ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

◆ 第二章 奴隷になったちびのジョン

 

□  その一 モーティアナと青いヘビ

○     1

 ノッティンガムをたった翌々日、三人が到着したのはイングランド南部にある、とある交易都市だった。人の出入りの多い大きな街は都合がいい。洋一は養護院で刑務所に入れられることを恐れていたけれど、すっかりお尋ね者になってしまった。ジョンは一軒の安宿に宿をとった。
 洋一は久方ぶりのベッドに転がりこんだ。ここ何週間となかったゆったりとした時間があった。この数日は生きることに夢中だったから、両親のことはあまり考えずにすんだ。だけど、あの夜以来、はじめてベッドの毛布にくるまった。二人の不在が重くのしかかってきた。洋一は二人が死んだと認めたがる心に向かって、死んでないと言いつづけた。ときには口に出してつぶやいた。ほとんど眠れぬ時間がすぎて、浅い眠りから目を覚ました。窓は開け放たれて、路地裏の湿った空気が流れこんでいた。ジョンは出かけたまま、まだ帰っていない。太助は起きていた。椅子に座り、刀の手入れをしている。彼の刀に対する入れこみようは、ちょっと神経質なほどだ。とはいえ、この世界には刀がないし、どのぐらい居なければならないのかも分からなかった。
 洋一は、万一出られない可能性もあるな、と思って溜息をついた。ベッドの上で、両親が死んで以来のことばかり繰り返し思い出している。体は疲れている。休まなければならないことはわかっていた。この先ゆっくりできる時間があるとは彼にだって思えない。毛布をどけて、ベッドを下りた。彼が起きたのを見ると、太助も手を止め顔を上げた。
 洋一は窓際に行き、ぼんやりと外を眺める。宿は路地裏にあって、あまり陽も射さない。隙間の空がもう青かった。軒下には巣があり、鳥が鳴いている。緩やかな時間だというのに、ここ数日間の記憶がどっと押し寄せてきた。彼は息を詰めて身を震わせる。どれも幼い脳が吸収するには強烈な体験ばかりだ。両親の死、院長の虐待、ノッティンガムでの戦闘……いずれもまとわりついていたのは血と痛みだった。記憶の鼻には、鉄混じりの臭いがする。院長の日本酒の香りも。血まみれの死体や絶叫が、ずっと頭をちらついている。
 太助が、そんな洋一を、無言で見ている。
 遠い世界に来たんだな、と洋一は思った。本の世界は、ごっこ遊びなんかじゃない。戦いには本物の血と死体がある。あんなものが現実だったとは、今でも信じることができなかった。つまるところ、彼は本の世界が恐ろしかった。とてもやっていけないよ、と一人ごちた。本当は誰かに愚痴をこぼしたかったのに、側には太助少年しかいないのだ。
 洋一が故郷を離れたのは、ほんの数日かもしれないが、両親からこんなに長く離れたことはない。洋一はこの世界に来て初めて二人が死んだことを信じる気になった。洋一は身が張り裂けそうで、体をおった。胸に穴が空いたみたいだ。その穴がなにかで埋まると、自然に涙があふれた。穴を埋めたのは悲嘆だった。洋一は瞼も閉じず表情も変えず、ただ涙だけを流している。感情の波に流されたら、きっとこれからやっていけなくなる、二人の仇は討てなくなると分かっていた。洋一は下唇を噛んで、叫びたくなるのをぐっと堪えた。窓枠についた手に、ぽたぽたと涙が落ちた。彼はその手を固く握りしめていた。後ろで太助が立ち上がったのが気配でわかった。
 洋一は窓枠に向いたまま話そうとした。けれど、喉が詰まってなにもいえない。頭を振ると、涙も散った。洋一は涙を流すことで、両親に対する惜別と、決着をつけようとしていた。
「ぼ、ぼくは……」とようやく言った。「ぼくは弱虫だ。二人の仇なんてとれるわけがないって思ってる。父さんと、母さんが死んで……殺されて悔しいけど、ぼくは、怖いんだ」
 もう立てなかった。
 洋一は窓枠によりかかり膝をついた。下を向くと、涙が鼻筋を伝い、鼻水と混じって落ちた。洋一が本当に怖かったのは、なにもできないことだったのだ。ウィンディゴには両親の敵をとると啖呵を切ったが、その実彼は無力な小学生にすぎなかった。彼は自分にはもう価値がないと思った。自分の存在意義は両親にこそあったのに、少なくとも両親にとっては価値のある存在だったのに、その二人がいなくなった今、彼の価値は無になった。現に図書館とはほど遠い本の世界で、寄る辺のない帆船みたいにぽつりと窓辺に立っている。そうして泣いている自分がいよいよ情けなく、洋一は短い声を発して泣きだした。帰る場所はない。目的もわからなくなった。ロビンの世界にきて、ウィンディゴを倒す。それがいかに途方もないことか思い知らされた。かれときたら団野院長すらやっつけられなかったのに。
 そんな洋一のうなじを早朝の穏やかな風がなでている。太助はその風を一身にうけながら、洋一の背後でともだちのことをながめていた。どういっていいものかわからなかった。彼は同年代の少年と接した経験があまりない。太助という少年は生まれたときから侍だったし、これまでどんな物事にもけじめというものをつけて生きてきた。彼はこどもかもしれないが、すでに他人をあわれむような人間ではなかったのだ。
 太助は洋一を、かわいそう、とは思わなかった。ただ深くその悲しみを共感していた。悲しみが情を厚くするのなら、彼はその感情が人並み以上に分厚い少年だった。侍として育った彼は、涙をたしなみとはしなかったが、洋一の親の死もその悲しみも、まるで自分のことのように感じている。なによりも、この少年は死というものと、いやというほど直面してきた。太助は洋一に近づいて、そのうなじをそっとなでた。うなじは熱く、冷たく、震えていた。
「こわがるのは恥ずかしいことじゃない。もう泣くな」
「でも……」
「こわいのはしかたがないじゃないか。誰でもそうだよ。大切なのは逃げださずに、立ち向かうことだ。ぼくを育ててくれた人たちはそうして生きてた」
 洋一は腹をたてて言った。「ぼくは侍じゃない! 普通の小学生だ!  ぼくは太助とはちがうんだ!」
「違わない。なにがちがうんだ」
「ちがうじゃないか!」
 洋一はきっとふりむいた。その視線に、太助も深く傷ついた。結局洋一の傷口はあまりにも深すぎたのだった。
「ちがうじゃないか! ぼくは刀も使えない、なにもできない、今だってジョンのお荷物だ! ぼくは……ぼくは……こんなことなら」
「こんなことなら?」と太助もきっとなった。洋一の泣き言に、自分でも意外なぐらい腹が立った。「養護院にいた方がいいというのか?」
「足手まといになるぐらいなら……」
「足手まといなんかじゃない、そんなふうに思うな」
 太助は洋一の肩をぐっと掴む。その力強さに、今度は洋一がぐらつく番だ。
