終章 天竺へとつづく道
野原に横たわっていた悟空がうんとうめいて目をさました。
そのとたん、
「ぎゃあ!」
と肝をつぶして絶叫をする。毘沙門天の憤怒の顔が、自分を覗き込んでいたのだ。
気付けにしては過ぎたるもの。悟空は心臓を押えつ身を起こした。
「あ、兄貴が気がつきましたよ」
離れたところにいた八戒と三蔵が、これに気づいて近づいてくる。
「どうした悟空?」
「傷はなおしたはずだが?」
いぶかしむ三人に、悟空は元気よく怒鳴り散らした。
「バカ野郎! そんな顔で待ってるない!」
「これ、悟空っ。助けてもらっておいて、その口の聞きようはなんだっ」
「まぁまあ、この男の言うことに、一々腹を立てていてはキリがありますまい」
「なんだとっ」
「悟空っ」
三蔵がぴしゃりと叱りつける。
悟空は額を押えて、軽く頭をふった。記憶が少々混乱している。
辺りを見回すと、そこは都も遠くはなれたびょうびょうたる荒野である。
自分はたしか、牛魔王と戦っていて、二郎真君が敵になって……そういえば四天王もいた気がする。
そうだ、牛公が宝玉を奪って逃げたんだっ。
「牛魔王はどうしたっ?」
「時国天たちが後を追ったが、今一歩のところで逃げられた」毘沙門天がムスリと答える。
「まこと、仏も恐れぬ神通を持った奴よ」
「その仏のせいでこっちはえらい目にあったぞ。二郎真君め、盗みをやりやがった」
まったく最近の仏はだらしがない、と悟空は不平不満を並べたてる。
八戒は悟空の回復ぶりに呆れ果て、三蔵はくすくす笑っている。毘沙門天にいたっては悟空の遠慮会釈のない物言いに目を丸くしている。
そこへ、馬に戻った白龍を連れて、河童の沙悟浄が戻ってきた。近くの村で荷物を用立ててきたらしい。
「お前たちも無事だったか」
悟空が話しかけると、白龍は憤然とした様子。
「無事だったかだって? 冗談じゃないよ。雷に打たれて黒焦げになるし、牛魔王には逃げられるし、いいとこなしだ」
自慢の毛並みを焦がされたのが悔しいらしい。毘沙門天をギロリと睨んだ。
「そう言うな白龍。我らはおなじ仏である四天王の方々のおかげで無き命を救われたのだ」
三蔵が淡々とさとすので、悟空と白龍もムスリと押し黙った。
「まぁ、命が助かってよかったですな」
沙悟浄はまた哲学ぶって、生きているってすばらしい、などと言っている。
「あ、そうだっ。俺は真君の奴に術を封じられたんだっ。あの野郎、術をとかずに帰っちゃったぞっ」
悟空がしまったと悔しがれば、
「安心せい。術ならわしがといておいた」
毘沙門天がのんびりと言う。
悟空はためしに、『千人力の法』をとなえてみた。すると、今度はちゃんと術がきいている。
「よかった」
悟空はひどく安心して安堵の吐息をついた。これで一生仙術が使えなくなったら、どうしようかと思っていたところだ。
「多聞天さま。なぜ二郎神はあのようなことをなさったのでしょう? 宝玉とはいったいなんなのです? それになぜ私は天竺に行ってはならないのでしょう?」
三蔵はさまざまな質問を思いつくままに言いたてた。悟空は三蔵がこんな風にしゃべるのをはじめてみた。冷静沈着な玄奘三蔵が、頬を上気させて、言いつのっている。
毘沙門天は彫像のように黙って、三蔵を見つめている。
毘沙門天には答えられなかった。また答えていい問題でもなかった。三蔵の問いは、深く、そして複雑な濁流の中にある。
帝釈天は三蔵を救うように命令された。それは一件にかかわったからだけでなく、三蔵の人柄を見込んでの処置であった。
「今は全てを話すわけにはいかぬ。お主たちがふさわしい人物なら、答えはいつか得られよう。苦難の道を乗り越えるのだ。二郎神はお前たちの行く手に立ちはだかり、惑うこともあろう。だが、我らと帝釈天さまは、お主たちの味方だ」
「苦難の道を……」
「そうだ」
毘沙門天がこくりとうなずく。
「孫悟空、猪悟能、沙悟浄、そして白龍よ。三蔵を守り、旅を続けよ。さすれば、いつか正しい道を見つけられるであろう」
「いつかっていつだ? 答えを知ってるなら、教えてくれればいいだろう!」
怒って妙意棒を手に持った悟空に、毘沙門天は冷厳と答えた。
「おいそれと言えることではない。自分をみがくのだ、孫悟空。全ては帝釈天さまの意のままに……」
そして、ふわりと浮かび上がった。
「おい、待て!」
悟空がバッと立ち上がる。
