大江戸見聞録

 どうも、僕です。

 お江戸の記事がたまってきたので、おまとめページを造りました。新選組八犬伝では、すでに幕末ですが、江戸は二百年以上天下太平の続いた稀有な時代でもあります。いやあ、お江戸は興味が尽きない。

 のんびり編集しておりますので、整うまでは、少々お待ちを!

 江戸時代の、新説、奇説、常識まで、丸竹書房の編集人ゴンが語ります。

 編集人の雑学、江戸編。はじまりはじまり――

お江戸の始まり

 百万都市と呼ばれる江戸は、当時世界最大の都市だった!

 とは、聞き飽きたぐらいの話ですが、研究も進んで江戸の常識は、ちょっとずつ変化しているようです。

辺鄙な寒村を、百万都市へ

徳川三代の天下普請

水の都、江戸!

 豊臣秀吉による国替えをうけいれ、東海から関東に移ることになった徳川家。家康はこのとき、49才。秀吉は55才であります。

 家康が着いてみると、江戸城は、城とは名ばかり。
 なるほど堀はあるが石垣はなく、木や竹が生い茂る有様です。

 江戸城の周辺には、百軒ほどの漁村がポツポツと広がるばかり。

 干潮には砂地が露出、後は茅原が渺々と広がる。水浸しの低湿地であります。

 なんとも寂しい光景に、徳川家康を支えた豪傑たちも嘆くばかり……というのが江戸期を通じ、講談や庶民の口に上った、権現さまとその家臣たちの苦労譚であります。
 とはいえ、家康は、江戸入りする以前に、土地の調査は十分に行ったはずで、確かな計画があったればこそ、小田原、鎌倉を蹴って、この江戸、を選んだのでしょう。
 家康の目論見は、京都、大坂を参考に、この二都をはるか上回る都づくり、だったのではないでしょうか。

 

 豊富政権の都は、大坂、でした。果たして、家康の脳裏に、天下の文物が集まり、また一大交易都市であった大坂という都がなかったはずもありません。古代より難波宮(遷都は孝徳天皇の時代ですが、発見されたのは昭和三十年代)が置かれ、瀬戸内海航路の基点となっていました。大坂もまた水の都であったのです。
 水路の開削を次々行い、その橋の多さから「浪華八百八橋(実際は、二百程度であったそうな。戦後に埋め立てられ、橋も撤去となりましたが、心斎橋など、橋の名は地名として残っています)」と称されたのは江戸期の話。 秀吉の都市開発も、天下人の名にそぐうもので、大坂城をかわきりに、広い街路に太閤下水、町家の高さまで統一して、整然とした景観を作り上げます。また商人たちは、秀吉の許可を取り付け、堀川の開削に着手。船場を中心にして、天下の台所を支える動脈となっていきます。
 1684年には安治川(当初は、新堀川や新川と呼ばれる)が開削され、海と市中を舟が行き来するようになります。幕府の行った水害対策だったのですが、結果周辺は、市街地の開発が進み、大坂は水の都としてさらなる発展を遂げていきます。大坂は、秀吉が水都の基礎を作り、徳川家が完成させたといっていいでしょう。

 江戸のモデルとなったのは京都ですが、水運を最大限利用したところに、江戸の特徴があります。

江戸が首都となる

 徳川家康が、初めて江戸に入ったのが、1590年、天正18年のことでした。

 江戸城の原型を築いたのは太田道灌で、すでに城下町もありました。

 十年後には、関ヶ原(1600年)があり、その三年後には江戸幕府を開きます(1603年。徳川家康征夷大将軍につく)。この慶長八年の将軍宣下以降、大名を動員した天下普請による江戸の町作りが始まります。江戸城の拡張工事は家康の時代で終わらず、家光の時代までかかりました。
 神田山を削り取り、日比谷入り江を埋め立て、土地を確保! 大名屋敷にあてられます(大名小路とよばれるようになります)。

