ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

 

□  その二 呪われた一座の再会について

○     1

 午前十時を過ぎたころ、事態は変わりはじめた。シャーウッドの森は、石を畳んだ古代の街道や獣道が縦横に走っている。東南の街道でアーサー・ア・ブランドは見張りに立っていた。木の根元で疲れた体をいやしていたが、騎士たちの騒ぎ声を聞きつけて目を開けた。
 生け垣に駆けつけたアーサーが目にしたのは、草原を連れ立って歩く難民の姿だった。服はズタボロに裂かれ、乾いた血もそのままだ。まだ血を流している者もいた。戦闘に巻きこまれたものとアーサーは見た。騎士たちがそれらの人を保護している間にも、一人また一人と難民はやってくる。
 時間が経つほどに難民の数は増えていった。数十、数百の単位でまとまってやってくる。荷車に家財道具を積んだものもわずかにいたが、彼らのほとんどは無手で命からがら逃げだしたものと見受けられた。
 アーサーは彼らがどこからやってきたのか尋ねさせた。彼らの多くが答えた場所は、ノッティンガム。

○     2

 ロビンは出発を前にして難民の対応に追われることになった。甥のガムウェルが、
「難民の数が多すぎる。アジトに入れるわけにはいかないぞ」
 アジトの小屋に一味の残党が集まっている。
「この状況で外に放りだすわけにはいくまい。君とアジームで鹿狩りを行うんだ。まずは飢えたものを食わせてやれ」
「やつらノッティンガムから来たといってる」とジョンが言った。「州長官も銃士隊とは戦ったみてえだ」
「城を空けた隙をつかれたと考えるべきだろう。落城の前に引き上げたのなら、タックたちも落ち延びることができたはずだ」
「銃士隊がノッティンガムを襲ったんだ。パレスチナでサラディンがやられたことを、こっちがやられてる」
 ウィルの言葉に、ロビンはうなずいた。ちびのジョンに、
「君とアランは銃士と戦ったんだな。やつらはサラディンのいうとおり、化け物に変わったのか?」
「ああ、まちがいねえ。太助と洋一も一緒だった。首を狩らねえ限り死ななかった」
「ロンドンを落としたのもおなじやつらにちがいない」とアラン・ア・デイル。
「たった数十人でノッティンガムを落としたって噂だぜ」
 ジョンはうなずく。「あいつらならやる。普通の兵隊にあいつらを殺せるはずがねえ。サラディンも、リスベをとれなかった」
 リスベはモルドレッドが死守したパレスチナの小都市である。
「ロンドンが落ちたのも夜間だ」アランが言った。「だが、あの処刑台では、やつらは変わらなかった。サラディンの話と符号する。やつらも昼間はただの人だ」
「長期戦ができないなら、陽のある内に決着をつけるしかない」とガムウェルが一座を見渡した。「となると、これだけの人数では……」
 ロビンは黙った。アーサー・ア・ブランドが庵に入ってきたからだった。
「ロビン、来てくれないか」
「少しまて。今――」
「すぐに来てくれ。州長官が君を待ってる」

