ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

□  その四 呪われたこどもたち、狂った魔女と対決すること

○     1

 ロビンが消えると、ヘドロは一瞬で地面に染みこむ。石畳に茶色の跡を残すのみとなった。アジームは真っ黒なままロビンの立っていた場所に飛びこんで、変色した石畳を手のひらで激しく打った。
「ロビンがいないぞ! モーティアナの仕業だ!」
 と彼が叫んだ時には、後方から駆けてきた奥村真行が、愛刀を振りかざして、呆然自失とする仲間を叱咤していた。
「グズグズするな! 隊列を整えろ! 隊伍を組むんだ! なにをしている!」
 彼の呼びかけにもロビンの部下たちは、唖然とした表情を隠さなかった。そりゃそうだ。目の前で頼りとする首領が消えたのだから。
 アランもウィル・ガムウェルも、泥を頭からかぶってアジーム以上に真っ黒になっている。そして、部隊の中央では牧村洋一がやはり呆然とつぶやいたのだった。
「あのときだ。ロビンは使い魔を斬った。あんなに簡単に斬れるのはおかしかったんだ!」
 モーティアナはあの瞬間に、ロビンの剣に仕掛けを施していたのだろう。だが、洋一の叫びも後の祭りだった。
「貴様ら言うことを聞け! 戦わんか!」
 奥村は必要とあれば、仲間を殴ってでもシャンとさせようとしている。ロビンの閣僚たちが目を覚まさなければ、三百名いる騎士たちも烏合の衆だ。
 アジームが真っ先に立ち直った。兵士たちはじわじわと迫り来る死体から遠ざかるようにして下がり自然に円陣を組んでいく。ズタズタに引き裂かれた女も、どこにも外傷がないように見えるこどもも、頭部の砕けた男も、胸ごと腕のない老人も、出来損ないのからくり人形のようにギクシャクした動きで近づいてくる。
「話がちがうぜ、死兵はいないんじゃなかったのか!」
 と騎士が言った。
「あいつらはただの死体だ。ノッティンガムを襲った化け物とはちがう」と奥村は答えた。
「こりゃあ、まるでゾンビだぜ」粉屋のマッチが十字を切った。
「動かしているのはモーティアナだ」奥村はアラン・ア・デイルの肩をつかむ。「いいか、モーティアナはノッティンガムでモルドレッドが待つと言っていた。ロビンはモルドレッドの元に送られた公算が高い」
「だが、どうすればいい? ロビンを探すのか?」
 奥村は首を左右に振った。「モーティアナを殺すんだ。ロビン・フッドの言葉を忘れるな。我々の目的はモーティアナを倒すことだ! お主らの隊長をとりもどしたくば、魔女を討ち取れ!」
「でも、あいつらはノッティンガムの市民だぞ! それを斬れってのか!」
 とスタートリーが言った。
「今はちがう! 攻撃しろ!」
「そんな……」
 奥村は仲間が逡巡するのをみた。みなキリスト教徒で、死体を痛めつけることを恐れているのだ。
「なにをしている、死にたいのか! 剣を構えろ! よく動きを見るんだ! あれが生きた人間か! 引導を渡すのは貴様らだ! 見てろ!」
 奥村は真っ先に列を飛びだすと、手近にいた老人を見事袈裟斬りに斬って落とした。老人は肩から胸まで一刀、両断にされて地面に転がったが、まだ手足をばたつかせて指を伸ばしてくる。
「わかったろう! 動きは速くはないが死なないのだ! 群がる前に動けないようにしろ!」
 奥村が言う間にも、アジームが生来の剛胆さで、三人の死体の足を狙って次々と斬り飛ばし。
「首だ、首を狙え! 首を切り落とせ!」
 騎士たちは奥村の言葉に突き動かされるようにして、死人の首を切り落としていく。ミドルが近づいてきて、「すまねえ、奥村」と言った。奥村はうなずいた。
「こいつらは死体だ。が、後味は悪いな」
