牛魔王推参
月が中天にさしかかった。
今夜は満月に当たるらしく、皓々と照る月が東大寺を照らしている。
その一室で眠りに就いていた玄奘三蔵は、妙な胸騒ぎをおぼえてふと目がさめた。
(どうしたというのだ?)
眠りが浅かったとはいえ、この胸騒ぎは異常だった。三蔵は毛布をどけると、石をしきつめた床におりた。
ゆっくりと息を吐いて心を落ち着ける。胸に手を当てると、脈打つ心臓の鼓動が確かに伝わってくる。息がわずかに乱れていることに気がついた。
(おかしい……)
五百羅漢に選ばれた三蔵が、夢などで乱れるとは考えられなかった。なにごとかあるはずである。
胸騒ぎはまだおさまらない。三蔵は引き戸を開いた。
頭の中でなにかがぶんぶん音をたてている。
表で僧たちが、空を指さして騒いでいる。
三蔵がその方向を見ると、満月を背負って、夥しい数の黒点が、こちらに近づきつつあった。
「なんだ、あれはっ」
おもわず声に出た。
鳥などではない。とにかく黒いなにかが飛翔してくる。
「妖怪……?」
三蔵は愕然とその名を口にした。背筋にぞくりと悪寒がはしる。
やはり自分の直感は正しかったのだ。
三蔵は帯をとくと、慌てて服を着替えはじめた。
「くくくっ」
辟水金晴獣(金の目をした獣)に打ち跨がった牛魔王は、喉の奥で低く笑った。
月に照らしだされた花果山東大寺が、眼下に広がっている。チョコマカと動いているのは豆粒のような人間たちだ。
月を背負い辟水金晴獣に跨がった牛魔王は、血の池のような口を裂いている。
眼光炯々と輝く様は、さすが妖怪どもの棟梁である。
鉄扇公主がフワリと衣をはためかせながら、魔王の肩に舞い降りてきた。
「これが東大寺かい。ちっぽけなもんじゃないか」
「いえ、裏の五行山にも山ほどおります」
答えたのは、そばに控える混世魔王であった。
はじめはしぶっていた混世魔王も、これだけの数が集まると逃げ出すわけにはいかなくなったものらしい。
「その点も考えておるわ」
牛魔王が野太い声で莞爾と笑った。
妖怪どもが東大寺目指して急降下をはじめた。
「これで俺も平天大聖だ!」
混鉄棒を振りかざし、魔王はわめいた。
「なんの騒ぎだ?」
部屋で向かい合っていた悟空と四海は、外の騒ぎに腰を浮かした。
「なにかあったらしいな」
四海はかすかに眉をしかめただけだった。
さすがの四海も、よもやこの東大寺に妖怪どもが襲ってこようとは夢にも思わない。
両開きの戸がバタンと開き、年若の僧侶が腰も抜かさんばかりの勢いでかけこんできた。
「どうした?」
四海がその肩を支える。
男はうわついた口調でまくしたてた。
「よ、妖怪どもですっ。う、上から、見たこともないほどっ」
「なんだとっ?」
妖怪ときいて、悟空はにわかに緊張した。今日は朝から、妖怪だなんだと聞かされたせいもある。妙に間近に聞こえた。
四海が目を向けてきた。明らかに困惑している。
悟空はさっと棍棒に手を伸ばした。
(妖怪……?)
夢でも見ているような気分だった。
表の境内では、大雁たちが本堂の僧たちを集め、陣を組んでいる。
「おのれ、わが寺に乗り込んでくるとはいい度胸だ!」
集まった僧侶らは殺気立っていた。
東大寺は武門の誉れである。それに真っ向から乗り込まれて怒らないはずがない。なめられたと思ったはずだ。
それに、東大寺の武術が恐れられているからこそ、誰もここには手を出せないのだ。正面から来られてただで帰したでは、後々の紛糾の種となりかねない。一匹残らず仕留める必要があった。
「眠っている者を叩き起こせっ。五行山に報せるのだ!」
大雁和尚が檄を飛ばしている。
悟空と四海は表に出てから、あっと息を呑んだ。
百はいる。それが空を埋めてしまっている。
月光を背負って降りてくる姿態は、その本性に反して美しくさえあった。
悟空はごくりと生唾を飲んだ。
「あれが、妖怪か……?」
唖然として空を見上げる。妖怪たちの姿は悟空の予想の外にあった。
世を荒らし、凶悪極まる妖怪。悟空が聞いた話はこればかりだった。それがこの美しさはどうだろう。
妖怪たちは地も震えるような喚声を上げ、急降下してくる。
四海の反応は悟空とは正反対であった。
さすがの四海が魂も凍るようだった。一瞬東大寺がつぶれるかと錯覚さえした。あの数は、これまでの比ではない。
四海は夜空に映える妖怪どもを睨み上げ、全身を怒りで震わせた。
冷静に考えればできるはずがない。東大寺には千人を越す修行僧がいる。いずれも必殺の武芸を身につけた者たちばかりだ。
だが、もしも、奴らの狙いが別のところにあったとしたら……。
もしそうだとしたら、妖怪たちにまともに戦う必要はない。目的を果たして逃げればいいのだ。五行山の僧兵が駆けつける暇もなかった。
「住持殿っ」
四海が走り寄ると、大雁はようやく表情を和らげた。
「悟空も一緒か」
これで手勢は百人力である。
大雁はチラリと横目で悟空を見た。
悟空が視線に気づく。少々表情が堅いように見える。
この男は妖怪と戦ったことがない。おろか実戦すら皆無だった。試合喧嘩は当代無敵。だが、実戦となると勝手がちがう。それも相手は妖怪である。
東大寺の武術は妖怪相手に発展してきた。しかし、使う者が下手ではだめだ。
試合でいくら腕がたっても実戦では使いものにならなかった人間を、大雁は多く見てきた。東大寺はじまって以来の麒麟児、悟空ならばどうか?
大雁はこの一件を利用して、悟空の資質を見極めようと思い定めた。天竺までの旅を乗り切れるかどうかは、今この時に決するはずだ。
五海たちが、大雁のまわりに集ってきた。
妖怪どもとの距離はほとんどない。
「住持殿。奴らの狙いは宝玉ではないのか」
四海の言葉に、一同はぎょっとなった。
「なんだよ、宝玉って?」
通じてないのは悟空一人だ。
「来たぞ!」
もう遅かった。
牛魔王率いる妖怪たちは、とうとう大雁たち僧兵の頭上に襲いかかった。