講釈西遊記

講釈西遊記

 

水簾洞の悟空

 花果山の裏門を出ると、きちりと整えられた大道が、真っすぐに五行山まで延びている。
 武の山への案内は、当然四海が買って出た。これに大雁と五海が加わり、三蔵の同行者は三人になった。
 東大寺の最上位をしめる三人が従うのだから、三蔵がどれほど丁重に扱われているかがわかる。初夏の山並木の中を、土を踏みしめ踏みしめしながらのぼっていった。
 そそり立つ五行山は、ちょうど夏ということもあって、正に天を衝かんばかりの雄大さであった。
 四海は水簾洞までの道中、東大寺についていろいろと話をしてくれた。
「東大寺は捨て子寺とも呼ばれましてな。食い詰めた両親が赤子を置き去りにしていくのです。そのせいか、あちこちの捨て子が届けられ、このように大人数になってしまうわけですよ」
 ふわりと微笑した。どこかさびしげでもある。
 三蔵は、残念なことです、と答えた。四海はうなずくしかない。
「中には悪業がたたって親に入れられる童もおりますがな、そんなものは稀ですよ」
 足元を見つめたまま、大雁は地面を確かめるようにして登っている。顔は微笑っているが、声に湿り気がある。
「多くの子供が母親を知らずに育つのです。修業がいやで逃げ出しても、どこにも行くところなどありません」
 続いて言った五海の言葉に、三蔵は胸がいたんだ。ここはまさしく捨て子寺なのだ。
 大雁や四海たちとて、元は捨て子だったにちがいない。
 東大寺は故郷で家だった。どこにも行くところがない、それは幼き日の彼らが痛感した思いだったのだろう。
「悟空もですか」
 この問いに、四海はにこりとうなずいた。少し空を仰いで、思い出すように口を開いた。
「あれがこの寺に来たのは真冬でしてな。なんともよく泣く赤子でした。吹雪のなかにとり残されておったあの子を、わたしが見付けたのです。あかぎれを起こした小さな手が、なんとも不憫でしてなぁ」
 三蔵は黙って、前を行く四海の背中をみつめた。その背はわずかにまがっている。月日がそうさせたのだろう。
 寺に来て六十余年。その技は円熟の域を越えた。肉体は衰え、これ以上の上達はない。
 だが、四海は悟空を手に入れた。今まで築きあげた羅漢流の全てをたくし、死んでいける。武術家としての四海は、幸せな男だった。
 骨身を削って磨き上げた術が、誰にも伝えられぬまま、己れの代で絶える。耐えがたい悲しさがあった。
 少なくとも、四海は悟空と出会ったことによって、そんな寂寥感から逃れることができたのである。
 天賦の才をもった弟子にめぐりあえ、到達することのできなかった境地への夢を託すことができた。
 この頃の四海は、同輩の五海が見ても、はっとするほど穏やかである。いつ死んだところで悔いの残らぬだけの気構えができたのだろう。これも悟空のおかげだった。
 四海は悟空にとって、師であること以上の存在だ。言わば父も同然なのである。そして、四海にとっても悟空は息子も同然であった。
 悟空は四海の言うことなら逆らわない。かわいがってくれているのがわかるのだろう。
 いくつになっても山を降りない悟空が、四海もかわいいらしかった。
「悟空は武術が好きでしてな。苦練苦行を惜し気もなくつんで、あれほどの強さを手に入れたのです。今ではわたしより腕は上でしょう」
 振り返り、うれしげに笑う。
「四海殿がそうだから、悟空がつけあがるのですっ」
 五海がとがめるが、四海は意にも介さない。彼だけは、いつまでたっても悟空の味方なのである。
 五海はうなるような声を上げた。
「そのかわり小坊主たちにはやさしいですよ」
 四海は自慢げだ。五海はあきれて物も言えなくなった。
「あれはさびしがり屋でしてな。悟空がいたずらをするのはそのせいです。かまってもらえないと、不安になるのでしょう」
 ときおりさびしそうにポツンと座っている姿を見ると、妙にいとおしくなるのである。
 四海のあたたかい目が、三蔵を射抜いた。三蔵は胸を打たれる思いがした。
「悟空には悟空のよいところがあります。これからは、そのよい部分も見てやってもらえますか」
 大雁の言葉は懇願だった。悟空を見捨てないでくれと、受け入れてやってくれと言っている。
 三蔵はそれを聞いて安心した。寺に集まる捨て子たちも、ここならば俗世にいるより幸せではないかと思える。
