講釈西遊記

講釈西遊記

玄奘三蔵、捕えられる

 悟空たちは変装していたし、関所にも商人として届けてあった。が、正面から洪福寺に入ったのだけはいけなかった。
 三蔵の天竺行きが決まって以来、洪福寺への人入りはパタと絶えている。この一行は妙だった。天竺への供にちがいなかった。
 托羽は三蔵が今に泣き付いてくるものと信じて疑わない。三蔵が一人で戻ってきたため、東大寺の庇護を受けられなかったと信じたのである。
 托羽の予想はまったく当てが外れていた。三蔵は東大寺の住持と面識があったし、彼らに都の太子を捨て味方をさせるほどの人徳もあった。
 その面の才が見事に欠落している托羽には、なんの見返りもなしに三蔵の味方をする東大寺の考えが理解できなかったのだ。そこへ、この三人がやってきたのである。
 当然托羽の怒りは、いきおいすさまじいものがあった。ちょうど弟から、あれこれ吹き込まれた所でもある。
 さっそく兵を率いて、洪福寺へと出向いていった。

 その洪福寺に悟空が現われた。
 弟子の報せを聞いた三蔵は、すぐさま境内に走った。
 三人は、そこで洪福寺の僧に取り囲まれていた。
 白龍だけが木につながれて蚊帳の外である。傍目にも不満そうなのがありありとわかった。
 悟空と話しているのは三蔵の師、親岳であった。
 これが全て三蔵の弟子であると聞いて、八戒たちは仰天した。弟子は自分たちだけと思っていたのだ。こんなにえらい坊さまだとは、夢にも思わなかった。三蔵に対する畏敬の念は、ますます深まったといっていい。
 三蔵が一群に近づいていくと、八戒が気づいて手を振った。
 人垣を割って入っていくと、二人の方からやってきた。
「よくやってくれた八戒、悟浄」
 うれしそうに言うと、この二人は照れ臭そうに頭をかいた。
「いやぁ、なに、簡単なことです」
「このぐらいで礼をいわれてはたまりませんな」
 悟浄が、テヘとえらそうに言った。
「悟空っ」
 三蔵が手を振ると、悟空はふふんと鼻先で笑った。
(泣いてたくせに)
 と、思っている。
 八戒のウソとも知らないで、なんともいい気なものである。
 悟空はうんと文句をいってやろうと思ったが、今はまわりを囲む僧たちに身動きがとれなかった。
 うわさに聞く東大寺の僧を見るのははじめてだ。無遠慮な視線にさらされ、悟空はさも迷惑そうである。
 そのくせ、さっきまで道行く人々に同じような視線を向けていたことには、とんと気づかないのだ。
 八戒と悟浄は、かわりに悟空の世間知らずを申し立て、この師を笑わせた。
「そう言うでない。悟空は東大寺から」一歩も外に出たことがないのだ。世間を珍しがって当然なのだよ」
 三蔵の言い分を聞いて、悟浄たちはなるほどと納得した。
 強いことには間違いないが、そんな悟空を、かわいそうになぁ、とながめた。
 三蔵の師、親岳は好奇心の旺盛な男である。六十歳を越えて、なお矍鑠とした老人だった。
 腰を曲げて歩いてはいるが、伸ばそうと思えばいつでもできる。したたかだった。
 子供のような目で、悟空の顔をしげしげとのぞきこんでいる。
「東大寺の僧は、みな剽悍無比な武術家だと聞くが、本当ですかな?」
 親岳は興味津々である。
 悟空はどうもこの老人が苦手だった。あけっぴろげすぎてスキがない。
 悟空はこの手の人物がどうにも苦手だ。どこまで踏み込んでいいのやら、とんと見当がつかめない。
 だいたい、問いの意味事態がよくわからなかった。悟空の感覚では武術はやっていて当たり前なのである。
 剽悍無比で当たり前。坊主のくせに武術もやらない、親岳たちの方がよっぽどおかしかった。
 そこで、「そう」とつい投げやりになった。悟空は困るといつもこれで通す。
 この投げやりな一言のみで、さらなる騒動を引き起こすのだから、まさに名人芸である。
「お師匠。もうよろしいでしょう」
 悟空がこまっているのを察した三蔵が、横合いから口を入れた。
 親岳はまだ話し足りなさそうにしていたが、三蔵を見てあきらめた。
 三人を招いて、本堂に入った。

