ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

□  その二 ロビン・フッドと伝説の王

○     1

 ジョンはアランを抱えて路地を先へと進んでいった。体に感じるアランは昔日の面影がない。
「おめえこんなにやせ細って……」
 とジョンは涙ぐんだ。なるほどアランの体重は全盛期の半分ほどしかない。
「一体、なんであんな連中に襲われてる。あいつら一体何者なんだ」
「あの連中はモルドレッドの部下だ……ロビンを追ってここまで来たんだ」
「モルドレッドって、フランス貴族の?」と洋一は訊いた。「ロビンはあいつと戦ったの?」
 アランは首を振って否定する。「元は十字軍の仲間だった。だが、銃士たちを見たろう。やつらは昼間は並の兵隊だが、夜間では無敵なんだ。死んでも蘇って敵味方の区別なく襲うそうだ」
「そんなやつらがなぜ十字軍に?」
「俺たちもそんな話は信じなかったからさ。負けたサラディンの言い訳ぐらいにしか思わなかった。だが、噂は本当だった。やつら本物の化け物だ」
 アランは苦しそうに腹を押さえた。
「おめえは一人なのか? 噂じゃあこじきが縛り首になるって話だが」
 ジョンたちはアランの顔を盗み見た。アランはひどく苦しそうな顔つきをした。
「いやみんな生きてる」
 とアランが言ったから、ジョンはほっとした。それから洋一の顔を盗み見た。あの本の力なんだろうか? そこまではわからなかった。
「ガムウェルもスタートリーも一緒だ。俺たちはパレスチナからロビンを守って逃げてきた。だけど、ロビンはもう元のロビンじゃないんだ。ロビンは自分から守備隊に出頭しちまった。このままじゃ明後日に縛り首になる。この街の長官はロビンにかねてから恨みを持っていたんだ」
 じゃあ、あのこじきというのはやっぱりロビンか?
「だが、なぜロビンが? イングランドにもどってこれたってえのに、なんで自分から捕まるような真似をしたんだ」
「仕方あるまい。ロビンはモルドレッドに魂を抜かれたんだ」
 ジョンは手を離した、アランは壁にもたれかかった。太助と洋一も呆然としたが、ジョンの自失した様は胸が悪くなるほどにひどかった。洋一はジョンの腕を引いて励ました。ジョンはアランの胸ぐらを掴み上げた。
「いってえなにがあったというんだ! 魂を抜かれただと? そんなことが……」
「本当なんだ!」とアランもジョンを突っぱねた。「ロビンはな、パレスチナで、魂を抜かれちまったんだ! あいつの魂はパレスチナに残ったままだ! ロビンは抜け殻になっちまった。ウィルと俺たちはここまでロビンを守ってきたが、もう駄目だったんだ。ロビンは生きる気力すらなくしてる。俺たちのことだって、忘れちまってるんだ」
「なんてこった……!」とジョンは頭をかかえた。自らに起こった忘却も、そのことが遠因だったような気がした。「先に十字軍から戻った連中は、ロビンが死んだといっていたんだぞ!」
 アランの体から、力が抜けていった。満足に食べていないのに、激しく動いたせいだ。血の気がすっかり抜けている。ジョンはアランの体を逆に支えることになった。
「ロビンが魂を抜かれた現場をみてそう思ったんだろう。誰でもそう思うさ。現に十字軍は、あの戦いでサラディンにさんざん追い散らされたんだ。イギリス軍は散り散りになってしまった。獅子心王もその戦いで死んだ。ロビンさえ健在なら、あんなことにはならなかったのに」
「そんなこと、そんなことが……」
 ジョンはよろめいた。
「事実だ。俺とウィル・スタートリーは、あのときロビンのすぐ近くにいたんだ。ロビンの胸の辺りから、輝く玉のようなものが出てくるのがみえた。そのとたん、ロビンはバッタリと倒れて動かなくなってしまったんだ。ロビンの体は冷たく、意識が目覚めることはなかった。時間がたつと、ロビンは少しずつ手足が動かせるようになった。もっと日がたつと、言葉をとりもどしはじめた。だけど、以前の記憶もなければ、性根も変わってしまったんだよ」
 ともあれ、ロビンは、魂を抜かれてこのかた、飯も一人で食えない痴呆者に成り果ててしまった。わずかな物音にも怯え、すべてに絶望しているようだった。アランたちは海峡を渡り、シニック港にたどりついた。だが、イングランドはすっかりジョン王の勢力下となっていた。シャーウッドを戻るすべを探しているうちに、ロビンが姿を消した。すべてに絶望したロビン・フッドは、自らの命を絶つため、ボルドーの守備兵に、我が身を投げだしたのである。この港町にも国王の息の掛かった者がいて、処刑の邪魔が入る前に、ロビンを殺そうとしている。
 ともあれ、アランはモルドレッド・デスチェインという男を呪い上げた。
「リチャード獅子心王の討ち死にも、やつの裏切りのせいだ。俺たちが助かる道はロビンにしかないのに、あの状態では、救い出してもジョン王と戦うことは不可能だ。ロビン自身が死をのぞんでいるんだぞ」
 むろんアランたちはロビンを救出するつもりでいた。だからこそ危険な街に出て情報集めに努めていたのである。
 一同は言葉をなくして、むっつりと歩きつづけた。たとえ、救い出しても、ロビンはもう以前の彼ではない。よしんば助け出せたとしても、今のロビンに行くべきところはどこにもないのである。
 アランは、海岸の近くで、巨大な排水溝へと降りた。下には歩道があり、水の流れる溝は、船が通れるほど広かった。海が近いせいか、潮風が冷え冷えと吹き、服の隙間に入りこむ。歩道には、アランたちの仕掛けた罠がところどころにほどこしてあった。人が通ると音が鳴る仕掛けである。アランは、鉄のパイプを叩くと、巧妙に隠された蓋を外した。遠くでパイプを叩いたらしい音が、かすかに響いた。アランはパイプに向かって呼びかけた。
「ガムウェル、アランだ。俺たちの副長がやってきたぞ。五人ばかり連れて行く。攻撃しないようにいってくれ」
 アランは晴れ晴れとした顔を上げた。「さあ、行こう。粗末なアジトだが、雨風はしのげる」

