講釈西遊記

講釈西遊記

三蔵と郭羽

 木造の格子の向こうで、三蔵は座禅を組んでいた。付き合っているのは沙悟浄である。
 八戒と悟空は思い思いの格好で寝転んでいる。
 三蔵は五百羅漢の地位を奪われ、今は一介の坊主であった。
 さすがに縄はとかれているが、まぐわと宝杖をとられてしまった。悟空の妙意棒だけは耳に隠していたから無事である。
 番兵がさっと敬礼をする衣擦れの音をきいて、悟空たちは目を開いた。
「郭羽殿!」
 なんと、格子の前に立っていたのは、第二太子の郭羽である。三蔵は五百羅漢の就任式で、一度だけだが見たことがあった。
 郭羽は三蔵に目礼すると、四人の顔を眺めつらした。
「兄上を殴られたそうですな」
「はっ。申し訳ありませぬ」
 平伏する三蔵に、郭羽は手を振って許した。「よして下さい、こちらも悪いのです。それより、これで天竺行きはなくなりましたな。さぞ、御無念でしょう」
 残念そうにいう郭羽に、三蔵はこれまでの経緯を説明した。
「では、あなたには天竺行きの思いは元々ないのですな?」
 念を押すような言い方だった。三蔵は不審におもったが、別にウソではない。はいと答えた。
 すると、郭羽はニコリと笑い、
「わかりました。今回の件よきにはからうよう、父上に話しておきましょう」
 そう言い残すと立ち去った。
「郭羽殿……」
 三蔵は感涙にむせんだ。托羽殿は御自身の兄であらせられるというのに、噂にたがわぬ高潔な方だ。
 これには悟空もほとほと感心してしまって、しきりに郭羽を誉めている。
「そうかな」八戒と悟浄だけは鼻をぴくぴくさせている。「あいつ、なんか嫌いだ」
「なにが嫌いなんだよ」
 真っ向から反論されて、悟空はいささか不満そうだ。
「よくわかんないけどさ。雰囲気が……」
 八戒の答えはいやに曖昧である。
「なんだ、そりゃ? はっきりいえっ」
 殴られた。
「これ悟空っ」
 三蔵の叱責が牢にひびく。
「あまり信用せん方がよろしいですよ」
 弟子のなかではもっともまともな悟浄の意見に、三蔵はうむと唸った。

 入れ代わりに現われたのは、太宗と千悌である。 こちらは郭羽と違って、護衛を率いている。この点でも悟空は郭羽に好意をもった。
「太宗皇帝っ」
 三蔵がまたひれ伏した。
 八戒と悟浄も、これが大唐国の皇帝かとはいつくばっている。
 一人ケツを向けているのは悟空である。この辺も東大寺であった。
 千悌の頬が、ヒクヒクと引きつる。
「その者が托羽の頬をぶったのですか」
 表情は平静をよそおっているが、声音には怒りのほどがありありと現われていた。
「も、申し訳ありませぬ」
 三蔵はこれ以上下げられぬほど頭を下げて、地に額をすりつけた。
「おろか者! 謝ってすむ問題ではないわ! 托羽はいずれは大唐国を継ぐ大事な身ぞ! それを殴るとは何事じゃ!」
 千悌のあまりの憤激に、三人はいよいよ恐れ入った。
 冷めた眼光をピタリと三蔵に据え、わきの男に合
図した。
「玄奘三蔵の五百羅漢の任をとく」
 太宗お付きの文官が、一種冷めたような声で文面を読んだ。
 三蔵は鼓動が止まりそうだった。あまりのことに息がつまった。
 いまここに、正式に羅漢の地位を破棄されたのである。不覚にも無念の涙がつきあげてきた。
 ぐっとうつむき、撫で肩をふるわす玄奘に、悟空がバッと立ち上がった。
「なんで三蔵が罰を受けるんだっ。托羽を殴ったのは俺だっ」
「ばかめ、おぬしはまた別の罰を受けるわ。三蔵のような軽いものではないぞ。死罪はまぬがれないと思え!」
 悟空はさっぱり理解できなかった。
 自分はまちがっていない。嫌な奴を殴ったところでなにが悪い。悪いのは托羽ではないか。
 悟空が悶々と思案にくれる合間に、さきほどの文官がまた書状を読み上げた。
「明日、御前にて裁決をとりおこなう」
 三蔵がはっしと顔を上げた。事態はそこまできていたのだ。
 太宗と目があった。その眼がすまぬなと謝っている。
 三蔵は太宗の慈悲を察し、ますます平伏するのであった。
「もう天竺にはいかずともよい」
 太宗の声が空しく岩屋に響いた。