「ぼくだってお荷物だった。ぼくを守るために侍たちが何人も死んだ。ぼくはそれがいやだったんだ。生きてるのがぼくじゃなかったら、大人の剣客だったら、父上はもっと楽だったろう。ぼくがいなければ、みんな死なずにすんだんだ!」
 話しているうちに、この腹立ちが実は自分に向けられたものだと気がついた。太助は気落ちして、視線をそらした。
「彼らはぼくの師匠だった。ぼくに人生を教えてくれた。その人たちがぼくなんかのために死んだんだ。自分がほとほといやだった。ぼくだって侍だ……なのに、人の助けで細々生きてる。そんなのみじめじゃないか?」と問いかける。
 洋一は驚いた。考えてみると、太助は物心ついたころからお尋ね者だったのだ。太助が自分や自分の友人たちとはいっぷう変わっているのは、無理からぬことだった。洋一は今まできちんと考えてこなかった。目の前にいるのは本物の侍だったのだ。
「ぼくは父上にも言った。ぼくを側に置かなければいいじゃないかって訊いた」と涙がにじむ。「もう見捨ててほしかった。弱音なんて吐いたらだめだってことは知ってる。でも、侍らしく振舞いたくても、できなかった」
 太助は洋一のことをもう見ていられない。真下を向いて震えている。彼はこんな話のできる同世代の友人をこれまで持たなかった。元の世界にいたとき、太助はずっと侍として振る舞ってきた。思えば、こうして大人の庇護を離れたのさえ、初めてのことだったのである。
「彼らはぼくを侍として育ててくれた。でも、父上を残してみんな死んだんだ」
「それは君のせいなんかじゃ……」
 太助は睨むような顔を上げた。けれど、上げた目は弱々しかった。太助の瞳は揺れたが、ぐっと堪えてもいる。
 洋一は泣けよ、と思った。悲しい気持ちでこう考えた。思い切り泣けばいいじゃないか、泣いちまえ!
 けれど、太助は泣かなかった。ただ、そっと顔をそむけたのだった。
「父上はぼくを叱らなかった。できないことばかり考えずに、できることをしっかりやれ、って言った。みんなできることをしっかりやって死んだから、誰も恨んでないって言うんだ」と唇を噛んだ。「でもぼくは悔やんでる――あの人たちに生きていて欲しかったから。だからはやく大人に、一人前になりたい」
 父親はあのときこう言ったのだ。誰だってなんでもできるわけではない。だから、侍は助け合うのだと。だから彼は助け合わねばだめだと思っている。洋一のことを助けなければと思っている。侍たちがそうしてくれたように。
 洋一も目をそらした。悲しみに揺れる友人を、彼は見ていることができなかったのだ。「でも、ぼくにできることなんて……」
「君には伝説の書があるじゃないか」
「伝説の書なんて持っててもしょうがないよ。ぼくは本の使い方なんて知らない。あんな本使いこなせるわけがないよ! 男爵だってそう言ってたじゃないか」
「聞いてないのか?」
「なにをだよ」
 太助は答えるのを迷うように目を伏せた。「おじさんが、父上に言ったんだ。君には文才がある。だから男爵は、君なら伝説の書が使えるかもしれないと思ったんだ」
「そんな――」と洋一は喉で声を詰まらせた。「父さんが? 父さんがそう言ったの?」
 洋一は急いで涙を拭った。そうすれば太助の言葉がよく聞こえるとでもいうみたいに。太助は下を向いて言葉を選んでいた。
「ウィンディゴには大人の剣客もみんなやられた。生き残った侍は父上とぼくだけなんだ。だから、男爵は、君と伝説の書にかけた。君なら伝説の書が使えるからだ」
「そんな、ぼくは、そんなこと……」
「できるよ。おじさんは、君がすごい小説を仕上げたって喜んでた。そうなんだろ?」
 そんな。洋一は自分でも気づかないほど呆然として呻いた。恭一がそんなふうに自分のことを人に話していたなんて、今まで知らなかった。一年も前のことだ。洋一は「ナーシェルと不思議な仲間たち」という一風変わった冒険小説を書きあげた。そういえば恭一に書き方をいろいろと教わりながら書いたのだ。父親は小説家でもなんでもないが、それでも洋一は教えを守って一生懸命書いた。それに小説を書くことはすごく面白かった。恭一が喜んだことはまちがいないし、自分を認めてくれていたことに洋一は深い喜びを感じた。その驚きは哀惜の念に変わった。後悔にも。人の口を通して聞くのではなく、面と向かってそのことを話して欲しかった。喜ぶ顔が見たかったのだ。
「ぼくは伝説の書のことじたい知らなかったんだ……」
 洋一がつぶやくと、太助もうなずいた。
「本を使いこなせるのは強い文を書ける人間だけらしいんだ。つまり文才のある人間、物書きの人たちだよ。ウィンディゴはそうした人間を怖がってる。あいつは侍よりも、小説家を恐れてた。彼らが伝説の書を手にすることを怖がったんだ。だから、真っ先に殺してしまった」
 その話に洋一は震え上がった。侍たちが殺されるのはまだ想像がつく。だって彼らは戦う人たちだ。でも、作家はちがうじゃないか
「おじさんはいずれは君もウィンディゴに狙われるとわかっていた。だから、君に文章修行をさせたんだよ」
「父さんが?」
 洋一は信じられないとつぶやいた。あのお遊びにそんな意味があったなんて。そんなふうに思っていたなんて。洋一はともだちと比べて多少文章がうまいだけで、自分が特別だとはぜんぜん思っていなかった。
「だから、男爵は君に伝説の書を持たせたんだよ。男爵は本の世界の住人だから、伝説の書がそもそも使えない。父上は剣の達人だけど文が書けない。つまりロビンの世界の誰も伝説の書は使えないんだ」
 と太助は言った。本の世界で作家を見つけてもその人には伝説の書が使えないのだ。ミュンヒハウゼンに至っては自分の創造の力すら無くしてしまっている。
「この世界にあるかぎり、伝説の書はある意味で安全だってことだよ。だって、使いこなせる人間は君だけだから。でも、父上と男爵が死んだら、ぼくらだけでやつらと戦わなきゃいけなくなる。わかるだろ? その本をつかう必要があるって事」
「そんなの無理だよ! 文が書けるからって、伝説の書が使えることになんかならないじゃないか!」
 洋一は懐から本をとりだした。赤い表紙をじっとみつめた。二人はともに伝説の書を取り合った。
「この本は大事なんだな」と洋一は言った。
「ウィンディゴもこれを狙ってる」太助はうなずいた。
「じゃあ、モーティアナも?」
「きっと、ぼくらをさがしてる」
 洋一は恐ろしくなった。本から目を反らした。
「ジョンにも話した方がいいんじゃないかな。三人で本を守った方が――」
「だめだ。ジョンには教えられない。信用できるが、精神がまだ不安定じゃないか。伝説の書は誰にも渡してはいけないし、本のことを教えてもいけない。ぼくらで本を守るんだ」
 洋一は責任の重さを感じて身震いした。「できるかな」
「わからない。だけど、ウィンディゴに対抗できるのは、この本しかないよ」