○     2

 ロビン一味のアジトは、排水溝の出口付近にあった。目をそばめると、格子の外はすぐに海のようだ。洋一は、波の音を聞いた。もう、何十時間も経った気がするのに、その実、夜は明けていないのだった。歩道には、土嚢が高く積み上げられ、簡便な要塞のように見えた。土嚢の前に立っていた男が、後ろにいる仲間に告げるのが聞こえた。
「ジョン・リトルだ、本当にちびのジョンがやってきたぞ!」
 ジョンは、アジトから顔をだした男たちを見て、喜色に満ちた声を上げた。
「あれは赤服ウィルだ。顔をだしたのは、粉屋のマッチだぞ。ああ、見ろ。みんながあそこにいる。一体いつ以来だ!」
 ジョンの脳裏に、シャーウッドでの栄光の日々が、音を立ててやってきた。あの連中が、自分の元を去って、もう三年が経っていた。その間、なにもしてやれなかった自分がもどかしく、ジョンは、我知らず駆けだしていた。
 背の低いマッチは、傷だらけの顔に、ぽろぽろと涙をこぼし、ジョンの腰にしがみつく。か細くなった、我が身の置き所が三界のどこにもなく、それだけで、心細かったのだろう。元は粉屋で、平穏無事に暮らしていた男である。ロビンのためなら、命もいらぬと十字軍に参加したのに、肝心のロビン・フッドが、あんなざまになってしまった。
 自分に負けないぐらいの大食らいで、太りじしのマッチが、人並みの体に細っている。それだけで、ジョンは涙した。
「おめえたち」
 ジョンの目は、アーサー・ア・ブランドにうつった。瞳の上で、燃え立つような巻き毛がほつれあう。潮風の湿気で、爆撃を食らったような頭だが、その下のひどい童顔は、昔のままだ。
「ひでえ面だアーサー。ガムウェル、おしゃれのおめえがなんてざまだ」
 赤服ウィルの肩を叩く。ウィル・ガムウェルは、ロビンの甥だ。不器用だが、その怪力無双で、幾度となく一味の危機を救ってきた。赤毛のアーサーとおなじく、不屈の魂をもった男で、この二人の赤は、不思議とうまがあう。
 ともあれ、洋一は、心底ほっとした。伝説の書は、ちゃんと自分の願いを叶えてくれたのだ。ウィンディゴの横やりもあって、結果はひどい様だが、それでも、ロビンが死んでいるよりはましだった。
 洋一が、物珍しげにアジトを覗くと、焚き火があった。壁には弓矢が立てかけられ、いつでも迎撃の姿勢がとれる体勢になっている。海側の歩道は、火明かりを隠すために、板塀が張り巡らされていた。排水溝には、逃走のためのボートがあった。そして、焚き火の側には、一目でイングランドの騎士とわかる男が寝そべり、二人の男の看病を受けていた。
「ウィル・スタートリー、おめえも無事だったか」
 ジョンは、土嚢の上に涙をこぼす。どの顔も頬こけ、目が落ちくぼんでいた。ここまでの道程の困難さを、物語っている。陽気のウィルが、ふてくされたようにそっぽをむいた。ジョンが来てくれて、うれしいやら我が身を嘆くやらで、心中忙しかったのだ。
「ジョン、なにしにきた」と、ひねくれ者のウィルは、泣き声で訊いた。「お前まで死にに来たのか」
「ああ、ちびのジョン」傷を得ている男は、リチャード卿だった。ゆっくりと首を傾け、火明かり揺れ、涙に濡れたジョンの顔を見上げた。その傷は、パレスチナを出たころより軽くなっていたが、十分に立ち上がることは、できないようだった。「君はやってきたのだな。ロビンの最後を見届けに……」
「サー・リチャード、あなたが生きていたことを心から神に感謝する。だが、俺はロビンを救うためにきたのだ。あいつをシャーウッドに連れ戻すために」
「ロビンを連れ戻すだと」スタートリーが、荒声を上げる。「守備隊がロビンを捕まえてるんだぞ! ロビンの魂は、パレスチナに残ったままだ! 救ってどうなる。あいつは死にたがってるんだ! 俺はな、俺は、腑抜けになったロビンを、ずっとみてきたんだ。あんなロビンをみるぐらいなら、十字軍の戦いで死んでおけばよかった」
 ジョンは、面くらった。「どうしたんだ、あいつは?」と、アランに囁いた。アランは肩をすくめた。
「ロビンが居なくなって、いじけちまってるのさ」
 思うに、ウィルはふだんから陽気な男なだけに、こうした鬱屈とした事態に耐えられないのだろう。
「そんな風にいうな、ウィル」と、ウィルの隣にいた、騎士が言った。「せっかくの仲間との再会ではないか。もう嘆くのよせ」
「彼は、ギルバートだ」と、アランがジョンに説明した。十字軍では大将だった男で、ボルドーでも、敗残兵のまとめ役を買って出ている。端正な顔も、今では髭に覆われている。獅子心王の側近として、弱年のころより、戦場を渡り歩いてきた。
 そのとき、アジトの隅に座りこんでいた男が、のそりと身を起こした。一目で異国人とわかる、異相の男である。頭にはターバンをまき、人相を隠している。
 ちびのジョンが、「ムーア人か?」と訊いた。
「心配するな。あいつも、ずっとロビンに従ってきた男だ」
 アランが言った。洋一が、土嚢に身を乗りだし、
「アジームだ」
 と、叫んだ。アジームと呼ばれた男は、顔にかけた布を落とした。真っ黒な肌と、それよりも黒い髭と、ちぢれた髪が、火明かりに照らされる。映画でみたアジームの顔そのものだ。来ている鎧まで、洋一の記憶と一致している。
「なんで俺の名を知ってる」
「そ、それは」
 洋一はまごまごと言った。まさか、映画で見たことがあるとはいえない。
 また、新しい登場人物だった。ロビンの世界は、物語の筋が狂っているだけじゃない。新しい人物が、どんどん出てくる。まるで、本が、新たに創作しているようだった。洋一は考えこんだ。これは、本当にウィンディゴ一人の力なんだろうか? 男爵は、ウィンディゴが本の世界の登場人物だ、と言った。つまり、あいつはミュンヒハウゼンと、おなじ人種に当たるのだ。
 なんの本だろう? と、洋一は自問する。ウィンディゴという名前には、心当たりがない。彼は男爵に会いたかった。会ってこのことを話し合わなきゃ。男爵は、本の力が弱まって、創造の力を無くしたのに、なんであいつだけが特別なのか。
 洋一は、太助がなにか知っているかと彼の方を見たが、太助は刀に腕をかけて、油断なく、ロビン一味を見回している。この中に、ウィンディゴの仲間がいるのではないかと、疑っているのだ。
 太助が、洋一に代わって言った。「あなた方のことは、父上から聞いている。ぼくたちは、モーティアナを倒すために、イングランドに向かったのだ」
「モーティアナだと? 誰のことだ?」
 アーサーが訊いた。そこで、ジョンはアーサーらに、イングランドの近況を語りはじめた。五人のイギリス人にとっては、久々にきく、故郷の情報だった。
「モーティアナは、本物の魔女なんだ」と、ジョンは言った。「ジョン王の側近で、裏から操ってるのかもしれねえ」
 ジョンは、モーティアナに襲われたときのことを、語って聞かせた。普通なら信じられないような話ばかりだが、ロビンが魂を奪われるのを目撃した後だし、それもアランは死兵に出くわした後だから、妙に信憑性があった。
 洋一が、ジョンを見上げる。「ロビンが魂をとられたのだって、ウィンディゴの仕業なのかもしれない」
「そうかもしれねえな」
 そこで、洋一がウィンディゴの話を慎重に語りだした。もちろん、本の世界については、うまく省いてのことだった。太助は、ウィンディゴの話を聞いて、妙な反応をする者がいないか、じっくりと見ていたが、怪しい顔つきをしたやつはいなかった。
 銃士が町にいると聞いて、剛強のロビンの部下たちも震え上がった。ウィルが、怒りに燃えて言った。
「あの野郎、ロビンに止めを刺すために、ここまで追ってきやがった!」
「ロビンが死なない限り、あいつの魂は、モルドレッドが握っていると考えるべきだ」とアジームが言った。「モルドレッドが側にいない以上、俺はロビンの魂をとりもどす見こみはない物と考えていた。だが、モルドレッドは、この街にいる……」
 赤服のガムウェルが、サー・リチャードの耳元に口を寄せる。「まだなんとかなるかもしれません。ロビンの魂さえ取り戻せれば……」
「だが、ロクスリー(ロビン・フッドのこと)は二日後には縛り首なのだぞ。魂をとりもどしても、ロクスリーが死んではどうにもならん」
「それに、モルドレッドの軍隊と、どう戦うんだ」マッチが言った。「この港には、俺たちの仲間は残っていないぞ」
 ギルバートが、「いや、ここには十字軍の生き残りが、大勢流れこんでいる」
 どれも、十字軍の敗北で、行き場をなくした連中ばかりだ。
「そいつらを集めるのか」とアラン。
「まさか十字軍の」リチャード卿は言葉をなくした。「彼らは敗軍の兵ではないか。もはや軍隊ではない。弱体化した十字軍で、どう戦うというのだ」
「だが、ロビンの部下だったやつらも大勢いる」 
 赤服ウィルが言った。
「しかし、彼らは」リチャード卿が、声を荒げた。「彼らを頼って、最後の賭に出るというのか。それは進められない。巻き添えを増やすだけだ」
「彼らは、行き場をなくして浮浪者になっているだけです。元は歴とした騎士たちだ。戦い方を知っている」と、ギルバートが言った。「このままでは、その連中とて、銃士とジョン王に追い散らされることになる。生き残るためには、結束するしかありますまい」
「モルドレッドの恐ろしさは、連中が身に染みてわかっているさ」ガムウェルが言った。「地中海では、異教徒を赤子にいたるまで殺しまわっていたやつだからな。浮浪者となっているとはいえ、十字軍の残党を見逃すとは思えない」
 洋一は、一同の話を注意深く聞いている。太助も熱心に話し手の顔を見た。二人は、ウィンディゴが、どこまでこの状況に干渉しているのか分からなかった。けれど、ここにいる二人の少年だけは、対抗勢力であることにまちがいはない。つまるところ、洋一たちがロビンの世界に乗りこむことで、ウィンディゴの意図通りには事が運ばなくなってきている。その証拠に、泣き虫だったちびのジョンも、今ではすっかり立ち直り、元の本分を果たそうとしている。
 ジョンは急に黙りこんで、仲間たちの会話をむっつりと聞いている。実のところ、彼はすっかり腹を立てていた。戦力がどうだとか、誰が味方かなどと、そんな話は聞きたくもない。ジョンの脳裏には、天地に向かって立ち上がる、ロビンの姿がいつもある。ジョンは、あいつのそんな姿が見たかった。自分が死んだって見たかった。あいつを救ってやりたかった。他の誰もやらないなら、自分が成り代わって、あいつに恩を返すべきだと思った。
 俺こそがあいつを救わなきゃならねえ。あいつの義侠に答えてやらなきゃならねえ。俺とロビンだけは、正しいヨーマンであらなきゃならねえ
「ロビンはいつだって人を救ってきた。自分がどんなに劣勢でも泣き言も愚痴も言わない。あいつは訊くために、人の願いを叶えるために、いつだっていてくれたじゃないか」ジョンは立ち上がり、仲間たちに訴えた。「このままじゃ、ロビンは名無しの無法者として縛り首だ。そんな屈辱を、ロビンにあたえられん。あいつを救おう!」
「弱体化したとはいえ、十字軍は戦争のプロだ」アジームは、我が意を得たりとうなずいた。「そいつらが、この街に集まっている。偶然とは思えん」
「シニックは景気にわいてるが、俺たちゃしみったれだぜ、アジーム」
 行儀の悪いウィルが、また寝転がる。
「ならば、ロビン・フッドを助けることだな」
 と、アジームが言い、ウィルは鼻を鳴らして答えた。
「だが、ロビンの魂をどうとりもどすというのだ」リチャード卿が訊いた。勇敢な男だが、長い闘病生活で、いくぶん弱気になっている。「我々は、死刑台のロクスリーをも救わねばならん。街にいる十字軍はいかほどなのだ」
「四百ばかりでしょう。武具をもっていない連中もいます」
「その後はどうする。どうやってシニックを出る?」
 脱出の案は、すぐにまとまった。というよりも、安全で確実な方法はひとつしかなかった。私掠船である。フランスからイングランドに戻るのに、アランたちは彼らを頼ったのだ。普段は海賊行為をしているが、歴としたイングランド海軍だった。
 問題は、やはりロビンの魂だった。ちびのジョンが、洋一に目顔で合図してきた。
 ジョンは、洋一と一緒に、伝説の書のことを話しはじめた。
 仲間たちの反応は、太助の想像したとおりだった。彼らは伝説の書のことを、頭から信じなかったのだ。
「じゃあなにか、俺たちが生きてここにいるってのも、その本のおかげだってのか!」と、ウィル・スタートリーは怒って言った。「そんな馬鹿な話はねえ。おめえが本に書きこんだのは、ついこの間の話だろう。俺たちが何ヶ月苦労して、旅をつづけてきたと思う!」
 アランは意見を求められたが首をひねり、
「戦いは勇敢だったが、その本というのはどうかな」
「おめえたち」と、ジョンは言った。「俺を信用しろって。この子たちに会えなけりゃ、俺だってここにはいなかった」
「その子たちを疑っているのではない。その本のことを聞いているのだ」
 と、ギルバートも態度を硬くした。
 洋一もしつこく食い下がった。
「それを言うなら、ロビンが魂を抜かれたって話もどうなのさ。それこそ嘘みたいな話じゃないか――」

 その話の間中、太助は違和感を拭いきれなかった。最初のうちは、肉体の疲労と痛みで、洋一の変化に気づかなかったのだ。妖怪と化した銃士との戦いは、彼の幼い体には、あまりに負担が大きかった。節々が痛み、体がバラバラになってしまいそうだ。本当は迫り来る敵のことは忘れて、ゆっくりと体を休めたかった。けれど、今は気を抜くわけにはいかない。
 太助は、洋一のことを注意深く見守った。洋一が一味を相手に熱弁を振るいだすと、太助の違和感は、いよいよ深くなった。洋一とは、こんな人物だったか? こんなに、能弁だったろうか。
 洋一は、ロビンの部下たちの反駁に、ひとつひとつ懇切丁寧といっていい調子で、反論し説諭している。伝説の書の力を力説し、自分はうまくつかえたと言いはった。そのことも妙だ。以前は本をつかうことに、あんなにためらい、不安がっていたのに。
 一回の成功で自信をつけたというには、彼の変化は極端すぎた。むしろ、伝説の書を、礼賛しているともとれる態度だ。
 ロビン・フッドの魂をうばった不可思議な魔術に対抗するには、伝説の書をつかうしかない、とは彼も思う。だけど、その危険性は、洋一とて、よく熟知しているはずだ。とにかく伝説の書には、不確定要素がありすぎる。なるほど、ロビンはイングランドに戻りはしたが、あのざまだ。
 男爵がいれば洋一を止めてくれるのに、と、太助は思う。
 伝説の書を使いこなすのは難しい。そのことはわかる。だからこそ、洋一を戸惑わせるようなことを、言うべきではないかも知れない。彼が、彼らしくない、まるで別人のようだ、などとは、言うべきではないかもしれない。
 太助が思い惑う内にも、一味の意見は、伝説の書とやらに頼ってみてはどうかという意見にまとまってきた。それはそうだろう。ロビン側には、そのような不可思議な魔術に対抗する術が、まるきりないのである。
 洋一は、伝説の書に力を発揮させるためには、事実を詳しく書きこむ必要がある、と言った。だから、現場でモルドレッドの様子を見たいのだ、と。モルドレッドの人となりを、少しでも描写しようという案には、太助も賛成だった。
 話がこちら側にまとまりだすと、洋一は、ニヤニヤと人の悪い笑みをもらした。そのたびに、太助はこの少年が恐ろしくなった。洋一、というよりも、この少年に棲み着いた、なにかが。
 太助は、大人たちの誰も、このことに気がつかないのだろうかと疑った。そのとき、アジームと目があった。彼は彼で、太助の迷うさまを、見抜いていたと見える。
 アジームは、太助から目を反らして、「俺とスタートリーで洋一についていこう」
「ロビンを救うつもりが、ガキのお守りとはね」
 と、ウィルは土嚢にもたれかかったが、ことの重要性には気づいている。
 太助は冷や冷やした。
 アジームという男、洋一が失敗したら、あいつの首をはねるつもりじゃないのか。
 最後にジョンが、それでいいか、という同意を、太助に求めてきた。太助はすぐに返事をしたかったが、できなかった。そのとき、洋一がじっと自分を見つめていることに気づいたから、自分がどちらの意見を口にしようとしたのかは、ついにわからず仕舞いになった。

