ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

□  その二 見捨てられた書物と、最初の対峙について

○     1

 洋一は震える指で、時代めかした大きな鍵を扉の穴に差しこんだ。くるりと回すとかちゃりと大きな音がした。中から聞こえた人のさんざめく声がぴたりとやんだ。洋一はこう思った。こいつらぼくらが来てるのに気づいてる。
 洋一がふりむくと、男爵は大きくうなずいた。ミュンヒハウゼンは帽子を手で押さえ、足を開いて身構えた。奥村と太助は中からなにかが出てくるのに備えるように扉の脇に回りこんだ。
 洋一はその巨大な扉をゆっくりと開いていった。中から明かりの筋が伸び、バルコニーのつくる影をすーっと左右に払っていく。洋一はホールを目にした。昨晩出かけたときと、なんら変わりがないようだった。洋一はそっと身を忍ばせて、ホールの絨毯にその足を置いた。その瞬間人声が復活して、洋一は尻餅をついた。目を回しながら感じたのは、今屋敷には何万人という人間がいるということだった。ただいるだけではなくて、ありとあらゆる騒ぎをしている。悲鳴がするし、話し声に怒鳴り声、男女の聞くに堪えない嬌声に、断末魔の声までする。まるで屋敷の中で、騒ぎ合って、愛し合って、殺し合って、大喜びして……人間がいとなむありとあらゆる行為を一時に営んでいるみたいだ。
「しっかりしろ、洋一」
 男爵が洋一の脇に手を差しこみ、彼を外に引きずりだした。洋一は男爵の腕に手をかけ、息も絶え絶えに言った。
「な、なにがおこってるの?」
「あれは本から漏れる声だ。登場人物の声が漏れ出ておるのだ」
 と男爵。奥村が刀を鞘に収めながら洋一の傍らに片膝をついた。
 洋一は太助と顔を見合わせる。二人は本の世界になどはとんとお目にかかったことがなかった。声(というか騒動)を聞いたあとも、男爵の話はピンとこなかったが、それでも度肝を抜かれたのだ。
 太助は男爵を助けるという父親についてここまで来た。奥村左右衛門之丞真行がミュンヒハウゼンを補佐しているように、父を助けるのはほんのこどものころからの彼の役目だった(もっとも奥村休賀斎は他人の助けなど必要としない人物ではあったが。武家の惣領ともなれば、こんな役目も致し方がない)。本の世界を救うだとか、伝説の書だとかいう話は、いっさい男爵のほらであって、真剣に考えてみたことはなかった。だけど、機関車にのって別の次元に来られたのはうそ偽りのない話だし、本の世界を守る一家というのもほんとにいた。太助は、物語の世界というのはほんとにあるのかもしれない、自分はその世界を冒険することになるかもしれない、と思って、にわかに緊張したのだった。
 一行は中を確かめながら、ホールへと踏みこんでいった。屋内には人影らしきものはなにもなかった。だけど、あちこちの部屋からは人の気配がして、声も漏れでていた。本のある部屋はどこだ、と男爵が訊くと、洋一は、たいていの部屋には本がある、と答えた。
 ともあれほらふき男爵は左手のもっとも手近な扉に身を寄せていった。中からは、人の声が寸断なく漏れ出てくる。悲鳴、話し声、怒鳴り声、声という声と物音が。洋一は男爵の腰にピタリと寄り添って、耳をそばだてていたが、やがて
「ここはぼくの家だぞ」
 と怒りに震える声で言った。彼は物語の世界なんてまだ信じることができなかった、両親と自分の留守中に泥棒が入ったにちがいないと信じた。
 男爵が彼の肩を叩いて合図した。「中に踏みこもう。頼むぞ奥村」

○     2

 男爵が金のドアノブに手をかけ、チョコレート色の扉を開いた瞬間、中からは轟然たる風が一同に向かって吹き付けた。口の中で風が渦を巻き、息も吸えない。洋一は自分の見たものが信じられなかった。部屋の中では本という本が、鳥のように羽ばたきぶつかりあっていたからだ。
 男爵は果敢にも部屋に飛びこみ、唸りを上げて立ちつくす。洋一たちも中に入ったが、本という本がこうも暴れていては手の施しようがない。本は仲の悪いのもいるらしく、互いをちぎり合ったりしている。おまけに男爵の手元では、本の見開きから、馬が出てこようとしていた。
 洋一は、その馬が充血したギョロ目をいかつかせ、ぶふうと鼻から吐いた息で、髪をなびかせるのを感じた。馬は空間に身を乗りだした瞬間に実物大の大きさになるようで、ページの縁に前足が出ると、その蹄は実物大に大きくなった。身をくねらせながら現実世界に出てこようとしたのだが、あと少しのところでミュンヒハウゼンに本を閉じられてしまった。
 馬はいななきを残して洋一の前から消えた。男爵の手の中で本が暴れ出し、彼はこいつめこいつめとその本を縦に横にと振り立てた。別の本が抗議をするかのように男爵の頭を表紙の角で攻撃する。ミュンヒハウゼンは後頭部に一撃を食らって足をよろめかせたが、それでも気丈に本をつかんでいる。
 そのとき、部屋中の本が互いに争うのをやめ、洋一たちに目をつけた。本は空中で制止した。その刹那、洋一は部屋にある何百という本の背表紙から悪意が放たれるのを感じた。
 奥村が暴れる本を叩き伏せようとする男爵の肘をとり、洋一と太助を追い立てた。空中に浮かんだ本が、四人の後を追うようにゆっくりと向きを変えている。本の群れがこちらに向かって突撃を開始しようとした瞬間、洋一の鼻先で扉が閉まった。本のいくつかが扉にぶつかり音を立てた。
 洋一は高鳴る心臓に手をやることもできずに、呆然と見開いた目をこすった。おかげでまつげが目に入ったが、その痛みも気にならない。なにが起こったのかわからなかった。洋一は男爵たちをかえりみて、「ありえないよ」と叫んだ。ちょうど男爵が、部屋から持ちだした本を踏みつけにするところだった。
「貴様」と男爵は地面に落ちた本に向かっていった。「わしはお前たちを助けに来たのだぞ。狂った世界を元に戻しに参ったのだ。わかったか」
 絨毯の上で本が抗議するように飛び跳ねた。男爵は屋敷中に聞こえるように、首を仰向けて口説した。
「よいか貴様ら! 我が名はミュンヒハウゼン、高名なるほらふき男爵である! 本の世界を救うため、物語を飛び出し、仲間と共に馳せ参じた。残念にも牧村夫妻は命を落としたが、子息と我が輩、そして中つ国の仲間がいるかぎり、物語は終わりはしない。諸君らに良心があり……」騒いでいた屋敷がしんとなった。とここから男爵は涙に視界を曇らせ、わきおこる熱情に声をつまらせだす。「自らの物語を思う心があるならば、いっときでいい、我が輩らに力をかしてくれ。我が輩は……」
 そのとき、静まりかえったかと思った屋敷内から一斉に抗議の声があがり、あちらこちらで扉が開きはじめた。洋一たちはほうほうの体でその場を逃げだした。
 洋一は先頭になって男爵たちを本のない場所へと導いた。彼のよく知る図書館は一夜にしてお化け屋敷になったかのようだ。あちらこちらで廊下をうろつく人影が見えた。洋一はなんども方向を転換せねばならなかった。この屋敷の中で本のない部屋なんて、それこそ見つけだすのに苦労したが、記憶の地図を返す返すようやく一つ見つかった。
 彼らは洋一を先頭に廊下を走って、ついに本のない物置小屋へと逃げこんだ。そこは掃除用具を入れこんだ部屋で、中は埃っぽく、四人が入ると(うち二人がこどもとはいえ)ずいぶん手狭だ。今日はなんと物置に用のある日だろうと思うと、情けなかった。
 一同は真っ暗な部屋で座りこんで荒い息をついた。とくに体を痛めている男爵と洋一には全力疾走が身に堪えた。
 洋一は壁をさぐって物置の明かりをつけた。
「持ってきたの?」
 男爵はへたりこんだままだったが、その膝元ではまだ赤い本を手にしていた。見慣れたはずの本の背表紙がなんとも薄気味悪く不吉なものに見えた。
「捨ててくればよかったのに」
「あ、あいつら」と男爵はその本を持ち上げ、荒い息の下で言った。「わ、わしらにたてつきおってどうなるか見ておれ」
 だが、洋一はさきほどの抗議の中にも、賛同の声があがったのを確かに聞いた気がした。その証拠に男爵が手にもつ本は先ほどはあれほど暴れていたのに今はすっかり大人しくなっている。果たして、奥村が、
「ですが、その本は聞く耳をもっているようですな」と言った。
「さもあらん。見て見ろ、本の題名を」男爵は洋一に向かって本を突き上げた。本の表紙には、『ロビン・フッドの冒険』とある。「多くの人に読みつがれた歴史ある本だ。そのような本は強い力をもっておる」
 彼は気迫のこもった目で洋一をにらんだ。屋敷ではまだ騒ぎがつづいている。でも、山の中だから、誰も気づく人はいないんだろうな、と彼は思う。つまり、誰か洋一がいなくなったことに気づいて洋館を訪ねてくるまで、この自体を知る人はいないわけだ。団野は洋一がいなくなったことを隠すに決まってる。
 男爵は洋一に向かって言った。「どうじゃ。これで信じたか?」
「あれを信じろっていうの?」
 洋一には男爵の申し出の方が信じられない。
「きっとぼくらは院長に殴られすぎて頭がおかしくなったんだよ」
「それとも今見たものは夢かうつつのたぐいだと?」
「でなきゃなんなんだ」洋一は頭をかきむしった。「どうすればいいんだよ。せっかくうちに帰ってきたのに、ぼくはゆっくり休みたいだけなんだ。体だってぼろぼろなんだ」
 男爵は座りこんだまま洋一の胸を突いた。「その痛みこそが現実なのだ。今の情況とて現実なのだ。目をさませ」
 洋一は半分べそをかいて問い返した。「ぼくにどうして欲しいのさ?」
「伝説の書を手に入れたい。本の場所へ案内しろ」