「ウィンディゴがこの世界に来ていたら」
「あいつは本の世界に入る方法を知らない」と太助。「問題は伝説の書のことがよくわかっていないことだよ。誰が作ったのか、いつ作られたものなのかも誰も知らないんだ。それに、男爵はその本が危険だといっていた」
 洋一は怖じ気づいたが、本から手を離せない。伝説の書は使われたがっているんじゃないかと思えた。それに本を使いたい、なにかを書きこんでみたいという衝動に彼は駆られている。頭の中で文章が飛び跳ねた。あの物語を書いて以来のことだった。
 洋一は自分の変わりようが恐ろしかった。本はあいかわらずの熱気を帯びて、彼の指先に食い付いてくる。男爵のいうとおり、本に意志があるのなら、きっと狂気を帯びていると思った。胸に起こった熱狂が本のせいなのか単なる創作の衝動なのかわからなかったが、放っておいたら自分も狂わされるにちがいないと思えた。
 洋一はどうにかして本から指を離す。それが太助の手に渡ったときは、心底ほっと胸をなで下ろした。
「元の世界で作家を探して渡した方がいいよ」
「だめだ。そいつが悪人で、伝説の書を奪われたらどうする? それに本を使いこなせる作家でなきゃだめだ。物書きの達人でなくちゃ、ウィンディゴとは戦えない」
「文豪を捜せっていうの?」
「ぼくらに味方してくれる文豪だ」
「そんなやついっこないよ」
「だから、君なんだよ」太助が言った。洋一は思わず息をのんだ。「現実世界の文豪だって、ウィンディゴ退治に協力してくれるわけじゃない。でも、君なら条件が合ってる。本の世界を守ってきた一族の一人じゃないか。だから、男爵は、君に修行を積ませて、伝説の書を使わせるつもりだったんだ」
 洋一は途方に暮れてうろついた。顔を上げたときにはやっぱり途方にくれていた。自分が弱虫だとは思わない。でも、勇敢だったことだってない、普通の小学生だ。
「まさか、こんなことになるなんて……」
「やっぱりぼくらはパレスチナまで旅なんてできないよ。父上と男爵は、きっとぼくらのことをさがしてる。イングランドから出るべきじゃない。だって、フランスはロビンの世界には元々存在してないだろ? あそこにはなにもないんだ」
 洋一はちょっと迷ってから答えた。「空白地帯ってこと?」
「そうだよ。なにもないんなら、なんとでもできるっていうことじゃないのか?」
 洋一はなにかを避けるように目線をさまよわせた。
「ウィンディゴのことをいってるの? あいつがなにかしてくるって……?」
「あいつがなにもしないと思うか?」と太助は答えた。「あいつは創造の力を持ってるんだぞ。その力をどこから得ていると思う? 本の世界から吸い上げてるんだ。だから、ぼくらはやつと本のつながりを断ち切らなきゃならない」
「でも、ロビンを見つけなきゃ、物語を元に戻すなんて無理だよ」
 太助は窓枠に手をついて地上を見おろした。路地裏では朝っぱらからこどもたちが走り回っている。
「ずっと考えてたんだ。ロビンを助ける方法を。伝説の書に、こう書くのはどうかな? ロビンがイングランドの港町にもどってきてるって」
 洋一は本を抱えこんだ。まるで、恐ろしい魔物を見るみたいに太助を見た。「本気でそんなこと考えてるのか? この本に力があるって」
「なけりゃおじさんだって、その本を守りはしない」
 太助は目線をそらさずに言った。洋一はつい引きこまれた。
「でも、ロビンは最初から死んでることになってたじゃないか。それがほんとだったら?」
「そこが問題なんだよ。男爵はその本が危険だといってたろ? つまり、伝説の書がつじつまあわせをしてしまうって言うんだ」
「つじつまあわせ?」
 洋一は伝説の書に目を落とした。太助の話はこういうことだ。ロビンがイングランドを目指そうとしても、現実にはいくつも障害がある。本はその間をどう埋めるかわからない。下手をすると、街にたどりつくのは、ロビンの死体ということになりかねない。
「だって、そうだろ? この世界は作者の頭の中にあるんじゃない。ちゃんとした現実の世界でもあるんだ。その世界を本の力で作り替えるということは、すでにある世界に矛盾を起こすってことだ。下手なことは書けないんだよ。逆にいえば無理の起きないような自然な物語を考えろってことだ」
「そういうの、父さんに聞いたことがある」
 洋一は興奮して言った。矛盾があるとストーリーは破綻する。そんなストーリーは自分でも書いて面白くないからすぐわかる。広げた話もまとまらないときている。もちろん洋一はこどもだから、恭一もこのとおりいった訳じゃない。話はもう少し簡単だった。けれど、彼は実際に書いて失敗もして、ストーリーをうまく書く骨はつかんでいた。彼はその一瞬いけるんじゃないだろうかと考えた。
「ジョンに話を聞いておいた。ロビンはシニックという港町から大陸に渡ったらしい。そこが十字軍の一大拠点だったっていうんだ」
「そこにもどってきたって書けっていうの?」
 太助は力強く頷いた。「やるしかない。ロビンが生きていないのなら、パレスチナに行く意味なんてない。だいいち、パレスチナにロビンがいることじたい、君の思いつきだろう」と言った。「死体を探すために、パレスチナに行くなんてできないぞ。こうしている間も、ウィンディゴは暴れ回ってる。ひょっとしたら、本の世界に入る方法を見つけてくるかもしれない」
 洋一は首を左右に振って否定した。「君はわかってないよ。ぼくは遊びで書いてただけだし、ぼくの父さんは図書館職員だよ。作家ですらないんだ」
 太助は目鋭く光らせて言い切った。「もうやるしかないんだ」
 洋一は迷った。が、心は八割方決まっていた。だって、彼はこの世界を頭から否定している。この本から出られるなら、なんでもしたろう。
「ぼく、こんな世界にいたくない。ロビンが生きてたら、きっとぼくらを助けてくれるよ」
 太助は頭をかきあげて唸った。
「なんだよ!」
「ロビンはたしかに物語の主人公だけど、ジョンだって泣き虫になってたろ? そんなにうまく運ぶかな?」
「そんなことない。ロビンなら大丈夫だ。そんで、男爵とおじさんを見つけてもらう。そしたらこんな本の世界はおん出ておしまいさ」
「洋一」
 太助はあきれたようにいう。
「ぼくは正直、外よりもこの世界の方が安全だと思うぞ」
 洋一はそっぽを向いた。太助が言いたいのは、この世界にはウィンディゴが入って来られないからということだろう。洋一はそんな話聞きたくない、ウィンディゴは、入って来れなくてもちょっかいは出してきてるじゃないか、モーティアナがいい例だ、と腹を立てた。
 洋一は伝説の書を振り立てた。太助に否定されて向きになってもいた。
「書こうよ。こいつは父さんが守ってきた本だ。ぼくらの本だ。ぼくら側の不利になんて働くもんか」
 と洋一は言った。そう信じた。まだそのときは。