 奥村は左右の敵に身を寄せては首を刈りとったが、死人はそれでも動いている。闇雲に襲いかかって、しまいには同士討ちすら始めてしまった。
 騎士たちは心を鬼にして死人たちに斬りかかる。騎士らしからぬ戦いの中で、兵士たちの中には涙する者まであった。死人を動けなくするには五体を切り刻むしかなかったからだ。死体だから血を噴き出さないが、家畜にするよりもひどい人肉の解体である。どれも肉が腐り軟らかくなっているから、斬りにくいといったらない。奥村はいよいよ怒りを深くしたが、部隊を統率するためにどうにか気を静めた。
「おかしいぞ。こいつらは動きが鈍い。こんなやつらで我々の足止めをしようとはしないはずだ」
 アジームが容赦のない殺戮に閉口しながら側に来た。「数で押すつもりなのかもしれんぞ」
「いや、モーティアナの力とて無限ではない……」
 奥村は言葉の途中で身を伏せた。突然の銃声に体が無意識に反応してのことだった。アジームはほとんど彼の体にかぶさっている。どうもこの侍を守る役目を買って出たらしい。二人の真上を銃弾がどしどしと行き過ぎていった。
「まずいぞ、奥村!」とアジームが耳元で言った。「銃士隊の生き残りがいやがった! 厄介なことになるぞ」
 アジームのいうとおりだった。こっちの動きは鈍るのに、死人たちは飛び交う銃弾をものともしない。
 奥村は兵に指図して、仲間を左右に散開させようとしたが、死体に行く手を阻まれてうまくいかない。銃士たちはそのまごつく所を狙い撃ってきた。
 奥村もこの世界で銃撃を受けたのは初めてである。
 洋一のいったとおりか! ウィンディゴめ、この世界に銃戦をもちこみおった!
 奥村は騎士たちを統率すると、建物を背中に負って、銃弾をさけては死人たちと戦った。
「弓隊を前に出せ! 銃士共に反撃しろ!」
 奥村の指図に駆けこんできたのは弓矢を大量に抱えた連中である。騎士たちもこんな銃戦が初めてだが、奥村はいやというほど経験してきた。戦い方を知っている。
「まずは銃撃を黙らせるぞ! 弓隊を援護するんだ!」
 みなはこの隊長が銃弾も怖れず、弓隊の前に出ては死人の急襲から守ったから、勇気を起こして奥村に続いた。
 ロビンは三百名を六つの部隊に分け、内の五十名は選りすぐりの射手を集めていた。この連中も仲間の援護に勇躍してさかんな射撃を行った。銃士たちの姿が即興のバリケードの向こうに見え隠れする。死人どもを前面に出し、矢ふさぎにしているのだ。無数に矢を受け蠢いている死人の姿はなんとも酷い。奥村たちは手こずったが、弓の名手ロビンが考案した作戦も巧妙だ。射手たちは数列に分かれては交代射撃を行った。彼らの飛ばす矢は銃士どもの銃撃の数を上回って、ついにその射撃を弱まらせた。
 奥村はこの機を逃さじと叫んだ。
「アラン・ア・デイル! 五十名を連れて脇道から回りこめ!」
 奥村はその隙にモーティアナの姿を探す。あの老婆がウィンディゴから与えられた力も無制限ではないはずである。これだけの数の死人を動かすなら、どこか近くにいるはずだ。どこだ?
 そのとき、アジームが彼の肩をつかんで、
「いかんぞ奥村! 部隊がすっかり間延びしてしまった! 洋一と太助が危ないぞ!」
「しまった!」
 奥村は部隊の統率に夢中で少年らの姿をすっかり見失っていた。
 ウィル・ガムウェルが側に来て、
「ここはもういい! 小僧共を助けてやってくれ!」
 みなあの少年の重要さをわかっているのだ。奥村とアジームはともに後方に駆けだした。
「俺たちはあの二人にはりついて、モーティアナを狙うんだ! 必ず出てくるぞ!」
「わかった! だが、モーティアナの力がこれほど増しているとはな! やつを斬れば死人もおさまるか!