○     3

「ともかく」
 男爵は言った。
「本の多くはウィンディゴの影響を受け、やつに味方しておる。悪の中つ国の力が物語の世界に影響しておるのだ」
「物語はハッピーエンドに決まってるんだ。正義は必ず勝つんだぞ」
「それは昔の話だ」ミュンヒハウゼンは洋一を睨んだ。「わしが今知る物語には」と彼は前置いた。「悪が正義をうち倒し、誠が嘘に破れ、陽が陰にとってかわる、そんなものばかりだ」
「それがウィンディゴのせいなの?」
 洋一は尋ねた。男爵は無言でうなずいた。洋一は無意識のうちにほうきをつかんで考えこんだ。ある疑惑がさっと心に浮かんだ。物語の世界が本当だとして、ウィンディゴが本当にいるとしたら――? ぼくの父さんと母さんがそいつに殺されたのもほんとかもしれない。
 まだ見ぬウィンディゴにたいして、猛烈でどす黒い怒りが胸の中で渦を巻いた。
「伝説の書はなにも書かれてない本だ。そうでしょ?」
 男爵は目を見開いた。「伝説の書を開いたことがあるのか?」
 洋一がうなずいて口を開こうとすると、男爵が慌ててその口をふさいだ。「待て待て待て。伝説の書のありかはいうな。誰が聞き耳を立てておるかわからんぞ」と彼は言った。その証拠に屋敷はまた静まりかえっている。まるでウィンディゴ配下の書物が、全精力を傾けて洋一たちの居場所を探っているかのようだった。
 洋一は声を落として言った。「でも、ぼくは伝説の書に落書きしたのに、なにも起こらなかった」
男爵は顔を真っ赤にした。大事な伝説の書に落書きをしたときいて腹を立てたようだった。
「それはお前がものを書いたときになにも念じておらんかったからだ。その本はな、人の意志、信じる力に反応するのだ。ただの落書きなんぞが現実化してたまるか。あれを使いこなすにはとんでもない修練がいると思え」
 洋一はむっとした。
「ともかく伝説の書の在処をお前は知っておるわけだ」
 男爵が身をかがめる。洋一はミュンヒハウゼンの耳にささやいた。「両親の部屋の机においてある」
 男爵はあまりのことに唖然とした。「鍵をかけた金庫か書箱にいれておらんのか? むき出しにおいてあるのか?」
「そうじゃなかったらぼくがさわれるわけがないよ」
 奥村は声を出さないよう注意して笑った。「いかにも恭一らしい」
「赤い表紙のでっかい本でさ、カバーもなんもないやつで」
「それだ!」
「か、どうかはわからないけど、すごく大事な本だっていってた」
「中にはなんと?」
「なんにも。真っ白なページだった。分厚い本なのに、ずっと白紙なんだ。それにぼく……」と洋一は告白を恥じるようにうつむいた。「あの本を持ったとき、熱いと思ったんだ」
 あの本は生きてるみたいだった、と洋一は言った。
 男爵たちは顔を見合わせた。もはや、まちがいない、と男爵は言った。
「なんということだ。ことは一刻を争うぞ。ウィンディゴのやつに先を越されるわけにはいかん。やつがそれを手にしたらきっと使いこなして、世の中をめちゃめちゃにしてしまう」
「そいつはこっちの世界に来てるの?」
 洋一は訊いた。身の程も考えずに。彼はこれほど怒りが強ければその力だけでウィンディゴがやっつけられる気がした。男爵のいうとおり、いかに世の中が変わろうとも、彼の中ではまだまだ正義が悪に勝つ古い世界が信じられていたからである。
 それに対する男爵の答えは頼りなかった。
「わからん。やつの動きがわしに読めるわけがない」
 ともあれ、彼らはせっかく逃げこんだ安全な物置を出て、両親の寝室に向かうことになった。問題は両親の部屋にも本があることだが、男爵がいうには、「恭一が部屋に置くぐらいだから、それらの本は力の強い、正しい本に決まっておる」
 彼はそれらの本自体が強い力を持っているのでウィンディゴの影響を受けていないはずだと信じたがっているようだった。
「もっとも、お前は気をとち狂わせておったようだがな」と男爵は「ロビン・フッド」を見下ろして言った。

