルドレッドはその声に応じてジョンを向く。だが、彼の目玉は白濁し、涙が滂沱として流れるばかり。足下のロビンにすら蹴躓き、激しく打ち倒れてしまった。
 ジョンはこの隙にロビンのもとに向かおうとした。こどもたちは口が裂けるほどに大口を開け、髪をつかみ皮膚をえぐる。ジョンはすっかり恐ろしくなった。彼らは何事か激しく叫び立てているのだが、彼にはちっとも聞こえないのだ。
 ロビンだ。ロビンを助けるなら、今しかねえ。
 ジョンが叫ぼうとすると、こどもたちは小さな手を喉に押しこむ。ジョンは唾を散らしながら、喉の奥までまさぐる冷たい手に苦しんだ。
 ジョンの揺れる視界にあるのは、死の呪いに苦しむモルドレッドと人以外のぼろ切れのように倒れ伏すロビン・フッドのみだった。ジョンはモルドレッドの背後で暴風雨を喰らった樹木のように揺れる影に見入った。
 ジョンは片腕で身を起こしながら、洋一の言葉を思い出していた。こどもたちの命を狙う男の存在を。同時にこの窮地を救ったのが誰なのかはっきりと悟ったのだ。
 ジョンは折れた肋をきしませ立ち上がる。迷っている時間はない。時空間はすでに歪み、彼の体を放りだそうとしている。モルドレッドは太助や洋一とはちがう。やつはどんな傷でも死なないからだ。飛び散った血液は持ち主の元に集まって、その肉体の傷を塞ごうとしている。復活の力が死の呪いと争っている。
 殺せる? いまなら殺せるんじゃねえのか?
 ジョンはくじいた足首を引きずりロビンの元に駆けつける。ロビンは死の呪いに覆われ、全身の亀裂から黒い気体を吹き上げている。地獄の番人共が彼の肉体に巣くって呼吸をしているみたいに、その気体は出戻りを繰り返している。ジョンは、ロビンが落とした剣をのろのろと拾った。
 こいつは死兵とおなじじゃねえのか、首を落とせばこいつだって
 モルドレッドの背後にいた暗黒の男が襲いかかってきたのはその時だった。ジョンは慌てて身を伏せる。その背中をウィンディゴがかすめ飛んだ。
「どうしたちびのジョン!」その声は太鼓から発せられたかのように不気味に震え轟いた。ジョンは恐怖のあまり這いつくばる。「来い、泣き虫ジョン! 俺と勝負をしろ!」
 ジョンは頭を抱えて、ロビンの体に手をのばし、その安否を確かめるようにペタペタとさわった。
「すまねえ、ロビン。俺にあいつは殺せねえ。だってあいつは……」
 ジョンがロビンを肩に担いだとき、今やうつぶせとなり、額を床につけていたモルドレッドが血まみれの顔を上げた。
「ロクスリー、お前は俺から逃れられんぞ。その答えはすぐわかる!」
 ジョンはなにか答えようとしたが、なにも言えなかった。揺れる床の上でロビンを抱えて立つのが精一杯。彼は逃げだそうとしたが、その部屋には出口などもちろんない。そのうち地面が割れてモルドレッドとちびのジョンは二つの方向に分かれていった。ジョンはモルドレッドの、おのれ、モーティアナめしくじったな、という声を聞いた。
 ジョンはロビンにかぶさるようにして絨毯に身を伏せた。が、わずかに残った部屋の床面も、端から削り取られるようにして小さくなっていく。暗黒がごおごおと風音をたてて二人を襲った。
 ちびのジョンが目を閉じるうちに、二人の姿は暗闇に投げ出されていたのだった。

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