ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

◆ 第一章 恐怖の院長とほらふきな男爵について

 

□   その一 養護院みろくの里の実体について

○     1

 果てしない夜の森のなか、洋一少年が思いをはせていたあの日というのは、冬も間中の寒い夜のことだった。
 その日、古い石油ストーブの前で、彼は毛布にくるまっていた。外をわたる風に、洋館の窓はゆれていた。そうして、ただ一人、お気にいりの本を膝におき、クリームパンと瓶詰めの牛乳に手をのばしていたその間に、彼の両親は、この世の人ではなくなった。手の届かぬところに、行ってしまったのである。
 警官が訪ねてきたのは、洋一が、そろそろ時間の遅いのを心配しはじめたころだった。
 玄関に応対に出て、そこで三人の警官から事情を聞いた。聞いているうちに、彼の手からは、牛乳とパンと、毛布が落ちた。ほとんど飲み終えていた牛乳が、床にこぼれ、その白い液体は、彼の真っ白になった脳裏に、いやに強く焼き付けられた。
 いやな、予感がした。
 彼は毛布をもったまま、警官に誘われた。パトカーに乗るのは初めてだった。隣にすわる警官たちは、いたわりの目を向けていた。
 パトカーは、サイレン音を鳴らしもしなかった……

○     2

 洋一は病院までつれていかれたが、両親には会わせてもらえなかった(二人の体が、すっかり燃えたことを知ったのは、ずっと後のことである)。
 洋一のまわりで、時間だけが、呆然とながれていった。死というものは、大人でも理解しがたいものであったし、両親の死を受け入れるには、彼はまだ幼すぎた。相談をしようにも、となりにいる警官は、洋一には、ちょっとばかりおっかなかった。友達に電話をしたかったが、夜も遅いし、どこからどこにかければいいのかもわからなかった。電話番号のひかえすらない。
 洋一は、父さんと母さんはまだ手術室にいて、まだ治療を受けているにすぎないんだ、と、そんな考えにしがみついた。呆然とはさきほど述べたが、彼の脳みそは、大部分が、考えることを放棄したかのようだった。
 やがてそんな時間も過ぎ、病院の安置室の長椅子にすわりこむ洋一の前に、役所の人間が現れた。彼らはもう、あの屋敷には住めないこと、法律により、養護院で暮らさねばならないことを告げた。洋一には、 親戚がいなかった。彼の唯一の身内は、安置室にいるから、独りぼっちになったわけだ。肉体的にも、精神的にも……。
 役所から来た女は、足立という名前で、きれいだが冷たい感じのする、背の高い女性だった。冷えきっていたのは、洋一の身と心の方だったから、そんなふうに感じたのかもしれない。
 ともかく、洋一は病院をでると、その人の車に乗せられ、いったんは、自宅の図書館までつれもどされた。服や、身のまわりの品を、持っていくためである。
 足立は、屋敷までの道々、養護院はどんなところか、そこではどんなふうに暮らさねばならないかを、話してくれた。また、屋敷にはときおりもどっていいこと、そのおりは養護院の院長を通し、自分に連絡をつけることを約束させた。鍵はわたしが持っておくから、心配しなくていいのよ……。
 車のヘッドライトは、夜の無機質な街を照らしていた。車はゆったりだとも、速かったともいえる。時間の感覚が、なかったのだ。
 洋一は足立の方は見ずに、窓の外ばかり向いていた。外に知り合いがいないか、友達が呼び止めてくれはしないかと、そんな姿ばかりを探していた。
 ときおり、足立の車は、柳やんやカッツンの家の前を通ったが、どの家並みも明かりは消えていて、彼の期待した友人の姿は、どこにもなかった。