○     4

 洋一たちはこっそりと部屋を出たのだが、六歩と行かないうちにその行動を知られることになった。静まりかえっていた屋敷がまた騒がしくなり、騒音という名の強風はたちまち暴風の域に達した。書物があちこちの部屋から飛び出してくる。中には、五、六キロはあろうかという、巨大なハードカバーもあって、洋一はあやうく頭を砕かれかけた。彼らは全力で二階に駆け上がると、両親の部屋に逃げこんだ。
 両親の部屋は広かった。壁は本棚に埋め尽くされている。ベッドは右の隅に、ストーブが中央にあり、恭一が生前くつろいで本を手にしていたソファがそのそばにある。そして、窓際に背を向ける格好で大きなデスクが置かれている。洋一のともだちが、校長机と呼んでいた立派なデスクだ。
 この部屋だけは見受けられる異常はなにもなく、両親の生前の姿を保っているかのようだった。奥村が洋一の肩を叩いて指さす先で、彼の両親が残したらしいいくつもの文様が壁に描かれているのが見えた。暗い部屋の中にもかかわらずまっさきに目に飛びこんできたのは、紋様自体が光を放っていたからである。
「恭一の残した結界らしい」
「おかげで助かったぞ」
 とミュンヒハウゼンは急にのびのびとした大股で恭一の大机に歩み寄った。よく見ると、寝室にはあちこちに不思議な文字が書かれていた。大きな物は、東西南北に四つある。洋一は書物の喧噪が部屋にはいった瞬間に遠のいたことに気がついた。洋一は男爵のあとについて大机まで歩いていき、両親の残した遺品の数々を眺めやった。恭一の残した万年筆、開いたままのノート。もう二人がつけることはないライトをつける。明かりが落ちる。洋一は涙のこもった目で男爵を見上げた。
「どうだ?」とミュンヒハウゼンが訊く。
「なくなってる。きっと父さんが隠したんだ」
「ウィンディゴが持っていったんじゃあ」太助が言った。
「いや、やつがこの部屋に入れたとはおもえん」
 男爵が持ち主の断りもなく引き出しを開けはじめた。
 洋一は壁に据え置かれた本棚によっていった。棚にはくたびれた古い書物や新書本までありとあらゆる時代の本が並べられている。この部屋の本は洋一ですら許可がない限り読むことはできなかった。両親は男爵のいう、強い力をもった本ばかりをこの部屋に集めたのだろう。
「あったぞ」
 男爵が言った。洋一がふりむくと、ミュンヒハウゼンが一番下の引き出しから、広辞苑ほどの分厚さのある古びた本を取りだしたところだった。一同は男爵のもとに集まり彼の手元をのぞきこんだ。
「あったぞ、これこそ伝説の書だ」と男爵は本の表紙をぱたぱたとはたいた。それからまた引き出しの中をのぞきこみ、「鍵はかけられておらんが、封印がほどこしてあるぞ」と机の中にあった魔よけをみつけて感嘆を上げた。
「あいつは勘がよかった。身に危険がおよんでいることに気づいていたのでしょう」と奥村が静かな口振りで言った。ミュンヒハウゼンは洋一に伝説の書を手渡した。洋一はその本を手にした瞬間、以前とおなじ熱気を掌に感じた。その本にはタイトルも表紙絵もない。だが、真っ赤なその装張は洋一の手の中でうずくような息吹を発していた。この本には力がある。
 洋一がペーパーバックを開くと、本はパリパリと真新しげな音をたてた。ページにはなにも書かれていないが、真っ白というよりは古茶けた色をしていた。ページを繰ったが、どのページにもなにかが書かれたような痕跡がない。昔書いた落書きが、どこにもなかった。
「ボールペンで書いたのに……」
 彼がつぶやくと、しばらく経つとすべての文字は消えてしまうのだと男爵が答えた。本には文字を書きこむ必要すらないらしい。危険な書物なんじゃぞ、と男爵は言った。
 洋一は男爵を見上げた。「これはおもちゃじゃないってすごく怒られたよ」
「さもあろう」危険もあるからな、と彼はうなずいた。
「これからどうするの?」
 洋一がいうと、男爵はふたたびこの屋敷に来てはじめて手にした本、ロビンフッドを一同に向けて示し、「これもなにかの縁じゃ」と言った。「まずはこの本の世界にはいる」
 その言葉を訊いた瞬間、洋一は脳天までしびれあがった。驚きと興奮のあまり、髪が逆立つかのようだった。ここにあるのが両親のお気に入りの本だというのなら、洋一にとってはロビン・フッドこそがお気に入りだった。カバーこそなくなっているが(ロビンと森の盗賊たちが、木陰から、道を行くノッティンガム侯爵とその一行の様子をのぞき見ている絵のついたやつ)、洋一はその本をなんど読み返したかわからない。盗賊たちが悪い代官をやっつける痛快さが好きだし、とくに主人公を支えるちびのジョンが大好きだった。洋一はともだちと森の盗賊ごっこをずいぶんした。母さんの家裁道具からゴムひもを盗んで手製の弓矢を作ったこともある(ときどき弓矢がピストルにかわったけど)。
 男爵と奥村は『ロビン・フッド』を開いて、物語の冒頭辺りを確かめはじめた。
「すごいよ」と彼は太助に向かって言った。「ロビン・フッドに会えるんだ。読んだことある?」
 太助がうなずく。洋一はつづけて言った。「ほんとにすごいよ。知ってる? ロビン・フッドにはモデルになった人物がいるかもしれないんだ。でもぼくたちは本物のロビン・フッドに会えるかもしれない」
「君は本の世界なんてないっていってたじゃないか」
「お前こそ、中間世界から来たとかいってたくせに信じないのか」
 二人の言い争いは、大人たちの、「物語が変わっておる」
 というつぶやきで消されてしまった。男爵が呆然たる顔でふりむいた。「この物語ではロビン・フッドは冒頭から死んだことになっておる」
「そんな」と洋一は、本を男爵の手からひったくった。彼は本の世界をまるきり信じていなかっただけに、ロビン・フッドに会えないという現実が耐え難かった。
「どうなるの? ロビンは生き返るの?」
「わからん」男爵は首を横に振った。「物語が変質をはじめてからは、わしは他人の本にはいったことがない」
「わたしもないな」
「本の世界にはいったことがあるの?」と太助が訊いた。
 奥村は、恭一と二度ほど物語の世界に入りこんだことがある、と言った。男爵がこの二人にはわしが方法を教えたから、そういうこともあるだろうと付け足した。
「ともあれ、この世界に入りこんでみんことにはいかんともしがたいわい。まったく、主人公がことの一から死んでおるとは、サー・ロビン・ロクスリーもなんともふがいないではないか」
「ちくしょう、それもウィンディゴってやつがやったんだ」と洋一は決めつけた。
「もうしばらく先まで読んで物語がどう変わったのか、頭に入れた方がいいでしょう」奥村が言った。「これからも変わりつづける可能性があるとはいえ」
 男爵がうなずこうとしたそのときである。
「ミュンヒハウゼン!」
 誰のものともしれぬ野太い巨声が、屋敷中に響き渡ったのである。