「本当にこの三蔵めを守っていただけるのですな?」
 親岳はいささかくどい。悟空は口を開くのも面倒になって、首だけを振っておいた。
 洪福寺の本堂である。
 親岳と三蔵以外はいない。後は悟空の両脇に座る、八戒悟浄だけだった。
 親岳は上座に坐ると、すぐに本題に入った。事態はそれほど切迫している。
 三蔵を守るのにはかなりの覚悟がいるといっていい。また、なければしくじるだけだ。
 托羽は思慮の足りない若者である。前後の見境もなく、事を起こす。殺されるやもしれなかった。
 親岳にとって、三蔵は娘も同然の存在である。くどくなっても仕様がない。
 三蔵はその人柄と容姿のおかげで、庶民に人気があったのだが、今回だけはその容貌が仇となった。
 三蔵は洪福寺の宝だ。五百羅漢の一人となれば仏法界の宝ともいえた。これほど徳の高い僧は、都にさえ何人もいない。
 親岳は洪福寺を継がせるつもりでいたし、今や悲願となっていた。それがこんなくだらない一事で立ち消えになったのである。怒らない方がどうかしていた。
 庶民の感情も三蔵に同情的である。誰が目に見ても、托羽の非道はあきらかだからだ。
 太子にいびられる高僧。しかもそれが美しい女となれば、当然の成り行きだった。
 親岳は、愛弟子をこんな窮地に追い込んだ托羽が憎かった。声を枯らして、托羽の非道を訴えた。
「托羽?」と、悟空が問い返した。
 よく考えたら、悟空は三蔵が天竺にくことになった理由を知らない。
 牛魔王を倒す一念で寺を出たせいか、そんなことは念頭になかった。思考できなかったといっていい。
 なんとも呑気な話だったが、それが悟空である。これも仕方のない話だった。
 親岳はこれまで起こったことを、正確に悟空に話して伝えた。
 三蔵が托羽に見初められたこと。それを断ったがために、天竺に行くことになったこと。
 悟空は義を以てなる東大寺の僧である。こんな話を聞いておもしろいはずがない。
 三蔵への怒りが、たちまち托羽に向けられた。
 悟空にいわせると、まずは三蔵が悪い、なのである。
 自分をわきまえずに外をうろつきまわるから、こんなことになる、というのである。
 悟空は東大寺がよこした護衛であるから、親岳はすっかり信頼しきっている。こんな無茶苦茶な論理はないのに、その通りだと相づちまで打ちはじめた。
 三蔵は合点がいかない。
 悟空の論理はともかく、八戒と沙悟浄はもう完全に三蔵の愛護者になってしまった。
 やはり、古今東西を通じて、権力者に狙われた美女というのは、庶人を味方につけるものらしい。
 八戒は顔を真っ赤にして、おかげで危うく変化がとけそうになった。
「お師匠をそんな目にあわすとはなんて奴だ!」
 と吠えた。
「うむ、なんたる没義道っ。許せませんな」
 沙悟浄も哲学っぽい言葉に酔いながら、憤っている。しかし、しょせん河童は河童である。
 もともとこの妖怪たちは三蔵の信望者だから、その怒りときたら天を衝くものがあった。
「あんな男に帝位をゆずっては大唐国はおしまいだ」
と、親岳はうなった。「郭羽さまに継がせればよいのだ。あのお方ならすべては丸くおさまる」
 後は無念のあまり言葉にならなかった。
「郭羽、というと?」
 悟空がうながした。
「大唐国の第二子だ」
 親岳は郭羽が、文武両道に秀でた人物で、家臣にも慕われているのだと言い募った。大唐国を継ぐには彼以外にないとまで言った。同時に、托羽がどれほどおろかで、人の上に立てる男でないかを言い立てた。
 無思慮で責任感がなく、自分のおこした行動がどんな結果を引き起こすかもわかっていない。
 今回の事とてそうである。この無茶な要求のせいで、どれだけ多くの人間の意趣を買ったか、あの男は少しもわかっていないのだ。
「その郭羽ってのに、継がせりゃいいじゃないか」
 悟空が事もなげに言えば、
「第一子に相続権がある。郭羽殿ではどんなに才があっても、国は継げんのだ」
 親岳はムッツリとした表情で答えた。
 悟空は変な話しだな、と頭の後ろで手を組んだ。