○     3

 最初のうち、ロビンはそれが誰であるかわからなかった。身に付けているのは下着だけで、それも泥と血で汚れている。カールを巻かせていた髪は無惨に刈り取られていたし、そこからのぞく耳は片方がない。上着はぼろ布同然となって首の周りを垂れていた。かつて州長官であった男は森の隙間から落ちる陽光さえ恐れるかのように、木の根元に這い寄って、手足を抱きガタガタと震えている。
 ロビンが目の前に立ったとき、ロバート、と州長官は言った。「お前か」
 州長官は目を見開いてロビンを見つめた。震えは止まったが、州長官は目を伏せてぶつぶつと呟きはじめた。生きていたのか、いや、しかし、などという単語だけがわずかに聞き取れる。ロビンは彼のすぐ側に膝を落ち着ける。州長官はビクリと肩を震わせ呟きを止めた。わずかに体を傾けて、ロビンを見ようとした。
「一体、ノッティンガムでなにが起こったのです。あなたの軍はどうした?」
 ロビンが尋ねると州長官はバッと顔を上げ表情をゆがめた。かと思うと唸りを上げはじめた。
「お前のせいだ。お前のせいで私の城は無茶苦茶になったんだぞ。来い、あそこへ行って全部見ろ! あの魔女がやったことを確かめろ」
 州長官はロビンにつかみかかったが、その腕はおかしな形に曲がっていた。アーサーたちは州長官を諫めようとしたが、よく見ると長官の指はすべてへし折られているのであった。ちびのジョンは、そっと脇を抱くようにして州長官を引き離した。長官は彼のことすら気づかないようだった。難民の人々が見つめる中、長官はおいおいと泣きはじめた。
「やつらは引き裂くんだよう。私の周りにいた者も全部なんだ。おい、あれを見ただろ!」
 と長官は立ち上がり、自分を遠巻きに見る群衆に言った。
「お止しなさい。みな怯えている」
 ロビンがいうと長官は荒い息をつきながら、地面をにらむ。その様子は自分の見た物をなんとか理解しようとしているかのようだった。
「やつらは叩いた。そうだあいつら私の部下を叩いたぞ。豚の肉かなにかみたいに叩いてつぶして、それだけじゃない。やつら噛みついたんだ。人を食ったんだ」
 その痛ましい話に、ロビンの部下たちも互いに顔を見合わせた。そして、そのような話を聞いたこと、その場に居合わせなかったことを恥じるみたいに顔を伏せた。
 ロビンはノッティンガムの落城を信じる気になった。果たして人はそんな目に遭ってまで戦意を駆り立てられるものだろうかと。最初は憎しみに駆られたかもしれない。けれど、その憎むべき相手が不死だとしたら。死人を相手にする恐怖ならジョンとアランは骨身に徹して知っていたし、サラディンの勇猛な兵ですらわずかな銃士に敗れ去ったのだ。
「ノッティンガムにモーティアナがいたのか。そいつが俺にロンドンに来いと言ったんだな」
 州長官は左手で髪をかきむしり、右手ではロビンを指した。
「ロンドンには行ってはならん。どんなに急かされても行っては駄目だ」長官は木の幹に寄りかかり、こどものように目を拭った。「みんな死んでる。モルドレッドには従うしかないんだ」ギョロギョロと視線をさまよわせる。「お前でも、きっと無理だ」
「それはあなたの本心か」
 ロビンは訊いた。それは悲しげな口調でもあったので、長官は鼻を拭いふりむいた。
「あなたとは長年いがみあってきた。私はあなたを憎み、あなたも私を憎んだ。だが、私はあなたのそんな姿を見たいとは思わない。私に言いたいことはそんなことではあるまい。州長官、あなたに訊こう。あなたが私に望むものはなんだ」
 州長官はロビンの頬を張った。
「やるというのか! 私の願いをお前が聞くのか! 私はお前を殺すことばかり考えてきたんだぞ!」
 ロビンは張られた顔を上げた。その頬は州長官の折れた骨のせいで、赤く腫れ上がっている。
「過去にこだわるには、我々はあまりにも無くしすぎた。積年の怨讐も今は置こう」
「私を許すのか」
 ロビンはうなずいたが、州長官は折れた腕で両目を覆っており、彼のことを見ていなかった。けれど、その無言の間を彼は了解と心得た。
「ロビン、あいつらを追い払ってくれ。妻や娘の敵を討ってくれ。頼むよ」
 州長官は膝を折り、天に向かい戦くようにして泣いた。皆は州長官の家族に起こったすべてを察し、ある者は帽子を取り、ある者は胸に手を当て哀悼の情を示した。
「みんなの仇を討ってくれよお。私は、私だってやりたい。憎いあの魔女を殺したいんだ!」
「いいだろう州長官」とロビンは言った。「俺はロンドンに向かい、モルドレッドとやつの軍隊を打ち払う。ロビン・フッドが、やつらをイングランドより閉めだしてやる!」
 最後の言葉は周りの群衆に向けられたものだった。傷ついた人々は歓声を上げることすら控えているようだった。事の困難をわかっていたし、喜びを受け入れるには心が疲れすぎていた。けれど、人々は自らの希望の光をみた。ロビンはその光となるべく、また歩みはじめたのだった。