 こうして人口が増えると必要になったのが、水。問題は江戸の下町が海に近かったことで、井戸をほってもしょっぱくて飲み水にできない。そこで、神田上水(寛永6年(1629)頃完成)や、玉川上水(承応3年(1654)完成)が整備されていきます。武家地に引いた水道は、町人地にも流されます。この水道をつかうのが江戸っ子の自慢になっておりました。神田の水で産湯を使い――とは江戸っ子の決まり文句ですね。もっとも生温かく、雨が続くと濁り、ドジョウも泳いでいたといいますから、飲み水とはいかず、洗濯などにつかっていたそうです。

水道橋

水道橋 水道橋。外堀の役目を果たしていた神田川を立体交差しています。本橋の下に神田上水懸樋が見えます。

 もっとも規模が大きかったのが、玉川上水。羽村から、四谷大木戸まで、42.738キロにもおよびます。武蔵野の住人が総掛かりで、八ヶ月で掘ってしまいました。技術的にもすぐれていたようで、四谷までは小川として流れてきますが、そこから市内に。木や石でできた水道管が紀理巡らされ、そこを伝って各所に分配されました。長屋ごとに共同の水道升があり、いつも一定の水位に保たれています。自然流下式ですので、坂が多く高低のある江戸の町に行き渡らせるには、緻密な計算が必要でした。
 水の管理も大変でした。「水番屋」が監視して、上水道で、水浴び、洗濯、魚取りをしようものなら、厳罰に処されます。また、水の状態が悪い場合は、関や水門を閉じて、江戸には流れないようになっていました。のむには、濾過や煮沸をして、湯冷ましにします。
 市街の大半は埋立地なので、井戸を掘っても塩気がまじります。そこでやってきたのが、飲料水を売りに来る行商人。玉川、神田上水の余水を、水舟で運んで売っておりました。一荷、四文で売っていたそう。裏長屋の台所には水瓶があって、水をかかさぬようにしていたそう。調理や洗い物につかっています。
 水道、といっても、土中の樋を伝った水をためて、くみ上げる方式です。見た目は井戸なんですが、地表に近いところにたまっているわけですから、竹竿の先についた桶でくみ上げたようです。一方で、江戸の中期以降は、掘り抜き井戸も普及し、こちらは釣瓶を使わなければなりませんでした。井戸についた器具で、水道か、掘り抜きかがわかったわけです。浅井戸と深井戸といったそうです。
「ひゃっこい、ひゃっこい」の売り声が特徴。夏場、街道の木陰が商売どころ。砂糖入りと称する水が、いっぱい四文です。

商人の町、日本橋

日本橋 歌川広重筆。雪の日本橋。

 現在の日本橋は、首都高の、下にあります。

江戸の中心、日本橋

 日本橋は慶長八年からはじまった、市街地の拡張工事に伴って架けられました。長さは37間(66.6メートル)幅は四間(7.2メートル)。

「お江戸日本橋七つ立ち」
 今も残る一節も、実は明治初期にはやった歌の最初の一節で、東海道五十三次をうたっています。日本橋は、江戸を通る街道の起点なのです。まさに「道のりの総元締めは日本橋」

 橋の真ん中が日本の臍で、五畿七道は、ここからはじまります。

 その名にふさわしく、日本橋から真西に、江戸城をのぞみ、その向こうには、霊峰富士がくっきりと見えたそうです。
 南にのびる大通りは、「通り一~三丁目」とよばれ、東海道になります。
 北にのびる大通りは、「室町一~三丁目」で、中山道に通じていました。
 大通りの両側には、大店・老舗がならび、江戸最大の問屋街・商店街となっていました。三越の前身、駿河町三井呉服店やお茶の山本(海苔で有名な山本山)などは、当時からあったんですよ。

 日本橋南詰の西側には高札場があり、東側は空き地となっていて、罪人のさらし場でした。みせしめ、として、人通りの多いところに存在したんですね。女犯僧、心中未遂の男女がさらされていたので「不心中、五十三次ぱっと知れ」となるわけです。