○     5

 その声を聞いた瞬間にミュンヒハウゼンは、
「ウィンディゴ!」
 と叫び、サーベルをひきぬいた。ゆっくりとその場で一回りをし、警戒するように周囲に気を配る。
 声はさらに、
「久しいな、ミュンヒハウゼン!」
 と言った。
 奥村が声の方向に見当をつけ、バルコニーのガラス戸に走り寄ると、真冬用にあつらえた分厚いカーテンを引き開けた。洋一はウィンディゴに対する怒りを新たにしていたが、カーテンがあいた瞬間悲鳴を上げて太助とともにしりもちをついた。
 窓の外には、巨大な顔がうかんでいた。でっかい団子鼻だ。仁王のような形相をして、一同を睨みつけている。しかも透明で背後の空をうつしている。奥村が長刀をすっぱ抜いて、二人の前に回りこんだ。
「あ、あれがウィンディゴ」洋一は唖然と言った。
「うろたえるな」とミュンヒハウゼンは言った。「やつはお前がもっとも怖れるものに姿を変えるぞ」
「さよう」ウィンディゴは怒鳴った。部屋の結界がすこしゆらいだ、辺りの喧噪がもどってくる。「察しのとおりだミュンヒハウゼン。わしはお主とおなじく、創造の力を擁する者! さあ、その本を渡してもらおうか。伝説の書はお主にはすぎ足るものだ」
「黙れ!」洋一は窓に駆け寄ろうとして、奥村と太助に抱き留められた。「お前が父さんと母さんを殺したんだな! よくも、よくもやったな。見てろ」
「黙れ、わっぱ!」ウィンディゴの怒声にうたれ、洋一はその場にくずおれた。男爵すらも片膝をついた。「身のほどを知るがいい! ぬしらの仲間はほとんどが死に、残ったのはそこにいる奥村休賀斎と小僧!」とウィンディゴはおどすかのごとく窓際まで攻め寄せてくる。「そして、なにも知らぬ非力な牧村の子息」
 ウィンディゴは洋一をあざ笑いつ、窓から離れていく。洋一は悔し涙を流し、奥村の手の中で暴れた。あんまり暴れるものだから、奥村の刀で手の甲を切ってしまった。
「洋一、やつの口車に乗るな!」
 と奥村は刀をおさめながら説き聞かせた。
 男爵が小声で、「そのとおりじゃ、いまは物語の世界をただし、少しでもやつの力を弱めるしかないのだぞ」
 その男爵の言葉をウィンディゴは聴いていたようだ。
「あわれなるかな、ミュンヒハウゼン」顔だけのウィンディゴが宙を回る。「本の世界を救おうなどとやめておけ。人々はもはやお主を必要とはしておらぬ。善がお主にどれだけ味方する! まだ、わしにさからうつもりか! もはやお主に力は残されておらぬ! その証拠にお主は年老い、創造の力も大半をなくしておるではないか!」
 洋一は驚いてミュンヒハウゼンをかえりみた。男爵はがっくりと肩を落としてうなだれている。ウィンディゴの言葉は事実らしかった。だから、彼は牧村一家の助けと、伝説の書とを求めたのだ。男爵がいった、ほらもふけないほらふき男爵とはこういう意味だったのだ。
「世界の人々はお前の紡ぐ物語を忘れ去ろうとしている。もはやお前を信じておらんのだ」
 ウィンディゴの巨顔が壮絶とも呼べる笑みを形作った。
「お前なんか!」怒鳴る洋一に、太助が組みついた。「ぼくの父さんと母さんを殺したって、まだ男爵がいる!」
「ミュンヒハウゼン!」ウィンディゴはさも驚いた風に、「やつは年老い力をなくしておる。世界の人々はお前を忘れ去ろうとしている」
 ウィンディゴが窓に近づく。
「だまれ!」
 洋一は涙をながし、ウィンディゴに向かおうとした。
 奥村は開き戸まで駆け寄り、カーテンをしめた。そのカーテンの裏地では、洋一の母親がほどこしたらしい、呪文の文字が光を放っている。
 両親は死んでもぼくを守ってるんだ、と思うと、洋一の胸は二人への愛情と悲しみ、ウィンディゴにたいする新たな怒りで熱くなった。
 カーテンがしまると、音は遠ざかり、ウィンディゴの声は、はるか彼方から響く遠雷のようになった。
 奥村が肩に手を回すと、洋一はがっくりとうなだれた。ふりむくと、男爵もおなじように消沈していた。三人は男爵のところまで歩いていった。男爵はひどく青ざめた顔をしていた。近づいてきた三人に気づき、気丈にも立ち上がった。
「ぼくは男爵を信じるよ」と洋一は言った。「前はあんなこと言ったけど、全部取り消す。だって男爵は院長の家でぼくを助けてくれた」
「わしはもうだめだ……」
「男爵、あいつの言葉を聴いちゃだめだ。ぼくは男爵を信じる。男爵は本物のミュンヒハウゼン男爵だ」
「ああ、ああ」ミュンヒハウゼンはウィンディゴの言った言葉がひどくショックだったようだ。その顔は蒼白なまでに青ざめている。「だが、やつの言ったことも真実なのだ。わし自身の物語世界がすでに狂いを見せておる。わしの仲間たち、グスタバス、アドルファス、バートホールド、アルブレヒト……あやつらはいまいったいどこでどうしておるのか」とミュンヒハウゼンは帽子をむしりとる。
 洋一は男爵の白髪頭を見下ろした。「ぼくには強くあれって言ったくせに……」怒りに震える胸。そこから息を吹きだした。「この大うそつき。弱虫のへっぴり腰野郎!」
「なにおう」これには負けず嫌いの男爵が目を剥いて立ち上がった。
「男爵のほらふき。でも、こいていいほらと悪いほらがあるぞ」
「なにを言うか、お前はなにもわかっておらんのだ!」
「わかってないのは男爵だ」洋一は静かに言った。「男爵はぼくに力を貸して欲しいって言った。なのに男爵は自分があきらめてる。うそはついてもいいけど、約束を破っちゃだめなんだぞ!」
「言われましたな」
 奥村は伝説の書をとって戻ると、ミュンヒハウゼンの胸に押しつけた。
「男爵」と洋一はミュンヒハウゼンの手をとった。以前は彼の情熱を表すかのごとく熱い力に満ちていた手が、今は冷たく冷えている。そのことも、彼の心を傷つけた。洋一は目に涙を溜めた。声は震えた。「本の世界がほんとにあって、父さんたちが殺されたのもほんとなら、敵をとりたいよ男爵」
「それは我が悲願でもある」
 とミュンヒハウゼンは言った。彼の頬に赤みが差した。彼は名付け子の前で弱気になった自分を恥じた。恭一たちは本の世界を守るため――それはいうまでもなくミュンヒハウゼンの世界を守るためでもある――戦って亡くなった。世界中の人間が彼を忘れ去ろうとも、少なくとも牧村夫妻は彼のことを信じて亡くなったのである。
 男爵は立ち上がると、洋一の肩に手を置き、日が差してきた表に向き直った。
「この期におよんで弱気になるなどわしはどうかしておった。ウィンディゴ!」と外に向けて呼ばわる。「貴様など世間にろくに名も知られておらぬ。わしの物語はこれまで全世界で読み継がれてきた」
「映画にもなった」と洋一。
「そのとおり!」
 男爵が声も高らかに叫んだ。奥村が快活に言った。
「では、まずはロビン・フッドを救いにまいりましょう」

○     6

 洋一たちは、物語の世界に入りこむしかなくなった。忘れられた書物が、部屋を攻撃しはじめたからだ。壁が太鼓のように音をたて、扉の蝶番はがたつき軋み音を上げている。天井からはちりつもった埃まで落ちてきた。洋一と太助は無意識のうちに手をとりあった。何者かが中に入ろうとしている。恭一がつくった結界がいかに強力とはいえ、あまり時間は残されていなかった。
 隣で男爵が急いで懐に手をつきこむと、中から二枚の紙をとりだし、二人の少年に手渡した。
「これには、物語の世界にはいるための呪文が書かれてある、一字一句まちがえるなよ」
 と彼は言った。それから『ロビンフッドの冒険』を手にすると、部屋の中央に行った。男爵はページをぱらぱらと繰ると、
「この辺りがいいだろう」
 と言って、そのページを手で押し、しっかりと開いた。
「城の中の調理場のシーンだ。我々はそこにでるぞ」
 洋一と太助はその紙片に目を通して、なんとかそのへんてこな呪文を暗記しようとした。そのとき男爵は懐から伝説の書をとりだし、じっと見つめた。ややあってその書物を洋一に向かってさしだし、
「お前がもっておれ」
 と言った。洋一はその本が(すくなくとも男爵にとっては)重要な本だとわかっていたから驚いた。
「でも――」
「おぬしの両親が半生をつうじて守りぬいた本だ。お主が持っておれ」と男爵は言った。「万が一、ということがないかぎり、この本をつかってはならん。とはいえ、お主ではなにを書きこもうとも現実化はせんだろうがな」
 洋一は伝説の書を恐る恐る受けとった。彼はその本の背表紙をなで、ためつすがめつ眺めつした。父さんと母さんに変わってぼくがこの本を守るんだ、と思うと、こころよい緊張感のようなものが胸を走る。彼はうなずいて、伝説の書を胸に抱いた。洋一は伝説の書をセーターの中につっこんだ。
 こどもたちは男爵と奥村にせきたてられて本の前に立った。四人は本を囲んだ。
 男爵が言った。
「手を取り合え」
 洋一は太助の手をとった。そして、開いた左手でミュンヒハウゼンの手をとった。ミュンヒハウゼンは一心に『ロビン・フッド』を見つめている。
 本当に本の世界に入れるんだろうか?
 そう疑問を浮かべた瞬間に、洋一はその書物の放つ脈動をかんじ、本が生きていることを確信した。彼らを中心に左回りの風がおきた。ウィンディゴが騒いでいる。まるで地震が起きたかのように鳴動している。洋一はこう思った。あいつらこの部屋をサイコロみたいに揺すぶってるぞ。
 男爵はそんな妨害をものともせず落ち着き払って言った。
「目を閉じろ」
 取り囲まれているさなかに目を閉じるのは怖かったが、同時にものすごく興奮してもいた。洋一は自分の股間が硬くなっているのに気づく。わき上がるような力を感じた。その力は彼のまだ知らぬ性の衝動にも似て、まるで、原始の力が彼の中に眠る能力を目覚めさせていくかのようだった。目を閉じているのに周囲の景色が見えた。洋一は四人のつないだ手を通して、未知なるエネルギーが駆けめぐるのを感じた。歓喜ともとれるうめき声がする。ウィンディゴの怒りの叫びも。
「呪文を思い浮かべろ」
 その瞬間、洋一のまぶたの裏には、ほんとにあの呪文が浮かんできた。日本語だけでなく、ありとあらゆる言語で浮かんできた。洋一はうろたえながらも、呪文が消えないようにしがみつく。体ではなく精神の力で。彼は呪文の音を覚えることは無意味なんだと直覚する。だから、その言葉の裏にある力をつかまえにかかった。
 ウィンディゴは男爵のいうとおりとてつもない、怖ろしいやつだ。でも、自分に、自分たちにこんなことができるのなら、両親の仇を討つことだって不可能ではない気がする。
 ウィンディゴがガラス戸にぶつかる音がし、男爵が叫んだ。
「声をそろえて唱えるんじゃ」
 四つの声が唱和する。「ラガナリボーノ、オチミマーヤ、タエガンカウコ!」
 その瞬間、洋一のお気に入りの本である『ロビン・フッドの冒険』は光り輝き、瞼を通して四人の脳髄を貫いた。その光とともに文章の洪水がおしよせてくる。脳を文の流れに揺さぶられ、洋一は悲鳴を上げた。彼らの意識は遠くなった。洋一が目を開こうかと迷った刹那、髪の毛をわしづかみにされるような感触が彼を襲った。腰が浮いたかと思うと、洋一の体は虚空にむかって放り投げられた。天井にぶつかると思ったのに、そんな感触はない。目を開くこともできずに彼は大空高くに舞い昇っていった。
 数瞬の後、四人の姿はわずかな煙を残してその部屋からかき消えていた。
 あとには、風にページをはためかせる
『ロビン・フッドの冒険』
 だけが残された。

