四海と悟空
薄暮の中、西の残り火が消えていく。
日の暮れなずむ中、三蔵のあてがわれた居室も次第に視界がきかなくなってきた。
行灯に灯を入れる。明かりが窓から漏れた。暗い地面に、丸い光を落としている。
昼間はあれほど騒がしかった蝉の声も、この時間になると急にさびしく聞こえるのはなぜだろう。
「一夏かぎりの命か……」
ポツリと声が洩れた。彼らはやがて来る冬を越せないのだ。
自分は後どのくらいの冬を越せるのか? これからの旅を思うと、三蔵は不安を隠せない。
せめて悟空がついて来てくれると言ってくれたなら。あの明るい男が一緒なら、どんなにか心強いだろう。三蔵にとっては実に惜しい人材なのだ。
都の名のある武芸者には、托羽の息がかかっているにちがいない。三蔵の供には皇室の権力さえものともしない男でなくてはならなかった。その点で、同じ仏教徒である東大寺の僧は最適といえた。
一人一人を見ても、手強い男たちといえる。その中でも最強といわれる悟空なら、誰もかなわないと思うのだ。その悟空がついてきてくれれば……。
結局首を縦には振らず、五海たちもさじを投げてしまった。
「金剛力士か……」
知らず、溜息がでた。
悟空なら、あの男なら、どんな妖怪とてたやすく退けてくれる。まして、自分の法力が加わるなら、天竺もそう遠くないのではないかと思える。
「出発をのばして見るか」
これは悟空が心を変えるまで待つという意味だった。
三蔵は障子を開け放った。夕暮のなか、蝉の声も次第に小さくなっていった。
花果山に夜が降りはじめた。悟空は結局寺に泊まることになった。明日になれば、また五海たちが口うるさく言うにちがいない。悟空はまったく面倒なことになったと思った。
三蔵に義理があるわけでもないのに、このままはねつけてしまうには、どうも胸の辺りがむしゃくしゃする。ここで一方的に断っても、数日は後味が悪いに違いない。悟空はそんなものはまっぴらだった。
要は三蔵の願いを聞いてやりたいのである。初対面だというのに、悟空はあの坊さまが嫌いではない。性格が清廉潔白なためだろう。
その人物が困っている。助けてやりたいが、こちらの意にはそぐわない。
悟空はますますムシャクシャした。真率な眼差しで、自分に訴える三蔵の姿が浮かんでくる。
もっとも悟空にも利がないわけではない。大雁和尚は長年欲しがっていた妙意棒をタダでくれるという。
問題は、天竺までの供だった。
悟空はそれがどんなものか知らないし、天竺がどこにあるのかもわからない。第一、悟空は物心ついてから一度も東大寺を出ていないのである。
水簾洞にいさえすれば、今までどおり幸せな暮らしを送ることが出来る。いまさらその生活をこわそうとは思わなかった。
多くの師兄弟に囲まれて、悟空は幸せだった。山を降りた時自分がどうなってしまうのか、悟空には検討もつかない。そんなことは考えたことすらなかった。今の暮らしに不満はない。充分満ち足りているではないか。
一番の難点は悟空が外での暮らしなど、想像したことすらないということだった。
東大寺はまわりを海に囲まれた孤島も同じである。一般人は寄りつかないし、たとえ来たとしても花果山までだ。
現に三蔵は五行山の存在すら知らなかった。少年僧の中には、ここ以外の暮らしがあることすら知らない者もいる。
悟空とて、知ったのは最近のことだ。
別に妖怪が怖いわけではない。
東大寺は妖怪退治をうけおっている。村人の要請があれば、専門の僧侶が出向くのが決まりである。大唐国が東大寺に手を出さないのも、この点に理由がある。
悟空は強さは申し分ないのだが、性格がああだから、妖怪退治は今まで一度もやっていない。この年になって、まだ修業を終えていないし、外に出せるわけがなかった。