 そういえば、諸悪の根源はそれである。もとはといえば、托羽が天竺に行けなどと言い出したところから、事は大きくなりはじめたのだ。
 三蔵は胸にポカリと穴が穿たれたような気分になった。
 こうして岩屋に入れられ、五百羅漢の任を解かれている。明日になれば、御前で裁決を受けねばならない。
 自分がこれまでなんの苦楽もなく進んだ栄誉の道が、いま陶器のように砕け散った。多くの弟子に囲まれ暮らした幸せな日々は、ひょっとして嘘だったのではあるまいか? すべてが夢のようであった。
 この上、事の発端の天竺にまで行かずともよいでは、本当に全てが夢と帰してしまう。
 三蔵は三人の弟子の顔をそれぞれ眺めつらした。
(この者たちとも離れることになるのか……)
 いやなことだった。
 この時、三蔵の胸中には、急速に一個の思念が固まりつつあった。
 三蔵は思い詰めた表情で下唇をかんだ。
「お言葉ですが、私は天竺にまいります」
 顔を上げた三蔵が口にした言葉は、意外極まるものだった。
 太宗たちはドヨと騒めき、千悌は色を変えてまくしたてた。
「なにが、天竺にまいりますですか! そんなもの罪状逃れに決まっていますっ。天竺に行ったところで、お前の罪が消えると思って……っ」
「千悌!」太宗はさすがにわめいた。両手をつく三蔵に視線をうつし、「その言葉、偽りはないな?」
「はっ。たしかに」
 太宗はうなずいた。
「いいだろう。その点に関しては、後日協議としよう」
 そういって背を向けた太宗に、三蔵は深々と頭を下げた。

 怒ったのは郭羽だった。
 三蔵からは天竺には行かぬ旨、その口から聞いたばかりである。それを舌の根も乾かぬちに翻すとはなんだっ。
「あの坊主め! 何が天竺になど行きたくないだ!」
 三蔵はそこまで言った覚えはないが、郭羽は勝手に解釈したようだ。
 人の記憶なんてなんとも都合よくできている。
 わきに控えていた李天がポツリと言った。「もしや、我らの正体を見抜いたのでは?」
 郭羽はぎょっとなった。思いも寄らなかったことである。
「ありうる、あの女は五百羅漢の一人だ」
 ぴしゃりと決めつけると、危ぶみはじめた。「妙な真似をされんうちに、消した方がよろしいのではないですか?」
 そう言ったのは腹心の那托である。怪しい光が、その目の奥で揺らめいている。
「それはまずい」
 郭羽は即答を返したが、那托は能面のごとき表情を変えない。
「一緒にいるのは東大寺の僧です。残りの二人も人間ではないかと」
 那托の言葉に、郭羽はおもいつめた表情でたたずんでいた。
「殺しはまずい。この国を手に入れ、意のままに操るまでは……」
 ポツリとつぶやいたその声が、暗い自室に響いていった。

「悟空……」
 三蔵が肩を揺すった。
 悟空はムスリとした顔で起き上がった。
「まだすねておるのか?」と、聞く。
 そういえば、都に来てから、三蔵とは一言も口を利いていない。
 悟空はなにか用かと目で訴えかけた。
 すると、
「お前をだましてすまない」
 と素直に頭を下げられた。
 悟空は眼を白黒させて驚いた。こんなえらい人物に、しかもぶん殴りもせずに頭を下げられたのは初めてである。
(ちぇっ)悟空は思った。(これじゃあ、許さぬわけにはいかないじゃないかよ)
 三蔵さえ助ければ、後は放免を決め込んでいた悟空も、これにはかなわない。
 それに、このまま頭を下げさせたのでは、孫悟空の男がすたる。
「もうやめろっ」
 と三蔵の顔を上げさせた。
「私はだますつもりはなかったのだ」
 三蔵はしょげたように悪意のなさを伝える。
 悟空は、「もういいよ」と怒ったように言い捨てた。
 とりあえず、三蔵が真剣に悔いているのはわかったが、悟空はどうあっても照れが消せない。これは本気で弱ってしまった。
 三蔵は傍で眠っている悟浄と八戒を見やった。
「おかしなことになってしまったな。お前たちと天竺の行くはずが、いま、こうして牢獄にとらわれている。私は五百羅漢の地位を剥脱され、お前は死罪にかけられている」
 ぽつりと溜息とともに吐き出した。
 俺が死ぬもんかっ。牛魔王とだって互角に戦った
んだ。それに今は妙意棒がある。三蔵は都のえらい坊さまなんだろ?