○     4

 ギルバートはロビンの行動に難色を示す。
「本当にロンドンに行くのか。どう考えてもまずい。それは罠だ。いいか、昼間なら、やつらも化け物に変わりはしない。だが、ロンドンではすでに変わってしまっている」
 ちびのジョンは恐れるように身をすくめた。変わっている、という言葉はなにか不気味な気がした。
「行かなければやつらはイングランド中の町や村を襲う。そうなったら手がつけられん」
 ロビンの言うとおりだ。ギルバートは黙る。
「やつらの兵力はいかほどだろう」とアーサー。
「三万人とも聞いたが?」とアラン。
「それは誇大だろう」ロビンは言った。「ロンドンを攻め落としたので数が誇張されているのだ。十字軍のころとさほど数は変わっていないはずだ。おそらくは三千から五千といったところだろう」
「実際の兵力は数倍と見た方がいい。数人掛かりでなくてはあいつらは倒せない」とジョンが言った。
「ともあれ、タックたちは無事のようだな。生きていれば、噂をきいていずれはここに現れるはずだ」
「それにしても、数が足りない」ギルバートが言った。「卿らの軍を入れても五千人を少し越えるばかりだ」
「これ以上の数は望めまい。俺に作戦がある」
 太助がテントの幕を払って乗りこんできたのはその時だった。ジョンは驚いて少年を見た。
「なんだ、おめえ、今は入ってきちゃだめだ」
「ちがうんだ。洋一の様子がおかしいんだよ。すぐに見てくれ。呪いに取り殺される」
 ジョンが息を飲むのと、男性に抱えられた洋一が天幕に入って来るのは同時だった。洋一は右腕を腹の上に乗せ、それを左手で抱えている。まるで大事なものを隠しているようだったが、ジョンはその指の隙間から真っ黒な呪いがヘドロのように滴るのを見た。
「ちくしょう、モルドレッドか!」
 ジョンはそんなものは役に立たないのに大剣を掴み上げて洋一の元に走った。洋一は、血走り涙ぐんだ目で彼を見上げた。鼻水が垂れ、辛そうに呼吸をしている。
「ちくしょう、ロビン、この子を助けてやってくれ。どうにかしてくれ!」
 ジョンは大喝したが、手だけはやさしく洋一の額を撫でている。
「誰かなんとかしてくれ。なんとか……」
 ジョンがふりむいたとき、天幕にいた者は誰も彼の方を見ていなかった。太助が濡れた目を光らせて大刀を抜きはなった。
「なぜお前がここにいる!」
 天幕の奥から進み出てきたのはモーティアナだった。ロビンたちはみんな老婆のことを見ていたのだ。一番近くにいたウィル・スタートリーが、鋭く短剣を抜いて老婆の胸を突き刺そうとした。
「そう急くでないよ」
 モーティアナは一瞬でヘビに変わり、スタートリーの二の腕を這い上りだした。ロビンが帯剣用の剣で抜き打った。正確に頭部を薙ぎ払ったが、ヘビはロビンの太刀筋を読んでいたように身をひるがえし、天幕の奥に飛んだ。みなの目が後を追ったときにはまた元の姿にもどっていた。
「みんな、待ってくれ、そいつはただの使い魔だ」と太助が鋭く静止した。「それに呪いをかけたのはこいつじゃない。こいつを斬ってもどうにもならない」
 蛇は、きえ、きえ、きえっと笑った。
「一番頭をつかうのがこの小僧だとわね。ロビン・フッドが笑わせよる」
「お前がジョン王の宮廷魔術師か」とロビン。
「ちがうね。モルドレッド卿の魔術師さ」
「やっぱりお前が」太助は前に進み出ようとしたが、今度はジョンに止められた。「モルドレッドと組んでたんだな。後ろにいるのはウィンディゴか。知ってるぞ!」
 モーティアナはケケケケッと、細首をのけぞらせて笑う。
「だから、なんだと言うんだい。それが重大な秘密だとでも。あたしゃね、こう言いに来たのさ。新しい王からの伝言だ。兵を連れてノッティンガムに来い。そこで再決闘をやろうじゃないか。フランスじゃあお前を取り逃がしたからね。そこの小僧もだ! 二人とも連れてこい!」
 モーティアナは唾を飛ばし、蒸気を吹き上げ、鬼の形相で太助を指さした。
 ロビンは帯剣を捨てると、愛剣を取り上げて、スラリ抜き放つ。