「そう願うしかないあるまい!」
 若者が二人がかりで死体に抱きつかれている。アジームと奥村はたちまち救いだした。そうする間にも中央道にやってくる死体は次々と数を増している。
「こうも数がふえては厄介だ。みな集まれ! ばらばらに戦うな!」
 奥村は道々で各個戦う騎士たちを手近に揃えた。
「あの女は近くにいる。遠隔からこれだけの力を振るうことは不可能だ。モーティアナと太助らの姿を探せ!」
 奥村は死体と戦う愚をなるたけ避けた。騎士たちは奥村を守りながら後方へと進撃した。そのうちに、死人の群れに囲まれた一団を見いだした。その中央にいるのはミュンヒハウゼンと少年らである。
「いたぞ! 救い出せ!」
 奥村は夢中で死体の群れに飛びこむ。手練の血刀は無数の煌めきと化して、死人らの手といわず胴といわず斬り飛ばしていく。洋一まであと少しというところで、奥村は驚愕に身を凍り付かせた。洋一の姿がたちまち変化して、眼球をくり抜かれた西洋人の少年に変わったからだ。太助もミュンヒハウゼンも見知らぬ死体で、まるで奥村をあざ笑うかのように牙を剥いてくる。腐った血と唾液が、口中でネバネバと糸を引いていた。
「くそ」と奥村は言った。「幻術だったのか! 洋一じゃない!」
 隣にいたアジームもおなじものを見たようだ。二人は錯愕の顔を見交わす。
「まずいぞ奥村。幻覚を解いたということは二人が捕まったのかもしれん」
 奥村はアジームの声さえ遠くに聞いた。顔面は蒼白になり、今にも愛刀を取り落としそうだ。彼は近くに寄ってきた死人を突き飛ばすと、道の奥へと走りだす。自分の迂闊さを呪いながら。
 洋一、太助、死ぬな……!

○     2

 最初から罠だったんだ……
 ロビンもとられた。自分たちはゾンビに囲まれている。暗澹たる思いというのが、血の気をすら引かすということを、このとき洋一は初めて理解した。彼は部隊の真ん中にいて、死者たちの人影は兵士たちの体の隙間からしか見えなかった。けれど、嘔吐するには十分だった。これは内蔵の臭いなんだろうか? と洋一は思う。彼の冴えた嗅覚はなかなか麻痺してくれない。
 死人たちは剥き出しの臓腑をものともせずに向かって来る。歴戦の騎士たちですら恐怖に凍り付き、剣の冴えを鈍らせる。洋一は口元を拭い、懐から伝説の書をとりだした。その手を押さえたのは男爵だった。彼は激しく怒った顔で本をむりやり懐に戻す。
「しまえそんなものは!」
「なんで! 今こそみんなのピンチだ! この連中を見てよ!」と洋一は言った。「伝説の書を使わなかったら切り抜けられないじゃないか!」
「どう書くつもりだ! ロビンがどこにやられたのかもわからんのだぞ。状況に不明な点が多すぎる。どう書くつもりだ!」
 洋一は昨晩の言葉を思いだした。彼には本にどう書きこむべきなのかがまったく見えなかった。こんな状態でいい知恵なんて出るはずがない。
 ミュンヒハウゼンは洋一の耳に口を寄せた。
「今、本をつかうのは危険だ。万一のためにとっておけ」と言って、洋一のすっかり細くなった腕をとる。そのとき老人の瞳が揺れていたので、洋一はそれ以上反論できなかった。「お前はもう一度本に生命力を吸い取られておる。二度目は命を落とすかもしれんのだぞ」
「でも、モーティアナはきっと出てくるよ」と太助が囁いた。「あいつはぼくと洋一のことを怨んでるんだ」
 最後には本を奪うつもりだろう、と太助は思った。
 その言葉通りに、三人を狙う死体はどんどんと増えていった。まるでノッティンガム中の遺体を操っているかのようだ。大人たちが押されて戻り、中央にいた洋一と太助は鉄の鎧に押しつぶされそうになる。太助は父親の元に駆けつけたかった。せっかく会えたのに死んだらどうするんだ。ところが、男爵が肩を押さえて許さない。モーティアナは死体から本を奪うつもりなのかも知れない。自分で手を下す気がもうないのかも知れない、と彼は思った。洋一と伝説の書を守らないと。