○     3

 ジョンたちの行動は早かった。
 ギルバートを中心にした陽動隊は十字軍に作戦の決行を伝えに行った。十字軍は、勇敢に戦ったにもかかわらず、思うような結果を得られず、野盗と化すものも多くいた。シニックに流れついた十字軍は、リチャード獅子心王と行動をともにしたイングランド正規軍が多かったにもかかわらず、恩賞もなく正規軍からも放置されていた。彼らは肉体的にも精神的にも疲弊しきっている。戦うほかに生きるすべを持たない騎士たちにとって、局面を打開するには武装蜂起の他はなかったのだ。
 もっとも、弱体化したとはいえ、十字軍には歴戦の軍人がそろっている。銃士に対して、武器の面では見劣りするが(銃を撃てるものも少なかった)地の利を得、組織だって戦えば、ぶざまな戦いをするはずがないと思われた。
 そして、大人たちが戦いの準備に時間を費やす間、奥村太助は牧村洋一につきまとっていた。洋一の様子はやはりおかしかった。これから大変な戦いが起こる、その戦いの主役はおそらく彼になる、少なくとも正否を握るのは洋一だというのに、まったく集中していない。それどころか行動がおかしかった。なにかを熱心に見ているのにその先にはなにもなかったりした。夜も寝ていないみたいだ。誰もいないのに一人で話していたりする。独り言かと思ったが、ちゃんと受け答えをしているようだ。太助は彼に声をかけたり、体に触れることでその状態から呼び戻したが、洋一自身は自分のしていることに気づいていないのだった。
 伝説の書だ。やっぱりあの本だ。あの本に文を書きこんでから洋一はおかしくなっている。太助は安易に伝説の書を使わせたことを後悔した。洋一のために、はっきりとウィンディゴとモーティアナを憎んだ。けれど、太助が看破したとおりの変化を洋一自身は気づいていないのだ。
 この話を下手に切りだして、洋一が文を書くのに失敗したら? その結果がどうなるのか、彼は知らない。けれど、伝説の書をつかってきた人は、何千何万といるし、その人たちの顛末が概して不幸なのだった。
 太助がついに話を切りだしたのは、洋一が伝説の書を開いて熱心にページに見入るようになってからだった。そこにはむろんなにも書いていない。
「洋一、しばらくその本を手元から放してはどうだ?」
 と彼は言った。洋一は勢いよく顔を上げた。彼を見た目は明確な敵意を宿していたので、太助は驚いた。
「なにを言うんだよ! ぼくはこの本をつかって、ロビンを救わなきゃいけないんだぞ!」
「わかってるよ。ただ、最近様子がおかしいから……」
「おかしい!? おかしくもなるよ! 死体に狙われて魔女に狙われて、こんな重役を任されて、普通でいる方がおかしいじゃないか! おかしなことを言ってるのはお前の方だ!」
「そんな言い方はないだろう! ぼくは君のことを心配していってるんだ!」
「大きなお世話だ」
 洋一は本を持って立ち上がった。
「なんだと?」
「大きなお世話だと言ったんだ! なんだって言うんだ! 創作のことなんか君にはまるでわからないだろう! ぼくは集中して、どんな文を書くか練っていたところなんだ! これからこの本をつかうのに、手元から放せって!?」
 洋一は太助を押しのけた。
「じゃあ、君は刀を放せって言われたらそうするのか? ぼくに言ってるのはそういうことだぞ!」
「刀には魔法がかかってない、そいつはただの本じゃないだろ! 危険だから言ってるんだ!」
「いまさらなんだよ!」洋一は本気で腹を立てた。癇癪を起こして側の机をひっぱたいた。「この本に文を書きこめと言ったのはお前だぞ! そんないい加減なことがよく言えるな! もういいよ! ぼくは一人でやる! お前はロビンを助ける方に加われよ! お前がそばにいちゃ集中なんてできな……!」
「おい、二人ともいい加減にしねえか!」
 ジョンが見かねて口をだした。二人の声を聞きつけてやってきたのだ。太助と洋一はばつが悪そうにそっぽを向き合った。ジョンは大いに弱って二人をかき口説いた。
「その本の効果を疑ってるやつらは大勢おるんだぞ。そんなこどもみてえな喧嘩をしてちゃ信用されねえぞ」
「ぼくらはこどもだ」と洋一。
 ジョンはとりなすように言った。「ともかく話は俺が聞くから。こんなこたあ言いたくねえがな。でも、みんないつ死ぬかはわからねえんだぞ。それは俺やお前たちだっておんなじだ。なのに、喧嘩をしたまま別れるのか?」
 この言葉はさすがにこたえた。太助があやまると、洋一もごめんと言った。けれど、すぐに部屋を出て行ってしまった。
 ジョンは胸をはって威嚇するように太助をみおろした。
「さあ、太助、どうしたっていうんだ。洋一はともかく、おめえがあんな大声だすなんてよ。おめえの方が年も上だろう?」
「そうじゃない。洋一の様子がおかしいんだ。さっきだって……」
「太助」とジョンは遮った。「そりゃあ、仕方のねえこった。あんだけの戦いがつづいた後だぞ。俺だってあの銃士の様子は夢にまで見る。おめえだってそうだろう?」
 確かにそうだった。
「あの子はおめえとちがって剣も使えねえしな。そりゃ、素手で大人につっかかっていくようなもんさ。それでもよくやってきたじゃねえか」
「そんなことは言われなくてもわかっている」
 と太助は怒って言った。がその声はちいさく、ジョンは太助が納得したと勘ちがいしたようだ。
 そうだ、彼はよくわかっている。実際に洋一はよくやった。それどころか、あの一発の弾丸がなければ二人ともいまごろ命はなかったろう。
「洋一が伝説の書をつかうのに反対なのか?」
「そうじゃない。洋一の力がどうしても必要なことは分かってる。だからこそだよ」
 太助はこのもやもやをうまく言葉にまとめられない自分を呪った。
「ジョン、あれは書きこむ内容が大事なんだよ。伝説の書は彼の文を受け入れたけど、もし今度がそうでなかったら? なにが起こるかぼくらは知らないんだ。洋一が本の持ち主だって事はわかってるし、ぼくはそう信じてる。あいつはきっと本をつかいこなすって」
「だったらいいじゃねえか。あいつを信じて任してやれよ」ジョンはかがみこんだ。「一番近くにいる人間が信じてやらなくてどうする」
「わかってるよ。だから、ぼく、黙ってようと思ってた。でも、万全の状態じゃなきゃうまく使えるはずがないよ。洋一は様子がおかしいじゃないか。伝説の書は持ち主を拒否することだってあるんだ」
 ジョンはうーむと考えこんだ。
「だけどよう、もうどうしようもねえんじゃねえのか? あの本を使えるのはあの子だけだって、おめえ言ったろ?」
「そうだ。それが問題なんだ」
「ともかく、もう洋一を動揺させるようなことは言っちゃだめだ。あの子をベストな状態で送りだしてやるつもりなら、喧嘩はやめるべきだと思うぞ」
 ジョンは言葉通りに肉料理を無理算段で仕入れてはこどもたちを喜ばせようとした。けれど、こどもたちの関係は改善しなかった。太助はもちろん洋一の心を引き戻そう、なんとか彼を説得しようとしたけれど、彼は訊く耳をもたなかった。取りつく島すらなかったのだ。
 処刑当日。
 ちびのジョンと十字軍は、ロビン救出のために、変装をして港街に散乱した。この連中は、作戦がはじまれば、処刑場に集まるてはずである。

○     4

 ジョンの言ったとおりになってしまった。太助と洋一は本当に喧嘩別れをしてしまったのだ。もちろん太助は洋一の後についていきたかった。でもあいつはお前が来たら成功するもんもしなくなるといって彼を断固拒絶したのだ。そのせいで、彼は広場の人混みの中にいる。洋一はいまごろ、この会場(と言っていいだろう。この国の人々は処刑をお祭りのように考えている節がある)のどこか高い場所にいるはずだ。太助は心配で仕方なかった。やっぱりあの洋一はふつうじゃない。本だ。あの本が洋一の心を喰らっているとしか思えない。というよりも、洋一に文を書きこませたがっているんじゃないだろうか?
 太助はこう考えた。恭一おじさんがあの本を封印したのは、ウィンディゴから守るためではなく、洋一を本から守るためだったんじゃないだろうかと。だけど、もう遅い。彼には洋一がどの建物にいるのかわからない。
 こうとなっては、友人の無事を祈るばかりだ。

 ロビン・フッドの処刑は街の中心部にある時計台の下で行われることになった。巨大な首つり台が引き据えられた。普段は市の開かれる大きな広場だが、今は兵士と市民に埋め尽くされている。まるで、街中の住民が集まって、すし詰めになっているかのようだ。けれど、三分の一は、変装した味方のはずだ。
 首吊り台の後ろには、大がかりな物見台が設けられている。まるで国王の玉座のように絹の衣で着飾っている。太助は吐き気がした。壇上には、街の長官が座っている。隣の若い女は長官の娘だろう。あんなところで処刑を見おろす女の気が知れなかった。物見台には護衛の兵士が詰めかけているが、銃士たちの姿も幾人か見えた。裏の階段をつかって壇上にモルドレッドが登場すると、広場の盛り上がりは最高潮に達した。

○     5

 ジョンは人波に押されている。少年を見失わないよう帯をそっとつかまえていた。ジョンは大柄だが、今では並の人間と変わらぬ背丈まで縮んでいる。乞食になりすましているのだ。おかげで目をとめる者はいなかった。
 一方、太助は足首まであるローブをかぶり、そこに刀を隠している。二人ともロビンの到着を今か今かと待ちわびていた。
 洋一が側にいないのが不思議な心地だ。斬り合いの助けにはならないが、心のどこかであの少年の存在をずいぶんと頼もしく感じていたのだった。太助は最後に洋一と喧嘩をしたときのことを思い出し、哀しみに胸を締め付けられた。こども同士の喧嘩を彼は生まれて初めてやった。でも、こどもの喧嘩は、仲直りをして初めて終了となるんじゃないだろうか? 太助はしっかりしろと心細くなる胸を叩き、ローブの下の刀を握った。ロビンが死んだらどうにもならないぞ。洋一とこの世界を抜けだすんだろ

 やがて群衆の後方で騒ぎが起こった。ロビンを乗せた馬車が広場に到着したのだ。粗末な荷台に乗り、首には縄が掛けられ、まったく囚人以外の何者でもない。若者たちがこぞってこじきをはやし立てるのを兵士たちが追っ払っている。ロビンは誰かに殴られたのか、顔には痣がいくつもあった。
 ちびのジョンは、かつての首領の無惨な姿に呻き声を上げた。心中では自分の心臓をかきむしっていた。彼を傷つけたのは、第一にロビンの目つきだった。ジョンは涙でにじむ目玉を瞬いた。垢じみた皮膚、ろくでなしのように伸びた髪、汚れた髭もジョンは許したろう。だがあの目つきだけは我慢できなかった。眼光鋭く周囲を圧したロビンの威光はどこにもない。生きているのに死んでいるかのようだった。ロビン、おめえはどうしちまったんだ――あそこにロビンの魂がないのなら、確かにあのロビンは生ける屍なのだろう。ジョンは、こう呻いた。
 なぜなんだロビン。
 まるで、群衆も兵士も消えて、広場には自分とロビンだけになったかのようだった。ジョンは周囲に気づかれるのも構わず背を伸ばした。まわりの男たちがぎょっとなった。ジョンはその男たちを突き飛ばしてロビンの元に向かいはじめた。太助が夢中で後を追った。
「なぜなんだロビン! なぜこんなことになった! なぜお前が死ななきゃならねえ、答えろ、ロビン!」
 壇上の長官らがすでに騒ぎ出している。太助は無念さにはがみした。この騒ぎに兵士たちはいち早く乗りだしてくるだろう。作戦はきっと失敗してしまう。
 広場の外れでは、ギルバートが仲間たちに攻撃の準備を命じていた。十字軍の騎士たちはロビンを救おうと結集し、中央へと向かいはじめた。
 ジョンからそう離れていない場所では、粉屋のマッチがジョンを哀れむかのように顔を伏せている。マッチも作戦の崩壊を予感していた。けれど、仕方のない、仕方のないことだ。あのようなロビンと顔をあわすのは、ちびのジョンは始めてなのだから。
 こうとなっては、ジョンと死のうと、マッチは懐に忍ばせた短剣に手を伸ばすのだった。

○     6

 太助はジョンに追いつき、その手をとった。ロビンを乗せた馬車はあっという間に広場を横切り、処刑台に到着している。長官がジョンに気づいて急がせたのだ。
 太助はジョンの腕をひっぱったが、彼の力では大男は止まらない。
「ジョン、どういうつもりだ! 身を隠さないと駄目じゃないか!」
 しかし、ちびのジョンには、太助の姿すら目に入っていないようだ。
「俺の前であいつは二度も死ぬのか。そんなことはあっちゃならねえ。世界があいつを見限っても、俺だけはロビンを信じなくちゃならねえ」と彼は言った。「俺はロビンが大好きだった。俺の目の前に見えるあいつは、今じゃ魂をなくしたかもしれねえ。それでも俺は、あいつのために命を張りてえんだ。もう止めるな」
「ジョン!」
 ちびのジョンは太助の手をふりはらい、ロビンの元に向かいはじめた。太助の視野の中で大きな背中が群衆に飲まれていく。
「ジョン、待て!」
 太助は慌てた手つきで水筒の蓋を外し、柄に水を振った。柄巻きをギュッと絞ると目釘を湿らせた。こうしておけば竹の目釘が膨張して、柄の強度が増すからだ。
 顔を上げると、意を決して処刑台を睨む。そして、この場にいない友人に声をかけるのだった。
「洋一、すまないが、ぼくもこの場で命を捨てるぞ。ジョンを放っておけないんだ」
 太助はジョンの後を追い、群衆の合間をすり抜けはじめた。救出作戦は思わぬ形で始まりはじめた。