 東大寺なら血縁なんて関係ない。実力至上の世界だった。親岳のは悟空のような男には永遠に理解できない悩みなのである。
 沙悟浄は、ううんとうなって三蔵の袖を引いた。
「郭羽というのはそんなにすごい方なんですか?」
「お会いしたことはないが、清廉潔白な人物だときいている」
 三蔵は答えながらも、親岳の怒りっぷりには少々よわっている。
「庶人の声を聴くためにあらゆるところに出かけ、国家のために西域までおもむいたお方じゃ。托羽殿とは比べものにならん」
 親岳の意見を抜きにしても、都での托羽の評判は悪すぎた。
 世継であることをいいことに、やりたい放題なのである。これでは憎まれて当然だった。
「そんな奴の命令なら行かなければいいんじゃないですか?」
 八戒は大事な師匠が托羽のいいなりになっているのが気に入らないらしい。
「そういうわけにもいかんのだ。托羽殿はまぎれもない世継ぎ。それに逆らっては洪福寺にも迷惑がかかる」
 ここで天竺行きを辞退しても、托羽は次々と難題を突き付けてくるだろうと、三蔵は言うのだ。
 家臣のなかでも特に官僚がいけない。托羽のいい
なりなのである。
 宮中でも武官は郭羽をたて、文官は托羽を支持する。表面には出てきていないが、両派閥の暗闘は激しさをますばかりである。
 太宗皇帝の存在だけで、均衡を保っているようなものだ。太宗はいわば重しである。その太宗が死ねば終わりだった。
 国を治める者が派に別れて争っているようでは、大唐国の未来は真っ暗である。
 托羽の件は太宗も悪い。態度が甘すぎるのである。
いくら息子がかわいいとはいえ、限度があった。なんらかの処置をとるべきなのだ。
 太宗が何もしないから、托羽の頭の高い態度はますますひどくなる。庶民がどんなに托羽を嫌っても、太宗皇帝はなにもしてくれない。裏切られた気持ちだったろう。
 太宗が我人ともに認める名君であっただけに、その思いは強烈だった。だが、太宗を憎むわけにはいかない。結果、庶民の怒りは托羽へと向けられていくのである。
 三蔵の一件がとどめだった。彼女はあまりに有名だったし、美人というだけで僧のなかでは一等の人気がある。それをこんな目にあわせて、ただですむわけがない。
 こんな思い上がった若者のために、玄奘三蔵を天竺などに行かせられない。
 だが、天竺行きは太宗の命として発せられている。これに逆らうわけにはいかなかった。
 悟空は呆気にとられた。こんな無法な話しは聞いたことがない。
 悟空は今まで好き放題に生きてきた男である。世の中には逆らえないものがあるのだということに、納得ができなかった。
 八戒が悟空の耳に口を近づけてきた。
「なんともなりませんかねぇ、兄貴」
「バレないようにこっそりやろう」
 これは隠れてぶちのめそうということだ。
 世継をぶちのめしておいて、隠れようとはあさましい。この男も無法だった。
 後ろの障子がガラっと開いた。弟子の一人が入ってきた。
 男は急いで親岳に歩み寄ると、その耳に何事かをささやいた。
「なにっ」
 親岳の表情がひっぱたかれたように変わった。その変貌ぶりに、さすがの三蔵も不安になった。
「なんです?」
「托羽殿が来られたらしい……」
「えっ?」
 三蔵が驚いて男を見ると、彼は消え入りそうな声で答えた。
「三蔵師匠を出せと騒いでいます」
「一人か?」
 親岳がさぐるように弟子を見た。
「とんでもないっ。文官だけじゃなく、護衛まで連れています」
「なわけないわな」
 苦そうに奥歯を噛んで、親岳は悟空たちを見た。瞬間ぴんと来るものがあった。
「まさか……」
 托羽は都中に配下を潜伏させている。この三人が洪福寺に入るところを、内の誰かが見ていたに違いない。
 もっと早くに気づくべきであったと、親岳は自分の不始末を悔やんだ。
「どういたしましょう?」
 不安そうに顔をゆがめる三蔵に、彼はすっと立ち上がった。もう腰は曲がっていなかった。
「ウソを言って逃れられる相手ではあるまい。外に出て応対しよう」
「この者たちはどうしましょう?」
 三蔵は手つきで三人をさして聞いた。