 

 

◆ 第二部 果てしない物語と呪われたこどもたち

◆  第一章 泣き虫ジョンとロビンの消息

 

□   その一 ちびのジョン、大いに弱ること

○     1

 ぐるり、ぐるり。ぐるり、ぐるり。
 洋一には自分がアメーバかなにかに変わったかのように感じられた。体はチーズのようにとろけて伸び、上下左右もわからなくなる。ぐるりぐるり。ねじまがり、激しく回転、渦さえ巻いた。洋一は目を閉じて、歯を食いしばり悲鳴をこらえる。
 真っ暗闇に放り出されたかと思うと、次の瞬間には、どこともしれない石の床に身を投げ出されていた。彼は激しい動悸に息を切らす、大の字に伸びたまま襲いくる吐き気とたたかった。大汗をかき湯気までたった。
 視界はいまだに回っている……。
「ここはどこ」
 洋一は倒れたまま、しゃがれ声でうめく。吐き気がして身を起こすことができない。
「洋一」
 太助が右隣で体を起こす。体をさすり、腰に刀があるのを確かめ、ほっと胸をなでおろす。
 目が次第に暗闇になれてきた。視界の回転もおさまる。洋一は城の調理場だと思った。男爵がそこに出るといっていたし、部屋の調度もまちがいなく調理場であることを告げていた。部屋の奥にはかまどがあり、まな板に包丁といった調理道具もみえる。
 二人が倒れているのは、テーブルの真下あたり。ここでは食事をしないのか、椅子のたぐいがまったくない。部屋は広く、かまどが壁面に並んでいる。巨大な鍋が壁に吊されている。ここにいるのは彼らだけだった。
「男爵と父上がいないぞ」
 太助が周囲を見回す。洋一もしゃがんだり、背伸びをしたりして二人の姿をさがしたが、人影がない。
「ここはほんとに本の世界なのかな?」
「わからない。でも、そうだと思う」
 太助は気持ちを抑えようとしているようだったが、声には興奮が感じられた。洋一も脳天から舌まで染みるようなしびれを感じる。
 そうした興奮が去ると、激しい不安がやってきた。
「男爵とおじさんはどこに行ったんだ?」
 彼らは本の世界に来たのさえはじめてだ。どう振る舞っていいかもわからず、またなにをすべきなのかも知らなかった。洋一はミュンヒハウゼンの言葉を思いだした。狂った本の世界を元に戻す……
「たぶん、男爵たちはこの場所に来なかったんだ」太助が言った。「きっと別の場所に飛ばされたんだよ」
「でも、なんで?」
「わからないよ。入るときにページがめくれたのかもしれないし、ウィンディゴがじゃましたのかも」
 洋一はたちまち怖ろしい巨顔を思い浮かべ、「そうだ、ウィンディゴは? あいつは追ってこないかな?」
「わからない。でも、ウィンディゴはいろんな物語の世界に影響を及ぼしてる。そのせいで……」
 太助が急に黙った。緊張した表情になり、鼓膜に意識を集中している。
「な、なんだよ」
 しぃ、太助が沈黙をうながした。洋一は黙り、自分も緊張しながら、辺りの気配に集中した。太助は剣術で鍛えこんでいるせいか洋一よりずいぶんと敏感なようだ。
「奥の部屋から音がする」
 太助の視線の向こうには、アーチ型の闇がぽっかりとあいていた。よく見るとそこからかすかに明かりがもれていた。
「男爵たちかな?」
 と洋一は尋ねたが、二人でないことはわかっていた。隣の部屋から響くのは、なにか物を食べるような音に聴こえたからだ。それに男爵たちなら二人を捜すに決まっている。
 太助が用心深く腰の刀に手をかけた。洋一に向かってうなずいたが、表情はいかにも不安そうだ。
「向こうにいるのがウィンディゴだったらどうする?」
「ウィンディゴならぼくらはとっくに殺されてる」
「でも……」洋一の視線が揺らいだ。「刀を抜くのはよくないよ。相手はきっと大人だ」
 洋一は、ボコボコにやられるに決まってると思ったが、口にはださなかった。
 太助は首を左右に振った。「男爵はページを選んでた。危ないシーンにぼくらを連れてくるはずはないよ。きっとロビン・フッドか、ロビンの仲間がでてくるページを選んだはずだ」
 でも、ロビンはすでに死んでいる。森の仲間たちにとって、今のロビン・フッドの世界はずっと住みにくくなっているはずだった。
 二人は腰を落とし、ゆっくりとアーチに近づいた。そちらは食料の貯蔵庫になっていて、調理場との間には扉すらない。
 洋一は言った。「主人公が死ぬなんて信じられないよ」
「いや、男爵たちが読んだのは頭の部分だけだ。後半では死んでないことになっているのかもしれない」
 太助はわらじを履いているのでほとんど音を立てない。洋一は靴を脱いだ。
 二人がかまどの脇から貯蔵庫の奥をのぞくと、そこでは見たこともないような巨体の持ち主が、精一杯に身をかがめて、食事にありついているところだった。こちらに背中を向けている。先ほどから漏れていた明かりは、布でおおったカンテラから漏れた明かりらしかった。男がどでかいソーセージにかぶりつき引きちぎるのが見えた。ずいぶんと腹を空かしているようだ。それをみて二人の男の子たちのお腹もぐううっと鳴った。
 洋一はささやいた。「昨日の晩からろくに食べてないよ」
「ぼくもだ」
「あいつ緑の服を着てないぞ」
 緑の服こそ森の盗賊ロビン・フッドの子分の証だ。少なくとも、洋一の読んだ本では。
「誰だ」
 大男がふりむいた。二人は慌てて壁際に隠れた。大男はカンテラにかぶせた布をそっと外して、部屋の入り口をてらした。男はひげもじゃで髪もぼーぼーに伸びている。その髭はソーセージの油のせいでぬらぬらと光っていた。
「誰かいるのか?」大男が訊いた。「誰もいないのか? いないといってくれ」
「あいつおかしなことを言ってるぞ」
 と洋一。太助がまたしいいっと言って、洋一の口をふさいだ。
「だ、誰もいないんなら、それでいい。俺は食事をつづけるぞ」
 男は震える声で言った。
 太助と洋一は顔を見合わせた。男が急においおいと泣きはじめたからだ。
「まったくなあ、ひでぇことになったもんだ。ロビンはいなくなっちまうし、おかげで俺は朝から晩までこきつかわれる」
 太助が思わず物陰から顔をだした。「あんたロビン・フッドを知ってるのか?」
「ひょっとして、ちびのジョン?」
 太助と洋一が同時に問い尋ねると、男は大声を上げて飛び上がった。