 

□ その三 パレスチナのロビン・フッド

○     1

 洋一は時計台の鐘の下にいた。そこからだとすし詰めとなっている群衆がよく見えた。
「どうだ、小僧。モルドレッドは見えるか?」
 とスタートリーが訊いた。ロビンの古参の部下は、このスタートリーとアジームだけだった。後は十字軍の騎士たちが五人。この人たちはちゃんと武装している。街にいたときは浮浪者然としていたが、さすがに甲冑を着こむとちがうものだった。五人は敵の侵入を防ぐために、階下へと下りていった。
 アジームとスタートリーは、洋一に不審を抱くようになっていた。このところずっと様子がおかしかったし、どうみても情緒不安定である。今も不安げな顔をして、二人の顔を見ようともしない。アジトで一同を説得した洋一の姿はどこにもなかった。やはりこんなこどもに大役を任すのは無理があったのだ。
「小僧、訊いてるのか?」
 スタートリーは苛々として洋一の肩を叩いた。自分を見上げた少年の不安げな表情をみて、背後にたつアジームに顔を向けたのだった。その顔にははっきりとした困惑が刻みこまれていた。さっきまであんなに自信に満ちていたのに、どうしたんだこいつ?
 洋一は大人たちの不信をはっきりと感じていた。彼は自分の中から、何者かが急速に引き上げたのを感じていたのだ。今まで、本をつかうぞ、文を書きこむんだとそのことばかり考えてきたのに、伝説の書を広げ処刑場を見おろしたときには、創作の衝動はすっかり枯れ果ててしまっていた。彼は自分が一体なにに熱中していたのか、それすらわからなくなったほどだ。太助にはあんなふうに答えておきながら、自分が書きこむべき文章もその内容もまったく考えてこなかったことに気がついた。あんなにうんと考えてきたはずなのに、一人の時間もうんとあった(なにしろ太助とはうんと離れて行動していたのだから)。これまでどう時間を過ごしてきたのかもはっきりしない。
 そういえば、太助がなにか話していなかったか?(実際は怒鳴ってこなかったか?)伝説の書に関することを。
 洋一は全身の血管が裏返るほどの焦りと気味の悪さを覚えた。首根っこをつかまれるとはこのことだろう。彼はもうどうしようもないと思っている。書く内容がない。なのに、今さら書かないなんてとてもいえない。どころか、アジームは疑惑の目を向けてくる。あの奇妙な刀で彼の首を切断するつもりかもしれなかった。でも、彼は自分が書けないのを知っていた。だってゴーサインが出ていない。だから、洋一はこう思った。こいつは成功しない、失敗だ。
 そのとき、けたたましい笑い声を聞いた気がして、洋一は天井に吊られた巨大な鐘を見上げる。伝説の書を拾い上げて、お前がやったのか、ぼくをはめたんだな、と胸裏に問いかけた。
 ともかく、もうロビン・フッドは処刑場についたようだ。歓声はいやまして、アジームたちは時計台から身を乗り出している。
「太助は、太助はどこ!」
 と洋一は訊いた。スタートリーはめんどくさげにこう応えた。
「あいつならこの下だ。お前がそうしろって言ったろ」
 洋一には記憶がない。ともあれ、自分はこの窮地を一人で乗り切らねばならないらしい。
「おい小僧、どうなんだよ。書くならさっさとしねえか! もうギルバートたちが仕掛けちまうぞ」
「わかってるよ! ただ、このまま書いたってうまくいかないんだ。だってぼくはモルドレッドがどんなやつかも知らない」
「言い訳はいい」とアジームは三日月刀をつきつけた。洋一は喉首の下に冷たい刃を押し当てられ息も出来なくなった。「御託を述べる前に書きこめ。出来ないならそう言え。俺は下りてロビンを救う」
「おい、なにをしてるんだよ」スタートリーが割って入った。「小僧を脅してもどうにもなるもんか。おい、小僧、おめえに力がねえのなら、怒らねえから正直にそう言え」
「なにも嘘なもんか!」
 洋一は怒って腕を振り回した。二の腕が剣に触れたから、アジームもようやく三日月刀をひっこめた。
「情報だよ! 情報がもっといるんだ! モルドレッドが魂をどう扱ったのか、どこにしまったのか、あんたたちそれすら知らないじゃないか! 下手なことを書いたら、この本はどんなつじつまあわせをするかわからない! 本当はもっとこと細かに書くべきなんだ!」
「どういうことだ?」
 と二人の大人は同時に訊いた。洋一は焦りでおかしくなりそうだった。下の喧噪はますますひどくなる。暴動が起こる寸前だ。
「だから、書くんなら、事実に忠実に書かないとぼくらの思い通りにはならないってことだよ! あんたたちにはロビンの魂をどうとりもどして、その後どうするのか、そのプランがなにもないじゃないか!」
「今更なんだ!」とスタートリーも腹を立てた。「そんな必要があるんなら、なんで先に言わねえ!」
「洋一」とアジームは洋一の肩をつかまえた。洋一はやむなく入れ墨の男を見た。「そういうことなら、魂はモルドレッドが持っている。ロビンから抜けだした輝く玉が、あの男の胸に入っていくのを見た」
「輝く玉?」
 洋一は光明を見る気がした。彼にはその場面がたやすく想像できた。
「それはどうやったら出てくるの?」
 二人は今度こそ顔を見合わせた。
「なにを言ってる。それをさせるのがお前の役目だろう」
「ちがうよ、それを実現させるアイディアが必要なんだ。それをこの本に書きこめば……!」
「このくそ餓鬼、そんなものたった今思いつくもんか!」
 スタートリーは釣り鐘を叩いたから、ゴオンという鈍い鐘の音が頭上に響いた。護衛の騎士が何事かと様子を見に来たが、アジームは手を振って追い払った。
「それはどうしても必要なのか?」
「わかんないよ。どうなるかなんて検討もつかない。だって、この本のことぼくはなにも知らないんだ」
 スタートリーはナイフを引き抜いて詰め寄った。頭に血が上って、ジョンの忠告すら忘れている。
「だったら、なんで俺たちをここまで連れてきた。ガキの戯言を聞かせるためか!」
「待て、スタートリー」今度止めたのはアジームだった。大人たちもこの千載一遇のチャンスを活かそうと必死なのだ。「洋一、俺たちはロビンを救うために最善を尽くしたいだけなんだ。お前も協力してくれ。俺たちを説得したときはあんなに自信に満ちていたろう」
 それはぼくじゃないんだ! 洋一は心中で悲鳴を上げていた。でも、口に出してはとてもいえない。本に嵌められただなんて。自分が本の持ち主というより、本に呪われた被害者かもしれないなんて今更いえない。
 洋一は涙目になった。アジームに気づかれないよう時計台の端により、手すりから物見台にいるモルドレッドを見おろした。本物のモルドレッドがそこにいる。その外見を描写することだってできる。問題はその先だ。これが小説の一場面だとしたら、と考える。仲間たちの呼び声にロビンが答えるというのはどうだろうか? モルドレッドの体から魂が抜け出る。処刑場を飛び交うさまを描いたとしたらどうなるだろう。 
 ふと気がつくと、処刑場の人混みは激しく動くようになっていた。守備兵らが処刑場の中央を目指して突き進んでいる。誰かを捉えようとしているようだが、そうすることでさらに混乱を大きくしているのだ。処刑の観覧にはモルドレッドの私兵も参加していたが、まだ傍観を保ち、整然とした隊列を崩していない。洋一は太助の姿を探そうとしたが、もちろんこんなところから豆粒のような少年を捜すのは無理だった。
 今のアイディアに矛盾があるとは思えない。書こう、と洋一は心に決めた。動機としては弱い。だけど、ゴーサインが出たのかどうか、こんなに焦った状態ではわからない。頼むぞ……と彼は万年筆をみつめてつぶやいた。
 洋一の決意を感じとり、アジームとスタートリーは息を飲んだのだった。
 洋一は石の欄干に本を広げた。高層の風にページが揺れた。
『モルドレッドはまだ三十代の壮年だった。人並みのひげを蓄え、茶色の髪で、どちらかというと平凡な顔立ちに見えた。背丈もウィル・スタートリーと変わらない。やせぎすで、ジョンやアーサー・ア・ブランドのような筋骨はかけらもなかった。けれど、その魔術とカリスマ性は彼を実際より大きく見せていた』
 アジームとスタートリーは感心して呻いた。伝説の書はまだその力を欠片も見せていなかったが、見たこともない複雑な文字(漢字のことだ)をこんな少年が操っている。
『モルドレッドはその体内に魂を抱えていた。彼がロビン・フッドから奪い封じこめた人魂だった。モルドレッドは異変を感じた。それは彼の耳がちびのジョンの呼び声を聞き、ロビンの魂が――』
 洋一はあることに気づいてペンを止めた。
「文が消えない……」
 喉が少し震えた。紙の上には文字が残ったままだった。スタートリーが後ろから肩をつかんだ。
「おい、なんだ、なんでやめる! もう全部書いたのか?」
「ちがうそうじゃない。本が文を吸いこまないんだ! いつもはすぐに消えてくのに……」
 そのときページが独りでにバラバラとめくれだした。
「だめだ!」
 と洋一は言った。
 伝説の書から風が吹き上がっている。重い釣り鐘を揺らすほどで、アジームたちもたじろいだ。そして、紙の上で文字が揺れている。まるで、伝説の書が文を追い出しているみたいに見えた。インクで出来た文章が、本から浮き上がり、左右に身をくねらせる。
 洋一は風にも負けずに前に出た。両手で文を押さえにかかった。スタートリーも後ろからのしかかる。三人の手の下で、洋一の書いたへたくそな文字が、紙から離れようと鳥みたいに暴れている。バタバタバタ。洋一は肩が外れるほどの衝撃に耐えかねて悲鳴を上げた。だめだ、こいつぼくを疑ってた、ぼくを見抜いてた! このアイディアじゃ駄目だって知ってるんだ!
 洋一は懸命に訴えた。「やめろ、文をすいこんでくれ!」
 そのとたん、洋一の体は大きく後方にはじかれた。彼は釣り鐘の真下に落ちて、鉄の巨大な空洞を覗くかっこうになった。そこへ紙を離れた文字たちが群がる。洋一は転がったままメチャクチャに腕を振り回した。二次元の文字が周囲をぐるぐると周りながら、爆撃機のように降ってくる。洋一は体をふって逃げ回ろうとしたが、額や頬にペタペタと貼りついた。
「うわ、うわあ!」
 アジームが空を躍る文字に向かって三日月刀を振り回した。スタートリーもナイフで突いた。ところがなんの手応えもない。
 洋一の顔はどんどんインクに覆われていった。今では伝説の書からは洋一の書いた以上の文が吐き出されていた。洋一が悲鳴を上げると、その喉にも文は飛びこんだ。頬がみるみるうちに痩けていき、目が眼下に落ちくぼむ。その下には大きなクマができた。血液が抜けていく恐ろしい感覚を味わう。彼は生命力を吸い取られている。手足があっというまに痩せていった。筋肉がなくなり、皮膚が骨に張りつく感触が自分でもわかる。肌はまるで皺だらけで老人だ。体の水分がごっそり減って、喉が渇き血液は濁り息苦しさに喉をかきむしる。アジームとスタートリーではどうにも出来なかった。騎士たちが二人上がってきたが、やはりこの光景に唖然となった。
 呪われた文字は洋一の生命力がすり減るごとに数を減らしていった。
 バタンと大きな音がした。アジームがふりむくと、伝説の書がページを閉じていたのだった。まるでこの小僧からはもう搾り取るものはないといっているかのようだった。伝説の書は、つまらぬ文章に、それを書いた張本人に、厳しい断罪を下したみたいに傲然としている。洋一は体が空っぽになった感触に苦しみ(なぜか猛烈に腹が減った。背中とお腹がくっつくようだ)、おちくぼんだ頬に手をあてた。指の先でかさついた肌――まるで干物みたいだ。ぼくは干物になっちゃった――アジームが抱き起こすと、彼は本に殺される、と乾いた唇で言う。すると、皮膚が裂けて、下唇から滴が落ちた。
「なんてこった」とスタートリーが言った。「あの本は本物だった。でもって小僧は文を書くのに失敗した! なんてこった!」
 だが、彼らの苦しみはそこでは終わらなかったのだ。下から悲鳴が聞こえて何者かが上がってくる、ブーツが石を叩く高い靴音がした。上にいた二人の若者が剣を抜いて階段口に向かったが、下から躍り出た男に一人はたちまち頭蓋を割られ、もう一人は胸を串刺しにされた。男はそのまま騎士を抱くようにして階段の残りを上ってくる。アジームは迎え撃とうと、洋一たちの前に出た。
 男の姿が階上に出、陽の光のうちに入ったとき、ロビン一味の剛強、ウィル・スタートリーは、うめき声を上げたのだった。
「モルドレッド……」