 死人は素手だが、あまりに数が多すぎる。そのうち、銃士隊の射撃が始まると、円陣はみるみる崩れて、死人と生き人入り乱れての乱戦になった。
 周囲の鎧が引っぺがされて、太助はようやく人心地をついて、刀を抜いた。
「洋一、ぼくの背中に回れ!」
 彼の背に洋一が手を置いた。ミュンヒハウゼンはどういう因果か、おなじ年格好の男性を退けている。悪気が充満しているのか、今朝よりもずっと年老いているように見えた。
「ぼくの側を離れるなよ。二人でいなきゃだめだ」
 と太助は言った。洋一がうなずいているのが、見なくてもわかる。そうして互いを守るようにして立つ二人のこどものところへ、ヨタヨタと女の死人が近づいてくる。太助は急に気後れをして刀を引いた。洋一が太助の背に押されて、不審に声をかけた。太助はそれでもジワジワと下がる。なぜ金縛りにあったように斬りかかれないのか、自分でも理由が分からない。母上など見たこともないだろうしっかりしろ、と彼は自分に言い聞かせた。母親の悲惨な死もあって、母性に対する憧憬がどうしても抜けないのだ。第一、侍たちは女こどもを守るためにずっと戦ってきたのではないか。斬るのか? と太助は自分すらをも疑った。
 背後で、父さんと母さんだ、と洋一が言った。太助は一瞬だけふりむいた。洋一は、左手からくる男女の死体に釘付けとなって震えている。洋一にはあれが両親の死体に見えているのだ。
「洋一! しっかりしろ! 見ちゃだめだ!」
 太助は洋一を背後に抱えたまま斬りかかれずにいる。女は血まみれの腕を上げて襲いかかってきた。
「くそ!」
 太助の頬を爪が切り裂いた。刀を上げたが、斬れない。武器をもたない女は太助の喉元に食らいつこうとした。太助は硬直したまま、女の血塗られた犬歯をみた。そのときになって、ようやくこの女が金髪碧眼で、母とは似るはずもないことに気がついた。
 ミュンヒハウゼンが脇から女を蹴転がしたのはそのときだった。その勢いのまま身を寄せて、サーベルを一閃、女の首を斬りとばす。太助の目線は地面を転がる女の首を追った。
「あれはもう人ではない! ためらうな!」
 太助は悔しがり、周囲の建物にむかって叫んだ。「モーティアナめ、卑怯な幻術をつかうな! 隠れてないで出てこい!」
 戦場はもう節度のない殺しの場である。騎士たちも死人のあまりの多さに、目の前の敵を退けるだけで精一杯だ。太助はミュンヒハウゼンと一緒に洋一を挟んだ。
「洋一、しっかりせい! 幻を見るな! 自分を保て!」
 男爵はもう洋一の頬を引っぱたいている。
 太助は半眼をとって、無心になろうと勤めた。脱力だ、居着くなよ、と自分に言い聞かせる。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
 と太助は口の中でつぶやいた。なにかに集中しなければとてもやっていけない。
「南無阿弥陀仏、観世音菩薩」
 太助は表情を変えていなかったが、内心嫌悪せずにいられない。けれど、自分よりも小さなこどもの首を切るには心を無にするしかないと思った。彼は古伝の正中線に集中しながら、居着かぬように居着かぬようにと努めた。死人の背後にモーティアナを見ようとした。あの魔女め、絶対に揺るさんぞ! 太助はいつもの度胸をとりもどすと、迫り来る敵を斬りたおした。
「モーティアナ、モーティアナはどこだ!」
 敵を蹴倒し、洋一の側に駆け戻ろうとする。その視界の隅に、なにかが入った。背筋に寒気が走った。斬り結び合う騎士たちの向こうにフードをかぶった老婆がいたのだ。邪悪な笑みを口元に浮かべ(目は影で見えない。でも見ているのは自分の方だ)彼を手招いている。宿で斬った使い魔とおなじ姿だ。そのとたん、魔女の高らかな笑い声が頭に響く――
 ウケケケケ……
「男爵、いたぞ! モーティアナだ!」
 ミュンヒハウゼンが顔を上げなにかいったときには、太助は夢中で走っていた。あいつを、あいつを殺せば死体も止まるぞ!