○     2

 二人は話し合った。ロビンを救うのはかれとともに戦った十字軍の騎士たち、ということにした。大陸にあるイングランド領土に流れ着いたということにすれば、生存の確率はグッと高くなる。太助がジョンに聞いた知識はずいぶん役に立った。
 洋一は床に本を広げた。あぐらをかいて、万年筆のキャップをとった。ナーシェルの物語を書いたのはずっと前のような気がする。彼は自分が生みだした黒髪小麦色の肌の少年を思い描いた。背筋を伸ばし、肩をくつろげ、息が深くなるようつとめた。恭一が小説を書いていたのかは定かではない。が、彼の父親は文を書く上で必要なことを、かなり細かなことまで話していた。洋一は父親に教わったことを思い出していく。姿勢を整え、呼吸をさらに深くする。骨盤が次第に立ってくる。胸とおなかがゆったりとふくらんでいる。
 彼は海峡に立つロビンの姿を思い描いた。父親の言葉を思いだす。それは少年には難しい言葉だったのだが、彼の体には深く刻みこまれていた。
 情緒的に、淡々と描くんだ。
 太助が固唾をのんで見守る中、洋一はついにペンを走らせる。万年筆のペン先からインクがこぼれて、紙に染みていった。彼は文章を考えていなかった。言葉は体の奥からあふれだしてきた。洋一は伝説の書に殴り書いた。
『ロビンフッドは死んではいなかった。彼は仲間とともにパレスチナを脱出し、フランスの海岸部に到着していたのだ。そこから海峡をこせば、懐かしいイングランドだ。ちびのジョンや、森の仲間たちが彼の帰りを待っているだろう。ロビンは、仲間とともに、海峡をわたるチャンスをまった。その旅の間も、フランスに着いてからも、彼を守ってきたのはロビンに付き従った十字軍の騎士たちだった。そして、ロビンの長い盟友となったヨーマンたちが側にいた。』
 太助は目をみはって、文を追った。洋一の書く文章は後から後から消えていく。本が文章を飲みこむみたいに消えていった。洋一はまるでそのことにも気づいてないみたいだ。
 これはすごい、こいつほんとに伝説の書をつかっているぞ!
 太助は洋一に声をかけたかった。背中を思い切り叩いて褒めそやしてやりたかった。そこをぐっと我慢する。今は創作の邪魔をしたくない。
 太助が扉の外に不穏な気配を感じてふりむいたのはそのときだった。彼はすっと身を立て、廊下に目を向ける。扉は閉まっているが、何者かが近づくのを感じた。痩せた床板を踏む、かすかな軋みを耳にした。太助は幼少のころから危険と抱き合うような生活をしてきた。その直観力には並外れたものがある。自分の感覚を信じ切っている。廊下を歩く人影すら目に見えるようだった。
 太助は友人を見おろした。洋一はまだ書いている、まだ途中だ。けれど外にいる誰かはどんどん近づいてくる。太助は相手の用があるのはぼくらだと思った。全身の細胞が危険を告げて酸素を欲しがる、生き残るために。
 その誰かが部屋をまっすぐにめざし、扉の前に立つにつけ、彼はもう限界だと思った。
『彼らはイングランド王妃アリエノールの持つフランス領土にたどりついた。そこはもうイングランドの勢力下だ。ロビンは常駐していたイングランド海軍の手を借りて、どうにか……』
「洋一、本を隠せ、ペンを止めろ」
 と太助は小さな声で鋭く言った。同時に壁に立てかけた刀に向かって足を滑らせていた。
「なんだ、なんだよ。まだ途中じゃないか」
「声をたてるな。静かにするんだ」
 太助は床板を鳴らさないよう慎重に足を滑らせ、腰を落としながら刀をとった。空中で身を入れ替えるようにして扉に向いた。その誰かは部屋の前で止まっている。
 洋一が本を閉じ、万年筆をポケットにしまう。
 扉を叩く、ほとほと、という音が聞こえた。二人は鍵のかかった扉を無言で凝視した。
 太助は扉から目を離さずに囁いた。
「合い言葉を言わない。ジョンじゃないぞ」
 太助は鮫皮の柄に指をかけ、そろそろと刀を抜いた。扉が、また、ほとほと、鳴った。か細い、中に来訪の意思を伝える気がないような強さで叩いている。二人は顔を見交わし、それぞれの頭に浮かんだ疑問をぶつけあった。
 外にいるのは宿の主人か、それとも兵隊か?
 太助がスルスルと戸口に向かうと、洋一はあっと声を上げそうになる。太助は左手に刀を持ち、ドアノブに指をかける。扉に鍵はない。体が震え、無意識のうちに息を呑む。太助は扉に口を近づけ、
「ウィンディゴか……?」
「尊師の名を口にしやるでない……」
 嗄れた声が窘めるように言った。太助は不意打ちを食わぬよう左に逃れた。もうその言葉だけで十分だ。モーティアナだ。イングランドの魔女が外にいる。
「そんな」と洋一が言った。「なんでここがばれたんだ」
「入れておくれよ、憐れな老婆だよ」
 太助が刀を抜こうとすると、扉が熱を放ちはじめた。太助はそのあまりの熱気に危険を感じて、部屋の中央に移動する。扉がジューっジューっと音をたて、真ん中から煙が上がる。モーティアナが扉に手を当てているのだ。彼女の手は熱くなり、手の形をしたハンダゴテのように扉を黒ずませていく。真ん中から煙が上がると、炭の円はどんどん広がり、中心からぼろぼろと崩れていった。