 悟空はそういったことをまくしたて、きっと大丈夫だと言ったが、三蔵の危惧の色は晴れない。
「どうかな。太宗皇帝はともかく千悌さまは本気だ。あの方はなにより托羽殿を愛していらっしゃるのだ。それが托羽殿を腐らせてしまっている……」
「好きなのに、相手をくさらせるのか?」
 悟空にはわけがわからない。
「時としてそういうこともある」
 三蔵は謎めいたことをいって口を閉ざし、悟空もなんとなくだまってしまった。
 狭い牢獄の岩壁には、八戒のいびきが響いている。
 大の字になって寝る二人に目をくれてから、悟空は視線を三蔵に戻した。
「本当に天竺に行くのか?」
「ああ」
「なんでだ。もともと托羽に無理矢理やらされたんだろう」
「それでも行く」
 三蔵はきっと口元を引き結んだ。
「なんでだよっ。もう行く理由なんてないだろうっ」
「理由はある」
 言い切る三蔵に、悟空ははっきりと訝しんだ。理由などあろうはずがない。
「なんだよ?」
「私の信仰心だ」
 三蔵の返答に、悟空はぎゃふんとなった。「そ、それが理由か!」
 叫ぶ悟空に、玄奘三蔵はふわりと笑った。「天竺が見てみたいのだ。托羽殿に言われたときは絶望したが、今はお前たちがいる。天竺への旅は苦しかろう。だが、決して無益なことではないはずだ」
 一生懸命に話す横顔を、悟空はじっと見つめている。
「仏教がこの地に根付いて長い。なのに、今も多くの人が苦しんでいる。教典も教えもきちんとあるのに、なぜなんだろうな?」
「俺にわかるわけがないだろう」
「私にもわからん。だが、釈迦の住まう地にたどりついたなら、何かわかる気がする」
 三蔵は遠い目をして言い終えた。
 燭台の光がゆらゆらと揺れ、三蔵の顔に微妙な陰影を落としている。風が吹いて、火が消えた。辺りは月の光だけになった。
「命を拾ったら、ついていってやる」
 珍しくしおらしい悟空に、三蔵は正直おどろいた。「俺は俗世をもっと見てみたい」
 それが悟空の願いだった。
「そうか」
 薄闇の中で三蔵が笑った。都にいた大勢の女より、美しいと悟空は思った。

御前

 玄奘三蔵とその弟子たちの裁決は、御前にて執り行われた。
 壇上に座っているのは太宗皇帝。傍らに立つのは千悌である。
 三蔵たちは正面に平伏しており、玉座の右下方にいるのが、一件の被害者、托羽太子であった。
 右手には郭羽が兵を率い、その中には午王と利扇の姿もあった。太子を守るようにして立っている。
 左手にいるのは托羽雇いの傭兵である。
 記録修めの文官の数は、十数人をかぞえた。「面を上げよ」
 太宗がおごそかに告げた。ここに、御前対議ははじまった。
 三蔵は顔を上げると同時に、息がつまりそうになった。
 太宗のまわりに、都の高僧たちがいる。玄奘三蔵を心配して集まったのだろう。
(申し訳ありませぬ)
 三蔵はきつく両眼を閉じた。
 八戒と悟浄はあまりの場違いに、脂汗をかいている。おそらく、妖怪にしてはじめて御前に座っただろう。処刑の二文字が、重く二人にのしかかっていた。
 お互い妖怪なんだから、普通の処刑法では容易には死なないのだが、化物用の処刑もあると聞く。
 八戒と悟浄が泣きそうになっても無理はなかった。
 そんな中、悟空だけがけろりしている。というより物珍しげにキョロキョロしていた。いかにも楽しそうである。
「おほんっ」
 千悌がわざとらしく咳払いをするが、悟空は気づかない。
「おほん、おほんっ」
 しつこく続けると、三蔵の方が悟空の所作に気がついた。
「これ、悟空っ」