○     2

「だ、誰だか、知らねえが州長官さまには黙っててくれろ」男は転がったまま、両手を大きく振り立てた。「ろ、ろくに食ってねえもんだから、つい魔が差しちまって。だけど、誓う。これまで盗み食いなんて一度だってしたことがねえ。ノッティンガム長官さまには感謝いたしております。腹が減ったのだって、俺の図体がでかすぎるせいで、州長官さまのせいではまったくないですだ」
「おい、あんたこそ静かにしろよ」
 太助が怒って部屋に入った。
「まずいよ、太助。男爵のやつ、州長官の調理場のシーンを選んだんだ。きっとちびのジョンが、州長官の家来になった場面だよ。ぼくらは代官の屋敷に閉じこめられた」
 男は顔を上げた。二人の顔をみとめたようだ。「なんだ、こどもか」と気抜けしたように彼は言った。男の顔は涙とソーセージの油でぐちゃぐちゃになっている。
「お前たちどうやってここまではいった?」
「あんたちびのジョン? そうだろ」
 と太助がにじりよった。洋一も後に続いた。
 ちびのジョンらしき男は、巨大な手で顔をなで下ろし、
「ちびのジョンって呼ばれたのは昔の話だ。ここじゃあ、レイノルド・グリーンリーフって呼ばれてる。でもみんなはそんなふうには言わねえ。みんなは、泣き虫ジョンって、そう呼ぶんだ」
 と言って、ジョンは大粒の涙をこぼしはじめた。太助と洋一は顔を見合わせた。
「しっかりしてよ。頭がいかれたのかな?」と太助。
「泣き虫ジョンって、州長官の家来がそう呼ぶの? あんな弱虫なやつらが?」
「しいい」と言ったのは、今度はジョンだった。「あいつらのこと、そんなふうに言っちゃいけねえ。すごくいじわるだし、なにされるかわかんねえぞお」と言って、巨大な体を伸ばし、誰もはいってこないか注意をしている。太助は、
「ほんとにちびのジョンだと思うか?」
「わかんないけど……物語が変わったから、登場人物の設定も変わってるんだよ。男爵がそういってた」
 洋一が言うと、太助もうなずいた。
 太助は剛胆にも、ジョンの肩に手を置いた。ジョンはそんな身振りにもおびえたようで体をすくめる。洋一はすっかりあきれてしまった。
 太助が言った。「なあ、ジョン。しっかりしてくれよ」
「あんた、ロビン・フッドの片腕だったんじゃないの? 森の盗賊の副隊長だ」
「そりゃ昔の話だ。ここでロビンの話なんかぜったいにしちゃいけねえんだ」
 とジョンは言った。この雲を突くような大男が(座っていても、二人よりずっと背が高かった)ジョン・リトルのなれの果てであることはまちがいないようだった。
 洋一は勢いこんで言った。「ロビン・フッドはどうしたのさ、他の仲間は? みんなやられちゃったの?」
「しいい、ロビンは死んだ。その名は口にだすな」
「じゃあ、他の連中は? 赤服ウィルは? アラン・ア・デイルは?」
 どれもロビン・フッドの物語にはおなじみの人物だ。
「あいつらはロビンについて十字軍に行っちまったよ」とジョンはまた小声でささやいた。
「じゃあ、ロビン・フッドは十字軍に参加して死んじゃったの?」洋一は絶望して訊く。
「ああ、仲間の半分をつれてな。俺はロビンに残りの仲間とシャーウッドの森を任されたんだ」
「じゃあ、なんでここにいるの?」
 洋一はジョンがたんに偵察かなにかで潜りこんでいるんだと信じたかった。しかしジョンは、「わ、わからねえ」と頭を抱えた。「ともかく俺はいまじゃあ、ノッティンガム長官の家来で、一番の下っ端だ」
「なんでそんなことになったの?」
「わからねぇ。きっと州長官と戦って負けちまったんだ。そうに決まってる」
 太助は顔を上げて洋一に言った。「すっかり混乱しているぞ」
「じゃあ、他の人は? 粉屋のマッチは?」
「あいつは一緒に州長官につかえてる。森の仲間でも長官の家来になったのが大勢いる。アラン・ア・バートルも元の料理長に戻っちまった」
 アラン・ア・バートルといえば、ジョンが(まっとうだったころ)、州長官の屋敷から連れだし、仲間とした料理人である。
「じゃあ、もっと他の人はさ? タック坊主はどこ行ったんだ」
 太助が問いつめると、ジョンは頭を抱えた。「わからねえ。最近頭がはっきりとしねえんだ。昔のことがうまく思い出せねえ」
「じゃあ、ロビンは? ロビン・フッドのことも忘れちゃったのか?」
「あいつを忘れるもんか!」とリトル・ジョンは辺りをはばからぬ声で叫んだ。「あいつはいまでも俺の隊長で、いちばんの親友なんだぞ。俺は、俺は――ロビンさえ生きてれば……」
 といってジョンはさめざめと泣きはじめた。
「俺はもうリトル・ジョンじゃねえ、州長官の家来、泣き虫ジョンだよお。ロビンに、ロビンに申し訳がない、ロビン・フッドさえ生きてれば、こんなことにはならないのに」
 ジョンはおいおいと泣きながら飯をかきこみはじめた。
「情けない」と太助は怒りに燃えて立ち上がった。「これがロビンの右腕、ちびのジョンとはとても思えん。おい、洋一、もう行こう。こんな弱虫に用はないぞ。男爵と父上を捜すんだ」
「ああ、かってにしろ」とジョンは大きな食器に水をそそぎながらいった。「なんだ、おかしな格好をしやがって(たしかにジョンの目から見れば太助は珍妙な格好にちがいない)。俺だって、俺だってなあ、ロビンさえ生きてりゃ……」
「じゃあ、ロビン・フッドは確かに死んだんだね」
 洋一が訊くと、ジョンは首をひねった。
「十字軍から命からがら戻った連中がロビンが死ぬところを見たといった。獅子心王ですらおっちんじまったんたぞ」
 ロビンとリチャード獅子心王は死んだ。ロビンに従った者も、ある者は死に、ある者は帰ってきた。ジョンはそのものの口からロビンの死を聞かされたのである。
 洋一が、
「じゃ、じゃあ、イングランドは今、ジョン王が(リチャード一世の弟)おさめてるの」
 というと、ジョンはまた「そ、そうなんだ」とさめざめと泣きはじめた。「ロビンが生きていたころ、俺たちは自由な人間だった。だが、それももう昔の話だ。バラード(民謡)は、もう一つだって作られやしねえ。俺は、俺はロビンが死んだってのに、州長官の家来になってる。城のやつらには泣き虫ジョンだなんて呼ばれてる、俺は、俺はほんとにだめなやつだ」
「それはちがう」と太助が、らんと光る目をしてふりむいた。「あんたは棒術の達人だ。勇敢な男だった。このまま終わるのがいやなら、一緒にこの城を抜けだそう」
「そ、そんなことしたら、州長官さまにこっぴどくぶたれちまう」
 二人は二メートルを超す大男がこっぴどくぶたれる様を想像した。
 太助はジョンの広い肩をつかんだ。「ロビン・フッドはあんたに必ず帰ると約束したんじゃないのか? そうでなかったら、副長のあんたを残していくはずがない」
 太助が力強い声でいうと、ジョンはますますさめざめと泣き、くっくっと肩をゆらしはじめた。
「ロビンはな、いいか小僧よくきけ。異国の地で骨になっちまったんだ。あいつの示した義侠も勇気も、もう地上にあらわれることはない……」
「でも、ちびのジョンは生きてる」洋一は悲しげに言った。ちびのジョンはロビン・フッドの物語の中でも一番のお気に入りの人物だった。ひょっとしたら、ロビンより気に入っていたかもれない。大男で、勇気があって、ちょっぴりどじで、愛嬌がある。そしてロビンのことを死ぬほど愛しているのだ。だから、いつだって勇敢に彼に従った。
「ロビンはあなたに約束したんだ。そうでしょ?」
 ジョンはびっくりした顔で、そのつぶらな瞳をぱちくりさせた。「そ、そのとおりだ。ロビンはうそなんかつかねえ。ロビンはかならず戻ると約束した。オレのロビン・フッドは、約束を守らなかったことは一度もない……」
「そのとおりだとも、ジョン」と太助は力強くうなずいた。
「なのに俺はリトル・ジョンの名を忘れ、州長官の家来になんぞなっちまった。俺は俺の身が嘆かわしい」
「それはあんたのせいじゃないよ。ウィンディゴってやつが悪いんだ」と洋一はいったが、
「うぃ? なんだそれは?」
「ウィンディゴだよ」
「ウィンディゴでなくともいい」と太助がわりこんだ。「ジョン、あんたは悪役で、強い力をもったやつを知らないか?」
「悪いやつか?」とジョンは言った。
 太助はうなずく。「州長官や、ジョン王の他に」
 ジョンの目が奇妙に光った。「モーティアナのことか……あいつは最近、ジョン王の側近になったやつだ。魔女だって言われてる」
 洋一と太助は顔を見合わせた。
「そいつだ」洋一は勢いこんでいった。「そいつは映画に出てた」
「小説には出てこなかったやつだな」
「うん。最近でてきたキャラクターなのに、強い力を持ってる」
「きっとウィンディゴが力を貸してるんだ」太助が悔しそうにほぞをかむ。「ジョン、ロビンはきっと生きてる。あの人が死ぬはずないじゃないか(とも言い切れない。物語の最後でロビンは手首を切られて死んでしまうからだ)。ロビンはこれまで仲間のことは一度だって見捨てなかった。あんたが捕まったときだって彼は助けにいったんだぞ。こんどはあんたが助ける番だ」
 ジョンは唖然とした顔を巨大な手でなでつけた。「お前たちはなにをいうとる。ロビンは死んだんだぞ」
「そんなもの自分で確かめたわけではないだろう」
「そうだよ」と洋一。「あとでひょっこりもどってくるなんてよくある話じゃないか。国王も死んだぐらいの激しい戦いだったら、どさくさで誰が死んだかなんてはっきりしなかったにちがいないよ」
「そいつらがロビンを殺したんなら別だけど」
 と太助が言ったから、、洋一はびっくりした。はたしてジョンは顔を真っ赤にして怒りはじめた。
「あいつらがロビンを殺したりするはずがねえ」
「じゃあ、誰も見た見たっていってるだけだ」と太助はさえぎる。「ロビンの死体を確認したやつは一人もいない」
 ジョンは呆然とした。「そんな、だったらなんでロビンはもどってこねえ。あいつは今どこにいるんだ?」
「わからないけど、きっと事情があるんだよ」
「もしかしたら、大けがをしたのかもしれない」
 ジョンが、「すると、死にはしなかったのか?」
「そうだよ」
 洋一が力強く答えると、ジョンは彼に疑わしげな目を向けた。
「だけど、お前はなんでそんなに確信を持ってロビンが生きてるって言えるんだ?」とジョンは問いかけた。「まさか、ロビンに会ったのか?」
 二人が答えに迷い顔を見合わすうちに、背後から明かりがさし、三人を照らしだした。