 親岳はわずかに詰まったが、
「一緒に来ていただこう。もうここに来たことは知られておる」
 この言葉に三蔵もようやく思い当った。
 もっと気をつけてく来ればいいのにと、恨むような気持ちにもなったが、今更どうしようもない。
「聞いた通りだ。お前たちも付いてきてくれ」
 なんとなく用件は想像できるが、対応のしようがなかった。理不尽な相手に、まともな返事が通じるわけがない。
 おそらく托羽は悟空たちのことを部下から聞いてやって来たのだろう。なにか嫌味でも言いにきたに相違なかった。
 その時、悟空がどう行動するかが心配だった。この男は返事もせずに、なんの前触れのなく、突然行動にうつる。ある意味、托羽よりタチが悪かった。
 三蔵は悟空の顔を盗み見たが、悟空はなにもわかっていない顔で、つまらなそうに生欠伸をしていた。

 外に出ると、僧侶たちが寺を囲むようにして集まっている。
 その前に立っているのが托羽だった。
 脇にひょろひょろとした男たちがいる。取り巻きの文官だろう。
 護衛は六人もいた。もっとも正式の部下ではない。全員托羽が都で雇った流れ者だった。
 その流れ者が、太子の庇護をいいことに好き勝手をやるから、托羽の評判はますます悪くなる。
 中央に立つ托羽は、妖しいまでに白い肌をした美麗な若者だった。
 三蔵が出てくるとニヤニヤと笑う。思い上がったいやな顔だった。見ているうち、悟空はますます腹が立ってきた。
「あっ、兄貴に似た人間がいる」
 八戒が余計なことを言っている。確かに托羽と悟空はにている。
 言いにくいことを平気で言うのが、八戒の長所であり短所でもある。
「ばかいうなっ。俺があんなウラナリかよっ」
 案の定、悟空にぶん殴られた。
「これはこれは托羽殿……」
 親岳はさっきまでの批判がうそのようにペコペコしはじめした。
 悟空はこの変わりようが信じられず、親岳まで厭になりだした。
「三蔵が東大寺より戻ったそうだな」
 托羽がチラリと三蔵を見た。
 三蔵が錫杖をシャラリシャラリと鳴らしながら進み出る。
「只今戻りました」
 ペコリと頭を下げると、托羽は蔑むような笑みを浮かべた。
「只今? お前が戻ったのは三日も前だろう」
「もうしわけありませぬ」
 三蔵はさらりと受け流す。
 おのれ師匠をと、八戒が飛びかかろうとしたが、察した悟浄と弟子たちに押さえられた。
「こらえて下さい。我々も耐えているのです」
 弟子の一人がいったから、八戒もさすがにううむと唸るしかない。
「それで、天竺への供は見つかったのか」
 親岳と三蔵はどきりとなった。やはりである。
 托羽は奥にいる三人に目をくれた。
「あの三人か」
 バカにしたように笑った。
「残念ながら、私の護衛の方が強そうだな」
 三蔵はムッとした。八戒と沙悟浄は今はあんな格好をしているが、元は妖怪だし、悟空にいたっては東大寺の僧である。
(托羽殿の護衛など、何人かかろうと適う相手ではないっ)
 三蔵は何度となく叫んでやりそうになったが、喉元でグッと堪えた。
 不安になったのは、三蔵の弟子たちである。彼らは三人の戦う姿を見ていない。
 特に悟空の容姿がいけなかった。体格が取り巻きの文官と変わりがない。
 だが、それは見せかけである。力は山をも担ぐ怪力だし、動けば雷電の如しだ。
 見かけもついていけばいいのに。やはり東大寺だと三蔵は思った。
 親岳がちょっと自信なさげに弁明した。
「いえ、彼らは実のある者たちでして……」
「まぁ、信用だけはできるかな?」
 托羽は、この人のよさそうな二人が、よもや凶悪な人相の妖怪だとは思わない。
 単純な八戒は、湯気をたてんばかりに怒っている。
 托羽はそんな八戒を見て、顔のゆがみをますます濃くした。
「なんなら俺の護衛と勝負させてみるか」
 そのうえ嘲る。
「兄貴っ」
 八戒はもう真っ赤になって、しがみついている弟子を振り回した。できるならあの小癪な人間めを食い殺してやりたい。
 しかし、当の悟空が平然と突っ立っているのである。
(妙だな……?)