 ぴしゃりと叱りつけると、悟空はようやく太宗に視線を向けた。まるで珍しいものを見るような無礼な目付きである。
 悟空がこちらを見たので、皇帝も安心して口を開いた。
「その方、我が息子托羽を殴打したそうだが、それは何故か?」
 じろりと見下ろすが、悟空はおもしろそうにへらへらしたままなにも言わない。
 理由もなく都の太子を殴られてはたまらなかった。
「わけを申せといっておるっ」
 千悌が痺れを切らしてどやしつけた。
 背後に控える高僧たちは、青くなったり赤くなったりしている。悟空の態度はあからさまに無礼だったし、それ以上にこの質問には無茶があった。
 悟空には万人の認める理由がある。師匠をてごめにされようとすれば、庇おうとして当然ではないか。
 だがそれをいえば、太子、ひいては皇帝陛下を侮辱することになる。この御前でいえるものではなかった。
 ようするに、千悌は悟空をなんとしても殺したいのだ。そして、師の三蔵にまで害を及ぼしたいと目論んでいる。
 太宗の問いは悟空にとっては全くおかしな物だった。殴るのは気に入らないからである。今さら聞くほどのことでもない。
(なにを言っているんだか……)
 父親にしてこれだから、息子はああもバカなんだなと、得心のいく思いがあった。
 ちらりと托羽を見た。不安そうにこちらを見ている。悟空は予想どおりの反応をしないのだから当然だろう。こんな炸裂弾みたいな男を敵にまわした、托羽の方こそ不幸である。
 三蔵は、一座の者より悟空を知りぬいている。腹の髄までズンと冷えた。下手をすればこの場で暴れだしかねない。そういえば、悟空は妙意棒を持ったままだ。
(妙な男だな)
 と、郭羽など首を捻っている。
 死刑確定の瀬戸際で、にやにやしている男というのは見たことがなかった。
「理由などないと申すかっ?」
 かみつかんばかりの勢いで千悌が聞いた。
「理由はあるよ」
 孫悟空が笑いをおさめた。一同はそれだけでぎょっとなった。このまま千悌を怒らせては、自分たちにまで類が及ぶ。
(頼むから妙なことは言わないでくれっ)
 一様にそう願った。
「申せ」
 千悌がうながした。
「そいつは」
 悟空は托羽をチロリと見た。兵士たちはオロリとなった。
 太子に向かってそいつとはなんだ。
「無理を通したんだ。そんなことをすれば、通された者は恨みを持つよ。無理というのは押し通せば、どこかでまた破綻するそうなんだな。俺の師匠はいつも無理を通すなと言っていた。通すならば筋を通せといったもんだ」
「なっ、なっ」
 あまりの怒りに、托羽は言葉が出てこない。
(ほう……)
 郭羽は眉をひそめて感服した。皇帝を目の前にして、これだけ言い切れる男はそうはいまい。
 気に入らないのは午王と利扇である。
 悟空めは東大寺から自分たちを追ってきたに決まっている。悟空にはこのまま死んでもらった方がいいのだ。
 午王以上に気に入らないのが千悌であった。
 かわいい息子を打ち据えて、なお侮辱するとは、なんと不適な奴だろう。こんな男はさっさと殺してしまうに限る。
「お、お前は次期皇帝に恨みを持つというのかっ」
 これは決定的な問いだった。
 悟空が恨みを持つと言えば、立派な反逆罪が成り立つ。
「当たり前だ。恨みを持つのに家臣も主人もない。耐えがたいことなら恨みを抱いて当然。そのために殴ることがあっても、仕方のないことだ」
 悟空の声が、その場にいる家臣たちの胸にストンと落ちた。
 おおかたの家臣が抱く共通の思いを、悟空は代弁してくれたのである。こんな痛快な言葉はなかった。
 悟空はこの一言で、ここにいる家臣たちを味方につけてしまった。だが、言っていいことではない。