○     3

「なつかしい名を耳にしたぞ。お前たち、ロビンの名を口にしていたな」
 太助は腰をかがめ、刀に手をかけた。ジョンがその肩をおさえる。
「よせ、あれはアランだ」
「アランってアラン・ア・バートル? 料理番の?」
 洋一がいうとジョンは驚いた。
「そうだ。よく知ってるな」
 洋一はもごもご言った。「そりゃあ、みんな有名だから……」
 ジョンはため息をついた。「昔は吟遊詩人にうたわれたもんさ」
 アラン・ア・バートルがランプをかかげて貯蔵庫に入ってきた。でっぷりと太った赤ら顔ながら、ジョンに負けない棒術の達人である。
「こんな夜中に面をつきあわせて、まさか謀反のご相談かな、ちびのジョン。つまみぐいをしでかしたにしちゃお仲間が多いな。そのこどもたちはなんだ。使用人の子か?」
「ああ……」とジョンはもみ手をした。「まあ……そんなとこだ……」
 太助は鞘ぐるみの脇差しでジョンの腹をどすりと突いた。
 だが、アランはまるで信用していない様子。鼻で笑いながら、「ふざけるなよジョン。使用人の子はこんな時間に城をうろついたりしないし、ロビンが生きてると主張したりもしない」
 ジョンはまた真っ赤になった。「こいつはでっけえ勘ちがいをしとるんだ、ロビンが生きてるから捜しに行けなんて俺にぬかしおる」
「でも、ほんとなんだ」
 洋一がいうと、アランは驚いた顔で彼を見た。
「お前たちどういうことだ? 生きているロビンに会ったのか?」
「会えるはずがねえ。あいつらは死んだ。アラン・ア・デイルもウィル・スタートリーもみんなだ。ロビンが怪我をしたって、アランたちが連れ戻るに決まっとる」
「いや、ジョン二人の装束をみろ」とアラン・ア・バートルは洋一と太助にランプを近づけ、二人の服をとっくりと見た。アランの顔に次第に笑みが広がった。「この装束をみろ、見たこともないぞ。きっと異国の地の兄弟にちがいない。ロビンが自分の生存を知らしめるために遣わしたんだ」
「なんだと?」
 ジョンは二人の前にまわりこんだ。「信じられん……お前たち、ロビンに会ったのなら、なんで早く言わねえ?」
 太助と洋一は顔を見合わせた。太助はうそをつくのを恥じらうように視線をそらした。洋一が、腹に隠した本に手を置いた。
「あ、あれが、本物のロビンなのかわかんなくて……」とへどもど言った。「だって、怪我をしてたし、本人には始めて会ったんだ。ウィルやみんなも一緒にいた」
「なんてこった……」ジョンはわなわなと口に手をやる。「ロビンは、ロビンは動けねえほどの怪我をしてるのか、それで帰ってこれねえのか」
「待て」とアランがわりこんだ。「ロビンがただでお前たちをよこしただけとはおもえん。ロビンはなにか証拠になるものを渡さなかったか」
「そうだ、それになんでこどもを?」とジョンが疑りの目を向ける。
「ぼくたちだけで来たわけじゃない。男爵と父も一緒だ」と太助が言った。
「証拠は金の矢で、男爵たちが持ってる」と洋一も言った。
 アランが、「その男爵とはどこにいる? お前たちだけで城にしのびこんだのか?」
 太助はうなずいた。
「なんてことを、なんて危険なことを」アランはなかばなじるように手を振り回す。
「父上たちとはイギリスにきてはぐれてしまったんだ」
 太助が弁解したので、洋一は驚いた。さっきから見ていると、太助は絶対にうそを言わない。いま弁解をしたが、それでも太助が口にしていることは全部ほんとのことだ(詳しく話していないだけだ)。洋一は、おじさんと太助は本物の侍なんだなあ、となんとなく信じるようになった。
「そうだったのか……」とジョンは嘆息をした。「いまのイギリスは安全じゃねえからな。とくに外人が旅をするには安全じゃねえ。ロビンの使者というならなおさらだ」
 アランがジョンにこっそりささやいた。「一緒に来たという二人はもう……」
 縁起でもない、と太助と洋一は憤慨した。
「とにかく、ロビンを捜しに行かないと」
「ロビンがどこにいるのか知っているのか?」
 アランが辺りはばからない大声を上げた。
 太助が洋一を見た。洋一はちょっと迷ってから、「パレスチナ」と答えた。これを聞くと、ジョンは大喜びをはじめた。洋一は罪悪感でいっぱいになった。彼がパレスチナと答えたのは、ケビン・コスナーが映画の中でとらえられたのがパレスチナだったからだし、そのパレスチナが世界地図のどの辺りにあるのかも知らなかった。
「いいのか?」
 太助が横で聞いたが、洋一はそっちを見ずにうなずいた。
「こうしちゃあいられねえ」ジョンは水をがぶ飲みにし、残りは顔にぶっかけた。「お前たちのいうとおりだ。とっととこの城を逃げ出して、ロビンを捜しに行こう」