○     2

 洋一はアジームの腕の中で震えている。恐ろしいやつならなんどもあった。恐ろしい目にも遭ってきたのだが、存在そのものに圧倒されたのは、これが二度目のことだった。モルドレッドは彼が書いた以上の存在だったのだ。その恐ろしさときたら、ウィンディゴに引けをとらない。人の魂に大きさがあるというのなら、モルドレッドの魂は、その場にいた三人を飲みこむほどに大きかった。
「小僧」とモルドレッドは言った。「貴様なにかをしようとしていたな。このモルドレッドを害する気があったのだ! ちがうか!」
「ぼく――ぼく知らないよ。なにもしてない……」
 洋一はいったが、舌が干からびてほとんど言葉にならない。わずかに残った水分も涙となって抜けていった。
 モルドレッドは黒剣で伝説の書を指した。「あの本はなんだ。そんなものでなにをするつもりだった」
「ぼく、ぼくちがう。ぼくはなにも――」
「黙れ、小僧!」
 アジームは洋一をそっと床に寝かせた。頭蓋骨と皮膚の間の肉が無くなって、石の硬い感触が生々しく骨に伝わるのを感じた。アジームがちょうどいい、とつぶやくのが聞こえた。
「こちらから出向く手間が省けた。ロビンの魂は返してもらうぞ!」
「笑わせるなわっぱども」
 とモルドレッドは巨大な黒剣を死んだ騎士から引き抜いた。ウィル・スタートリーが言った。
「なにをしにイングランドに来た! なぜロビンを狙う!」
「狙う? ロビンをだと? それこそ笑止よ! この俺がなぜあんな小物を相手にする! 俺はこの俺のための玉座をとりにきたのだ。数百年の間簒奪された王位をだ」
「なにを言ってる?」
 スタートリーはじりじりと移動して、弓をとり矢をつがえた。その間の牽制はアジームが引き受けた。
 スタートリーは不敵に笑ったが、その片面は引き攣っている。「貴様は不死身を名乗っているそうだが、おつむは相当に弱いな。リチャード王を殺せば王権が自分に転がりこむとでも考えたか」
「お前はなにもわかっていない。王権はもともとが俺のものだ。リチャードこそが簒奪者だ!」
「ばかをいえ、戯れ言はもうたくさんだ!」
 スタートリーは弓弦を離そうとしたが、モルドレッドはそれよりも早くウィルの懐に飛びこんだ。アジームが身動きする暇もない。モルドレッドはスタートリーの利き腕をつかむと、逆巻きにねじって骨をへし折った。
「国王に弓引く気か、それでもイングランドの民草か!」とモルドレッドは言った。「俺こそは大ブリテンの王、アーサー・ペンドラゴンの息子、モルドレッド・デスチェインである! 控えろ!」
「アーサー? アーサー王だって?」
 洋一は頭をもたげた。その脳は答えを得て火花を散らした。その名前なら聞いたことがある。彼らは勘ちがいをしていたのだ。モルドレッドがフランスの貴族だときいていたから。ここはイングランドが舞台なのだから、ウィンディゴが登場させた人物とてイングランドの関係者のはずだ。そして、モルドレッドという名前の出てくる物語、それは――
「アーサー王だ……」
 と彼はつぶやいた。そのときスタートリーが、モルドレッドに答えて怒声をあげた。
「ばかを言うな。イングランドの王は、貴様が罠にはめ、殺した獅子心王をおいて他にない!」
 モルドレッドは哄笑をあげた。
「ジョンもリチャードも真の王不在の折をついた簒奪者にすぎん。イングランドの王たりえるのはこの世に俺をおいてないのだ!」
 モルドレッドはスタートリーを突き放した。スタートリーは悲鳴を上げながら、アジーム、アジーム、こいつを殺せ、と言った。アジームはすでに斬りかかっていたが、モルドレッドはまるでいくつも目玉があるみたいに、死角からのこの攻撃をやすやすと外した。黒剣の攻撃は、巌のように重く硬かった。アジームは三日月刀ごと吹き飛ばされ、釣り鐘に頭をぶつけて混濁する。洋一の上に鐘音が超音波のように振ってきた。アジームは洋一のすぐ足下に腰から落ちてきた。
 洋一は骨だけになったような体を(力がまるで入らない)どうにか動かしてうつぶせになり、
「ウィンディゴだ、こいつウィンディゴの手下なんだ」
 モルドレッドはかっと目を剥いた。彼の目玉は赤く光り、そして、目玉の奥に無数の目があった。
「控えろ、小僧! このモルドレッドがいかな男の下につく! 王は偉大なり、あのアーサーよりも! 我は不死であり、三つの呪いを背負いし王だ! 五百の赤子の魂をまとい、マーリンの血を受けし王! 我より偉大なものがどこにいる!」
 洋一とアジームは、モルドレッドの怒声を受けて、文字通り平伏した。
 どれも聞いたことのある話ばかりだ。それはそうだろう。彼はこの男の物語を読んだのだから。だけど、二つの物語が混ざり合ったりするものだろうか? ウィンディゴのやつ、そんな真似までできるのか?
 アジームは後頭部から血を流し、クラクラと頭を回している。傷口から脳がはみ出ていないのは幸いだ。ただ出血がひどかった。
 洋一は気丈にも立ち上がろうと、手を突っ張った。でも、足がいうことを聞かない。洋一は、手足を地面についたまま、モルドレッドを見上げた。
「ロビンの魂をかえせ! ウィンディゴの手先め!」
「この俺が誰の手下だというのだ。この俺こそが世界の王だ!」
「あいつはなにを言ってるんだ」
 朦朧とするアジームがつぶやいた。
 洋一が言った。
「だから、アーサー王だよ。あいつはアーサー王の息子なんだ」
「ばかな、アーサーなど、何百年も昔の人物だろう」
 と、アジームは震える声で言いかえした。彼は、血液まじりの唾を垂らしている。とても戦えそうにない。
 洋一は、動かない体がもどかしかった。本に力をとられなかったら、こんなやつ!
「卑怯者! この卑劣漢! 円卓の騎士なら、正々堂々ロビンと勝負しろ! 侍ならそうする。お前なんかに負けない。お前なんか、ぼくの知ってる侍なら……」
「小僧! 俺を円卓の騎士と呼ぶな! 俺は王だ!」
「うそだ! お前は王なんかじゃない! 一度も王になんてなれなかった。お前はアーサー王に勝てなかった! お前は敗北者だ。王なんかじゃ……」
「黙れ!」
 洋一が顔を上げたときには、モルドレッドは目の前にいた。アジームは力なく両腕を伸ばしたが、それはどうみてもモルドレッドに救いを求めているようにしか見えなかった。モルドレッドは無慈悲にも少年を蹴転がした。洋一の心が恐怖に燃え立った。その炎で内蔵が焦げたかのようだ。スタートリーが、逃げろ、呪われ小僧、といったときはもう遅かった。モルドレッドは右腕を高く上げ、洋一の額に指をめりこませた。まるで骨などなく、豆腐でできているかのようだった。
「ちくしょう、やめろ!」
 ウィル・スタートリーの折れた腕が揺れている。モルドレッドが叫んだ。
「俺を円卓の騎士と呼ぶな! 俺はあの者どもと同列などでは断じてない。俺は王だ! 中世より生きつづける不死の王だ!」
 洋一は、ぼくは死んだ! と悲痛な叫びを心に上げたが、不思議なことに痛みはなく、血も脳漿も流れなかった。ただ、脳をまさぐる指の感触を生々しく感じた。モルドレッドの指が電気を発したかのように、頭の奥で、ぱちぱちという音がする。
「貴様に呪いを植えつけてやる! 我が魂の爪痕を、貴様も味わうがいい!」
 洋一は、やめろ、と叫んだ。釣り鐘が揺れるほどの大声で叫んだはずだった。けれどその舌は言葉を求めて震えるばかり。口端からは涎が一滴垂れただけだった。まるで死体になって、魂だけが心に残ったかのようだ。痩せこけた体が冷えだす。声もでず息もできない。活動のすべてが隅に追いやられている。血流が脳に集まって、二倍三倍にふくれ上がる。
 呪いを植えつけられるその刹那、彼はモルドレッドの心に触れた。いまや洋一とモルドレッドは、呪いを通じてたがいに深く結びつきあっていた。洋一はモルドレッドに起こった数々の出来事を知り、その苦悩の人生に怖気をなした。こんな目にあって正気を保っているこの男はどうかしている。こいつに封じられているのはロビンだけじゃない。五百の赤子もおなじじゃないか! 彼の魂は救助をもとめて叫びまわった。恐慌をきたした狂おしい叫びに、モルドレッドもたじろいだ。それは何者かが洋一の声に応えて、雄叫びを上げたからでもある。
 モルドレッドは洋一の頭から指を抜き去り飛び下がった。彼の胸が光を放っている、モルドレッドはその光を両手で押さえようとする。洋一はその眩しさに目を閉じた。モルドレッドの苦悶とともに、金色に輝く魂が、モルドレッドの指を突き抜け宙に躍り出た。
 モルドレッドはその光り輝く玉を追った。
「ロクスリー!」
 ロビンの魂は宙を旋回して、モルドレッドに襲いかかる。モルドレッドは攻撃を防ごうと黒剣で身を守る。アジームは床に転がった洋一を抱きかかえると、スタートリーの側に避難した。スタートリーは、ロビン、ロビンと懐かしい名を呼んだ。もう何世紀もロビンの姿を見なかったようだというのに、その魂の輝きを目にした途端、二人の心に熱い親愛の情があふれてきた。ロビンは魂だけだというのに、仲間を救うたびにふたたび立ち上がったのである。
 ロビンは二度三度とモルドレッドを襲う。モルドレッドが黒剣をふるい、なんと釣り鐘をたやすく斬り裂いた。
「ロビン、ロビン逃げろ! 俺の仲間を助けてくれ!」
 とスタートリーが言った。アジームが彼のナイフを奪い、モルドレッドの胴を突き刺した。モルドレッドは不意をくらってよろめく、貴様、と眼光鋭くアジームをにらんだ。洋一は恐怖に震え上がる。アジームに刺された傷口が、死兵とおなじあぶくをたてていたからだ。
 ロビンの魂はモルドレッドの顔をうち、つぎに傷口にとびこんで、そのまま彼を引きずりだした。モルドレッドはたたらをふんで、欄干に腰を打ち当てる。アジームが後を追う暇もなかった。ロビンの魂はモルドレッドともつれあって彼を時計台から突き落としたのだ。
 アジームとスタートリーはすぐさま欄干に駆けよって下をのぞいた。下界の樹木の隙間にモルドレッドのものとおぼしき足が投げだされているのが見えた。すでに人が集まりだしている。
「あいつは死んだのか?」
 とスタートリーが訊いた。
 アジームはわからんと答えたが、モルドレッドがやすやすと死ぬはずのないことは、この二人がよくよく分かっていたのである。