「そうか、お前は恨みをもって托羽を殴ったのだな」
 果たして千悌はニタリと笑んだ。
「死刑だ! そいつは死刑だ!」
 托羽は喉を枯らしてわめいた。悟空が怖くなったのである。
 正確には、自分が今までしてきた全ての所業におそれを抱いた。悟空の言葉はそれほど衝撃だったのだ。
 自分は主人で、家来は家来。そう思っていた。だが、男と男という立場に立った時、自分がいかに無力か。
 世には悟空のような野人がいるのである。そして、恨みなら腐るほど買っているはずだった。
 今この男を殺さねば、いつか自分が殺される。そのことを腹に徹して理解できたのである。
「待て」
 意外なところで、口を挟んだのは太宗だった。
 最初の問い以降、声を出したのはこれが初めてである。
 太宗は玉座から一座を見渡した。
「施政者として、これは当然持つべき配慮だ。その者はまちがってはいない」
 太宗の言葉に、托羽は呆然となり、千悌は怒り狂った。
 托羽は御前に進み出ると、悟空に指をつきつけた。
「そ、そいつは東大寺の僧だっ。残りの二人もそうにちがいない」
 わめく托羽に悟空はぎょっとなった。今更なにをいいだすのだこいつは。
 急に不安になってきた。
 三蔵を見ると、やはり顔が青い。状況がまずくなったのは明白だった。
「東大寺は仏寺のくせに、武術をやり、大唐国を転覆させるような力を持っています。その者たちは三蔵と共に、唐国を滅ぼしにまいったのです」
 千悌は控える家臣に向けて、訴えるような口調で言い放った。
 家臣たちは残らず生き肝を抜かれたようにぶったまげた。唐国を滅ぼすとは尋常のことではないし、またそういうからにはなんらかの根拠があるはずである。
 東大寺、という言葉が、事の理非を見失わせた。唐国の施政に関わる者にとって、あの寺は常に目の上のタンコブであり、恐れの対象であったのだ。
 並み居る兵士たちの胸に、眠りかけていた東大寺に対する恐怖心が、まざまざと甦ってきた。
「ご、悟空は東大寺の僧などではありませぬ」
 三蔵はすっかり動転して千悌の言葉を否定した。
 なんのことだかわからなかった。東大寺は確かに武術をやってはいるが、反逆の思想など毛ほども持ってはいない。
 それに自分が大唐国を滅ぼすとはどういうことだ?
「な、なにを根拠にそのような……」
 太宗が、ようやく落ち着きをとり戻して聞いた。まだ顔から困惑が消えていない。それほど意外極まる言葉だった。
「愚かなことを……」
「三蔵殿が、そのような真似をするはずがない」
 国王のまわりで、僧たちが囁きあっている。
 このバカな女のいうことを、いちいちまともに受けとめてはやっていけない。その思いがありありとうかがえる口調だった。同じ仏門である、東大寺をかばおうとする気持ちもある。
 千悌の口調はきっぱりしていて、八戒と悟浄などほんとにそうかと思ったほどだ。
 しかし、よくよく考えると、大唐国を滅ぼそうとしているのは自分たちだということなる。こんなバカなことはなかった。デタラメで殺されたのでは割りに合わない。
「そ、そんなはずはありませんっ」
 八戒は汗をダラダラ流しながら弁明した。悟浄はアワアワいっている。
 悟空にいたっては、魂まで消し飛んでいた。(親子そろってなんてバカだ)
 今すぐ妙意棒を取り出して、暴れ回ってやろうかと思った。
「例の物を持ってきなさい」
 千悌が側近に命じた。
 三蔵たちは、もはやこの女の一挙一動から目が離せなくなっている。放っておいたら、何を言いだすかわかったものではなかった。
(例の物とはなんだ?)