 三蔵はますます心配になった。この短気な男が、これだけバカにされて怒らないはずがない。
 三蔵の胸中は心細さでぐるぐると渦をまいていた。不安の帆に強風を受けているようなものである。
 悟空は表面は平気な面をしているが、その腸は煮え繰りかえっていた。
 悟空は怒りすぎると、表情がなくなる男である。なにをしでかすかわかったものではない。
「ご挨拶ですな」
 悟浄だけはすました顔であご髭をしごいている。
 托羽はチラリと横目で見た。
「あの男たちは東大寺の僧ではないのか?」
「ち、ちがいます。東大寺では、断られたので、帰りの旅で雇ったのです」
 三蔵が慌てて言った。これ以上東大寺に迷惑をかけたくなかったのだ。
「玄奘三蔵もこの程度の供しか手に入らなかったのか」
 托羽の声にさげすみの色があった。
 三蔵はくやしげに唇をかんでいる。
 ちがうのだ、托羽はこの者たちを知らないだけだ。自分のために働いてくれる、勇猛な弟子たちなのだ。
 三蔵はうつむいたまま何も言えなかった。言ったところで托羽が信じるはずがない。
 これを、托羽は三蔵が真実弱ってのことと取った。予想通り、ろくな供も得られず、弱り切っている。
 当然態度が高飛車になった。
「天竺行きはあきらめて、許しを乞うなら側室にくわえんでもない」
 ついに本音が出てしまった。
 托羽にとっては譲歩のつもりだった。しかし、三蔵にとってはとんでもない話である。
「そのようなことは夢々考えたこともございませぬ」
 震える声で言うのみだった。
 度々にわたって拒絶を受け、托羽は内心怒りに狂った。なぜこの女は自分を受け入れようとしないのだっ。なぜこの女だけは思い通りにならないのだっ。
 托羽は三蔵以外の女に拒否されたことがない。振られたなどと、誇りにかけても信じたくなかった。
 この女はくだらない女で、自分が愛を分け与えるにも値しないのだと、そう信じたかった。
 ギロリと悟空を睨み、指でさした。
「あの男だなっ、あいつに誑かされたんだろう。だから、俺のところに来ようとしないのだっ。そうだ、お前のようなアバズレ、誰が妻になどするものか!」
 と喚き立てた。
 親岳は不覚にも呆然となった。何を言い出すのだこいつは。
 フラれた腹いせにしても、言い過ぎである。当の三蔵も、あまりに突拍子のない言葉に、怒りを通り越してきょとんとしている。
 一方、悟空はとうに限界を越して、わなわなと唇を震わせていた。
(そうだ、こいつはその程度の女なんだ。こんな女にいつまでも執着しなければよかった。他にいい女はいくらでもいる。こんな面倒な女はもう御免だっ)
 托羽は自分の言葉に納得して、さらに勢い込んだ。「出家のくせに、もう男をたらしこんだのか!」
 その瞬間、悟空が棍を振るった。
 托羽のまわりに立つ護衛が、鼻面に棍をくらって次々とふっ飛んでいく。
 それは托羽が、いまだかつて見たことも聞いたこともないような迅さだった。
 よりをかけて雇った屈強の護衛が、あっという間にぶちのめされていく。
 托羽は瘧のように震えた。僧侶たちは寂として声もでない。さすが東大寺だった。
 悟空が振り向き、ニヤリと笑ったのを見て、托羽はようやく我にかえった。
「なにをしている、その男を取り押さえろ!」
 声に動いたのは沙悟浄と八戒だった。それぞれ武器をおっ取ると、残った護衛を叩き伏せた。
 托羽が気づいた時には、悟空はもう眼前にいた。ぎくりとした時には、岩のような拳に頬げたをぶん殴られていた。
「やったっ」
 親岳が快哉を上げたが、事の重大さにまだ気づいていなかった。
 太子を殴るなど言語道断である。打ち首にされても文句はいえない。
 托羽のとりまきが悲鳴を上げた。
「やめろ、悟空!」