○     3

 洋一は悲鳴をあげて転げまわる。右手の中に、灼熱の痛みがあった。
 アジームが伝説の書をもってもどってくる。
「みせてみろ」
 ウィル・スタートリーが洋一の指をひらくと、手のひらには、どす黒い亀裂がひらけている。肉はなく、血もなかった。まるで、大地の亀裂のようだ。亀裂の後には暗黒が漂っている。アジームはうめいた。「あいつの毒だ」
 洋一は痛みのあまり涙をながす。アジームは彼の胸に気休めみたいに本を置いた。
「どうなるの?」と洋一は訊いた。
「十字軍で、おなじ傷をもつ死体をなんどもみた」アジームはつぶやくように言った。「その傷跡は、やがて全身に広がりお前を喰いつくす。パレスチナで広がった奇病だが、あいつのせいだとは知らなかった」
「いったい、どうなってる」とスタートリーがアジームに訊いた。「あいつはフランスの貴族じゃないのか?」
「ちがう。あいつは本物なんだ」洋一が言った。額には脂汗が浮いている。「あいつに呪われたときに、いろんなものを見せられたんだ。あいつはほんとに中世から生きてる。本物のモルドレッドなんだよ」
「そんなばかな」とスタートリー。「いくら王家の人間でもそんなに生きられるはずがねえぜ」
「聖杯だよ。円卓の騎士は聖杯をさがしだしたじゃないか。あいつは永遠の命をえるために、ゴブレットの生き血を飲んだんだ」
「三つの呪いとはそのことか?」とアジーム。
 洋一は震えながらうなずいた。「マーリンだよ。全部、マーリンが仕組んだんだ。マーリンはモルドレッドが生まれたとき、五月一日に生まれたこどもが災いをもたらすって予言した。五百の赤子っていうのは、そのとき小舟で海に捨てられたこどものことなんだ。その中にモルドレッドもいた。船の中は、赤ちゃんの死体でいっぱいだったのに、あいつだけは死ななかった」
「もともと不死身だったってえのか?」
 ウィルの言葉に洋一は首を振った。
「そうじゃない。死ななかったのは、マーリンが自分の生き血を飲ませたからだ。あいつはモルドレッドを自分の手下にしたかったんだ」
「待てよ、伝説じゃあマーリンはアーサー王を助けたんだろう」
 とスタートリーが言った。
「もとのマーリンはそうだった。でも、マーリンは夢魔と人間の間に生まれたんだ。マーリンのお母さんは、マーリンをまっとうな人間にするために、教会で洗礼を受けさせた。マーリンから悪の心がぬけて、不思議な力だけが残ったんだ。でも、悪のマーリンも生きつづけた。そして、善のマーリンを殺して、なりかわった」
 マーリンのもくろみどおりになった。モルドレッドは古の血とイングランド王家の血筋をもつ混血となったのだ。
 海峡をわたったモルドレッドはフランス貴族に拾われ育てられる。やがて、育ての親を殺したモルドレッドは、イングランドにもどり、円卓の騎士の一員となる。彼はマーリンと結託して、父王アーサーを追い落とそうとする。モルドレッドはアーサーと戦い、その槍に胸を貫かれる。だが、アーサーもまた深傷のために亡くなってしまう。マーリンは円卓の騎士を壊滅させ、モルドレッドもまた父王殺しの呪いをうけてしまった。
「モルドレッドは死ななかった。そのときには、聖杯の生き血を飲んでいたから。だけど、マーリンは動けないモルドレッドを、迷宮に封じるんだ」
「そこから、出てきたってえのか。復讐のためにリチャード王を殺し、イングランドの王位につこうってのか」ウィル・スタートリーは釣り鐘の下を歩きまわった。「こうしちゃいられねえ。ロビンを救わねえと」
「まだあるんだ」と洋一はひきとめた。「ジョン王の側近のモーティアナは、自分はマーリンの弟子なんだって言ってた」
「なんてこった……」
 スタートリーがうめく。洋一もおなじ気持ちだった。イングランド王家の血を引きながら、マーリンの生き血を啜り、五百の赤子の呪いをうけ、聖杯の呪いを受けし男。さらに父王殺しの呪いまで背負っている。ウィンディゴに勝るとも劣らないやつだ。
 洋一は右手をかかげて傷口をとっくりとながめた。傷口の闇は、まるで暗黒の霧であるかのようにうごめいていた。洋一の心は絶望に冷えた。ただの傷口なんかじゃない。本物の呪いがそこにあった。 あんなすごいやつがいたんじゃ、ロビンが復活しても、きっと……
「洋一」アジームがやさしく少年の肩をゆさぶった。「すまないが、いまは一刻を争う。立てるか?」
 洋一はアジームに抱え上げられる。左手で傷ついた腕と伝説の書を抱え、痛覚を楊枝でほじくられるような痛みに苛まれながら。脳裏では友人に語りかけている。
 アジームが走り、洋一は体が揺れ、頬を流れる一滴の涙を風が揺らすのを感じる。幼い友人がどこかでおなじように走っているのを感じる。
 あいつに謝らなくちゃ、ぼくのために忠告してくれたのに、ひどい口をきいてしまった。それに伝えないと! モルドレッドのことを、あいつがどんなに危険かって……
 洋一はアジームの腕のなかで本を開こうとしたが、体が奥底から震えて指がうまくつかえない。本になにかを書きこむには、彼は傷つき、かつ疲れすぎていた。
 彼は表紙に掌をおいた。伝説の書がしっとりと息づくのを感じる。本は味方でないと知りながらも願わずにはいられない。
 彼は、太助太助死ぬなと心中に言葉を発しながら、意識を薄れさせていった。太助に伝えるんだあいつを助けるんだと念じながら、彼は意識をなくしたのだった。

○     4

 ジョンは必死に走りつづけた。ロビンの元をめざし、群衆を掻きわけていく。フードは脱げ、武器も丸出しになっていたがそれにも構わなかった。ちびのジョンは無意識のうちにつぶやいていた。
「ロビン、ロビン待ってくれ、死刑囚などにならねえでくれ」
 群衆にもまれるジョンの大向こうで、ロビンは死刑台に引き上げられる。あのロビンが犬のように両手をついていた。それだけでジョンの胸は張り裂けそうだ。あれはロビンじゃねえ、あんなものロビンであるもんか!
 彼は怒りの唸りを上げた。
「おめえら、おめえらにロビンを殺す権利があるのか! あの男は真っ正直に生きたんだぞ。名無しの浮浪なんかじゃねえ、やめろ!」
 ジョンは周りの人間を残らず蹴散らし、ついに兵隊たちが目をとめた。処刑台の兵士たちは、ジョンを捕らえようとする者と、処刑を執行しようとする者、二手に分かれる。ジョンは剣を抜き放ち、逃げまどう人々の中を突き進んだ。ロビンは首に縄をかけられ、ぐったりと頭を垂れている。もう死んでいるようにも見える。
「ロビン、ロビン・フッド! 目をあけて俺を見ろ! おめえの副隊長がきたんだぞ!」
 兵士たちは壇上に並んで槍を突きだしてきた。鰯の群れのような穂先が彼の行く手を阻んだ。ジョンは仰け反りながらそのけらくびを斬り上げ、たった一人で槍ぶすまを突き進んだ。
「くそう、邪魔をするな!」
 兵士たちはジョンを叩き落とそうとするが、大勢でいっせいに槍を繰りだすものだから、いっかなジョンには当たらない。ジョンは棒で叩かれ、穂先に肉を削がれながらもロビンを救おうと猛り狂った。そのうちにジョンのもとに仲間の騎士たちが駆けつけ、弓の援護がはじまった。
 広場へつづく二つの道路から十字軍が津波のように押し寄せてきた。守備隊の陣形が崩れたち、死刑台にも動揺が走った。ちびのジョンはそのすきをついて、剣を風車のように振りまわし、死刑台の上の足を払ってまわった。血が飛散し、台を濡らし、ジョンの顔を撫でまわす。兵士たちが敵わずとみて飛び下がると、ジョンは巨体を踊らし、死刑台に飛び上がった。
「俺はジョン・リトル、イングランドのヨーマンだ! ロビンを返してもらうぞ!」
 太助も日本刀を手に駆けつけた。彼は死刑台から落ちた槍に足をかけて跳ね上がる。ジョンに近づく敵兵を斬り倒した。ロビン側の騎士たちは威勢を駆って台に上がり、敵兵を追い落とした。
 ちびのジョンは夢中で叫んだ。
「太助、ロビンだ、ロビンがいたぞ!」
「ならばロビンの縄を解け!」
 銃声が轟いた。太助の周りで騎士たちがバタバタと撃ち倒された。銃士隊だ。モルドレッドの連れてきた私兵隊が、死刑台の右手から攻撃を加えている。太助は身を投げだすと同時に兵士の落とした盾を拾った。太助は盾の陰に身を隠しながら、死刑台の周りを見回した。もう、敵も味方も入り乱れての混戦となっている。一方で銃士隊は区別をつけずに発砲してくるのだから始末に終えない。銃弾が盾に当たって貫通した。太助は盾の銃痕を裏から見ながら、火縄銃とはこんなに威力があるのかと瞠目した。これでは新式銃にも劣らない。
 仲間たちは幾人も壇上に上ってくるが、後から後から撃ち殺されている。太助は堪らず叫んだ。
「ジョン、早くしろ!」
 ロビンの脇では、司祭が手を合わせて命乞いをしている。ジョンはこの老人の手を取り追っ払うと、ロビンの体をしがみつくようにして抱き上げた。
「ロビン・フッド!」
 ロビンが顔をもたげる。その虚ろな目が、ジョンの脳髄を突き刺した。
「俺がわからねえのか?」
「なんだ、貴様……」
 とロビンが言った。ジョンの瞳に涙が浮いた。昔日のロビンが脳裏にいくつも蘇る。彼はまぶたをしぶると、震える胸をのみこみ言った。
「俺が来たからにはもう大丈夫だぞ。シャーウッドに帰ろう」
 帰ろう
 その声はひび割れ、言葉の終わりはかすれて消えた。だが、その暖かな呼びかけも、ロビンを呼び戻すには至らなかった。ジョンが縄をほどこうとすると、ロビンはいやがるように身をよじらせる。やめろ、と拒絶したのだった。
「俺だ、ちびのジョンだ!」
「貴様など知らん」とロビンが言う。「俺は今死にたいのだ」
 ジョンは本気で腹を立てた。地響きのするような唸り声を上げた。ロビン・フッドはこんなことを言わない、生きるために、仲間を生かすためにどんな力も発揮した男がいまさらなんだ! ジョンはロビンの肩を揺さぶりだした。
「パレスチナがなんだ! 魂がなんだ! 貴様の体は今ここにあるだろうが! さあ、目を開けて俺を見ろ! 俺の名を呼べ! 俺は誰だ!」
「やめろ、貴様!」
 もみあう二人の周囲にも銃弾が飛び交いだした。銃士たちが周囲の建物にあがって、下界をめがけて銃撃をはじめたのだ。
 太助はもう盾を捨てて戦っていたが、たまらずジョンの元に下がってくる。「ジョン、なにをしてる! 銃隊だ! 皆殺しにされるぞ! ロビンを下ろせ!」
「こいつはロビンじゃねえ! 俺はロビンのために命をはるんだ! おめえがロビンじゃねえのなら、俺はお前を助けねえ!」
「ジョン、意地を張るな!」
 首吊り台の木片が散り、三人は首をひっこめた。
 奥村太助は首吊り台の根本にうずくまりながら、怒りのうなりを上げた。無差別な銃撃で市民たちが折り重なるように倒れていくのが見えたのだ。
 彼は生まれてこの方、私心を捨て公のために生きる侍の教えをたたきこまれてきた。公とは民草のことだ。供に旅した大人たちがこの小柄な少年に叩きこんだのは、侍の理想像にほかならなかった。すべての人民のために、侍は命をかけるのではないのか。銃士は侍ではないが、騎士はその近くにあると聞いている。
 太助は怒りに震えて立ち上がると、銃士めがけて呼ばわった。
「貴様らの所行しかとみとどけたぞ。天が許そうとも侍たる自分がお主らを許さん! そこをおりて剣をまじえろ! 無抵抗の者を狙うな!」
 太助、やめろ、とジョンは言った。そう言いながら彼は、ロビンの前に仁王立ちとなった。弾丸が幾度となくかすめて頬を焼いた。彼の眼上では銃弾が煙を噴いて飛び交っている。銃士たちが進撃して、処刑台の正面に回りこんできた。
「そんなにロビンを殺してえなら、俺の命をとってみろ! そんな鉄の玉っころで死ぬもんか!」
 彼らは群衆より高い位置にいて格好の的になっている。銃士が折膝の姿勢をとって銃を構えだす。ジョンは顔を背けなかった。これまで長年月そうしてきたようにロビンのために体を張っている。ロビンはそこをどいてくれと懇願し、ジョンはどくもんかと言い張った。太助もついに呆れかえった。二人ともだだっ子みたいに強情だ。
「なぜそんな真似をする。俺などを救ってどうなる。俺は食い、寝、排便するだけの下らん存在だ……もう誇りもなにもない」
 ロビンは十字架に縛られたまま、鼻水を垂らして泣いている。ジョンは涙に頬を濡らしてつぶやいた。
「俺にはお前が必要なんだ。必要なくたって必要なんだ。絶望するなら、精一杯やってからにしろ!」
 ロビンはジョンの背中に語りかけた。君は、自分などのために死ぬべきではない。自分は君など知らない。自分は生きていてもしかたのない人間だとかき口説いた。
 ジョンは涙した。かつてのロビンは生命力に満ちあふれた人間だった。絶望にあっても活路を思い、どんな窮地も切り抜けてきた。くそったれ、とジョンはロビンに腹を立てた。何年ぶりかに帰ってきておめえの無様なざまはなんだ。俺に弱音を吐きにもどってきたのか
「何百万の敵にだって角笛をならして立ち向かったおめえはどこに行った! どんな相手にも体を張ったおめえはどこだ! 立派な生き様をする気がねえのなら、立派な死に様をする資格だってねえ! 俺たちがそんな人間に成り下がったんなら、天は俺たちを殺すべきだ。ともに死んでやるから、ともに行こう、ロビン・フッド」
 ジョンはついにどかなかった。銃弾がその体を揺らした。腕に食いこみ、胸に当たった。けれど、ジョンは歯を食いしばり耐えた。呻き声すら上げなかった。ジョンの足下を濡らす血溜まりが、ロビンの目にも見えた。
「やめろ、なぜこんなことをする!」
「だまれ、名無しの無法者!」
 とジョンは吠えた。ロビン・フッドがこの天地にいないのなら、彼はこの男と一緒に死ぬつもりだったのである。

