鎖国という迷走
鎖国という言葉は、江戸期の対外政策を示すのに、全く適切な言葉ではない――
学者間では、二十年以上前から言われ続けてきたそうですが、テレビの影響などで浸透して参りましたが、実際の所、なぜ鎖国という言葉がうまれ、ここまで広まったのでしょうか?
鎖国令事始め
そもそも、この鎖国という言葉を作ったのは、志築忠雄という学者で、ケンペルというドイツ人の書いたオランダ語の本を翻訳するときに、書名として作った造語に過ぎません。
1801年、享和元年のことです
このケンペルは旅行家でして、1690年に長崎にやってきました
徳川綱吉の時代です
日本の社会や風習をしるしたものが、最初英語で出版され、好評のため、フランスオランダ語にも翻訳されました。
当初は本のタイトルに過ぎなかったというわけです
鎖国令の実態
ところで学校で、習った鎖国令1600年代の前半から出され1641年には完成しております
ところが……
この鎖国令は、大名に布告された物ではなく、幕府老中が、長崎奉行所に出した通達に過ぎないのです
諸大名に出されたのは、1639年に出されたポルトガル船の来航禁止のみ
海外に対しては、琉球、対馬、松前、長崎の四つの口が開いており、これは、鎖国前と同じく
日本人の海外渡航は禁止されていましたが、これは明や朝鮮も同じです
東アジアでは、全般的に見られた制度で「海禁」と呼ばれています
鎖国ではなく、海禁と、呼ぶべきという意見が多いそうです