 洋一が太助の背後に来て、「本物なのかな」と訊いた。
「どういう意味だ?」
「ロビンの物語には魔女なんていないじゃないか。映画でだって、魔法は使わなかったぞ」
 太助が洋一と顔を見合わせたとき、ついに扉は大きく崩れた。穴の向こうに花柄のスカーフをまいた老婆がいる。炭になった扉をつかみ、さらに穴を突き崩した。花売りの格好をしているが、その目は黄色く瞳孔は細く尖っている――
 人間の目じゃないぞ、と太助はつぶやく。モーティアナが口を開ける。血糊のついたどでかい牙が見えた。一同は扉を挟んで睨み合った。くそ、男爵がいてくれたら。
「お前が、モーティアナか」
「異国の小僧かい」
「なんで、ぼくを知ってる?」
「ちびのジョンはどうしたえ」
 太助は思わずふりむいて洋一を見た。驚いた、こいつなんでも知っているらしい。
「せっかく骨抜きにしてやったのに馬鹿な男だよ! ロビン・フッド、イングランドの魂! やつは死んだあ!」
「だまれ!」と刀を下段に引きつける。
「お前のことは知ってる!」と洋一も言った。「イングランドの魔女だろ!」
「小僧二人であたしの相手をするのかい?」モーティアナは、ケケケッと大笑した。「分際をわきまえろ!」
 魔女の髪がざわざわと逆立った。頭部に巻いたスカーフに火が放たれ、鳥のように部屋を羽ばたく。二人の周囲に、ぽとりぽとりと火が落ちた。少年たちは炎の円で囲まれる。スカーフはどんどん小さくなり最後の身が落ちると、炎は列車が走るようにつながりあって、魔法陣をかたちづくった。
 洋一は炎をさけて足踏みをしている。「あいつは本物だ。本物の魔女だ!」
「落ちつけ、洋一」
 と言う太助の身内でも恐怖が暴れていた。心臓が脈打って、それを押さえるために胸を叩いた。斬れるのか? と彼は久方ぶりに刀を疑う。太助という少年は大人に混じって堂々人も斬ってきた。だが、魔女だけは斬ったことがない。会うのもはじめてだ。大人たちは周りにいない。けれど、彼の背中には洋一少年がいる――逃げるな、奥村、あいつを斬るぞ! と太助は目を怒らせる。これまで侍たちが彼を守ってきたように、彼自身が誰かを守る番だった。怖がるな、と太助は胸の内で自らの怖心をどやしつける。もうやるしかないんだ、あいつをぶった切れ!! そう思いこむと、フツフツたる闘志が胸のうちに湧いてきた。太助はじわりと足を進めて言った。
「お前なんか怖くないぞ! 何十人でも、何百人でもかまうもんか! さあ、かかってこい!」
「ナイトかい? ナイトなのかい?」
 モーティアナの声が、ガラリと変わる。喉がつぶれてダミ声となる。両手で扉をつかむと、扉は枠ごと炎を吹き上げ崩れ落ちた。炎は灼熱しているのにモーティアナは意に介してもいない。炎を背負い少年らを睨む。老婆の姿はまったくの悪女だった。
 モーティアナが両腕を上げる。「ナイトは嫌いだよ、殺してやる!」
「だめだ、あいつは本物だ。逃げよう!」
 洋一は、円を出ようとしたが、見えない壁にはじき返された。
 やっぱりだめなんだ、と太助は思った。
「ウィンディゴも本物の魔法をつかった。あいつが本物なら、逃げるなんて不可能だ」と太助は刀を鞘におさめる。「洋一、ぼくの後ろに隠れろ……」
「どうするんだ?」
 太助は答えなかった。答えることができなかった。そのぐらい集中していた。彼は少し足を開いて立ち、刀の鍔を親指で押し、そっ、と鯉口を切った。
 ガイ・ギズボーンと斬り合ってわかったことがある。この世界の人間は、居合術を知らないのだ。侍が高め極めた刀術をイングランドの人たちは使わない。ウィンディゴがモーティアナに教えたとも思えない。そして、侍の中には抜刀流の達人たちがいて、彼は幼少のころから雑多な流派を叩きこまれてきた。その侍たちは、彼よりも早く命を落とした。そのことが深く彼の心を傷つけていた。あいつはウィンディゴの仲間だ! 今こそ敵を討つときだった。
 太助はこの一撃にかけることにした。唇を舐め皮膚を湿らせる。円陣の外に出られないなら、モーティアナが近づくのを待つまでだ。だが、遠くから魔法をかけられては、ひとたまりもない……
 思えばこれまでの幾度とない戦いも、大人たちが側にいてくれた。たった一人で敵と相対するのは、その長い戦いの経歴のなかでも(人生の短さを割り引いてもだ)初めてのことだった。彼は目線を下げてモーティアナを視界から遠ざけた。茫漠と視野を広げ、そうして落ち着こうとする。父親たちの教えを思いだす。
 居着くな、居着いたらだめだ、と念仏のように唱える。居着くな、とは、留まるな、ということだ。
「父上……」
 とつぶやいたのを最後に太助はほとんど目を閉じた。踵をべったりと地につけた。両手は鞘にひっかかっていた。左右に背骨を揺らし、腰骨を上げ、自在を得ようとした。