「洋一! 待ってろ!」
 老婆は側の屋敷に退き、扉をそっと開けると中に身を隠す。
「待てえ!」
 太助は掴みかかる死体の手をすり抜けて、屋敷を目指した。洋一の呼び止める声も、血気にはやる少年には届かない。
「逃がすもんか、今度こそ仕留めてやる!」
 太助は死体を飛び越え、モーティアナを目がけて一散に駆けた。

○     3

 モーティアナの逃げこんだアパートは、周囲の建物とは画然としている。まず戦場のまっただ中にあるというのに傷がひとつもない。その一軒だけが夕暮れの中にいるように曇って見えた。そして、建物を囲むように白い灰が蒔かれている。右足がそれを踏みつけたのに、太助は気づかなかった。わずかな階段を駆け上がると、刀を眼前に立てるようにして、気息を整える。必殺の意思を刀にこめた。
「待ってろ洋一、今あいつを仕留めてやるぞ」
 そして、わずかに開いた戸の隙間から、モーティアナの待つ暗闇の中に押し入った。戸口に体を滑りこますと、壁を背にして大上段に振りかぶる。おかしいぞ――
 視野を広げ左右の闇を推し量るが、伏せている人はない。そして、奇妙なことに気がついた。戸を閉め切った様子もないのに、そこはわずかな光も差さない真の暗闇だったからだ。
「モーティアナ!」
「来たかえ、小僧……」
「モーティアナ……」
 後ろで戸がカチリと閉まった。太助は思わずノブを回そうと剣を片手に背後を探ったが、そこにはなにもなかった。なんの手応えも。扉は消え、ノブは消え、家の中ですらなくなっている。
 太助はついに自分が罠に落ちたことを知った。迂闊だった。死体共を止めたくて焦っていた。あの宿で魔女の力は熟知していたはずなのに、使い魔を斬ったことで慢心したのだ。男爵も洋一も入ってこれないだろう。魔女はまんまと彼を罠にはめ、彼をひとりぼっちにした。
 太助は落ち着けと自分に言い聞かせながら、背筋を伸ばし刀に両指をはわして、正眼に置いた。三白眼で闇を透かしてもなにもない。
 奥から声が響いてくる。
「ぬけぬけと追ってきたね。あたしを斬り倒したいのかい」
「ああ、やってやるぞ!」闇の恐怖を払うべく声を上げる。胸は声に呼応し、激しく震えた。心臓の高鳴りはこらえようもない。モーティアナが、あいつが見えない。見えなければ斬ることは不可能だ。太助はモーティアナの気配を探りながら挑発した。
「卑怯者め、隠れなくてはぼくの相手も出来ないか!」
 モーティアナは、キャハハ、と笑った。それは心底意地悪で、それでいて華やいだ声だった。魔女は念願を叶えようとしている。彼女の少年を殺そうとしている。
「小僧、よくもあたしの蛇を殺したね!」
 モーティアナの声は四方から聞こえた。これでは出所が探れない。太助は無念さを噛み殺して、剣先をわずかに下げた。モーティアナの声は喜びと怒りで震えていた。彼女はにじり寄りながら涙すらこぼしていたのだが、太助の目には見えなかった。
 恐怖で呼吸が速くなる。彼はもはや両眼を閉じた、必死に直感を働かせようとした。モーティアナの匂い、少しでいい、魔女の熱をさぐりたかった。時間を稼ぎ、柄に這わせた指をそっと振り、緊張をゆるめようとする。心身がこわばって平常心ではいられない。彼は北辰一刀流にいう鶺鴒の尾を無意識の内にやっている。剣尖を揺らめかしながら、モーティアナの先を切って落とそうとしていた。見えないならば、気配を探って斬り裂くまでだ。
「さあ、来い!」
「お前はウィンディゴ様の信頼を奪った。たかが小僧があたしの邪魔をした。許さない。許さないよ。お前は許さない。どうなるかわかるかい。どうなるか教えてやろうか。お前のせいで。お前のせいで、あたしがどんな目にあったか、その恨みを五体に受けるがいい! お前の恐怖をあたしにくれ。骨を砕かせろ。筋を千切らせろ。毒と恐怖でお前の肉をめちゃめちゃに搾ってくれる! ああ柔らかい子羊よりも、柔らかいシチューにしてくれる。お喜び下さるだろうよ。ああ、ウィンディゴ様はお喜び下さるとも」