 屋敷につくと、洋一は、わざとゆっくり自室に向かった。後ろから、足立が屋敷を見回し、感嘆の声を上げるのが聞こえた。家具や、造りの広壮なことに驚いたのである。屋敷だけを見ていると、洋一の家は、とほうもないお金持ちだと人は思うのだが、じっさいには、つつましやかな生活だった。
 洋一は旅行用のバッグを探し出し、子供の頭でいるだろうと思われるものを、バッグの中にほうりこんでいった。その間も、外で物音がするたびに窓に駆け寄り、両親か、あるいはクラスメートの姿をさがした。そのたびに、がっかりしては引き返すのだった。
 阿部先生は、なんでこんなときにかぎってきてくれないんだろう。今が一番肝腎なときじゃないか、文化祭や体育祭より大事なときだと、彼は思った。
 洋一は、パンツをたくさんと、ズボンを少々、セーターを一枚用意した。たまに戻ってこられると足立は言っていたから、ゲームやおもちゃは持っていくのを控えることにした。養護院がどんなところかわからないし、山さんみたいな、いやなやつがいたら、ゲームをとられないともかぎらない。
 それから、養護院はどこにあるんだろう、これまでの学校に通えるんだろうかと不安に思って、最悪の結果を予想した。だから、足立に訊くのは控えることにした。たびたび戻ってきたかったから、わざと置いていったものもあった。帰るときの、口実になるように。
 つまるところは、こういうことだ。
 洋一は、ちょっと待ってよ、と言いたかった。車に乗っている間も、カバンに服をつめている間も、ずっとそう言いたかった。足立が、もう屋敷にはなかなか戻れないだろう、とか、はやく新しい親御さんが見つかるといいのだけれど、と言っているときは、とくに強くそう言いたかった。彼にはろくすっぽわけがわからなかった。人が死ぬだとか、両親にはもう会えないだとか、こんなときの世の中の仕組みだとか……
 そんなことを理解するには、彼の心は柔軟でありすぎたのかもしれない。だけど、洋一だって、もうどうにもならないということは、わかっていた。
 荷造りはすんだ。足立の車はゆるやかに発車して、屋敷につづく坂道を、ゆっくりと下った。洋一はシートにへばりつくようにして、その道と屋敷を、視界におさめつづけた。
 自宅のある丘を離れ、あの林が見えなくなると、洋一はゆっくりと前をむいて、座り直した。

○     3

 養護院みろくの里は、三十人ばかりのこどもたちを収容している。院長の自宅は、その邸内にあって、問題が起これば、いつでも駆けつけるというわけである。
 さて、洋一をこの養護院に送ってきたものの、足立はこの院に、洋一を預けるのは気が進まなかった。この辺りには、他に市立の養護院がなかった。みろくの里は評判がよかったけれど、それはこの院が、どんな子供でも預かるからだった。みろくの里がいいと思っているのは、足立の上司だったが、その人たちは、みろくの里には、来たこともなかった。事務処理も、こどもたちの世話も、足立が一人でやっていた。だから、現場を知っているのは、足立だけなのだ。
 足立はインターホンを押した。扉は、すぐに開いた。鼻にドアがぶつかりかけた。扉の裏で待ちかまえていた男が、急にドアを開けたのだ。
 洋一は、クラスでもとくに、後列から三番目に背が低かったが、院長は背が高かった。洋一が見上げると、八の字の髭が、にょきりにょきりと、立体型にくっきり見えた。
 院長は、女性にも洋一にも、注意を払わなかった。酔っているようだった。
 足立が、どぎまぎした様子で言った。「団野院長、夜分遅くにもうしわけありません」
「ああ、まったくだな」
 院長は言った。
「こちらは牧村洋一君ともうします。あの……院長、聞いてらっしゃいます?」
「それがどうかしたのかね……この子は孤児なんだろう」
 と、院長は急に高くなった声でそう訊ねた。
「そのとおりですが、院長」
 足立が院長の肘をとり、洋一から離れるような仕草をみせた。彼らは玄関の奥に寄った。院長は、足立の話を少しだけ聞くと、洋一に向かって身をかがめた。
 洋一は、院長の肌から、日本酒の臭いをかいだ。彼の父親はワインやウィスキーを好んだ。なんだか嗅ぎなれない、いやな臭いだと、洋一は思った。
「牧村」
 と団野は言った。洋一君、とも、洋一、とも言わなかった。名字で呼ばれたので、洋一が感じていた団野院長の冷たい感触は、よりいっそう強くなった。
「親が死んだのか? 君には親戚がいないのか? 独りぼっちなんだな?」
 院長は最後の、独りぼっちなんだな、を、噛み締めるようにゆっくり言った。洋一は、答えることだけができずに、ひゅっと息をのみこんだ。
 洋一は、足立にこう言いたくなった。
 ぼくを連れて帰ってください、ここに残したりしないでください、この人と、二人きりにしないで下さい!
 そんなことを言ったら、院長はどう思うだろうか? 最後に感じたこの思いで、洋一は、胸に渦巻くその言葉を、口にすることだけは踏みとどまった。洋一は、虐待を受けたことはないが、虐待のなんたるかは知っている。
 洋一は、こわばった顔のまま、小さく幾度かうなずいた。院長の髭だけが、うれしそうに笑った。
 洋一は、よりいっそうの不安を覚えたのだった。