 大雁たちは、どんな者も愛せる包容力をもっている。三蔵は悟空を連れだすのは、まちがいではないかと思えてきた。
 寺にいるかぎり、悟空は幸せなのだ。少なくとも妖怪などと戦う、殺伐とした日々を送らずにすむ。
「もうすぐです」
 四海の声が、三蔵の思念を断ち切らせた。
 かすかな瀑音が届いてくる。鼻孔を心地よい湿り気が漂った。水簾洞に近づいたにちがいない。
 清浄な空気が辺りを包んでいる。滝の音はしだいに大きくなっていった。
 感覚が明瞭としてくる。ここは霊山だ。五感が澄んで、力がみなぎる思いがする。眼を閉じても景色が見えそうだった。
 山道を折れ曲がると、木々の陰から巨大な滝があらわれた。
 大量の水が中天より落ちてくる。それは圧倒的な力をもった光景だった。水しぶきが霧にかわり、光の加減によって虹が生まれる。
 地を穿つ水が飛沫となって周囲にとびちる。子供たちの嬌声が聞こえてきた。
 滝壷で、まだ小さな少年僧が自由気ままに泳いでいる。三蔵はついうれしくなってきた。
 彼らは立ち止まっている大雁たちに気づいて、手をふってよこした。
「ここが水簾洞です」
 四海が石碑を叩いていった。
 花果山福地 水簾洞洞天、と彫られている。「これが……」
 なにかを言おうとして、三蔵は言葉を失った。とても形容できるものではない。あえて言う必要もなかった。
 上はかすむほど高く、下には澄んだ滝壷が今も水を受けている。三蔵はこれほど透明度の高い水ははじめてみた。
 轟々という音が耳をついて痛いが、こんな所で暮らせたら、素敵だろうと思う。
「すばらしいところですね」
 三蔵の素直な感想に、四海たちはニコリと笑った。
「水簾洞は滝の裏にあります」
 言いながら、四海は淵を歩きだした。
 その隣を、上半身裸の子供たちが駆け抜けていく。三蔵の表情にふっと笑みがもれた。
「修行僧がずいぶんいますね」
「武の山だけで、三百人です」
 大雁がにこにこと答えた。
 滝の真横にまわると、流れる水と崖の間にかなりの空間があった。岩を削った道が、反対側までしかれている。中央あたりに洞があった。
 水しぶきがかかって、なかは湿気ている。光が白滝を通して射し込んでいる。
「滑らないよう気をつけてください」
 四海が先に立った。
 内側からみると、滝はまるで壁だった。
 岩肌に手を触れると、しっとりと濡れている。錫杖にしぶきがかかってシャランとなった。
 四海が水簾洞に消えた。三蔵がつづいて入ると、耳を聾せんばかりの轟音がぴたりと途絶えた。
 中は涼しく、意外なほど乾燥している。驚くほど澄んだ霊気がただよっていた。
「おどろかれたでしょう」
 ぽかんと口を開けた三蔵に、四海がいたずらっぽく笑いかけた。
「夏は涼しく冬は暖かいんですよ。不思議でしょう」
 大雁が続けて言った。滝の裏にある洞にしては、確かに不思議な話だった。
「広銘や。悟空はどこにおる?」
 四海が入り口にいた見習い僧の一人に尋ねた。
「師兄(兄弟子)なら、奥で寝てますよ」
 広銘と呼ばれた小坊主が、珍しげに三蔵を見ながら答えた。つるつるとした頭がなんともかわいい。
「お前たち、少し外へ出ていなさい」
 大雁が言うと、洞の奥から小坊主たちがワッと駆け出てきた。
 その数の多さに、三蔵はヒャッとなった。「見なさい、四海殿。子供たちはすっかり悟空の悪影響を受けておる」
 五海が憤然として迫った。
「悟空はよく面倒を見ていますよ」
「いたずらの先導をやっておるだけだ。あれではガキ大将ではないかっ」
 大真面目に怒る五海に、三蔵はつい笑ってしまっ
た。
 少し進むと、視界がぐっと開けた。見渡してみると、そこは半円の天蓋を持つ空洞である。
 天井は高く、ぐるりと広い。岩棚に毛布がしかれているのを見ると、ここで寝泊りもしているようだ。
「年少の小坊主が、五十人は寝起き出来ます」
 と大雁は奥に歩いていった。
「師兄、起きてくださいよっ」
 すると、さきほどの広銘とやらが、誰かの肩をゆすっている。騒ぎに乗じて、奥へとって返したようだった。
「広銘っ」
 四海があきれたような声を出すと、広銘はぎくりと飛び上がった。三蔵たちには目もくれず、ドタドタと出ていった。
「やれやれ」
