第二章 平天大聖牛魔王
水臓洞の牛魔王
大唐国の国境に、混世魔王という妖怪がいる。
深い山間の崖に、水臓洞とかかれた洞門があった。それが混世魔王の住みかである。
「あれが花果山か……」
水臓洞の最奥で、一匹の妖怪が水晶に映る像に見入っていた。
この妖怪、本来は遥か西域の芭蕉洞に暮らす化物で、顔は牛、人間には及びもつかない巨大な体躯をして、一声吠えれば天地も揺らぐと言われる大妖怪であった。
このあたりの山々を統べる混世魔王も牛魔王にはかなわないらしく、本拠でデカい面をされても何も出来ないあたり、なんとも情けない妖怪である。
牛魔王の隣では、女房の鉄扇公主が、彼の手にした杯になみなみと血の酒をついでいる。
牛魔王の目前に置かれた水晶にうつるのは、花果山東大寺である。
「東大寺には仏に仕える僧兵がおります」
混世魔王がしたり顔で言った。
「たしかに、僧がいるわね」
鉄扇公主は牛魔王にしなだれかかりながら、水晶を指先で転がしてみた。
水晶にうつるのは、三蔵と大雁和尚である。「くだらん。たかが坊主ではないか」
かの地では、幾人もの仏僧を食い殺した牛魔王である。いまさら東大寺の僧侶ごときにひびるわけがない。
「奴ら妖怪退治までやりますんで」
西域の奥に暮らす牛魔王とちがって、混世魔王は詳しい。
東大寺の僧たちが、残らず武術を修業すること。そ強さのあまり、大唐国の帝でさえ手を出せないことなど、いろいろと語って聞かせた。
これを聞いた牛魔王、ふむ、とひとまず考え込んだ。
法力僧と言うのは聞いたことがあるが、武術までやる僧侶というのはとんと聞かない。
混世魔王のおびえぶりは只毎ではない。この妖怪とて、この辺りを統べる魔王である。牛魔王はこの件に関し、万全を期したかった。
「芭蕉洞から手下を呼べ。今宵、東大寺へと乗り込むぞ」
小魔どもに指示を与え、牛魔王は混鉄棒をつかんで立ち上がった。
すると、
「用意はできたか、牛魔王」
入り口から名を呼ばれ、牛魔王はハッとそちらに向き直った。
やや明るい洞口に、高貴な服装をした男が立っている。
腰にさした黄金の長剣といい冠といい、名のある人物にちがいない。が、人間の来ていい場所ではなかった。
「うぬっ、どこからきおった」
混世魔王がさっそく斬りかかろうとすると、牛魔王の混鉄棒に突き飛ばされた。
「な、なにするんだよ、兄貴っ」
「ばかやろう! この方は俺の女房の恩人だぞ! それを斬ろうとは何事だ!」
弱々しく訴える混世魔王を、牛魔王は大喝一声で打ち伏せた。
熱病で苦しむ牛魔王の女房を、通りかかったこの郭羽が助けたのである。彼はニーツァイ国を訪問した帰りだった。
ほとんどあきらめかかっていた牛魔王はたいそう喜び、郭羽を手厚くもてなした後、義兄弟の契りを結んだ。
「久しいな、兄弟」
と郭羽太子は表情もかえずに牛魔王を見上げた。この妖怪に立たれると、郭羽は腰ほどまでしかない。
郭羽は大唐国の第二子で、托羽の弟にあたる。二つ離れた兄とはちがい、あらゆる殺人術を修めた武の人である。
この時二十五才。心身ともに覇気に満ち、威風あたりを払うといった観がある。
家臣の評判もよく、第二子であることを惜しまれているような人物だった。たった一人、供も連れずに現われていい場所ではない。魔王はさっと片膝をついて臣下の礼をあらわにした。
「用意万端ととのいまして、後は赴くばかりでござりまする」
郭羽は牛魔王には見えないよう、皮肉っぽく笑っただけだった。
「東大寺の僧は、独特の武術を身につけておる。特に、奴らの使う羅漢棍術はあなどれんぞ」
「はっ。芭蕉洞に使いを差し向けたれば、我が配下の妖魔ども、ことごとく打ち揃ってございます」
あの牛魔王が、身長の半分にも満たない人間に平伏している。事情を知らない混世魔王は我が目を疑っていた。
牛魔王は誇り高い男だ。まちがっても人間にはいつくばったりしない。
しかも、あの鉄扇公主まで夫の横で平伏しているのだ。あの高慢ちきな女がだ。混世魔王には信じられない光景だった。
しかし、混世魔王は、牛魔王が女房の恩人だと言っていたことを思い出した。
牛魔王は妖怪ながら、義に厚い男である。受けた恩を忘れるわけがない。これなら混世魔王も納得がいった。
「いいだろう。なんとしても、宝玉を手に入れろ」
混世魔王は郭羽の傲岸な態度が気に入らなかった。人間のくせに、棟梁を足蹴にするのが、なんとも鼻についてしょうがない。
(事がすんだら、殺してやる……)
混世魔王は暗い一事を胸に秘めた。
「その暁には……」
と牛魔王が言った。
「わかっている。私は約束は守る」
郭羽がかたい声色をつかうと、牛魔王は首を垂れたままニタリと笑った。
山間に暮色が迫っている。険しい隘路に立つ郭羽の顔が、紅色に染まっていた。
混成魔王の水臓洞は、すでに遠い。
「その暁にはか……わかっておるさ、牛魔王」
そう言った、第二太子郭羽の瞳が、黄金色の光を放っていた。