○     3

 後ろで、窓の雨戸がバッタリと閉まった。視覚を奪われ鼻先も見えなくなる。まるでこの世から光が消えたみたいだ。その闇の中でモーティアナの炎が黒や青に色を変えながら、ジワジワと漆喰に広がっていく。あれは魔法の炎だ。生き物のようにゆったりとした動きで炎の手を伸ばしている。額に汗がにじみ、目に入るのを嫌って眉をしかめる。
 あいつぼくらを円から出られなくして焼き殺すつもりか。
 緊張で視界が狭まる。炎の揺らめきの向こうで、モーティアナが小さく見えた。太助は、だめだしっかりしろ、と自らに言い聞かせる。目測を誤らないよう気を落ち着けようとした。
 モーティアナは扉を砕きながら、部屋に入ってきた。
「伝説の書はどこだあ!」
「ぼくらが持ってる!」太助は恐怖を払いのけるように大声をだした。「本を取りに来たのか!? 欲しければ取りにこい!」
「殊勝だねえ。こどもは好きだよ。本当だよ」モーティアナが近づいてくる。「だって、おいしいから……」
 モーティアナの口が火を噴いた。炎は魔方陣の障壁に当たって左右に割れた。が、猛烈な熱さで太助の全身からどっと水分が抜け出てくる。その熱だけで火膨れが出来そうだ。太助はモーティアナの炎にあぶられながら、下がろうとする心をぐっと堪えた。下がるな、踏みとどまれ! 胸中が恐怖に負けて悲鳴を上げる。本当に悲鳴を上げたのは洋一だった。それがモーティアナの残酷な心に火をつけた。
「骨までしゃぶってやる。頭から飲みこんでやるよ。骨を砕いて、生きたまま溶かしてやる。皮膚が溶けるのはいいよお。血がトロトロと出て、それがあたしの胃を満たすんだ。まずはお前からだ、異国の小僧!」
 太助はモーティアナの首を刈り取るために、さらに腰を屈める。炎が邪魔で魔女が見えない。モーティアナが近づくのを熱にも負けずにぐっと堪えた。もっとだ、もっと近づけ、と自分に言い聞かせる。真剣の斬り合いでは、相手を遠くに感じるからだ。
 太助は自分の恐怖を知っていたから、刀を振りたがる心をぐっと堪えた。太助の大刀は備前長船の古刀、貧乏御家人のひ孫たる彼は本来なら目にすることも叶わなかったはずの大名刀である。今は亡き吉村勘三郎という人物から譲り受けた。研ぎ減りがして刃区もわからないほどだが、反りの深い刀身が彼を励ますように腰間に揺れている。太助は吉村の死に報いるために、あいつを斬ろうと胸を奮わせる。炎が彼をあぶり、生臭い体臭が匂った。モーティアナがさらに近づいている。
 あと少し、もう少しだ。
「本をお寄越し!」
 炎が割れてモーティアナが現れた。魔女が巨大な口を開いた瞬間、奥村太助は足を踏みだし、老婆の足にほとんど脛をぶつけながら、抜刀術を解きはなった。モーティアナが、あ! と呻いて、小動物のように跳び下がったときには、太助は刀を抜き放っていた。それがモーティアナのこの世で見た最後の光となった。太助の腕と刀はまるで鞭のような軌道を描いた。彼はモーティアナを十分に引きつけてはいたが、モーティアナの動きは思ったより素早く、刃は喉に掛からなかった。それでも、老婆の醜い両眼を真一文字に切り裂いた。鮮血が炎に焼かれ、舞い上がる。
 太助は留めを刺そうと動揺した。さらに前に進み出て、円陣の壁に跳ね返された。
「くそ、殺せなかった! 円を出られない!」
 太助は見えない壁を拳で叩いた。洋一が、円陣の炎を伝説の書をつかって夢中で叩きだす。
 モーティアナは宙を駆けるようにして、壁際に下がる。真一文字に裂かれた傷からは、涙のような血が垂れる。炎が左右に津波のように流れ、壁を燃やし尽くしていく。
 モーティアナが絶叫すると、自らの顔面を飲みこむほどに開いた口から炎が吹き上がり、宿の天板を轟々と燃え上がらせる。
「こ、小僧、よくもやったね」
 モーティアナは呪いの声を上げた。
「許さない、呪ってやるよ。苦しめてやる。血の一滴までも許すもんか!」
 モーティアナの骨格がボコリボコリと音を立てて変わりはじめた。腕が丸太のように太くなりのたうちだした。太助と洋一は円陣の火を必死に足で踏み消そうとする。魔法の火はミミズのようにしぶとくのたうつ。そして、視力を無くしたモーティアナが無差別に攻撃をはじめた。その腕は壁をうち、安宿の漆喰が音をたてて崩れた。腕はさらに蛇のように鱗を生やして伸びた。
 どこだ、小僧!
 太助と洋一は、眩しい光に顔を顰めた。モーティアナの腕が外壁を突き崩したのだ。表から風が吹きこみ、焼けた肌の上をさらさらと流れる。戦いに夢中で気づかなかったが、外から罵声が轟いていた。突然の火事に人が集まっているのだ。
「薫るよ」とモーティアナが言った。「人間の小僧の匂いだ。甘ったるいよ。薫るよ」あらぬ方を向いていたモーティアナの顔が太助を向いた。「そこにいたね」
 太助は夢中で刀を抜いた。モーティアナの腕が胸元めがけて伸びてきた。太助は青眼に構えた刀を右に左に傾けて、老婆の腕を叩き落とす。だが、モーティアナの腕は鉄のように固い、斬り裂くことができなかった。そのうえ攻撃を受けるたびに太く重たくなっていく。腕が波打ち、床を叩き、板がみしみしと砕かれる。円陣が歪み、見えない壁がなくなった。
 太助は魔法陣の外に踏みだした。腕が斬れない以上は、モーティアナの体を切り裂くまでだ。モーティアナの腕が体を打ち、彼は大刀を取り落とした。太助は第二撃を右手に交わし、抜刀の要領で清麿の脇差しを抜きざま老婆の大腕に斬りつける。彼の刃はジャラジャラと腕の上を流れる。くそ、鱗だ。この鱗が鉄のように固いんだ。彼は老婆の大腕にはさまれて、肋がミシミシと音を立てた。気がつくと、夢中で叫んでいた。
「洋一、伝説の書をつかってくれ!」
「どうやったら……」
 太助に答える術はなかった。二本の巨大な腕に押し戻され、その地位を失う寸前だった。腰を落とし、足を踏み換えると、思い切って体重を前方にかけた、粘りをかけて進んだ。モーティアナは轟然たる火炎を放っているが、太助が前に出たことで、巨大になった腕が皮肉にも炎から守ることになった。
「小僧!」モーティアナは火炎とともに叫ぶ。「燃えろ、小僧、灰になれ!」
 太助はじりじりと前に進み、ようやく身動きのとれる立地を見つけた。モーティアナの腕は獲物を探して狂いのたくっている。殺せる、洋一、こいつを殺せるぞ! 一歩踏みこめば、胴体に刀が届く距離だった。だが、太助はふりむくことで、そのチャンスを自ら潰したのだった。彼は最後にできた友人の姿を確認しようとした。洋一が心配だった。モーティアナの腕がかほどに荒れ狂っては、叩き潰されてもおかしくないと思ったからだ。
 ――命の遣り取りでは、どんな些細なことにも気をとられてはいけない
 居着くな。というのが父の教えだった。その瞬間、太助は洋一に気を止めて、紛うことなく居着いていた。モーティアナはその好機を逃さず、腕を元に戻すと少年の痩せた両肩を掴み上げたのだった。
「捕まえたよ……」