 ちなみに、晒に課された僧侶は、寺社奉行の担当でした。晒場に三日間すておかれ、その後本寺にひきわたします。僧侶にたいしては最高の刑罰であったそう。

日本橋魚河岸

 この日本橋から、江戸橋までの北岸は一帯が魚河岸となっており、庶民の台所として一日中にぎわっていました。もともとは徳川家康の要請でつくられたそうで、天下人のためのもの。 
 江戸入府まもなく、家康は、摂津国(今の大阪)から、三十名ばかりの漁民を呼び寄せます。江戸湾での漁業権をあたえ、見返りとして毎日将軍に採れた魚を献上させました。余った魚は一般庶民にうってよく、これが魚河岸のはじまりであったと言われています。
 人工増加にともない、魚河岸に集まる魚も増大。江戸城よりも、庶民のための台所になっていきます。

 関東大震災により、日本橋の魚河岸は築地にうつることになりました。

永代橋

永代橋 長さ。110間(約200メートル)幅3間余(約6 m)満潮時でも、海面から三メートルはあったという巨大な橋。
 隅田川に四番目にかかった橋で、もっとも海に近い。徳川綱吉、五十才の祝いでつくられました。大きな船は、ここから奥には入れず、沖に錨泊。荷駄船に積み替え、蔵の入り口まで運ばれます。

 秋口から冬にかけての出荷のピークになると、河口は大渋滞! 富士山・筑波山・箱根山・房総半島の海を、四方に見ることができたのですが、文化四年富岡八幡宮の十二年ぶりの祭礼日に、老朽化した永代橋に人が押し寄せ(この直前に、将軍関係者が、御座船にて、永代橋下を通るため、通行止めがあった。)、押すな押せよの大騒ぎ。まず崩れたのは、橋の東側、数間ばかり。崩落を知らずに押し寄せ続けたため、あれよあれよと川へ転落していきます。転落、死傷者、行方不明者をあわせて1400人の大惨事。
 それでも人が押し寄せたため、見かねた一人の武士(南町奉行組同心、渡辺小佐衛門)が刀を抜いて振り回しながら、退くよう促したそうです。それを怖れて、みな下がった、とは、曲亭馬琴の兎園小説の一節。

 赤穂浪士は、この橋をわたって、泉岳寺に向かったんですね。橋の落成から五年後のことでした。

 1926年、大正十五年に、現在の形に。2007年には、重要文化財に指定されています。

職人の町、神田

 商人と同じく、江戸の初期は、上方・西国から熟練の職人が集められました。与えられた町人地は、無償! 幕府からの仕事を請け負います。彼らは、職人頭を中心に、まとまって暮らしましたので、自然と職人街ができていきました。紺屋町(藍染屋)、大工町、鍛冶町、白壁町(左官)、鍋町(鋳物師)、鉄砲町……職人気質をいろこくした江戸っ子の誕生です(江戸っ子という言葉がうまれたのは、江戸も後期の話ですが)。

山の手、下町

 山の手と下町、という区分は、江戸時代には明確でした。台地と低地をわける崖が境界線となっていたためです。もともと坂の多い土地で、大名、旗本の住む武家地は、台地を主とし、商人職人の住む町人地は低地に集まります。江戸の初期から、台地は山の手、下町は町人地とよばれていました。山の手は、現在でいえば、文京区・豊島区・新宿区・港区の一部。下町は、北は神田にはじまり、南は新橋。東は隅田川にゆきあたり、西は外堀へとつづきます。

八百八町

 江戸時代につかわれた町。これが、現代とは意味合いがちがうので、ちょっとややこしい。江戸の町は、道路で囲われた一区画のことなので、現在で使われている町という単位よりは、ずっと小さいのです。町は、長さの単位としても使われ、一町は、長さ60間四方を指しました。四角いスペースに、長屋が建ち並んでいました。 

 一間、1.8メートルで換算すれば、一町は108メートル。町と町の間には、幅12メートルほどの道路が、碁盤の目のようにつくられています。こうした町割りの中央には、縦横20間の空き地がつくられました。徳川家康のもくろみた都市の設計図です。