 三人は、すでに文官たちに向かっていた。
 托羽は呆然とそれを見ていた。こんな滅茶で、こんなに素早い奴らははじめてだった。
 目の前で起こっていることが、容易には信じられない。あの男たちは選りすぐりの護衛をあっさりと叩きのめしたのである。
 まるで出鱈目だった。世にはこんな途轍もない男たちがいるのだ。
「やめるんだ、悟空!!!」
 三蔵の悲鳴は絶叫に変わった。
 三人ははっとして動きを止めた。怒りにまかせて動いてしまったが、そのことで三蔵がどれほど迷惑をこうむるか考えていなかった。
 これでは弟子失格である。破門の恐怖に慄然とした。
 三蔵は荒く息を吐きながら肩を震わせている。八戒と悟浄がバッと平伏した。
 と同時に托羽も目覚めた。
「は、はやく、そいつらをひっ捕らえろっ」
 声がどうしようもなく上擦っている。親岳はもう
さげすみの色を隠そうともしない。
 文官たちは急いで門を開き、外に控えていた衛兵を招き入れた。
 三蔵たちは率然と自分たちが罠にはめられたのだということが理解できた。
 托羽は最初から三蔵が断れば弟子もろともひっ捕らえるつもりでいたのだ。
 そうでなければこんなにうまく衛兵が来られるはずがない。
 八戒と悟浄はえらい事になったと、どぎまぎした。
 頼りの悟空兄貴は、棍を持ったまま突っ立っている。
 衛兵が、棍を両手で下げ持つ悟空を取り囲む。
 這いつくばったままの八戒たちは、棍を背中に押しつけられ、よってたかってねじふせられた。もう寸とも身動きがとれなくなった。
 衛兵は三蔵にも縄をまわして縛り上げた。「師匠になにする!」
 八戒と悟浄は色めき立ったが、
「よいのだ、八戒悟浄。手助け無用」三蔵は向き直り、「お主もだ、悟空」と言った。
 悟空はしぶしぶながら承諾した。護衛たちのあまりの弱さに、気抜けしたと言ってよい。
 縄を巻かれた時にはかっとなったが、三蔵にみつめられ、やむなくこれに従った。
「托羽さまっ」
 あちらでは托羽太子が助け起こされている。
「お師匠!」
 縄で巻かれた哀れな姿に、弟子たちは涙にくれている。
 三蔵……と、親岳がうめいた。まさかこんなことになるとは……。
 それを見て、托羽は青い顔で笑った。
「お、お前はバカだ三蔵。こんな護衛をやとわずに、俺を受け入れていればよかったのだ。そうすればこんなことにはならずにすんだ」
「この者たちは護衛ではありませぬ。私の弟子です」
 毅然という師匠に、八戒たちは胸が熱くなった。三蔵はまだ自分たちを弟子と認めてくれている。
 この三蔵の堂々たる態度には、一同ほとほと感服した。さすがは五百羅漢であった。
「連れ出せっ。いますぐ打ち首にしてやる!」
 それに対する托羽のなんたる男気のなさよ。
 衛兵たちは残らず托羽を軽蔑したが、とりまきの文官と護衛はちがう。彼らは托羽が皇帝になることで出世が約束されているのだ。
 托羽は、三人と同じように縛られて仏頂面をしている悟空にわめいた。
「貴様、名を言え」
「孫悟空」
 悟空はぶっきらぼうに答えた。
「貴様もだ。貴様は一番重い罪にしてやる。俺を殴ってくれたんだ。苦しみながら死ねばいいんだっ」
 およそ太子が言っていい言葉ではない。
 托羽は悟空の冷ややかな目に射抜かれて、あやうく腰を抜かしかけた。
「お前が威張れるのは帝の息子だからだ。そうじゃなかったらとっくの昔に殺されているぞ」
 あからさまな侮辱に、托羽は赤くなり、ついで青くなった。悟空の言葉は正確に急所を突いていた。
「連れていけ!」
 托羽はなんとか八つ当りだけはこらえているが、内心は、恥と怒りにのたうちまわらんばかりだった。
(許さんぞ孫悟空っ、かならず貴様をこの手で引き裂いてやるっ)
 三蔵一行は、馬上から縄で引っ張られ、都中を歩かされた。