「呪いをかけたのはモルドレッドだろう。貴様ではない。殺しても問題はあるまい」
 と歩み寄った。モーティアナが手を挙げると、洋一が苦しみだし、呪いが一気に吹き上がった。洋一を抱えていた男は思わず彼を突き放した。ジョンと太助が互いに武器を放りだして、洋一の体をつかまえた。
「忘れたのか。あたしもマーリンの弟子なんだよ」
 ロビンはその様子をみて、憤怒の形相でふりむくと、気合いとともに老婆の首を薙ぎ払った。
 モーティアナの首は天幕の隅に飛び、柱の一つにぶつかり、ドン、と鈍い音を立て地面に転がる。生首はしかし、生きているようにロビンの足下まで転がり、真っ赤な目で彼を睨み上げた。
「お前も直に死ぬ。次に転がるのはお主の首だ」
 ロビンが両手で剣を持ち上げ、止めを刺そうとしたときには、モーティアナの生首は激しい煙を上げて(金属と硫黄の臭いがした)、パチパチと音を立てながら、元の蛇に戻った。
「どういうことだ。やつはロンドンを攻めていたはずだろう。ノッティンガムにいるのか?」
 とアランが訊いた。アジームが、
「だめだロビンどう見ても罠だ」
「だけど、あいつがノッティンガムにいるならチャンスだぜ。銃士の主力はロンドンだ。今ならあいつをやれるかも……」
 ウィル・スタートリーは沈黙した。洋一のうめき声が空気を引き裂くように伸び、少年を心配して名前を呼ぶジョンの声が部屋中を満たしたからだ。
「大丈夫か、洋一」
 洋一はどうにか目を開けた。まぶしい物を見るように、太助とジョンを見た。
「ありがとう、ジョン。ましになったよ」
「よかった。死んじまうかと思ったぞ」
「呪いはどうなったんだ」太助は一瞬片手拝みをすると、洋一の胸元をそっとめくった。昨日見たよりもいっそう広がっている。洋一の乳首が見えないほどだ。
 太助は無言で服を下ろした。洋一の目をじっと見た。洋一が弱々しく、だけどなにかを伝えるようにしてうなずいた。太助は立ち上がった。
「ロビン、ぼくらを連れて行ってくれ。あんたも見ただろ。あいつらがつかうのは本物の魔術なんだ」
「馬鹿な」ガムウェルが叱りつけるように前に出た。「本で対抗するとでもいうつもりか。相手はあのサラディンも叶わなかったやつだぞ」
「あいつの裏にいるのはウィンディゴなんだ。それでモーティアナもモルドレッドも力が強くなってる」
 と少年は言った。みんななぜか話している太助よりも洋一少年の方を眺め下ろした。洋一は力なくジョンの腕の中。みんなのことを見上げている。
「男爵と父上ならウィンディゴと対抗できる。ずっとあいつと闘ってきたから」
「おめえたちの親父のことか」とジョン。「だが、今どこにいる?」
「タック和尚たちといるはずなんだ」
「その連中なら、魔術に対抗できるのか」
 とロビンが割りこんだ。
「もちろんだ」
 太助は胸を張って応えたが、洋一がそっと目を反らしたのをロビンは見逃さなかった。ロビンは言った。
「いいか、城の包囲は解けている。すでにタックたちにはこちらに来るように使いをだした。その中にお前たちのいう二人が混じっているならよし。いなければ我々だけで闘う」
「でも、ロビンだって、パレスチナであいつに魂を盗られたじゃないか。普通に闘ってもあいつには勝てないんだ。みんなみんな、あいつに殺されたんだぞ。剣や弓じゃ殺せない、殺せないんだ!」
「だめだ」
 ロビンの声は厳しく表情は冷たいものだった。太助は上から突き放されたように感じて黙りこんだ。
「ノッティンガムでもロンドンでも大勢人が死んでいる。一刻も猶予はない。兵が集まるまで一日だけ準備を整える。その間に、お前たちの親父が現れることを祈ろう」
 太助はおや? となった。ロビンは本に頼らないと言ったのに、二人が現れるのを祈るような口ぶりだったからだ。モルドレッドの魔術を一番に受けたのはロビンだったし、モルドレッドの体内にいただけに、洋一の力はなんとなく感じていたのかもしれない。
「ジョン」
 と太助は声をかけて、洋一の体を無理矢理背負った。彼は大人たちの静止も聞かず天幕の外に出て行った。二人で男爵と父親を捜すつもりだったのだ。