 この町割りをもとに、慶長から寛永年間に、303町を建設。火事のたびに、焼け出された人たちは、近郊の農村に流出していき、府内の町割りが外へと広がります。明暦の大火前には、350ほどにふえていました。
 江戸が拡大できたのは、埋め立てによるものでした。一面葦原であったものが、東は浅草、南は品川まで、たちまち長屋武家屋敷で埋め尽くされていきます。

 とくに、江戸前期は、取り潰しにあう大名が多かったので、浪人が江戸へと流れてきました。
 江戸が八百八町になったのは、万治元年(1658年)。髪結床は、一町にひとりしか営業できないのですが、その株数が808でした。

 町はその後も拡大を続け、1800年代には、1700町以上になっていました。八百八町は過少申告だったのです……

 大名屋敷のあるところでは、大名の名をつかって呼んだり、寺社があればそれが地名に。他にも、住んでいる職種を通して、大工町。名主の名を冠したのもありますが、道路標識も町名標示もありません。不便。

 もちろん武家も町家も表札をつける習慣がなく、切り絵図とにらめっこしても、わからない。そんな具合だったので、長屋や店を探そうにも目印がない……。なにせ碁盤の目のような町割り。そこで、利用されたのが、坂、なのです。

 江戸は武蔵の台地につくられたので、意外なほど坂が多い。なので、ちっちゃな坂にも命名をして地域のシンボルに。江戸の坂はほんとに多くて、名前のついているものだけで、700以上!
 下町は低地だから、坂がないけれど、かって、橋がシンボルになりました。張り巡らされた掘り割りのおかげで、橋はどこにでもあったわけ。どんな小さな坂でも橋でも命名をして、「○○橋南詰め」などの呼び方で、おおよその場所を判断していました。

 命名法は、いろいろで、大名の名を利用した物(紀伊国坂、紀尾井坂――紀州、尾張、井伊家を合体させてる)、近くの寺社の名を借りた物、近くの住人に著名なものがいれば、その名を借りたり。団子坂ならば、ちかくに評判の団子屋があるし、目立つ柿の木があれば、柿の木坂。わかりやすければいいんです。

 たくさんあったのが、富士見坂、汐見坂、新坂などで、ちょっとまぎらわしいですね。

 

江戸三座と吉原

 日本橋周辺には、芝居街と吉原もあり、「三カ所に千金の降る繁盛さ」とうたわれましたが、天保十二年(1841年)に、浅草にうつされ「猿若町」となりました。江戸二大悪所と呼ばれた両者ですが、吉原は明暦の大火(1657)で全焼したのを好機とみた幕府に、浅草寺裏の田んぼ一角に異動を命じられます。中心街を外されたのですから、大打撃ですが、かわりに昼夜の営業をゆるされます。許されたのは、夜の営業の方。
 おかげで町人の客が主体になっていき、町人文化がここでも花咲くことに。昭和三十三年まで存続。

芝居町と江戸三座

 中村座は日本橋の堺町、市村座は葺屋町にありました。ならんでいたので、俗称二丁町。森田座は木挽町にあり規模はやや劣っていたそう。二百年にわたって繁栄しました。
 もともと歌舞伎興行は、徳川家光の治政。初代猿若勘三郎が、幕府の許しを得て芝居小屋を開いたのが始まりといわれています。最初江戸城近くの中橋にありましたが、火事をいくども起こし、危険ということで、日本橋祢宜町に移されます。このころ、勘三郎は、本姓である中村にもどし、猿若座は中村座となりました。のち1651年には、堺町に移転。

 さて、この三座。天保の改革にひっかかって、取り潰し寸前までおいこまれます。ここで、改革を牽引した老中、水野忠邦にまったをかけたのが、「遠山の金さん」こと、遠山景元。北町奉行であった金さんは、水野を説得、芝居町に移ることで廃絶をのがれることができました。