 玄奘三蔵の無残な姿に、人々は眉をひそめている。勝ち誇ったような托羽の顔が、いやでも目についた。
 弱ったのは、報せを聞いた太宗皇帝であった。なんせ相手は五百羅漢の一人、玄奘三蔵である。四人はすぐさま宮中の牢獄に放りこまれたという。とんでもない話しだった。
 事のあらましは家臣の報告で飲み込めているが、それだけに心苦しかった。三蔵にはなんら落ち度がないのである。
 罪人のように縛りつけ、市中を引き回したのだけはまずかった。だいたい托羽を殴ったのは弟子の一人で、三蔵自身は何もしていないのだ。
 箝口令をしいてはいるが、人の口に戸が立てられるものではない。親岳は老練な僧である。なんらかの処置をとってくるに違いなかった。何より長安の庶民が本当のことを知りたがっている。
 縄でしばられ、連行される三蔵の姿を、大勢の人間が目撃している。どんな罪状を与えたところで、一緒にいるのが托羽では、納得するはずがなかった。
 三蔵の人柄は、なにより太宗自身が知悉している。五百羅漢に推薦したのは、他ならぬ太宗なのだ。それだけに今度の天竺騒ぎは、老いた皇帝を苦しめた。
 托羽が悪いのは百も承知している。皇帝に向かないのもわかっている。それでも息子がかわいかった。名君と呼ばれただけに、その苦しさは尋常のものではなかったろう。
 なにより托羽をかばっているのが、妻の千悌である。
「三蔵の地位を取り上げるべきですっ。太子を殴るような者を弟子にとった三蔵にも責任はあります。五百羅漢の任を即刻ときましょう」
 千悌は托羽が殴られたと聞いて、さっそく太宗の前に現われた。
 太宗は皇帝の血筋ではない。前皇帝の長女であった千悌と結婚した、いわば婿養子である。それだけに妻には逆らえなかった。
 プライドばかりが高くて、家臣はみな嫌いぬいている。この女さえいなければ、といっそ殺してやりたくなるが、できるものではなかった。
 太宗がさほどの身分でなかっただけに、やっかむ者はまだまだ多いし、前皇帝の娘というだけで味方は山とつく。
 太宗も頭が上がらないはずだ。千悌が付け上がるのは当然である。
 太宗の一番の失策は、千悌に対し何もしなかったことだった。
 それが息子の托羽にまで影響を及ぼしている。太宗は自分の身分の低さを何度呪ったろう。
 出来の悪い子ほど、不憫がかって可愛いものだ。托羽が愚かであればあるほど、千悌の愛情は深まるのである。托羽が、他の全てを曇らせるほど愛しかった。
 三蔵とかいう坊主に息子が熱を上げているのも気に入らない。
「その孫悟空とかいう弟子も、打ち首にするべきです! 孫と姓がつくからには、僧ではありませんっ」 これは悟空が僧では支障があるからである。
 大唐国は仏教の国だ。古来僧を殺して無事ですんだ例はない。
「しかし、三蔵どのの弟子だ。殺してはただではすまん」
「関係ありません。太子に手を出しても処罰を受けないという前例を作れば、よからぬことを考える者が出てくるやも知れませぬ」
 千悌の言うことももっともである。相手が三蔵でなければ、太宗もそうしたに違いない。
「仕置きをするべきです。そうではありませんかっ」
 千悌は五十歳になってまだ美貌を保っている。それが怒気をあらわにして迫るのだから、たまったものではなかった。
「三蔵殿を処罰すれば、庶民も騒ぐことになるぞ」
「それにしても、五百羅漢のまますておくわけにはいかぬでしょうっ」
 太宗はついに窮した。
「わかった。だが、任をとく変わりに、裁きを行なう。それでいいな?」
 やっとそれだけ言った。
 千悌は満足そうにうなずいた。

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