○     4

 一同はアランのランプを頼りに食料貯蔵庫を抜けだした。
 ノッティンガムは交通の要所にあるだけに、巨大な城である。兵隊たちの数も多い。ジョンとアランは、以前二人がつかった地下水道をふたたび利用することにした。壁にかざりつけてあった剣とかぶとを拝借し、それを用心ぶかく腰に吊した。
 洋一たちのいた調理場は一階にあり、地下水道への降り口はここからそう遠くないところにあった。
 小説ではすんなりと城を抜け出せたのに、現実の本の世界(おかしな言い方だが)の逃避行はページをめくるようにはいかなかった。
「いまは夜中だが、宿直の兵が城内をうろついてるからな」
 アランは通路が交わったところでは特に用心をした。ランプに厚い布をかぶせて廊下をのぞきみる。
「でも、森の仲間も大勢いるんでしょう?」と洋一が訊くと、
「ああ、だが、情勢が変わって誰が味方で敵なのか、わかりやしない」
 と聞いて洋一たちはがっかりした。
「みんなまだロビンが死んだと思いこんどる。だが、あいつがもどってくればみんな変わってくるはずだ」
「だといいがな……」とアランがいったとき、
「これはいったいどういうことだ」
 一同ははっと後ろをふりむいた。通路の影から、背の高い男と二人の兵士が躍り出てきた。
「森の仲間が二人もそろってお出かけとは、よくない考えとはおもわんか」
 男がいうと、兵隊たちが声を蹴立てて笑った。兵の一人が持っていたたいまつに火をつけた。洋一のそばでアラン・ア・バートルがひゅっと息をのんだ。
「ガイ・ギズボーン」

○     5

 アランが鋭くいうと、ガイ・ギズボーンは冷笑を浮かべて近づいてきた。
「なんだ、なにを驚いてやがる。おっと、後ろにいるでっかいのは泣き虫ジョンか?」
 ガイがおどけて後ずさると、ジョンはまた真っ赤になった。
「夜中にわんわん泣いてアランママになぐさめてもらってたのか?」ガイは突然首を突きだすと奇妙な赤ちゃん言葉で語りだした。「おお、よちよちちびのジョン、ロビン・ザ・フッドはのたうちまわって死にましたと……」
「黙れ!」
 太助が辺りをはばからずに大声を上げた。ガイ・ギズボーンの顔色が変わった。おどけた表情が消え、さも残忍な人相がその面に現れた。
「なんだ、その餓鬼どもは?」
 ジョンとアランは黙りこんだ。
「なんだと訊いてる。その餓鬼をどこから連れこんだ」
「二人ともイギリス人じゃない」
 と兵隊がガイの耳元でささやく。「中国人か? ノッティンガム城にはクーリーはいないはずだ」
「ぼくは奴隷じゃない……」
 洋一は震えながら吐き捨てるように言った。クーリーという言葉の意味を知っていたからだ。
 ガイ・ギズボーンが残忍な目をさらに細めた。「ならなんだというんだ。お前たちは何者だ? なぜ森の盗賊たちといっしょにいる」
「ガイ、俺たちはもう州長官の家来なんだ」
 アランがとりなすようにいうと、ガイ・ギズボーンは笑い声を上げた。
「家来だと? 俺たちが仲間同士とでもいうのか? ふざけるな!」ガイは長剣を抜きはなった。「貴様らが大きな顔で城にいることじたい虫酸がはしるんだよ! たわけのリチャードの息子も、謀反の動きをしている。お前たちが通じていないはずがない! 貴様らなど、これを機会に縛り首にしてくれる!」
 大声を上げ唾を飛ばすガイの姿は、洋一に団野院長を思い起こさせた。どちらもおなじぐらい狂っているとしか思えなかった。
 通路のあちこちから歓声と無数の足音がとどろく。ガイのよんだ応援が、声を頼りに駆けつけようとしている。
「もう、逃げられんぞ、泣き虫ジョン」ガイに怒鳴られるとジョンは縮み上がった。「貴様の昔の名声がどうあれ、ここでは一介の家来にすぎんことを忘れるな。お前は大人しく役に立つが」ガイは長剣でアランを指し示す。「狼藉がすぎたな。貴様は許すわけにはいかん、明朝しばりくびにしてくれる」
「ジョン、もう行こう!」
 太助の叫び声がしたかと思うと、彼は黒い矢となって飛び出し、ガイに向かって剣を抜きはなっていた。彼はこどもだが、直新陰流の居合い技をずっと厳しく仕こまれていた。こどもの技とはいえ、ガイははじめて見る居合い術をかわしきることができなかった。
 ガイ・ギズボーンは頬を切り裂かれると、悲鳴を上げて尻餅をついた。
「つかまえろ」ガイがわめいた。「その餓鬼を八つ裂きにしろ」
「そうもいかん」
 アランはガイの言葉も終わらぬうちに、剣をガイの胸に突きこんでいた。ガイ・ギズボーンが悲鳴を上げ、血を噴いて、アランの剣をつかんだ。二人の兵隊たちはジョンの手によってたちまちのうちに叩きのめされた。
「驚いた」とジョンは自分の武勇に声を上げて喜んだ。「まだこんなことができるとは」
 四人の喜色はつかの間で消え失せた。廊下の向こうから、たいまつをもった兵隊の群れが流れこんできたからである。

○     6

 アランはガイの腹部から剣を引きぬいた。悲鳴を上げたところからみて、まだ命があるようだったが、とどめをさしているひまはなかった。彼らは通路を駆けずりまわった。洋一は、一行に離れまいと必死だった。背後からはときおり弓が飛んできた。洋一は冷や冷やしたが、城の中なので容易には当たらない。やがて、ジョンが地下への扉を開けた。

 地下には壁の仕切がない。大きな運動場ほどもある空間が広がっている。暗かった。巨大な柱が天にむけて突き立ち、広大な天井を支えている。洋一の目は石の空間に圧倒された。洋一たちはその壁際にもうけられた階段を駆け下りていた。真下には、四角い鉄の網が見えた。どうやらあそこから、地下にある下水道まで降りられるようだった。
 後ろからは兵隊たちの足音が響いてくる。後ろでジョンが早く早くと急かしている。一方洋一はさきほどの光景が忘れられなかった。剣を突き刺したアラン、ガイ・ギズボーンの苦悶、彼の体のあちこちから噴きだした血、そして血の臭い……。
 それらは強烈な記憶となって洋一の脳裏に貼りついた。洋一の頭でそうした光景がぐるぐるとまわった。彼は人があんなふうに争って血を流すところを始めて見た。しかも太助はあのギズボーンに切りつけた。洋一は大勢に囲まれているのに、一人場ちがいな場所にいるような気がした。覚悟といえば彼にはどんな覚悟もなかった。死ぬ覚悟もなければ誰かを殺す覚悟もない。両親の敵をとるという、その一心だけで、本の世界までやってきたのだ。
 地下への道はさらに暗く、ジョンとアランのランプだけが頼りだった。兵隊の飛ばした槍が足下に突き刺さり、洋一はバランスを崩して階段の残った四段ばかりを転げ落ちた。ジョンが彼を抱き起こし、にじり下がる。
 アランが下水口の網に手をかけ持ち上げようとしたその刹那、彼の分厚い背にイチイの矢がはっしと突き立ったのである。

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