 大岡越前か、金さんか?
 江戸時代、庶民の人気を二分した名奉行ですが、遠山景元は、1793年寛政五年に生まれました。通称金四郎。青年期はちょっとぐれていたようで、実家を出て町屋での放蕩生活を十年以上続けていたそう。おなじみの入れ墨をいれたのはこのときです。ために、夏場でも袖の長いものを着ていたそう。入れ墨については、どのような物だったかはわかっていないらしく、江戸時代には、墨、朱、茶の濃淡でできていたため、桜であったとしても、鮮やかなピンクではなかったようです。

 33才のときに、養父がなくなり、幕府に出仕しました。作事奉行、勘定奉行と、異例のスピード出世。有能だったんですね。北町奉行についたのは48才のときでした。

 そんな景元が悩んだのが、痔瘻! 馬にのるのが困難だったので、駕籠の使用を願い出て許されています。
 先の天保の改革(12年より)では、町人をおびやかす極端な施政には、断固反対、南町奉行であった矢部定謙とともに、水野、鳥居と対立します。
 天保十三年、矢部は、目付であった鳥居輝蔵の策謀にはまって失脚。南町奉行には、そのまま鳥居が就任します。金さんは、一人で老中水野、鳥居を相手取ります。
 この間に、芝居小屋の廃止をくいとめ、浅草猿若町への移転という形で救ったため、これに感謝した芝居関係者が上演したのが「遠山の金さん」であります。芝居でいう名裁きの記録はほとんどないのですが、裁判上手であったという評判はあり、将軍家慶からも奉行の模範とまで讃えられます。このお墨付きのおかげで、矢部の二の舞とはならず、老中水野ともわたりあえた、というわけです。

 ちなみに金さんの仇役、鳥居輝蔵は、水野を裏切った(反水野派の老中土井利位に、機密資料を横流しています)ことで、のちに復職した水野の報復にあい、財産没収のうえ、丸亀藩に幽閉。明治元年の恩赦まで23年間を軟禁状態で過ごしています。明治六年、78才でなくなりました。

 ところで、入れ墨、入れ墨と書きましたが、江戸で入れ墨、というと、罪人の腕に入れた黒い線のことを指します。金さんのは、入れ墨ではなく、ただしくは、「彫り物」と言います。ごめんなさい。
 入れ墨を入れたのは、左腕で、土地ごとに文様がことなります。また、入れ墨を隠すために、彫り物を入れるのは、もちろん禁止! 窃盗に課せられた刑罰で、時代が下ると、額に悪と入れられることもあったとか。
 江戸も初期だと、鼻を削いだり、指を切ったりされたそうなので、それに比べれば……マシ、かな?

 興業時間は、明け六つ(午前六時)から夕七つ(午後四時)
 浮世絵で、櫓が立っているのが劇場で、その周辺には芝居茶屋がありました。三座それぞれに系列の茶屋をかかかえ、観劇からいっさいをとりしきっていました。茶屋を通して桟敷をとります。待合と料理屋を兼ねていて、役者をよぶこともできました。

花の吉原

 幕末には均等化したそうですが、初期の江戸は極端な女不足のかかあ天下。吉原は幕府公認の遊里で、大名豪商の社交場でした。一流の名士が集まったので、その対手を務めた遊女の気位は高く、流行の最先端をにないます。
 開業は元和四年(1618)私娼を一カ所にあつめて、公認の遊里としてはじまりました。

 もともと、上方から集まった商家には、遊女屋もふくまれていて、二、三軒ずつがあちこちで営業していたそうです。それを一手にまとめて遊女町をつくることを願い出たのが、庄司仁右衛門。隆慶一郎著「吉原御免状」にも登場しております。そのころ、京、大坂、伏見、奈良、などにはすでに遊郭がありました。一回目は却下されましたが、慶長十年に出された陳情書は、家康の亡くなった翌年である元和三年。五年ごしで、許可があります。このとき、五項目の条件がだされ、遊女町以外に、遊女をおかぬこと、治安維持につとめること、遊女の華美をいましめることを約束されました。
 もっとも湯女や岡場所が発生し、私娼の廃絶とはならなかったのですが。