毘沙門天は空高く上って行き、やがて光のなかに包み込まれた。光が消えたとき、毘沙門天の姿はなかった。
「なんて勝手な奴らだ! 苦難の道を乗り越えろだと、そんなもん乗り越えたくねえや!」
悟空は毘沙門天の消えた空に向って喚きたてた。
「バカー!」
「ブタのケツー!」
「なんだと悟浄っ」
八戒たちもてんで勝手にわめいている。
「おのれをみがけか……」
三蔵だけが一人ポツリとつぶやいた。
「人のもんをとるような奴のいうことを信じるなっ」
悟空はまた怒って怒鳴り散らす。
「兄貴、宝玉を奪ったのは毘沙門天の奴じゃありませんぜ」
悟浄が真面目ぶって答える。
「ふん、なにを。知ったかぶるなっ」
八戒はブタのケツに頭にきたのか、つんけんしている。怒った悟浄とケンカをはじめた。
「おおっ」
「新しい趣向ですな」
悟空と白龍が喜んでいる。
「よさぬか!」
三蔵の語勢に、四人はハタと動きを止めた。「私は天竺に行く。気持ちはかわらん」
「ええっ」
「しょ、正気ですかっ? 天竺なんて行き着けるもんではないですよ。それに、行ったところでなんの得にもなりゃしませんよ」
「行った人間がいるのだ。私に行けぬ道理があろうか」
三蔵はぐっとこぶしを握りしめた。目に熱意の色がある。
「なんのために行くんだよっ。天竺に行ってなんになるってんだっ。冗談じゃねぇ、俺はもう付き合いきれねぇ。俺たちゃもうおたずねもんだ。不老長生の薬なんて手に入れる必要がねぇ。行く理由なんてなくなったんだっ」
「そうではない。天竺に行くのは修行者として至高の願いではないか。お前は仏門にありながら、そんなこともわからんのかっ」
「うむ。師匠が行くというのなら、私に依存はありませんっ」
と悟浄が口をムの字にして言った。
「ずりぃよ、悟浄。俺も行くよ」
と八戒まで三蔵の味方をする。
三人は残った悟空と白龍を見た。
「俺は主人に従うよ」
と白龍だけはすましている。
「悟空」
三蔵が声をかけるが、悟空は背を向けたまま何も言わない。
「お前は宝玉をとりもどさねばならないのだろう? わたしの理由はもう話したはずだ」
悟空の脳裏に牢獄での一夜がよみがえった。蝋燭に照らされ、志に目覚めた三蔵の横顔。
「……本当に行くのか?」
「天竺に、天竺になら答えがある気がする」
悟空は振り向いた。三蔵はとても頼りなげで自分がついていなければならないのだと悟空は思った。
「ふん、どうせおりゃあ牛魔王の奴もとっちめなきゃならないんだ。天竺なんてチョチョイのチョイだい」
悟空は西を向いて妙意棒を肩に担いだ。
この荒野の先に、天竺がある。
朝日が原野を照らしている。露に濡れた草花が、やさしい光を放っている。天蓋が、しだいに青さをましてきた。
「やぁ、さすがは兄貴兄貴だ」
八戒と悟浄がしきりに誉める。
「俺の背にお乗りなさい」
白龍がすすめた。
三蔵が馬上の人となると、悟浄が手綱を引く。
「これ悟空、荷物をもて」
「なんでぇ、そんなもん八戒にもたせろいっ」
悟空が憮然とやり返す。八戒がつづらを背に負った。
すべての答えは天竺に。
玄奘三蔵と弟子一行は、西へと荒原を進みはじめた。
「まずは孝達殿に会いに行こう」
三蔵が高らかに言った。
「兄貴、半分持ってくれよ」
八戒がもたついている。
「なんでぇ、そんなの悟浄に持たせろい」
「いや、それがし、手がふさがって……」
悟浄河童がこもごもと答える。
「なにいってんだ、背に負えばいいんだよ」
「それだったら、白龍に……」
「バカ言うない。俺は本物の馬じゃないんだぞ」
「なんだ、兄貴の子分のくせに」
「お前だって子分じゃないか」
「子分じゃないや、弟弟子だ」
「腹が減ったなぁ」
「もう少し行けば、村がありますよ」
言い争いをはじめた二人を尻目に、悟空と悟浄が笑い合っている。
「どうした八戒?」
三蔵が後ろに遅れる八戒に声をかける。
「待ってくださいよ。荷物が重いんだ」
「情けない奴」
悟空たちが声をそろえる。
八戒は口を尖らせて不平を言った。
「ぶっつづけで戦ったんだぞ。少しくらい疲れたって……」
「わかった、わかった。次の村で宿をとるとしよう」
三蔵が呆れて笑っている。
「やったぁ、ばんざいだっ」
八戒がまぐわを放り上げた。
「のんびりした旅だなぁ!」
悟空の声が、しんとした碧空に響き渡る。
実に、これからの旅を暗示していると、三蔵などは思うのであった。