○     5

 太助は洋一を連れて北の街道を目指した。リチャード卿の城はその方角にある。ロビンの連絡を聞いたタックたちはその街道を通るはずだ。ウィル・ガムウェルとスタートリーもついてきた。太助は洋一を背負ったまま森を出て行こうとしたが、ガムウェルが止めた。
「タックたちは必ず来る。その中に親父がいることを信じろ」
「いなかったら」
 太助はさらに歩こうとしたが、ガムウェルは前に回りこみ、膝をつくと、その肩を押さえた。
「外は敵だらけじゃないか。洋一はまともに動けないんだぞ。またモーティアナに襲われたらどうする」
 太助は強情に顔を背けた。洋一がおろしてくれと背中で言った。
 太助は心配げにふりむいた。「大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。病人扱いするなよ」
 太助は木の根元に彼を下ろした。洋一が幹に背をもたせかけると、ガムウェルが乾いたパンを千切って少年たちに渡した。スタートリーが銅の筒から冷めたスープを椀に注ぎ、やはり二人に渡してくれた。
「焦るのはわかるが、もう一日しかない。それにモルドレッドのことは俺たちに任せておけ」
「分かってないよ」太助は怒ったようにパンをほうばりながら(口いっぱいにほうばったので、しゃべるとパンの欠片が散った)、「モーティアナはぼくらにもこいって言ったじゃないか。あいつは使い魔を斬られて怒ってる。ウィンディゴの手下だから、ぼくらが何者か知ってるんだ」
 ガムウェルは少年がなにを言っているのか分からずに不審げに眉を寄せた。スタートリーは吐息をつきながら少し離れた幹にもたれてしまった。
 ロビンの部下たちも見張りに出ていた。洋一と太助は無言でパンを食べ、ときおり街道を見た。本の世界に入って以来、一体どれほどの時間が流れたのかさっぱりつかめないほどだった。ガムウェルは洋一の右腕に包帯を巻いて首から吊すようにしてやった。呪いの影響で彼の右腕は動かなくなっていた。
「動くようになるかな」
 と彼はこの父親ともとれるほど年の離れた青年を見上げた。「腕が、右腕が動かないと文が書けない。そうなったら……」洋一はまた涙ぐんで目を落とした。ガムウェルは励ますように肩をはたいた。
「今はあせるな。養生するんだ」
 太助はそんな二人を見られなかった。洋一を心配できる心の余裕がなかった。ピタリとも街道から目が離せなくなっている。父上は死んでいるかもしれない。太助はふてくされたような気持ちで、側の草を千切り、葉を落として茎を噛みはじめた。自分でもどうしていいものやらわからない。彼の精神は行動的に出来ていたからだ。じっと立ち止まって考えこむなんて、父親か誰かがすべきことだった。けれどこれまでそれをしてきた人たちは一人また一人と彼の元から去っていったのだから、父親がそうなってもちっともおかしくはない。そのことが恐ろしく、その恐ろしさを吐きだすみたいにちびちびと草をはんだ。
 太助がその草を捨てたのは街道の遠くに大勢の人の姿を見たからだった。
「洋一、人だ!」
 と彼は大人たちが飛び上がるほどの声を上げて友人を呼んだ。洋一もガムウェルを突きのけるようにして(実際にはこの青年に支えてもらわなくては立てなかったが)立ち上がった。
 太助は街道に向けて駆け出そうとしたが、すぐに気がついたように駆け戻り呆けたような顔をして洋一の手をとった。人の群れ目がけて走り出そうとしたが、また二人のウィルに止められだった。
「落ち着け、みんなすぐに到着する。親父たちがいるか、すぐに分かる」
「でもっ」
「落ち着け。洋一を見てみろ」
 スタートリーに言われて太助はふりむいた。彼に引っ張られて洋一は転んでしまっている(そんなに強く引いたつもりはなかったが)。太助はごめんよと謝罪しながら街道を見た。
 太陽が差しているようだった。曇天で風も冷たくなっているのに穏やかな光が辺りいっぱいに降り注いでいるみたいだった。街道の人の群れはどんどん大きくなっていく。ガムウェルは森の中で待つようにいったのだが、太助はその手をふりはらい洋一の手を引いて彼を助けながら下生えを越し、街道の石畳の上に足を置いた。