 モーティアナの声は不可思議にどんどん大きくなっていった。まるで洞穴で木霊する声のようだ。あちこちで反響して太助の身体を激しく打った。彼は幼い身体を蹌踉めかせながら、それでも必死に立っていた。呼吸を整え、気力を剣に託し、必殺の一撃に備えたのだった。
「手土産はお前、次は小憎らしい侍の父親、ミュンヒハウゼンとかいうじじいも目玉をくり抜いて殺してやるとも。生きたまま舌を抜いてやる。次は洋一とかいう小僧だ。あいつはただではすまさん。ウィンディゴ様の持ち物を奪い、馬鹿げた力であたしの計画を食い止めおった。だから、指を引き千切るんだ。馬鹿げた文が書けないようにだよ。足の指もだ。逃げられないようにだよ。そうしてやってやる。あいつの皮をはいでやる。小さなちんちんを磨り潰してやったら、どんな顔をするかね。ハハハ、玉もだ。玉もやってやる。そうなったら、生かしておいてやるさ。たった一人で生かしておいてやる。そうなったら、あいつは死ぬかね? ああ、首を括ればいいのに。見物だ。見物だとも」
「お前の思い通りにはならない」太助は言った。その声は緊張と興奮で震えてもいた。「ここで死ぬんだ」
「どうかな?」
 その声だけは奇妙に小さくなり、驚くほど近くでした。シュルシュルと地を這う音が聞こえたとき、太助はついに目を開けた。なにも見えないが、巨大でザラザラした物体が自分の身体に巻き付くのを感じる。その蛇の長い総身は、彼の全身をすりあげ締め上げる。鼻をつく生臭い匂い、嘔吐きが起きた。腕を封じられ、骨をきしませる激痛に大刀が落ちた……。彼は敵の術中に嵌ったのだった。
「死ぬのはお前だ」

○     4

 太助は万力の中に身を挟まれているようだった。このままでは強大なローラーの下敷きになるみたいにペシャンコにされてしまうだろう。肺が押されて空気が抜けた。横隔膜が圧迫されて激痛が喉にまで走る。全身の骨が音を立てる、肋骨が変形し内臓が切られそうだ。幼い体が柔軟性を持つのを幸いモーティアナは歓喜の雄叫びを上げながらギュウギュウと締め上げた。太助の目は力なく、液体が零れる。朦朧としながら、洋一や父のことを思った。これの次は――次があるんだ。
 真っ赤な茹で蛸のようになり――脳が酸欠で空気を求めて体中の血液を集めている。もう目玉が飛び出しそうだ――そんな状況だというのに、友人のことを思った、父親のことを思った。彼らを助けるんだと彼は思った。血液が抜けて痺れる指を動かし、ドサリと鞘に引っかける。モーティアナは絶叫を上げ、さあ、いよいよだ、まだ死ぬなまだだ死ぬな毒を回して肉を溶かしてやる、生きたまま身を焼かれるがいいや! と真っ赤な口から鋭い牙を生やして、彼の喉元に噛みついた。太助は一瞬目を見開き、次にあきらめたように力を無くすと声にならぬ声を発した。これ以上の激痛があるとは信じられなかったが、本当だった。老婆の牙は食道を食い破るほどに深く刺さって、熱い毒を流しこんだのだ。
 太助は舌を垂らして(その首はほとんど無気力となってブラブラと揺れた)、それでも柄に手をかけた、手首だけでそろそろと抜いた。蛇は生きたスプリングのように彼の体を巻いていたが、刀を持っていた右腕だけは、その隙間から突き出ていたからだ。意識はないのに、身体を必死に突き動かす。脇差しが鞘から伸びて刀身を露わにしたが、老婆は狂った犬のように太助の首に噛みついてグルグルと首を振り回している。舌で夢中で血を吸い取っている。うまい、うまいぞ!