○     4

「ちくしょう! ちくしょう!」
 洋一は太助の姿を確認しながら、伝説の書を急いで開いた。太助の体は大蛇の胴に飲まれて服先も見えない。ペンが、ぶるぶると震える。キャップをとるのがやっとだった。周囲ではモーティアナの腕が荒れ狂っている。皮肉にも、円陣に残された効力が、少年を圧搾死から守っている。洋一は顎をつかみ、髪をかき上げた。なにかを書きこもうとしながら、真っ黒なパニックに飲みこまれていた。文を生み出せない。それどころかペン先すら定まらず、紙に醜いアフロを描いた。
 小説を書いていると、猛烈に書ける瞬間がある。彼はそれをスイッチと呼んでいた。けれど、心と体が震えてそのスイッチが押せないのだ。スイッチを押すのには平常心が必要なのに、状況が彼の期待を裏切っている。
「無理だよ! 文章なんて思いつかない!」
 洋一はぶるぶる震えて、息まで詰めていた。書くんだちくしょう、太助が死んじまうぞ! 洋一は父親を思いだした。その瞬間落ち着かないまでも、どうにかこうにかスイッチを押した。息を強く吸いこんで、それとともに文をうみ出そうとする。ジョン! 泣き虫ジョン! ぼくらを助けて!
 彼はジョンの姿を、彼が街を駆ける姿を生み出そうとした。彼はそれを文に変えていく。自分の見たものを、感じたものを言葉にかえたのだ。スイッチだ、スイッチオンだ!
 洋一は自分の生みだす小汚い文字に夢中になった。その瞬間は炎からもモーティアナの恐怖からも解放されていた。劇作の衝動に突き動かされていたのだ。本は文字を吸いこんでいく。
『ちびのジョンは、宿のすぐ近くまで舞いもどっていた。いやな予感に足を急かされてのことだった。二人のこども、新たに契りを結んだ幼い義兄弟たちの、命が危ないと感じ取ってのことだった。ジョンは狭い裏通りを駆けに駆けた。自分でも驚くような全速力で、人の波も屋台も踊り越し、今や炎に燃え落ちんとする宿に迫った』
「本を寄越せ!」
 耳元で響く怒声に洋一は顔を上げた。目前にあったのは、モーティアナの手ではない。彼女の手先は、蛇の頭となり、その頭が彼に訴えている。本を寄越せ! 蛇の声はジュージューと鼓膜を焦がすかのようだ。洋一は本を胸にかいこんだ。蛇の牙から涎が落ち、涎と思ったものは実は毒で、床に弾けると塩酸のように木材を溶かした。硫黄にも似た奇妙な臭いが彼の鼻に届いてくる。
「太助……」と彼は呻いた。「助けてくれ」
 だが、本当に助けが必要だったのは友人の方だ。太助の体はモーティアナの野太い腕に飲まれて見えなくなっていたからだ。蛇が洋一を一飲みせんと大口を開けた。洋一は頭を垂れ、きつく目を閉じた。蛇の生暖かい胴体に飲まれるのを覚悟してのことだった。そして、目を開けたとき、目の前に、大蛇の姿はなかった。かわりに太助が――異国の風変わりな侍の少年が、モーティアナに捕まっているのが見えた。彼女の手はもとにもどっていたが、顔は蛇の大頭と化している。その頭が、太助を飲みこもうとしていた。
「離せ!」
 太助は牙から逃れようともがいている。老婆の痩せてしなびた指は、驚くほど力強く、太助を宙に吊り上げる。太助の左手にはまだ刀があったが、肩を押さえられてはとても扱えない。
 蛇の大口が近づく、牙が伸びて、毒液が垂れ、舌まで伸びてきた。
 シャーシャシャー
 太助はいまや蛇に飲まれる寸前だった。洋一は太助の名を必死に呼んだ。懐かしいジョンの大声が階下より轟いたのはそのときだった。
「洋一! 太助! どこだ!」
 モーティアナの野太い首が廊下に向かって走った。体はそのままだというのに、老婆の首はどんどん伸びた。音を立てて鱗が剥げ落ち、太助の顔を打った。モーティアナの雄叫びが少年たちに聞こえた。
「きええええーーーーーーー、ジョオオオオオンンンーーーーーーーンッ」