 太助はずっと不安だった。父親が死ねば、中間世界の侍はすべて死に絶えたことになる。自分が生き残ってこられたのだから父親も、とは思いたかった。けれど、侍が敵なしの存在であるならば、鬼籍に入った人たちも、いまごろみな自分の側にいてくれたはずである。
 太助には目に映る父親の姿が一人でなく、百人の侍の姿に見えた。もどってきた、父上が、侍たちがもどってきたと思った。草原の葉がパラパラと鳴った。その街道が大昔からあってあの群衆も遠い過去から来るようだった。彼は遠い未来にいるからあの人たちもここにはたどり着けないんじゃないかと思った。彼はこう叫びたかった。おおい父上、ぼくはここにいる、ぼくはここだ!
 それから彼はやってくるのは死んだ侍たちで、ともに死んだ洋一と彼を迎えに来ているのだと思った。それならまあいいかと思った。ウィンディゴのこともモルドレッドのこともまあいいかと思った。そんな自分をおかしく思い、二の腕で眼を拭った。洋一に覚られぬようにしたが、つい鼻をすすってしまった。
 洋一は呆けたようにしてまるで初めてお座りをした赤ちゃんのように足を投げ出して座っている。
 人影が大きくなった。そのうちその群衆の中に動揺が起こった。群衆の後ろから誰かが前に出てこようと人を押しのけているのだった。太助は一瞬我慢して下を向いた。顔を上げたときには我慢できずに走り出していた。
「やっぱりだめだ。ごめんよ、洋一」
 だから、もう我慢しなくて良かった。涙も流れるに任せてしまった。彼は袴を振り乱し股立ちをとるのも忘れて精一杯に体を運んだ。遠くで父親が群衆の列を抜け、彼に向かって腕を広げおなじように駆けてくるのが見えた。
 洋一は、二人のウィルと一緒に歩きだした。走ろうとしたが、その度に膝が抜けてまた歩いた。まるで呪いの粒が全身の関節で遊んでいるみたいに頼りない。遠くで太助とおじさんが抱き合うのが見えた。おじさんが太助を小さな男の子みたいに振り回しているのが見えた。洋一はそれをまぶしい物を見るみたいに見た。本当にまぶしかったから、腕で目を覆って泣いた。ぐしぐしと音を立てて泣いた。悔しくて腹立たしくて、そして嬉しかった。
「父さん、父さんの馬鹿野郎」
 と彼は言った。誰かがやさしく背を叩いたのにも気づかなかった。親子の側で陽気に騒いでいた男爵が洋一に気がついて駆けてくると、洋一は肩の手を払って走った。なんどか転んだが、その度に立って走った。
 男爵は老体にむち打って走っていたのだが、そのうち洋一が近くになり、この名付け子の様子が分かるにつれて胸を刺したのは純然とした恐怖の錐だった。なんということだ。この子は今すぐ死のうとしておる。驚愕の余りこの老人はその場から一歩も動けなくなった。
「洋一その姿はなんだ、まさか本をつかったのか、ウィンディゴめにやられたのか、くそおあやつめ」
 男爵は金切り声を上げるみたいに一気にまくし立てた。その声に驚き、太助と奥村でさえふと顔を上げたほどだった。男爵は腕を上げると、洋一につかみかかるみたいに走った。洋一も駆け寄ろうとしたけれど、数歩よろめいただけだった。
「まったく今までどこにいた。無茶ばかりしおって一体なにをやっておったんじゃ!」
 男爵は形相もすさまじく迫ってきたから、洋一はとっさに身を固くした。彼が喜んでいると分かったのは、洋一が強く男爵に抱かれて胸にかき抱(いだ)かれてからのことだった。
「もう無茶をしてはいかん。もう無茶をしてはいかん。二度とわしの側を離れるな。二度とわしの側を離れるな」
「ぼ、ぼく……」
 と洋一は言った。彼は言おうと思った。男爵がいなくなってどんなに不安だったか、どんなに心細かったか。これまであった苦しいことも。自分がどんなに立派にやったか、太助と協力しあったかを。けれどそのことを思うたびに彼の心は詰まり、ついには声を上げて泣いたのだった。そして、洋一がこんなに盛大に声を上げて泣いたのは、この世界に来て以来のことだった。太助もおなじなのかもしれない。