 ロビンはパレスチナからこちら、自分がなにを見、どんな目にあってきたのかを言いつのった。ロビンが世に絶望したのも無理はない、と太助は思った。仲間とはぐれては、虐待にあい、戦乱に巻きこまれ、虐殺の現場に立ち会ってきた。魂をなくし、赤子のようになった人間が、そんな目にあってきたのだ。だが――
 太助は目を細め、硝煙にけぶる広場を見渡した。処刑台に集まる銃撃はますます数をましている。刀の腹に弾が当たって、彼は柄を取り落とす。愛刀がガラリと台場に落ち、太助は血に塗れた台を這って刀を拾った。
「洋一!」
 と彼は言った。ぼくらを助けてくれ!
 その声が聞こえたわけではあるまい。まして、彼は洋一が文を書くのは失敗したろうと信じこんでいた。
 もうおしまいだ。自分たちは父上と男爵に会えぬまま、この街で死ぬんだ。
 太助は血で滑る掌をぬぐうと、刀を握りなおして壇上を降りようとした。鉄の玉に殺されるぐらいなら、敵兵と戦い斬り死にしたかったのだ。
 そうして、処刑台から駆け下りようとしたとき、時計台のあたりから光がたち去るのが見えた。彼は雲の下で光を見失ったが、光はすぐに現れて、広場を旋回し、銃士たちの頭上を飛びこえて、敵兵の生き肝を抜いた。
 ロビンの魂だ!
「ジョン、見ろ!」と太助は言った。「洋一のやつ、やったぞ!」
 光が処刑台を目指して飛んできた。ジョンの体を突き抜けて、ロビンの胸に突き刺さる。
 その間も、ジョンは朦朧としつつ、まだ巨体をたてていた。こめかみを弾丸がかすめると、ジョンは大きく身を蹌踉めかせる。ロビンは、ついにその名を呼んだ。
「やめろ! やめろ、リトル・ジョン!」
 ジョンは驚いて意識をとりもどした。よろめいたおかげで、半身の姿勢となって、それでロビンと顔を合わせる結果となった。フルラウンドを打ち合ったボクサーのように茫漠としたジョンの意識が、このときだけは明瞭となった。
 ロビンの顔は涙に濡れていたが、その瞳は燃え上がる義憤に輝いている。さきほどまでの弱々しさは微塵もない。ジョンは、おおと口元を両手で隠した。涙があふれると、その手で目玉を覆ったのだった。リトル・ジョン。なんて懐かしい呼び名だろうと思った。それはロビンが、本気で怒ったときに口にする言葉だ。聴きたかった声だ。いまこそ、こいつはロビン・フッドだ!
「リトル・ジョン! 俺のいうことが聞けんのか! 下がれ!」
 ジョンが言われた通りに身をしゃがめると、ロビンの右肩を弾丸が掠めた。ジョンが悲鳴を上げ、太助が刀を回し、ロビンのいましめを切り裂いていく。
 その間も弾幕が乱れ飛ぶが、ロビンはびくともしなかった。太助が足の縄を切ると、首にかかった縄をほどきつ、死刑台から身を乗りだしたのだ。
「アラン・ア・デイル、弓をもて! ヨーマンよ、我が元に集え! 我が敵を討ち果たせ!」
 ロビンの呼び声に十字軍は奮い立った。銃士隊が旧装備の騎士たちに押されはじめた。
 ジョンはロビンの側で膝をついていた。かつてのままのロビンが、突然出現したかのようだった。彼は他のどんなものより人間らしかった。まさしく正しい人間がそこにいた。自分がどんなに飢えても、困っている人間には手をさしのべる男――不信に苦しみ、猜疑にとらわれた人間も、ロビンならば信用するだろう。なぜなら、ロビン・ロクスリーはどんなことにだってその身を投げ出して立ち向かう男だし、どんな困難にも決して後ろを向いたり道を逸れたりしなかった。人のいるべきど真ん中にいつだって立っている男だ。ジョンは、この男のこの姿が見たかった。ヒーローに憧れる少年のように、彼はこのロビンにこそ会いたかったのだ。
 手近にいた騎士たちが、ロビンのもとへと駆けつけてくる。
「ロビン……」とジョンは友人を見上げる。
「ちびのジョン。お前に会うのもずいぶん久方ぶりだなあ」
「ああ、ああ」
「ジョン、おかしいのだ。ここは戦場だというのに、この穏やかな気持ちはどうしたことだろう」
 ロビンは自分を付け狙う矢弾が別世界のことであるかのように、ゆったりと目を閉じた。まわりに居並ぶものは、身を隠すことも忘れて彼に見惚れた。
 ロビンは自分をとりまく日の光や風を、心ゆくまで味わった。細胞の一つ一つが目覚めていき、そのたびに喜びがわきおこる。力がふつふつと踊るように湧いてくる。
 天が地上にいる人間に味方をすることがあるのだとしたら、まさにこのときだったろう。奥村太助は、この男こそ、この物語の主人公、ロビン・フッドにまちがいないと強く感じた。自分に心服する男たちを従え、悠然と目を閉じている姿は、まさしく侍そのものだった。
 ロクスリーのロビンは、古い友人をかたわらにつぶやく。
「長い暗闇の中にいたようだ。ジョン、見ろ、この日の光を。潮風をかげるか。曇り空すら美しいではないか。俺はたった今生まれたようだぞ」
「ロビン、あぶねえ」
 ちびのジョンは弾丸から守ろうとしたが、ロビンは彼を追いはらった。
「かまうな、ジョン。今下で死に玉を恐れず戦うヨーマンたちを見ろ! なぜ俺だけがひっそりと隠れることができようか! さあ、みな陽の下に顔をさらせ、俺たちは誇りたかきヨーマンだ!」
 そのとおりだ!
 ジョンはロビンに唱和したかったが、のどは涙につまり、なにも言葉にすることはできなかった。
 ロビンは壇の上からふりむいた。
「ジョン、長いあいだ苦労をかけたが、それも最後だ。これからはともに苦しみ、ともに喜びをわかちあおう。ともに行こう、兄弟よ!」
 ジョンはむせび泣いた。
「俺にはその言葉だけで十分だ。そして、許してくれ。お前の苦しみを、俺はたった今までとりのぞくことができなかった」
「なにを言うジョン。その苦しみすら、今日の喜びを得るためにあったのだ! さあ、今こそ戦いの時だ! 俺たちは、ヨーマンだ!」
 二人のまるで似ていない兄弟たちは互いの背を叩き合った。太助が、兵隊より奪いとった長弓と一束の弓矢をさしだした。ロビンは少年の肩をたたき、武具を受け取る。
「これこそ最上の贈り物だ」とロビンは言った。「さあ、太助、ともにつづけ!」
 ロビンは次々と矢をつがえながら絞首台を飛び降り、ちびのジョンが後に続いた。
 奥村太助は二人の勇姿を見送った。ロビンの口にした言葉にとらわれている。
 ロビン、ロビンはぼくのことを知ってる。
「洋一……」
 太助は、牧村洋一がいるだろう方角に目を向けた。そこには曇り空が広がるばかりで、友人の安否はようとしてしれなかった。

○     5

 ロビンはまるで軍神のように、フランス銃士隊の前に立ちふさがった。伝説のロビン・フッドが弓をとるに当たって、獅子十字軍はついにその息を吹き返した。
 銃士が処刑台を囲みだすと、ロビンたちは得意の弓で応戦した。ジョンの棒術が男たちを遠ざけたし、運良くとりついた者も太助によって斬られてしまった。
「ちくしょう、ロビン、あの銃ってのがやっかいだぜ」
「俺の弓ほどあたらん。心配するな」
 ロビンが肩を叩いても、ジョンはちっとも安心できない。ロビンの弓ときたら、外れたためしがないし、それより劣るのは当たり前ではないか。
「大通りにはギルバートと十字軍がいるぞ」
「ギルバート、あいつもか」
「そうだ。あいつらがフランス軍をひきつける。俺たちはその間に、港に走るんだ。仲間の船が待ってる」
 ロビンは軽快な笑いをあげた。「まったく君みたいなまめで義理堅い男は見たことがない」
「俺はお前の副隊長だぞ」
「ああ、そのことを天地に感謝するとも」
 群衆に交じっていたロビンの仲間たちが、その正体を現して、処刑台に集まりはじめた。彼らは市民とおなじ格好をしていたので、銃士たちも手こずった。ために、本物の市民を誤発するという事件も起きた。ロビンの古い仲間たちは、隊長の下を目指して一散に駆ける。ロビンは彼らを救うために弓を引き絞りつづけた。長い眠りの中にいたというのに、ロビンの弓は衰えるということを知らなかった。
 アラン・ア・デイルが、ロビンに向かって叫んだ。
「ロビン、ロビン、隠れろ。銃士が君を狙っているぞ」
「なんの、その身をさらして戦う部下がいるというのに、俺一人が身を隠せるか。さあ、存分に戦え。矢弾は俺が引き受けたぞ!」
 矢弾を一手に引き受け奮戦するロビンの周りに、懐かしいシャーウッドの仲間が集まってきた。彼らは得意の弓で銃士隊を押し返しはじめた。
 マスケット銃は、どれも先ごめ式だ。装填に時間がかかっているのをみて、ロビンは仲間の周囲を飛び回り、右に左に指揮してまわった。このため、満足に弾ごめもできなくなった。
 不利を覚った銃士たちは、黒い玉に火をつけて回り、つぎつぎと遠投をはじめた。ソフトボールよりも大きな玉が、ドテドテとジョンの方に転がってくる。
「ロビン、ありゃなんだ!」
「伏せろ!」
 ロビンがジョンに組みついた、爆炎とともに、炎と鉄片が二人の体を叩いた。
「炸裂弾か」
 とロビンは言った。粉屋のマッチが、
「あいつら、十字軍に参加してたやつらだ。サラディンの武器をまねやがったんだ」
 ジョンはあわてて太助の姿を探した。少年は騎士たちの一団に守られて無事だった。
 体勢をたてなおした銃士たちが、弾ごめを終え、いっせいに射撃を開始する。
「処刑台だ、処刑台の裏へ回れ!」
 ロビンが叫ぶと、アランたちはすぐさまその意図を察して、処刑台を土台から担ぎ上げ、横倒しにした。銃弾と、炸裂弾が轟々と倒れた台座を突き崩す。
「弓の達者なものは集まれ!」
 マッチは呵々大笑した。「それじゃあ、おおかたきちまうぜ」
「なら、手頃に集まれ」とロビンはやりこめた。「いいか、火薬をつかうやつを残らずしとめて回れ、それ!」
 ロビンたちは弓の射角を上げ、銃士たちの真上から矢を振り落とした。炸裂弾の炎が敵陣に上がる。マッチが、大穴の隙間から向こうを覗いて言った。
「どうだ、まっすぐしか飛ばねえ銃弾にはできねえ芸当だろう!」
 ロビンは処刑台をよじ登ると、真上に身を乗り出して、自慢の弓をきりきりと引き絞る、隊長と見られる男めがけて射はなった。ロビンの矢は、男の胸当てを貫き通し、深々とうまる。男は倒れることもままならず、真下に膝から崩れ落ちた。イングランドでも滅多とお目にかかれない、見事な威力と正確さだ。
「弓だ、もっと矢を持ってこい!」
 それからロビンはジョンに耳を近づけ、
「ジョン、君は斬りこみ隊を連れて行け。俺たちは銃士どもをやっつけるんだ。弓隊集まれ!」