○     5

 洋一は本を放り投げると、円陣を飛び出し夢中で太助の落とした刀を拾った。モーティアナの頭が消えてる、あいつの胴はがら空きだ。彼は慣れない手つきで刀を構える。床がぐらぐらと揺れている。モーティアナの打撃は十分に宿の基礎を壊していた。部屋は炎に包まれ焼け落ちる寸前だ。魔術のせいで炎が外に出て行かないのだ。煙はまったく出ていないのに酸素が希薄になって、洋一はくらくらした。彼は刀の柄をでたらめに握った。震える喉をおして雄叫びを上げると、モーティアナに向かって突進した。刀が太助に当たるかもしれない、そんなことは毛ほども頭に浮かばなかった。彼は夢中で燃える床を走った。その後から床は下へ崩れていった。洋一はモーティアナに体当たりをし、猛烈な刺突をくれた。洋一の刀は老婆の醜い体に根元まで食いこんだ。鱗をかき分けるジャラジャラとした嫌な感触があった。モーティアナの体が震え、太助の体が床に落ちた。
 太助は足が地面をつかむよりも早く、脇差しを横に打ち振るった。洋一の頭上を刀が走り、蛇の大首を捉える。太助は空中で刀を振ったにも関わらず、モーティアナの太首を真っ二つに斬り裂いた。洋一は支えをなくして、刀を抱いたまま転がった。モーティアナの体を押し倒す格好になったが、体の感触がない。モーティアナは服だけの抜け殻になった。溶けたんだ、と彼は思ったが、じっさいにはちがった。太助が急いで服をめくると、そこには首のない蛇の死体がぴくりとも動かず横たわっていたからだ。
 太助は気色悪げに呻いた。「これが、モーティアナなのか? これが……」
「太助、本だ! 伝説の書が燃えちゃう!」
 と洋一は言った。炎に包まれた部屋の中央で、伝説の書が無造作に転がっている。まるで魔方陣に守られているようにも見える。
 太助は脇差を手に、燃える床を飛び越え、魔法陣に降り立った。そこだけは炎がない。太助が本を拾い上げた瞬間、炎に耐えかねた床が抜け落ち、少年は一階へと転げ落ちていった。洋一は太助の名を呼びながら尻餅をついた。

○     6

 洋一は階段を駆け下りる。宿の部屋はすべて扉が開いている。屋内の人たちは一人残らず死んでいた。洋一は悲鳴を上げながら階段を飛び降りた。死体なんて見たくないのに、宿中に血が飛び散っている。もうジョンも太助も死んだのではないかと思った。洋一は足を滑らせすっころんだ。廊下中がモーティアナの体液で濡れているのだ。あいつはジョンまで殺しに行った。洋一はその恐怖に震えている。あいつの体は死んだけど、頭はどうなんだろうか? それに太助はあんな高さから落ちて、死んだんじゃないだろうか?
「太助! ジョン!」
 洋一は足を滑らせながら立ち上がる。階段の踊り場で手摺りから身を乗り出し二人の名を呼んだ。瓦礫の下敷きになっているのは太助のようだ。砕けた漆喰で真っ白になっているが生きているようで、洋一の声に呻き目を開くのがわかった。伝説の書をまだつかんでいる。
 一階に落ちた床の木材は、まだ炎を放っていて、洋一はおかしいなと思った。それは七色に変わる魔法の炎だったからだ。彼の認識では術者が死ねば魔法の類は消えるはずである。モーティアナは死んでない。階段を駆け下りながら思った。あいつは蛇だった。きっとモーティアナの使い魔だ。洋一は本物のモーティアナがどこかにいるんじゃないかと思って、なんども階段の上を振り仰いだ。瓦礫の山のすぐ側にはマントにくるまれたちびのジョンが倒れている。
 洋一は残りの段を飛ぶように降りて、太助の上に乗った瓦礫をどけた。炎が彼の手を焼き、太助は無理をするなと言った。
「黙れ! 本物のモーティアナが来るぞ! 急いで逃げないと!」
 と洋一が言ったので、太助も目を見開いた。そのとき、二人は宿の中に男たちが入ってくるのを見た。野次馬たちが、騒ぎがすんだのを見て、確認にきたものらしい。洋一は男たちが少年らの他になにかに見入っているのに気がついた。一階にいた宿の主人だ。他にも惨殺されているものたちがいる。洋一は恐怖に震えて唾を飲んだ。ここにいたら、この火事も人殺しも、みんなぼくらのせいにされる。
 ぼくらじゃない、と洋一はつぶやきながら、ともだちを助け起こす。そのときには、ジョンが意識を吹きかえして立ち上がり、二人を助けていた。
「おめえたち」とジョンは大声で言った。「いってえ、なにがあった! こりゃあ、なんの騒ぎだ」
「こっち」
 洋一は大人たちの視線を恐れ、まだボンヤリしている太助とジョンの腕をひっぱった。
 洋一はジョンの倒れていたすぐ側に蛇の頭が落ちているのを見た。間一髪だった。あの大頭に噛まれていたら、ジョンだってひとたまりもなかったろう。
「モーティアナが出たんだ。すぐにここを出ないと」
 ジョンもすぐさま事態を飲みこんだ。そうでなくとも、彼らはお尋ね者なのだ。背後では野次馬たちが、逃げるぞ、武器を持ってこい、と喚いている。ジョンは太助を抱えると、洋一の手を引いて宿の奥へと進んでいった。事務所らしき部屋を通り抜け(そこでも宿の奥さんが死んでいる)、裏木戸から外へ出た。薄暗い路地が塀に沿ってのびていた。洋一の体を冷たい風が包んだ。こどもたちや近所の奥さんたちが、三人の面妖な様子に悲鳴を上げて飛び下がった。
「このままじゃあ、街の門を閉じられちまう。捕まったら縛り首だ。急いで、ここから出よう」
 ジョンは洋一を背負い走りだした。太助はどこも骨を折らなかったようだ。すぐにジョンの腕から降りて脇を走った。

最新情報をチェックしよう!