 最初は日本橋、葺屋町の向こう原、葦の茂る湿地があてがわれたそうです。昼間の営業のみが許され、夜は在宅の義務がある武士が主な相手でした。ために、遊女にも教養が求められたんですね。元吉原を描いたものでは、お客のほとんどが武士なので、ほおかむりをしたり、編み笠をかぶった姿が描かれています。

 吉原の屋根は、大門をはじめすべての建物がこけら葺きでしたので、火災によわく、何度も全焼しています。そのたびに仮宅営業でしのぎ、また復活するたくましさがありました。吉原の火災は36回あり、うち21回が全焼でありました。仮宅時は、気軽に遊べて値段も安く、おおいに賑わったそうです。

 振袖火事が原因で、移転をなくなくのんだ吉原側でしたが、土地は五割増し、多くの人で賑わっていた浅草寺裏を指定し、見事かちとっています。
 新吉原の移転には、美しく着飾り、賑やかに練り歩いたそうで、吉原の花魁見たさの見物人でごった返したそう。遊女の華美を戒める御法度も、このときばかりはお目こぼしがあったのかもしれませんね。
 新吉原は京間サイズであったようで、南北135間(250メートル)、東西180間(333メートル)、総坪数は2万767坪でした。
周囲は、お歯黒ドブとよばれる幅9メートルほどの大溝がとりまいています。入り口は大門の一カ所だけ。左に門番所があり、右には会所。郭内の治安維持と遊女の逃亡防止をになっていました。

お江戸の範囲についてご説明しております。…

参勤交代

 その頃の首都といえば、京大坂のある、上方のことでした。三代家光の頃までは、国都と呼ぶにはお寒い状況で、寛永12年(1635年)に、この状況を変えるべく、時の老中たちは、参勤交代制度をはじめました。

全国260の大名は、1年おきに江戸と国元とを往復する生活が始まります。大名屋敷が建ち並び、江戸は国際都市としての態を急速に整えていきます。

江戸城、燃ゆ

 皇居東御苑には、江戸城天守台が、今も残っています。初代家康の後、秀忠、家光の治世で、三度も築き直されました。最初の天守は、1607年(慶長12年)の造営で、それぞれ、慶長度天守、元和度天守、寛永度天守、と呼ばれています。

 最後の寛永度天守が、焼けたのは、明暦三年(1657)の、「明暦の大火」でのこと。有名な振袖火事です。正月18日から20日にかけての火事で、江戸市中の六割が焼け、10万人以上が亡くなったといわれています。

 藩邸はおよそ160。旗本屋敷は、770。寺社は、およそ350あまり。町屋は400町ほどが焼け、江戸城も、造営からちょうど50年の節目で姿を消すことになります。以降は二度と再建されることはありませんでした。平和な時代には無用という理由で、江戸の再建が優先されます。天守台の解体さえ、手つかずなままでした。
 現在残っている天守台は明暦の大火後に築き直されたそうで、以降は富士見櫓が江戸城のシンボルとなります。天守ではありませんが、天守台の次に高い場所にあり、その名の通り富士山をはじめとした連山、江戸湾などが眺望できたそうです。将軍さまの花火見物も、富士見櫓からでした。

 三重三階、高さは15.5メートル。八方正面の櫓となっております。関東大震災でも崩れなかった石垣は、加藤清正の手によるものではないかと推測されています。上野戦争では、大村益次郎は富士見櫓から観戦、寛永寺堂塔が炎に包まれるのを確認したそうです。
 江戸城には19の櫓がありましたが、現存するのは、伏見櫓、桜田巽櫓(さくらだたつみやぐら)、富士見櫓の3ヶ所だけです。