○     6

 リチャード城の攻防戦は激しいものだった。州長官のみならともかくモーティアナも加わっていたから、苦闘もはなはだしく戦死者も大勢出していた。今も旅の一座は(リチャード卿の子息、スティーブンも城を放棄して駆けつけている)怪我人だらけ満身創痍の者ばかり。ミュンヒハウゼンと奥村の力添えがなければとっくに落城していただろう。
 二人はやはりシャーウッドの森に出ていたようで、そこでモーティアナの焼き討ちに合い窮地に陥っていたタック坊主らの戦闘に加わった。もともとミュンヒハウゼンは自分の物語でも騎兵隊長だったし、奥村にいたっては百戦錬磨の侍をまとめ上げてきた男である。
 出先にモーティアナがいたことでも、本の世界への進入にウィンディゴが手を加えていたことが分かる。一つまちがえば四人ともいまごろ命を落としていたかもしれない。よく助かったな、と洋一は今更ながらひやひやした。
 男爵と奥村は今では攻城戦の将軍格に祭り上げられていたから、そのこどもらが見つかったことで、みな疲れと痛みを忘れておおいにさざめきあった。洋一は周りの大人たちの興にものせられて、イングランドについてこの方の冒険を多少の腹立ちも交えて語って聞かせた。泣き虫ジョンに会ったこと、ロビンを助けるための数々の戦い。そして、モルドレッドとの苦闘。
 太助は父親に会えただけでもずいぶんと満足したらしく(それに危険をくぐり抜けるのも慣れていたから)話すのは洋一に任せておとなしかった。周りの大人たちと他人事のように笑っているものだから、洋一はますます腹を立てたが、それでも彼は楽しかった。ようやく雁首が揃った。こうして役者は顔をそろえたのである。よく考えるとその世界に来て四人が顔をそろえたのはこれが初めてのことだった。洋一は奇妙に心強くなり、今では伝説の書だって自在に使いこなせる気がした。
 笑いさざめく人々の声が途絶え、足も止め、激しい感情の波にその身を震わせはじめたのは、アジトまでの道中半ばを過ぎてのことだった。騒ぎを聞き付け駆けつけてきたのは、ロビン・ロクスリーとその一味の者たちだ。リチャード軍に加わっていた古い一味の面々も、ロビンと親交のあるリチャード城の騎士たちも、信じられないものを見た。
 ロビンだ、ロビンが生きてた。本当にロビン・フッドが生きていた。
「あれがロビンか……」
 とミュンヒハウゼンは感に堪えたように首を振った。
 みなはようやくもどってきた首領の元に一散に駆け出し、イングランドの人民に希望と絶望をもたらしつづけた男をもみくちゃにした。
 洋一はその様子をみてニコリともせずうなずいた。物語が悪い方にねじまがっても、この人たちはみんなロビンの味方なのだ。
「やっぱりだよ、男爵。ウィンディゴはこの世界に手を出せるけど、支配してるわけじゃない。あいつの創造の力だって、なんでも自由に作り替えられるわけじゃないんだ」
「わしもそう思う。ウィンディゴとてロビンの世界観には縛られておる。無理をすれば矛盾が起きるのは当然のことだ」
 と男爵はうなずき、それはこちらもおなじことだ、と言った。
 奥村はこどもたちの頭をそれぞれ一つずつ叩くと、ロビンの方に歩いていった。ロビンフッドが部下を従えてこちらにやってきたからだった。イングランドの義賊は手を差し出し、侍はその手をとった。奥村はその手の先に並々ならぬロビンの力量を感じ取っていた。
「部下がまことにお世話になり申した」
 とロビンは言った。奥村はすぐには答えず、唇をわずかの間噛み締めた。「二人の息子に無事会えたのはあなた方のおかげだ。私の方こそ礼を言わねばなりません」
 ロビンは笑顔で頷いた。ちびのジョンがいそいそと近づいてきたが、ロビンが胸を叩いて止めた。
「もういい、ジョン。互いのあいさつはすんだ」
 ジョンは不満に口をへし曲げながらも引きこんだ。ロビンはきらりと目を光らせた。
「さっそくだが、ノッティンガム攻略戦について話し合いたい。これまでどおりご助言願えますか」

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