 五海は肩も落とさんばかりに溜息を洩らしている。
 三蔵が広銘のいたあたりに眼をやると、ひときわ大きな寝台があった。こちらに背を向けて長々と横になっている男がいる。
 三蔵は、これが悟空かとひとりごちた。こちらに背を向けた格好が、本山で聞いたいたずら者と、妙に合っているのである。
「悟空。起きなさい」
 五海が揺すっても悟空は起きない。
「これ、悟空」
 四海が声をかけると、悟空はノソリと身体を起こ
した。
 三蔵はその頭に髪が揺れていることに気づいておどろいた。
 悟空は得度していないと言っていたから、髪を切っていなくても別に不思議はない。そういえば、さきほど見た子供たちも、髪の有る無しはまちまちであった。
「なんです、師匠」
 悟空は眠たげにまぶたをこすっている。ようやく目を開けて、物憂げに頭をもち上げた。
「あっ、大雁和尚」
 大雁の姿をみとめ、悟空はぎょっと叫んだが、すぐに後ろに立つ三蔵に気づいた。
「誰です?」
 悟空は妙な顔をしている。三蔵が彼にとってはあまりに不審だったからだ。
 背は大雁と変わらないし、顔が整いすぎている。どう見ても男とは思えなかった。
 しかし、悟空は女を見たことがない。妙な物でも見るような顔で、寝台から降りてきた。実際、悟空は三蔵のことを、妙な男としか思っていない。
 三蔵は悟空を見上げねばならなかった。起き上がって立つと、ぐっと背が高いのである。
 とてもこの男が、東大寺を荒らす乱暴者とは思えなかった。筋骨はなるほどたくましいが、相貌は鼻筋がとおり、一国の太子と呼んでも差し支えがなさそうだ。
 三蔵は寺に着いた時から不思議に思っていたのだが、武術をやるはずの東大寺の僧が、ハンで押したようにそろって痩せていることだった。
 逞しいことは逞しいのである。だが、都にいる兵士や無頼漢などは筋肉も隆々として、いかにも武人然としている。
 東大寺随一と言われる悟空さえ、常人とさして変わらないように見える。
 彼らの体は伸縮自在である。全身が柔軟な鋼で覆われているようなものだ。普通にしているとわからないが、少し力を入れただけで服の下の筋肉がグイグイともり上がる。無駄な肉など一片もない。細く強靭な筋肉だった。
 三蔵はようやくそれだけのことに気づいた。同時に自分の眼力の無さを恥じた。おそらく東大寺の武芸は、都の物とは異質であるにちがいない。
 そう思うと、四人の僧がとてつもない強さを秘めた達人であると、実感できるような思いがした。
 悟空はまだ若かった。四海は二十二だといっている。してみると、三蔵より二つは若い。
 顔が整っているせいか、少し托羽に似ている気がする。しかし、体付きのせいか、受ける印象はまるで違う。
 都にいた托羽はなんとも脆弱で頼りなげだったが、こちらは堂々たる体躯をした美丈夫だ。
 悟空は自分の姿にはすこしも興味がないようで、一向に生傷の絶えない顔で三蔵をのぞきみた。
 三蔵は昔から顔を見られるのには馴れている。まじまじと悟空の顔を見返した。
 悟空はますますおもしろそうに眼をくるくると回している。多くの子供がそうであるように、好奇心が旺盛らしい。さもおかしそうに笑っている。
 ところが、大雁たちは悟空の無遠慮な態度に肝をつぶさんばかりに驚いた。
 三蔵は若いといっても、五百羅漢の一人である。
それに悟空は勘がいいから、あんまり見られて女とバレてもこまる。
「これ悟空っ、失礼であろうっ。三蔵殿は五百羅漢の一人であらせられるぞ」
 五海が服の裾をひっぱったが、背丈が違うせいでぶら下がっているようにしか見えなかった。
 悟空は、これもいつものことで、大雁たちの心配をヨソに、ますます愉快そうに三蔵に見入ってしまった。
「じろじろと見るでないわっ。初対面の方に無礼であろう」
 大雁がわめいたので、悟空はようやくそちらに視線をはわせた。
(袈裟を着てるな)
 なるほどと思った。袈裟を着れるのは徳の高い僧だけである。
 悟空はおもしろそうに瞳を輝かせながら、三蔵の顔を指でさした。
「この坊さん、ほんとにえらいんですかね。手足なんか、ヒョロリとしてまるで女みたいだ」
 悟空はフンフン匂いまで嗅ぎはじめた。三蔵は内心ヒヤリとした。この野生児の五感は常軌を逸している。気づかれたかと思った。
「馬鹿者、普通はわが寺のように武術などやらないのだっ」