 ちなみに現存する12の天守が、戦争に使われたことは、一度もありません。

大江戸、ヨーロッパ事情

 大江戸は開国を迫られるまで約260年の間続きました。そのうち200年ほどは、まさしく泰平の世であったのです。日本は独立して存在していたわけですが、世界と関わりがなかったわけではありません。江戸幕府の政策にかかわらず、です。東南アジアで、植民地となり、浸食されていた歴史が頑としてあるわけですから。

 ヨーロッパが日本にまで触手をのばせなかった理由の一つに、17~19世紀初頭にかけてヨーロッパに吹き荒れた革命と戦争にありました。

 産業革命の担い手であったイギリスでも、1642年にはピューリタン革命が起こっています。

 1688年には、名誉革命。日本が江戸幕府を開き地盤を固めている時期、今も王室の残るイギリスでは重大な市民革命に見舞われていたわけです。その間、1652年には、イギリスオランダ間で戦争が起こっています

 1689年から97年にかけてファルツ戦争。1701年にはスペイン継承戦争がおこり(日本では浅野による刃傷事件など)、大戦争に発展していきます。ヨーロッパを巻き込む大戦争はこの後もつづき、1789年にはフランス革命が勃発しました。そこで登場したのが、軍事の天才児、ナポレオン=ボナパルト。ヨーロッパはロシアも巻き込んで混迷を深めていきます。

 アメリカでも1775年には独立戦争が始まりました。南北戦争が始まるのが1861年。極東にあった島国日本は、世界の混乱のおかげで(あるいは混乱をよそに)泰平を保っていたわけです。

 もっとも、日本もヨーロッパの戦争とまったく無関係であったわけではなく、当時世界的な産出量を誇った銅が、オランダの東インド会社を通じてヨーロッパに出回ります。日本産銅は、武器の鋳造という形で異国での戦争に一役買っていたわけです。

江戸の銅はどうなった?

お江戸藩事情

江戸期の藩は延べていえば500ほどが立藩し、概ね270ほどが平均して存在していました。

一万石以上を領地とした大名の所領が藩となりますが、百年万石以上を領した加賀藩をはじめ、その大小は様々。

加賀藩の支藩には、十万石の富山藩などがあり、一万石以上でも、将軍の直臣でなければ、藩とは認められませんでした。

徳川将軍あれこれ

大江戸水路事情

苗字の話

お江戸の食

 今にいたる日本食の数々は、こうして生まれた?!お江戸の食事情

寿司のルーツ

江戸の寿司

江戸蕎麦

鰻と江戸人

江戸の酒

目次に戻る

お江戸の文化

稲荷神社

 新撰組八犬伝でも、重要な存在となる稲荷神社。

 日本の神社では、約四割が稲荷と言われています。

 頂点は、京都にある伏見稲荷大社。

711年、山城国、秦氏による創建です。渡来人である秦氏は、優れた土木技術を持っていましたが、山城は湿地の多い土地柄で、苦労を重ねて水田を開墾します。一族の氏神として、穀物神を祀るようになったのが稲荷社のはじまりと言われています。

「伊勢屋稲荷に犬の糞」

 江戸に稲荷が多いことを詠んだ句でありますが、1つの町に最低でも一社はあり、数千にも、及んだといいます。

 なので、二月最初の午の日のお祭りは大賑わいでした。

「山城国風土記」によると、祭事で餅を弓の的にしたところ、餅は白い鳥となって飛び立ちます。その鳥は山の峰に降り立ち、そこに稲が成りました。そこから、イナリ、の名となったとのことです。

お江戸の服

小紋

 和服の一種で、小さな模様が入っているのが特徴。もともとは大名が正装で着ていたもの。はじめは豪華な紋様を競い合っていたんですが、幕府の規制が入ったため、小さく細かい装飾へと変わっていきました。

 大名ごとに紋も固定化していき、大名の裃が発祥のものを「定め小紋」「留め柄」というそうです。

 素材は絹。色は単色。全体に細かな模様が入っています。

 発祥が発祥であるだけに、庶民には恐れ多いものでしたが、江戸も中期になると、歌舞伎役者が好んで着るように。庶民も独自の柄を楽しむようになり、日常生活にちなんだ身近なものを柄に変え、おしゃれを楽しんでいたようです。