○     4

 足立は去っていった。
 彼女は去り際に、気をつけてね、と洋一に言いたかったが、そんな失礼なこと、院長の前でいえるだろうか?
 団野院長が玄関を閉めた。団野院長は、目の前に立った。
 洋一は、扉と院長にはさまれた格好になる。洋一には、院長のズボンとチャックしか見えない。背の高い人だな、と思った。ぼくが小さすぎるのかな? 
 次の瞬間には、洋一は顔を平手打ちにされ、タイルの上に尻持ちをついていた。なにが起きたのかわからずにいるうちに、鼻血が垂れ落ち、彼の服に赤い染みを、一つ、二つともうけていった。
「夜分遅くに申し訳ありません」と、院長は上目遣いで、足立の口まねをした。「まったくだな。礼儀がなっとらん。失礼じゃないか。そうは思わないか? わたしは寝ていたかもしれない。酒を飲んでいたかもしれない。女と淫行をしていたかもしれないではないか。そうは思わないか?」
 と、訊きながらも、院長の目は洋一を通り越していた。地球の中身でも、覗いているかのような、心ここにあらずな目……
 洋一は、震えて黙りこんだ。両親が死んだのだって、彼にとっては、口も利けないほどショックなことだ。骨が砕けるほど、強烈な平手打ちを食ったのだって、初めてだ。彼は父さんにはぶたれたことはなかったし、母さんにぶたれたのだって、もういつのことだったか、思い出せもしないほど。それに、院長は手首付け根の硬い骨で、洋一のあごを正確に打った。彼のダメージは、脳みそにまでおよんで、いまだにぼうっとしている。その意味では、あの瞬間だけは、院長の足下は確かなものだったといえる。
 院長の目の焦点が、ようやく洋一を探り当てた。洋一は、院長の目玉に、怒りの熱気が揺らめくのを見た。
「お前はあいさつをしらんのか……」
「はい……?」
「はい? イエスなのか? そうなのか……」院長は洋一の襟首をひっつかむと、むりやり立たせ、「悪い子だ。すごく悪いじゃないか。うちじゃな、悪い子には折檻することになってる。折檻しないと、子供はいいことと悪いことを覚えないんだよ! なぜなら、子供には理屈を言っても無駄だからだ!」
 院長は酔っているとは思えない力で、洋一の体をドアに放り投げた。
 硬い樫のドアに、背骨が跳ね返され、内臓が、胸から飛び出るほどの衝撃を受けた。
 洋一が、咳きこみうずくまっていると、院長は間も与えずに髪をつかみあげ、
「悪い子だ悪い子だ、覚えろ、覚えろ、しつけを覚えろ! 俺にあったらあいさつをすると!」
 大声で叫びながら、洋一の頭を。扉に打ち当てはじめた。
 洋一は脳みそを揺さぶられ、考えることもできない。ようやっと考えられたのは、今日繰り返しつぶやいてきた言葉で、これは夢だ、の一言だった。
「みんな、なんでも俺に押しつけやがって、市の補助金なんてくそくらえだ」
 院長は、最後に洋一の体を、ボールみたいに床にたたきつけた。
「くそくらえだ」
 そう言うと、彼は立ち去ったのだが、恐怖と痛みに震える洋一の目には、院長の足下しか見えなかった。