 三蔵はいぶかしんだが、きっと千悌の論理を裏付けるものにちがいない。
 午王と利扇は、一同に隠れてにやりとなった。これで悟空と三蔵の罪は確定的だ。
 側近が奥から何かの包みを持ってきた。
「それは、私の荷物っ」
 と、包みを見た三蔵が声を張り上げた。
 千悌が側近から受け取ったのは、天竺行きのために、三蔵が用意した道具一式の詰まった胴乱である。
 これには太宗も戸惑った。
「どういうことだ?」
「中身をごらん下さいな」
 千悌は、そういって側近に胴乱の中身をとり出させた。
 独鈷に符、水晶、袈裟など、種々様々なものが入っている。
 千悌は、その中の独鈷といった戦闘用具が問題だというのだ。
 托羽の命を狙うために用意したに決まっている、と言うのである。
 太宗は呆れ果てて口も聞けない。起こってもいないことで三蔵を処罰できるはずがなかった。これは無法極まる論法である。
 この女はこれでなんとかなると思い込んでいるのだ。それがなんとも哀れで悲しかった。今は亡き前皇帝が、この場にいたらなんといって嘆いたろう。
「それは天竺に行くため取り揃えたものですっ。托羽殿の命を狙うなど、夢々考えたこともござりませぬ」
「だが、お前の弟子は托羽に恨みを抱いていると言ったではないかっ」
 三蔵はあっとなった。千悌はこのためにあんな質問を繰り返したのだ。
「それに」
 千悌は冷め切った表情で、胴乱の中から一着の服を取り出した。悟空が着ていた修行着だった。長安を出たら着替えさせてやろうと思って、三蔵が仕込んでおいたのだ。
「これは東大寺の僧が着るものではないのではないか? なぜこれがお前の胴乱の中にあるのだ?」千悌が冷え冷えとする眼で悟空を見た。「その者、東大寺の僧ではないと申したな」
 三蔵ははっしと平伏した。
「も、申し訳ありませぬ」
「愚か者め! 御前でそのようなウソをついて許されると思うのか!」
 千悌の言葉が、落雷のように三蔵を打った。
 この時、午王に耳打ちされた郭羽が、千悌に告げた。
「東大寺の僧はおかしな仙術をつかうと聞きます」
 これには並み居る兵士が凍り付いてしまった。
「郭羽殿なら術を封じられましょう」
 と午王が言い添える。
「術を封じるだとっ?」
 あぐらをかいていた悟空が、さっと片膝を立てた。
「やれ! 妙な真似をする前に封じてしまえっ」
 千悌が悟空を指でさす。
 もとより、郭羽は宝玉を取り戻しにきた悟空が一番厄介だ。
「悪く思うな」と言ってから、モゴモゴと呪文を唱えはじめた。
「あ、兄貴っ」
 八戒と悟浄も、悟空あやうしと立ち上がる。
 悟空は耳に手を伸ばして妙意棒を出そうとしたが、郭羽の呪文が一瞬早かった。
「ふんっ」
 という気合と共に、たちまち神通力を発揮したかと思うと、雷を起こして悟空を打った。
 悟空は、うわっと叫んでその場に倒れ伏した。
「兄貴!」
「悟空!」
 三蔵たちがにじり寄ったが、悟空はうめくばかりでピクリともしない。
 八戒は怒りが脳天まで届いて、危うく変化がとけそうになった。
「八戒、鼻が戻ってる」
 悟浄が慌てて肩を叩いた。八戒は鼻を両手で押さえて、モゾモゾやっている。どうにか間に合ったようだ。
 ところが、落ち着いてみると、妙な臭いがただよってくるのに気がついた。
 八戒は人間に化けると五感が鈍る。変化がとけそうになった瞬間、衰えていた五感が復活した。
「へんだな、妖怪の臭いがするぞ」
 八戒の鼻は、今やはっきりと奇妙な臭いをかぎつけている。しきりにくんくん臭いをかぎはじめた。
 悟浄も気づいたようだ。目玉だけだが、ぎょろりぎょろりと動かしている。
(あいつらだ)
 八戒は郭羽の傍にいる二人に気づいた。
 午王と利扇である。あの二人から、強烈に臭う。
「どうした?」
 悟空を揺すっていた三蔵が、二人の異常を気取った。
 八戒が三蔵に告げた。
「お師匠。あの二人どうにも妖怪のようですよ」
「なんだとっ?」
 そのとたん、悟空が意地になって起き上がった。こんな状態のところを妖怪なんぞに襲われてはたまらない。
「妖怪とはなんだ?」
 と三蔵が神妙な顔で二人にささやいた。
「臭いがするんです。まちがいありません」
 悟浄が確信ありげに申し立てた。
「や、やろうっ」
 悟空はもう片膝をたてている。
 それを手で制しながら、「八戒、悟浄。耳をふさげ」