 幕府の禁令がたびたびあって、派手な着物は禁止に。無地で痔水面のが多くなりますが、その分は小物や裏裾でおしゃれを楽しんでいたようです。一見ジミなのによく見ると、おしゃれ! 権力に負けない、江戸庶民の心意気を感じます。、

 

着流しとは、袴をはかない、長襦袢を着ないなど、着物だけを着た、ラフな服装のことです。まあ、楽な格好でありますな。

 

江戸の寄席

曲亭馬琴の鳥

江戸の神様

江戸の鐘

鉛筆物語

大江戸 ふんどし事情

江戸の剣術流派

最初の藩校

お江戸大奥事情

お江戸の月見

目次に戻る

お江戸の法律

本当は厳しい切り捨て御免

 江戸時代、市民の頂点にいた武士層は、様々な特権を与えられていました。その代表が、名字帯刀、と、切り捨て御免。無礼打ちともよばれていますが、無礼を働いた庶民を切り捨てても良いとされる法令です。ただし、この無礼打ちには、さまざまな条件があったのです。

 無礼打ちをした場合は、その無礼を証明しなければならず、本人の主張のみならず、無礼を証明する証人をそろえて役所に届け出ねばなりませんでした。事件現場を離れることはできず、幕府もしくは藩に、届け出をもたせた使者を送り、役人が来るのを待たねばなりません。そのうえで取り調べをうけ、相手に無礼があったと認定されて、はじめて無礼打ちと認められるわけです。

 もし、証人が見つからなかった場合、ただの殺人者として裁かれ、最悪の場合は斬首。お家は取り潰しとなり、財産没収の憂き目に遭います。無礼打ちの当事者は、事件後二十日以上の自宅謹慎を義務づけられますので、家人郎党は、その間に、血眼で証人探しを行いました。見つかりそうにない場合は、評定の沙汰の前に、自ら切腹する者が後を絶たなかったといわれます。

 また無礼を働かれて刀を抜いたものの、相手に逃げられたら、やっぱり切腹。

 また町人側もおとなしく斬られたわけではなく、理不尽を感じた場合は抵抗の権利が認められており、身分差のいかんをとわず刃向かうことが許されていました。このとき、武士が抵抗せずに斬られたら――士道不覚悟として、生き延びても士分は剥奪、家財屋敷も没収されてしまいました。

 切り捨て御免でおとがめなしは、戦国の威風の残る江戸初期にこそみられましたが、中期には激減して、江戸後期にはほぼなくなってしまったそうです。(もっとも有名な生麦事件は、英国人に対する無礼打ちですね)

 こうした切り捨て御免は。八代将軍吉宗の時代に「公事方御定書」として明文化されました。下級武士の足軽にも認められた特権だったんですよ~

 ですが、乱用は禁物。短期はいけませんね。

鎖国か海禁か。

参勤交代見聞録

御触書、慶安実情

大江戸顛末記

昭和も使えた寛永通宝

スフィンクスと27人のサムライ

オランダ貿易実情

大江戸人物伝

 花のお江戸は多士済々。花のお江戸を彩る人物群を、編集人ゴンさんが語ります。

グレる黄門

伊達政宗の秘密

綱吉の思惑

紀文な気分

お江戸の楽

江戸炬燵事情

目次に戻る

お江戸の罪

 小氷河期であったとされる江戸時代。いいことばかりではなく、天災飢饉火事犯罪も起こります。

大江戸拷問実情

目次に戻る

江戸っ子性日常

吉原細見

江戸の結婚事情

目次に戻る

お江戸の職

大奥の話

江戸の口入れ屋実情

江戸の均一ショップ

お宝狙い

目次に戻る

大江戸長屋実情

大江戸長屋事情

 

 

江戸の裏長屋はあんなにせまくてなぜ平気だったのか?

大江戸お子様事情

目次に戻る