○     5

 骨が折れたんじゃないかと思った。肩甲骨や肋が、ひどく痛かった。こんなふうに痛めつけられたのは初めてだ。友達と喧嘩をしたことはあるが、それは痛めつけられたなんて言わない。院長は大人の圧倒的な力で、彼をおもちゃみたいに扱った。ゴミやボールをほうるみたいに、彼の体をほうり投げた。
 だけど、彼が本当に、冷凍庫に放りこまれたネズミみたいに、震えだしたのは、鞭を持ってもどってくる、院長の姿を目にしたときだ。こんな恐怖は、これまでなかった。
「おしおきだ」院長は言った。「おしおきだ。言うことをきかないやつは御仕置きだ。しつけのなってない子はお仕置きだ! 俺様が悪いお前を、とことんこらしめてやるぞ。腕を出せ!」
 院長の持っている鞭は、乗馬につかう、短いが威力の鋭そうなやつだった。それを、びゅん、とふるわせる。鞭が棚にぶつかり、木枠が裂けた。
 洋一は、扉まで後ずさると、腕を体の後ろにかくし、
「ぼくはなにもしてません!」
 と泣きながら叫んだ。
「いやしている」
 院長は、壁にかかった額縁の絵を、鞭で打った。分厚い紙が、斜め一文字に、きれいに裂けた。
 洋一は、ぼくのほっぺもあんなふうにさけるんだ、と震えた。生まれてはじめて、どんなことでもするから、許してほしいとさえ思った。
 院長は鞭の端を両手で持ち、仁王立ちした。
「お前は甘ったれてる。その証拠にあいさつもろくにできない。俺の睡眠のじゃまをした。酒を飲むのをじゃまをした。うちの院では、そういう小僧は、きつくしつけるんだ。俺はそのためにお前を預かっている。両親にかわって、お前をしゃんとしてやるぞ、とことんだ!」
「あやまります!」
 洋一は言った。院長はハッとしたように、しゃべるのをやめた。天井を見ていた目を、水平の位置までおろした。
 それでも、洋一のことは見ようとしなかった。
「悪いことしたんならあやまるよ。だってぼく、こんなところに連れて来られるなんて知らなかった。ぼく……」
「知らないことが罪なんだあ!」
 とたんに院長が駆け寄ってきて、その右のつま先で、洋一のみぞおちを蹴り上げた。
 洋一は痛みで息がつまる、横隔膜が引きつって、息も吸えない。
「知ったふうな口をきくな! 知ったふうな口をきくな! 子供は大人のいうことを聞けばいいんだ!」院長は叫びながら、なんどもなんども足を踏みおろす、洋一の体めがけて。「そうしないと、まちがうだろう! 誰かが、お前たちを、しつけなければ、世の中は、どうなる? むちゃくちゃに、なってしまう。そう、ならない、ために、しつける、役目が、大人には、あるんだ!」
 院長は酒に酔った荒い息を吐き、洋一を見下ろした。「腕を出せ」
 洋一は、震えながら丸まっている。彼は泣きながら言った。
「おしおきならもう受けた。もういいでしょう!」
「なんだその口の利き方は?」
 洋一が見上げると、院長はあまりのことに呆然としているようだった。そんなふうに反論されるのは、さも心外だと言いたげに見下ろす。
 焦点が二転三転して、洋一の目線と合った。
「誰にそんな口の利き方を習ったんだ?」
「誰でもいいよ! ぼくの父さんはぼくを叩いたりしなかった……」
「いまは、俺がお前の父さんじゃないか」
「お前なんか、ぼくの父さんじゃない……」
 洋一は泣きながら、そっと膝元に顔をうずめていった。そうしたら、体が小さく丸まって、消えてしまえるみたいに。
 院長はうなり声を上げながら、踵を、洋一の後頭部に振り下ろした。院長は飛び上がると、お尻から彼の背中に落ちた。あまりの衝撃に、洋一の体が伸びると、こんどは右足の上で地団駄をふみはじめた。
「こい」と、院長は洋一の腕をひっつかみ、彼の体を引きずりだす。「二度とそんな口の利けない子にしてやるぞ! 俺にそんな口をきいたやつがどんな目にあうか、お前の体に焼き印をおしてやる!」
 洋一は、意識がもうろうとして、逃げなきゃ逃げなきゃと思うのに、頭が扉や壁にぶつかってもどうにもできず、その身に起きたあまりに理不尽な出来事のために、軽い緊張病を起こしていた。彼は痴呆のように口を半開きにし、よだれを垂らしていたのだが、院長が煙草を束にして丸め、それに火をつけだすと、急にしゃんとなった。
「どうするの?」
「吸うと思うのか?」
「ぼ、ぼくにそいつを押しつけたら、きっと黙ってないぞ」
「誰がだ?」
 院長は洋一を見下ろした。真剣な目で。
「誰が黙っていないんだ。お前の親は丸焦げになって、ずっと黙ったままだ」
 それが、さもおもしろいジョークだとでもいうかのように一笑いした。洋一が泣き始めると、拳で彼の頭をこづきはじめた。
「泣くな、こいつ。男だろう、男だろう、男だろう。鍛え直してやるぞ、お前を俺が鍛えなけりゃあ、そうとも、とことん、とことんやらなけりゃあ」
 煙草に火がまわった。十本ばかりが重なり合い、その先端の火口は、赤い火の玉に変わった。
「誰も助けなんてこないんだぞお。それなのに、俺に逆らうってことが、どういうことなのか、こいつで体に刻みこめ!」
 洋一は逃げようとしたが、院長は彼の頭を床に押しつけている。洋一は、痛みとあきらめの気持ちも手伝って、抵抗らしい抵抗もできなかった。
 院長は彼の背中に、服もめくらず、火のついた煙草を押しつける。洋一の耳に、服がとけるジュウッとした音が届き、彼は皮膚が焼ける痛みに、声をかぎりに絶叫した。
 洋一は信じられなかった。こんな痛みも、自分がこんな声をだしたことも。彼がちょっとでも怪我をしたら、心配してくれる母さんがもういなくって、見知らぬ男に煙草の火を押しつけられていることも。
「どうだ! 誓え! ここに神に誓って誓約しろおっ! 二度と俺には逆らわないと! この院で起きたことは絶対に口外してはいけないんだぞお! みながそうしてきたように、お前も誓えええ!」
 誓う! 誓います!
 洋一は自分の喉がそういうのを聞いた。服や皮膚だけでなく、頭の中にも火がついたかのようだった。
「いい子だ」
 院長の体が離れた、洋一は、ぐったりと床にしなだれた。
 しかし、院長は手にした煙草の幾本かに火が消え残っていることに気がついたようで、その火を消すのに、灰皿ではなく、洋一の体をつかうことを思いついたようだ。
 院長は、消え残しの一本を、洋一の右手に押しつけた。新しい痛みに苦悶する洋一の耳で、もう一本。こめかみでもう一本。そして、親指の爪に一本ずつ。
「お前は、しばらく外に出ることを禁ずる。この家の部屋に閉じこもってろ。いいか、体の傷を誰かに見られたら、俺が困るんだ……」
 ぼくの体を傷つけたのは、院長じゃないか……と、洋一は心で、悲鳴混じりの非難を上げた。