 ロビンが懐かしいヨーマンとともに銃士隊の囲みを突破しようとするころ、ギルバートひきいる十字軍は大通りと広場をはさんで、守備隊と激しくぶつかりあっていた。
 ギルバートは、処刑台のロビン・フッドに銃士たちが群がるのを見た。彼は仲間の背中を押しながら言った。
「処刑台のロビンを生かせ! あの男を死なせるな!」
 ギルバートはロビン救出にあたって、部隊を三つに分けていた。広場にのりこむ部隊、ロビンを逃がす隊、そして、守備隊をおびきよせるため、退路を固める部隊である。彼は、それぞれの隊を区別するために、色分けした布を騎士たちの腕に巻かせていた。いま、ギルバートのまわりにいるのは、赤布を巻いた決死の男ばかりである。彼らは大将のギルバートを下がらせようとしたが、ギルバートは引かなかった。
「俺たちはリチャード王を死なせた。サラディンに敗れ、このままではジョン王に討たれるだろう。だが、ロビンがいれば、俺たちはもう一度戦うことができるのだ!」
 彼はロビンにこそ大儀があると言いたかったのだ。仲間の背をおし、死体を乗り越えながら、騎士たちを鼓舞してまわった。騎士たちは喚声をあげて守備隊を切り崩しはじめた。
 甲冑の音が、ギルバートの耳をつんざいた。銃弾が鎧にうち当たっているのである。すでに、かれ自身も身に数発の弾丸を受けていた。
 敵と切り結ぶギルバートの脳裏に遠き故郷の姿がありありと浮かんでくる。両親や、妻、娘たちの姿がなんども浮かんではそれをふりはらうために剣を振るった。
 生きて帰る、俺は生きて帰るぞ!
 十字軍は守備隊を二つに断ち割った。ギルバートの目に、ジョンや仲間にかこまれたロビンの姿が見えた。ギルバートには、あれこそイングランドの雄々しき魂だと思えた。ギルバートたちはロビンを中心に逃すまいとする守備陣を打ち破った。銃士隊が追ってこなかったのは幸いだった。モルドレッドがいないために組織だって戦えなかったのだ。

 ロビンが海上で待つ私掠船団を目指すころ、洋一もアジームにおぶわれて仲間の後を追っていた。モルドレッドの呪いを受けて以来、まったく目を覚まさない。その右手には大きな亀裂が口をあけ、銃士が放っていたのとおなじ黒気を漂わせている。
 牧村洋一は、そうして異国人の背に揺られながら、伝説の書と戦っていた。彼の本は主人の心を食らいつきに掛かっていた。
 以下はその顛末である。

○     6

 洋一は闇の中を漂っていた。そうして闇を漂いながら、多くの人々の声を聞いていた。それは大半がくだらない願いで、大半が醜かった。それは本に閉じこめられた人々、本に魂を喰われた人々の声だった。昔本は中立だったのに、本に願いを書きこんだ物書きたちが、伝説の書を汚してしまった。洋一は人々の呪詛の声や、妬みや恨みを聞きつづけて悲しくなった。もうやめて欲しい。もう聞きたくないよ。もうたくさんたくさんだ……
 そうして彼は泣いていたから、自分がいつのまにか闇を漂うのをやめ、硬い闇に(おかしな表現だが)横たわっているのを感じた。洋一は首を巡らした。自分の姿が見えるようになっている。他にはなにもなく声もしなくなっていた。
 動悸が激しかった。フルマラソンの後みたいに、汗をぐっしょりとかき、あえぎながら目を瞬いている。洋一が起き上がると、ぱさぱさになった筋肉の腱が、今にも斬れそうに軋みを上げた。
 くそっ、と彼は小声で言った。側におぼろな影が立っていた。ウィンディゴ……。恐怖のなかでつぶやいたとき、そのうっすら光る影は幾重にも分裂し、十二の人体となって彼を囲んで回りだす。やめろ! 大声で叫んだ。右に左に走ったが、影たちは彼につられて環を動かし、逃げられない。
「小僧!」
 その声は、十二の塊となって洋一をうちのめした。彼は環のなかで倒れ伏した。
「ウィンディゴだな」
 懐に手を入れる。だが、そこにあるはずの本がない。
「お前は幻だ! だまされないぞ!」
「そんな様で親の敵などとれるものか。呪われた体でなにができる」
「そんなことない。ロビンだってちゃんと復活したぞ」
「お前は失敗した。その証拠に伝説の書に生命を奪われたではないか」
 洋一は反論できなかった。本に殺されるかと思ったあの瞬間を思いだすと、今でも心が震えてくる。
「お前はなんの力もない小僧だ、父親からなにも教わらなかった」
「そんなことない」
「お前に本を持つ資格はない、伝説の書をわたせ、小僧! お前にはすぎたるものだ!」
「ぼくのだ、あの本はぼくのだ」
「本に取り殺されてもかね」
 ウィンディゴの回転はどんどん速くなっていった。洋一は自分が回っているようにすら感じる。胃袋の中身が逆流し、地面に伏せる。片手で口を押さえながら、洋一はしっかりしろ、と自分に言い聞かせた。
 洋一はぼくをおかしくしていたのはこいつらなんだと考えた。こいつらがぼくにおかしなことを吹きこんだ。ぼくと太助の仲を割った。ぼくが聞いてたのはこいつらの声だった。
 こどものころもおなじようなことはよくあった。聞こえない声に耳を傾け、見えない誰かに物ごたえをしていたらしい。恭一は見つけるたびにきつく叱って、注意を促した物だった。本に呪われた者の哀れな末路を、たどらせないために。今思うと、彼は伝説の書の声をあのころも聞いていたのだ。恭一が声に対処する方法を教えてからはそうした声は遠ざかった。物心がつくころには本からのささやき声はほとんど聞こえなくなった。それは、きっと恭一が伝説の書に結界を施してくれてからだろう。
「お前、お前なんか、お前なんかに渡さない。お前は本の世界に来られないんだ」と吐き気を飲む。「お前のやっつけ方なら知ってるぞ。追っ払い方なら知ってるぞ」
 彼は本当に吐いた。影はゲタゲタと笑う。悪意に満ちた歓喜が、洋一をねじ伏せる。彼は本の世界に取りこまれかけていた。
 負けない、負けちゃだめだ。死んじゃ駄目だ。あんなやつらの仲間になんかなるな!
 洋一は曲げていた体をぐっと伸ばし、顔を上げた。ウィンディゴの笑いが止まった。
「色は匂へど、散りぬるを!」
 洋一の声は、まるで魔法のようだった。光を帯びて、十二の影をぶっ叩く。回転が弱まり、ウィンディゴたちは苦痛に耐えかねたように体をゆがませよろめいた。
「我が世誰ぞ、常ならむ! どうだ! おっぱらい方なら知ってるって言っただろ! ぼくを笑いやがって! 本を持つ資格がないなんて嘘だ! 有為の奥山、今日越えて! さあ、どうだ、言葉ならたくさん知ってるぞ! 古い言葉の力だぞ! 浅き夢見じ、酔ひもせず! お前の負けだ! さあ、ぼくを自由にしろ! お前が伝説の書の影なら、ちゃんとぼくに従え!」
 影たちの手が一つ一つ離れていった。バラバラとなり、倒れ、そして、闇へと解けていく。形をなしていた闇が、ほどけていくようでもある。闇だ、あいつらは本物の闇だったんだ、と洋一が思ったとき、かれ自身も脳の血が抜けるようにして意識をなくし、地面すらない闇の中へとけこんでいった。
 洋一は、
「父さんになにも習わなかったって。バカをいえ」
 とウィンディゴに向かって叫び、そして、闇の世界から現実へと立ちもどっていく。
「洋一、洋一」
 誰かが手を握っている。洋一が目やにでくっついた瞼をどうにか開けると、顔の上に太助がいた。洋一は少年の隣に両親が立っている気がしたけど、その部屋にいるのはこどもたちだけだった。
 木で出来た狭い部屋で、彼はベッドの上に寝かされている。頭の上には丸いガラスの窓があって、ときおり体が揺れている。
「ここは?」
「船の上だよ。みんな助かったんだ。君がやったんだぞ」
 と太助は言った。洋一はこれまでのことをみんな思い出して、体を起こした。
「ぼくは君の忠告を聞かなかった。伝説の書が……」
「全部聞いたよ。大変だったな」
 と太助はいたわるような顔をした。洋一は言いたいことが全部抜けて、ただ唇と瞳を震わせる。太助が全部受け止めてくれたからだった。洋一は枕に頭を戻した。天井に目線を戻す。頭の下で海が揺れている。はらはらと涙が落ちて、耳際を伝い枕に落ちた。太助は困ったように頭をかいたが、ずっとそこに座っていた。

 二人はメインマストの見張り台にのぼった。マストの天辺にいると海は果てがなく、波間はキラキラと輝いていた。二人はこの期間に起こった色々なことを話し合った。
 中世の王モルドレッドの話。伝説の書に命を吸い取られたこと。処刑台での戦い。
「とにかく父上と男爵をさがさなきゃ」
 と太助は言った。二人は望楼の欄干に寄りかかり潮風に吹かれている。話は伝説の書の危険にうつっていった。創作に失敗したときの結果は恐れていたが、ここまでひどい真似をするとは思わなかった。洋一と来たら、飢餓に苦しむ戦災孤児だ。水を散々飲ませて肌の艶はいくらかもどっていたが、一時は不整脈を起こして危なかった。こうなってみると、洋一は自分が本の持ち主というよりは単に呪われているだけのような気がしてくる。やっぱり恭一はウィンディゴから守るためではなく、かれ自身を伝説の書から守るために、この本を封印したのだろう。それならば、これまで彼に伝説の書のことを語ってこなかったことにも納得がいく。
 洋一は、この本は持ってるだけじゃ駄目なんだ。この本は――本の中にいる連中はぼくの命を狙ってる。ぼくを仲間に引き入れたがってるんだ、と考えた。
 洋一は帆船に乗るのもこんな高い所から海を見おろすのもはじめてだった。彼には経験していないことがまだまだあった。
 気持ちのいい風だった。気分のいい景色だった。それらのすべてが少年たちの心を癒し落ち着かせる。洋一は広い海で過ごす内に少しずつ自分をとりもどしていった。伝説の書が自分に働きかけていると自覚して、それに対処するよう努めた。太助とジョンは喜んだ。
 洋一はいつのまにかこの世界をなんとしても抜け出そうとは思わなくなっていることに気がついた。彼は本を使い、失敗もすることで、この世界でやっていく自信のようなものをつけたのかもしれない。
 洋一と太助は欄干によりかかって、くだらない打ち明け話をしたり、カモメの数を数えたりした。洋一はそうして話をしてくれる太助がひどく好きだった。そしてそうした時間がひどく大切なものに思えたのだった。

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