 五海は青筋をたてて怒ったが、悟空の感覚では強い方がえらいのである。五海の言い分にも小馬鹿にした笑みで、ふふんと鼻をならしただけだった。
 悟空が自分のことを弱い男としか思っていないようなので、三蔵は少々安心した。
「すみませんな。この通り礼儀を知らん奴でして」
 大雁は三蔵に向き直ると、悟空が驚くほど丁寧にわびた。
 悟空はわびを入れるばかりで、あやまられたことなど一度もない。ムラムラと怒りを覚えたが、大雁たちはあやまることなど何もしていないのだから、これは怒る方が無茶である。
「いったいなにしに来たんだっ。俺はなにもやってないぞ」
 面とむかって、礼儀がないと言われたのにも腹が立つ。悟空は俄然立腹した様子で、用件を問うてきた。
「これからは三蔵殿を師匠と呼ぶのだ」
 四海が表情もなく言った。
 悟空は愕然となった。
「な、なんでっ?」
「三蔵殿はこれから天竺までいかねばならんのだ。お前はその供をせい」
 悟空は凄まじいまでの眼で大雁を睨みすえた。
「冗談じゃねぇ! なんで俺がこんな奴の世話をしなきゃならねぇんだ! しかも師匠と呼べだって? いくら四海師匠の頼みでもそればっかは聞けないや!」
 憤然として喚きはじめた。
 この二十二年間、悟空はろくに武の山を降りたことがない。花果山に出向くのも、決まっていたずらをやらかした後だった。
 悪いことをしたから本堂に行くのである。なにもしてないのに連れていかれるのは、これは悟空にとっては大変な没義道だった。
 しかも、四海は言外に寺を去れと言っている。これはとても聞けた命令ではない。
 悟空は両の手足をふりまわして暴れはじめた。
「そこを頼む。悟空」
 とこの時、三蔵がはじめて声を発した。
 水簾洞一杯に響きわたる大声で、怒鳴りちらしていた悟空だが、三蔵に見つめられてすっかり当惑してしまった。なんせ人に物を頼まれるのは初めてである。
 悟空はすっかりいい気になって、胸をのけぞらせた。
「俺は天竺なんていかないぞ。いきたきゃ一人で行けばいいだろう」
「お前、天竺がどこにあるのか知っとるのかっ」
 五海が呆れて聞いた。
「いや」
 悟空の返事はあっさりしたものだ。
「天竺ははるか西にあるのじゃ。たどりつくには多くの難所を越えねばならない。妖のたぐいも大唐国の比ではないのだっ。護衛がいるのは当然じゃろうがっ」
「そんなこと俺が知るもんかっ」
「こんなこと世間でも常識ではないか!」
「ああれれ、あれあれおかしいぞ。東大寺は俗世じゃないっていうくせに!」
 言い争う悟空と五海に、大雁和尚はやれやれと溜息をついた。
「悟空よ。天竺までの旅はお前でなくてはつとまらんのだ。三蔵殿はお前の話を聞いた上で、尚お前をお選びになられたのだ。ここでその義を果たすのが東大寺の僧たるつとめではないのか」
 睨み据えられ、悟空はハタと押し黙った。かと思うと、今度は歯をならして唸りはじめる。
 悟空とて武術家である。義の言葉を持ち出されては、無下にことわるわけにもいかなかった。
 確かに三蔵は弱そうである。というより強いはずがない。鍛えた後が、微塵も感じられないのだ。
 だが、この点に関して悟空はあやまっている。三蔵は都でも屈指の法力僧なのである。
「寺に残りたいおぬしの気持ちはわかる。だが、私の話も聞いてはくれまいか」
 悟空は困り果てた。どうもこの三蔵という坊さまはやりにくい。
 話していると、言うことを聞いてやらなければならないのではないのか、という気になってくる。
 それは三蔵の人徳がなせる技なのだが、そんなことに気がまわる悟空ではない。
「三蔵殿の助けになるというなら、妙意棒を貸してやろう」
 この言葉に、悟空の肩がぴくりと動いた。
 妙意棒というのは寺に伝わる神器の一つで、伸縮自在の棍棒のことだ。
「妙意棒……」
 もはや呻くように呟いた。
 悟空はこの妙意棒が欲しくて仕方がなかった。何度か持ち出そうとしては、そのたんびに見つかって、こっぴどいめに合っている。
 それを寺を出さえすればただでくれると言っている。
 悟空はモゾモゾと身体を揺すりはじめた。心が動いた証拠である。
 妙意棒。あれが手に入る。これは一大事であった。(なんとか旅なんぞに出ずに、妙意棒だけいただけないものか?)