 三蔵が鋭く声を発した。
 二人は間の抜けた顔で振り向く。
「へっ?」
「はやくせいっ」
 三蔵の切羽詰まった声に、八戒たちはあわてて耳をふさいだ。
 それを確認すると、三蔵は経文を唱えはじめた……。
 油断していた午王こと牛魔王はたまらなかった。三蔵の読経が、耳をついて脳髄に響いてくる。
「うああああっ」
 午王と利扇は頭を抑えて苦しみはじめた。「な、なにごとだっ」
 太宗が突然呻きはじめた郭羽の部下に、驚き目を剥いた。
 そうこうするうち、午王の頭に角が生えはじめたではないか。
「あ、あれを見ろっ」
「角だ、人間ではない!」
 兵士らがにわかに驚倒をきたしはじめた。
 利扇の目は釣り上がり、顔には化粧が染みだしてきた。
 午王の体はむくむくとふくらみ、その背丈はたちまち一丈(三メートル)にも及んだ。
 見覚えのあるなりかたち。首から上の牛の顔。
 三蔵はすっと経文を唱えるのをやめた。
「牛魔王!」
 と悟空がわめく。
 顔を苦悶に歪めるその姿は、にっくき牛魔王である。
「よ、妖怪ではないか」
 高僧たちがこぞって三蔵を見た。
 この女僧は、額に汗をかきながら、くそ落ち着きに落ち着いている。
 腐っても鯛は鯛。さすがは玄奘三蔵と、僧らはこの場も忘れて感じいった。
 八戒と悟浄は牛魔王と聞いて、文字通りふるえ上がった。たしかに只毎ならぬ妖気である。とても適う類のものではなかった。
「兄貴、師匠を連れて逃げよう」
 八戒はうわついた声でわめいた。
 古代妖怪が相手では、八戒悟浄が、百人群がったところで到底勝てる相手ではない。
 すでに利扇も羅刹女の姿に戻っている。こちらも女ながら、恐るべき相手といえた。八戒が怯えても無理からぬことだ。
 牛魔王はふーふーと荒い息を吐き、すさまじい目で三蔵を睨みすえた。
「うぬがっ、このクソ坊主め! よくもやりおったな!」
 と、割れ鐘のような声を響かせたから、文官たちはたちまち逃げ出し、傭兵たちは面目は守って、どうにか托羽をかこみこんだ。
「これはどういうことだ!」
 太宗が郭羽に向けてわめいた。
 あの二人は郭羽が西域より連れ戻った者たちである。それがこともあろうに妖怪に化けおったっ。
「あの妖怪たちは東大寺に乗り込み、宝を奪って逃げています!」
 三蔵が牛魔王を指で差した。「なんだとっ?」
 とのけぞり驚けば、さすがの太宗もこの状況の変化についていけないようである。
(ばかな……っ)
 郭羽は足元の崩れる思いであった。三蔵一行を陥れるはずが、どえらいことになってしまった。
「ば、化物だっ。あいつを捕えろ!」
 托羽の悲鳴で、我に返った傭兵たちが、まずはと牛魔王に襲いかかった。
 さすがに傭兵だけあって、妖怪退治には慣れている。
 だが、牛魔王は大物中も大物の大妖怪である。
 羅刹女はひらりと舞を打って空に逃れ、牛魔王は手にした混鉄棒を打ちふるった。
「なっ、なっ……」
 千悌は目の前で繰り広げられる光景が信じられなかった。
 恐れ多くも、皇帝の御前で死闘が演じられている。
 牛魔王は変わらぬ強さを見せ、群がる傭兵をあっという間に打ちのめした。
「やめろ、やめんか! ここは御前なるぞ!」
 気を取り戻した千悌が、必死の体で叫ぶもとんと効果がない。
 そのうえ、罪人の悟空まで耳から取り出した妙意棒をぶんぶん振り回しはじめたからたまらない。
「と、捕えろ! 逃げるつもりじゃ! 托羽を守るのだ!」
 千悌はすっかり取り乱している。
「馬鹿者! その妖怪を先に捕えろ!」
 太宗と千悌の命令が入り乱れ、兵士たちはすっかり動転してしまった。
「なぜこのようなところに妖怪が」
「見ろっ。あの妖怪、只者ではないぞ」
 高僧たちはさすがに取り乱しはしないものの、牛魔王の姿には心の臓まで冷えきっている。
 高僧といっても、東大寺の僧とはまるでちがう。百戦錬磨の牛魔王と戦えるわけがない。
 魔王は混鉄棒をふりまわし、辺りの柱ごと傭兵たちをふっ飛ばす。郭羽の静止の声も届かず、牛魔王は暴れ狂った。
 兵士たちは郭羽によって選りすぐられた精鋭だったが、こんな巨大な妖怪は相手にしたことがなかった。尻込みするうちに、牛魔王は辟水金晴獣を呼び寄せた。

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