妖怪は、話だけでは悟空の想像の域を越えてしまっている。それがどんなものかわからかったし、だから怖いとも思わなかった。それに、どんなに強かろうが自分が負けるはずがないと思っている。悟空の自信はそれほどだった。
本当に面倒なことになってしまったと、悟空はまた寝返りを打った。
後ろでコトンと音がした。冷気が忍び込み、背中をなでる。
四海師範が入ってきた。
悟空はさっと身を起こした。
四海は真正面に腰をおろす。悟空も背筋を正して向き合った。さっそく不満をぶちまけはじめた。
「師匠。師匠からもなんとか言ってくださいよっ」
「お前と離れるのはわしも辛いよ」
四海は心底辛そうに言った。
「じゃあ、行くなって言って下さいっ。あんな坊さまと二人っきりで旅をするなんて、俺はごめんですからね」
悟空の本音が出た。
四海は苦笑しただけだった。それから真顔になって、「広い世界を見るのだ悟空。お前は寺を出たことがないだろう。世間は広く深いものだ。お前より強い者は大勢いる」
悟空は鼻で笑っただけだった。
四海は仕方なく、俗世で暮らす人々について話してきかせた。
長安が大陸でも最大の都であること。はるか西には流沙河と呼ばれる広大無比な河のあること。
人々は田畑を耕し、作物をつくる。運河を引き、荒地に田畑を切り開く。
北方に暮らす騎馬民族や、彼らがおこなう年に一度の祭り。目も眩むような、宮殿でのはなやかな暮らしぶり……
それは、悟空が今まで聞いたこともないような話ばかりだった。
話を聴くうち、悟空の目がキラキラと好奇心に満ちて輝きはじめた。四海の話はつきることがなく、またいくら聴いていても厭きるものではなかった。
「寺を出ればわしの教えたことが存分に役に立つだろう」
「そ、そうか。寺を出れば……」
悟空はうれしさのあまり言葉につまった。「そうだ。もう隠すことはない」
四海はニヤリとうなずいた。
喜色満面の悟空だったが、自分は寺を出る気がないということに気がついて、また難色を示しはじめた。
「天竺に行くのはそんなにいやか?」
四海がこまったように聞くと、悟空は無言でうなずいた。
天竺ははるか西天、想像もつかぬほど遠くにあるのだという。帰れるかどうかもわからない旅に、出たがるわけがなかった。
「しかしな、わしにはお前がこのまま東大寺を出ることなく、一生を過ごすことに疑問をもつのだよ。お前には金剛力士と呼ばれるほどの才能がある。わしはこの寺に来て、お前ほどの才能には巡り合ったことがなかった。これは仏の与えたものなのだと思えてならんのだ。三蔵殿は、理由はどうあれ天竺に行かねばならんという。お前の話を聞き、供として連れて行きたいといいなされた。わしには、お前はこのために寺に来たのではないのかと思えたよ」
「そんな……」
悟空は小さく笑っただけだ。そんなバカなことがあるはずはない。
「悟空。わしはお前を忘れないよ」
この言葉はさすがにこたえた。どんな時も味方だった四海が、寺を出ろと言っている。
悟空は、正直どうしていいかわからなくなっていた。四海が話した都や人々の暮らしは素晴らしかった。そんな人間もいるのだと思った。悟空の心は動いたと言っていい。
まったく二十年以上も生きてきて、こんな話はとんと聞いたことがなかった。みんなどうして黙っていたのかと思うと、またぞろ腹が立ってくる。
悟空の胸が期待に騒いでいた。東大寺を出るのも、そんなに悪いことではないかもしれない……。
世の中を見てまわりたい。その思いが強くなった。
四海がポツリポツリと話しはじめ、悟空はようやく夢からさめた。
「大きくなったなぁ悟空。わしが吹雪の中でお前を見つけた時は、この腕におさまるほど小さかった」
「そりゃあ。もう二十年も前の話ですよ」
四海はうんうんとうなずいた。まぶたの端に、うっすらと光るものが浮いていた。