 悟空は眉間に深いシワを刻みこんで、ウンウン唸りはじめた。
 あれが自分の物になったらどんなにかいいだろう。だが、その報酬に坊さまの御供なんぞまっぴらごめんである。
 四海を見ると、こちらに眼を据え、ゆっくりとうなずいた。今、この場には自分の味方となってくれる者は、誰もいないのだと悟空は悟った。
 悟空は利口な男である。とりあえず話を聞くことにした。
 天竺というものにも、三蔵にも興味がある。ここは一つ、この坊主の話を聞いてやることにした。
 悟空は枕元の棍棒を素早くさらった。
「わかった。でも話を聞くだけだぞ、天竺なんていかないからな」
 そう言って悟空が手近の椅子に座ろうとすると、大雁がすばやく取り払った。
 武の山にある家具類は修業のため、これすべて石造りである。茶わんや箸など鉄で出来ている。大雁は百貫はありそうな石作りの椅子を軽々と持ち上げた。
 今や座らんとしていた悟空が、尻餅をついて尻をさすっている。
「いつつ、なにしやがるっ」
「今日は寺でねるのだ」
 唐突に大雁が言った。
「な、なんでだっ? 俺は山を降りないぞ、話ならここですればいいだろう?」
 不意をつかれた悟空は、転んだまま狼狽した。
「三蔵殿は明日には寺を立たねばならんのだ。お前が寺まで来なさい」
「いやだっ」
 悟空の答えはいつも直接的である。
「悟空よ。そうわがままを言わず、山を降りてくれんか」
 つらそうな四海の懇願に、さしもの悟空も口をつぐむしかなかった。
 四海は自分がいなくなることを惜しんでいてくれている。それが身に沁みてわかった。そんな四海を、困らせたくはない。
「お前はさっき話を聞くと言ったばかりだろう。その約束をたがえるのか?」
 黙っていると、今度は五海がたたみかけてきた。
 約束をやぶるなんて御免だが、五海に馬鹿にされるのはもっと御免だ。
 いたずら大好き、ケンカ大好き。しかし、ウソをつくのは大嫌い。
 悟空はどういうわけか、一度約束したことは、命を落としても守ろうとする。だから、口にしたことはかならず実行する。今回はそれで墓を掘ったというわけだ。
「行こう」
 四海が肩を叩いた。悟空はしぶしぶながらついていくことにした。
 棍棒をしょっかつぎ、水簾洞を去る悟空。
 石碑のあたりで、悟空は不安そうに滝壷を見返した。悟空の兄弟分たる小坊主たちが、じっとこちらを見つめている。
 悟空はなんだか自分が乗せられているのではないかという気がしてきた。このまま水簾洞には戻れないのではないだろうか?
 悟空は鋭い。異変の前にはかならず胸がざわざわと騒ぐ。
 その悟空の直感が、もう水簾洞には戻れないことを告げていた。
 大雁がその背をおしたので、悟空は正面を向いた。もう振りかえることはなかった。
 小坊主たちが、うな垂れている悟空を怪訝な顔で見送っている。
 悟空師兄、今度は一体何をやったんだろう……?
 こうして、悟空はなれ親しんだ武の山を、下りることになったのである。

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