江戸の人たちは鐘の音で、時刻を知りました。
「時の鐘」と呼ばれる鐘が九カ所あり、告げていたのは、二時間ごと。
この時の鐘、寛永寺にもありました
天明七年に鋳直されたものが残っており、今も朝夕六時と、正午の三回、江戸の鐘の音を響かせています
「花の雲 鐘は上野か浅草か」
鐘のお知らせですが、時刻が八つなら八回撞きますが、その前に捨て鐘というのを、三回撞きます
鐘を撞く人はたいへんです。ですが、ボランティアではなく、鐘の聞こえる範囲の地主、家持ちが一月一払いました。
数が多いのでかなりの額になったそう。
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江戸の時刻法
江戸の時刻は、不定時法です。夜明けから、日暮れまでを、昼と夜とで六等分。十二分の一を、一刻としていました。
季節によって、一刻の長さが変わります
最初に鐘が置かれたのは、本石町で、上野寛永寺、市ヶ谷八幡……といった順番で、鐘を鳴らしていきました。
もちろん、幕府の管轄です。請負人、鐘撞き人、と呼ばれた人や、各寺社が役を担っていました。鐘撞料を徴収したり、托鉢で賄っていました。
もし遅れたら……重い罰が待ってます。
この時報システムは、全国に広がり、鐘の鳴らないところはないとまで言われます。
参勤交代で、江戸に集った大名たちが、これは便利と自国でもやり始めたんでしょうね。
明治になり、諸藩がまとまることができたのも、教育水準や、文化の共有ができていたから、なのかもしれません