○     6

 洋一は、自分が気を失っていたのか、そうでないのか、後になっても思いだすことができなかった。だけど、院長が彼の手を引き、廊下を引きずっていた光景を覚えているということは、完全に気絶していたわけではなかったらしい。ともかく、院長は自宅の物置に連れて行くと、その部屋に彼を押しこめた。それから、忙しくて放尿のことを今の今まで忘れていたみたいに、壁に向かってしょんべんをした。
 足下に飛沫が飛んできた。
 その後、院長は洋一の元にもどってきて、テーブルに紙とペンを用意した。書け。と、彼は言った。
「お前がここで暮らすための誓約書だ。言っておくが、これはれっきとした法律にのっとった書類なんだ。汚すなよ」
 と院長は言った。
「お前は、ここで起きたことを誰かにしゃべってはいけないし、俺に逆らってもいけない。養護院の仲間とはうまくやれ。掃除や雑用も、すべてお前に課せられた義務だ。うちではな、子供には労働の義務があると見なしている。お前は働いて、金を稼がねばならん。お前が食う飯のための金を、お前の親父や母親が稼いだみたいに、今度はお前が稼ぐんだ。ここに名前を書け」
 院長は、洋一に紙に書かれた内容を一通り読ませたあと、誓約書の下にある署名欄に、名前を書かせた。
 そのあと、院長が懐からカッターナイフをとりだしたので、洋一は、あ、と声を上げた。
「心配するな。判を押すだけだ」
 と言いながら、院長は、彼の親指を切り裂いた。
 カッとした、痛みがあった。かと思うと、洋一の親指に、見る見るうちに、血があふれ出してきた。
 院長は、指にたっぷりと血がついたことを確かめると、名前の横に拇印を押した。
「これでいい。これでお前は正式にうちの院生となった。お前は以降十年間をここで暮らすんだ。これからは、俺と養護院の生徒がお前の家族だ」
 院長は誓約書を掲げた。
「逃げ出してはいけないと書いてある」
「誓約書に違反したら、どうなるの?」
 洋一は怖ろしかったが、どうしても訊きたくて、その質問を口にした。それに、これ以上は痛めつけようがないんじゃないかという、期待があった。
 院長は、さも心外なことを聞いたと言いたげに、
「それは法律違反じゃないか……そんなことをしたら、どうなると思う?」
 洋一は、うなだれて答えなかった。
「お前は裁判にかけられて、刑務所に入ることになる」
 院長は、保証すると言いたげにうなずいた。それから、洋一の頬をはりとばした。
「そこはここなんかより、何十倍も怖ろしいところだ。そこに入らないためなら、なんでもするという気分に、お前はなる。養護院を変わりたいなんて、そんなことは思ってもだめだ。そんなことはできない。世話になった俺にたいして、失礼じゃないか。しゃんとした俺様がお前をしゃんとさせてやっているというのに。第一どこも似たようなものだし、どこよりもうちがましだからな」
 院長は立ち上がると、扉に向かっていった。
「お前はここにいるんだ。わたしの許可がないかぎり、一歩も外に出てはいかん。出るかでないかは傷の治り具合をみて俺が決める。もし、規則をやぶったときは……わかっているな?」
 院長は部屋を出ていった。出ていくときは、洋一を見もせずに、こう言い残していった。
「養護院、みろくの里に、ようこそ」

 

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