 太助は身体を振られていたから、鯉口をどうにか切った、体が左右に揺らめいて脇差しがぐっと抜け出た、後は重みで鞘から落ちた。指を引っかけるようにしてその確かな感触を掌に包む。体はもう真っ赤にむくんでいた。ああ、と声を上げたような気がしたが、実際には息すら漏れていなかった。
 洋一……と彼は最後に思う。彼にとっては最初にして最後に出来た友人だった。鼻と口から血が噴き出し、声すら上げられない。手の内で刀を回して、モーティアナの身体に押し当てたときだけは、開ききった瞳孔に光が戻った。
 太助は倒れこむようにしてモーティアナに身を預けながら、無理矢理腕を伸ばし、老婆の首元に刃を押しこんだ。
 蛇の目を見開いたのは、今度こそモーティアナだった。

○     5

 洋一と男爵は無駄と知りながらも、建物を包む結界に拳を打ち当てていた。二人は夢中で体当たりを繰り返している。剣を打ち付け、蹴りをくれるが、人骨の粉を巧妙に配した魔方陣は、強固な障壁をつくり、彼らではとても突き崩せない。
「なんということだ。太助は殺されてしまうぞ!」
「そんなことない! あきらめちゃだめだ!」
 周りに目をくれようとしない洋一とミュンヒハウゼンに手を伸ばしていた死人たちが、もう一度ただの死体に戻ったのはその時だった。辺りの喧噪が突然静かになった。聞こえるのは遠くで響く銃声と剣戟の音。アランたちがまだ銃士らと戦っているのだった。けれど、死人たちはまるで自らを吊る糸が切れたようにクシャクシャと、どれも地面に倒れている。洋一が手を伸ばすと、障壁が消えていた。そこへ奥村左右衛門之丞が血刀を手に鬼をも斬らんばかりの勢いで駆けこんでくる。
「おじさん、太助はこの中だ!」
 洋一の声がやむ間もなかった。奥村は彼の息子がそうしたようにわずかな段を踊り越え、その勢いのまま、足を伸ばして固い扉を蹴り開けた。
「太助!!」
 奥村は敵の待ちかまえる予感にも関わらずに大声を上げた。家屋はいまだに暗闇――モーティアナの魔術が残っている。奥村は視線を伸ばした。戸口の光は黒煙にも似た闇をわずかに払っている。その光の先で、袴を巻き付けた小さな脚が倒れている。
「太助!」
 奥村は夢中で息子の傍らに膝をついた。男爵が周囲を警戒しながら後につづく。「なんということだ」
 太助は刀を握ったまま、自らの流した血の海に舌を垂らしている。目は閉じ。剥き出しの腕には、なにかに強く締められた痕。のど元には大きな穴が真紫に開いている。
「モーティアナだ。モーティアナにやられたんだ。毒にやられてる」
 と洋一は呆然として、けれど無意識に足を踏み出していた。闇に入った。彼が思いだしたのは今朝の太助の姿だった。一緒にウィンディゴを倒そうと彼の背を優しく撫でた小さな手が力なく伸び、自らの血にまみれて落ちている。彼に様々なことを語った唇も真紫に染まり乾いていた。強く優しい友人が、今孤独にも死の床に就こうとしている。
「太助……」奥村は、そっと息子の顔に指を這わせる。体の下に腕を入れて、息子を抱き上げた。あんなに元気だった、あんなに勇敢だった息子が全身の力を無くして、別人のように手足を垂らしている。もう言葉もない。
 太助を側の客間に運び入れた。狭い部屋の中央で、奥村は息子を抱いて座った。
 太助の息はかすかだった。奥村はふと色々なことを思いだしていた。息子が生まれたとき、今とおなじように抱き上げたこと。妻の亡骸に立派な侍にすると誓ったことや、死に行く仲間から息子の後事を託されたことを思った。なによりも息子との思い出が幾重にも頭を巡る。彼は頭を傾け、そっと涙が流れるに任せた。ああ、この息子がどんなに自分に尽くしてくれたことか。自分がどんなに息子を思ってきたか。その積年の思いが胸を塞いで彼はなにも言えなかった。その人生がどんなに得難いものだったか、ついに彼は息子に伝えず仕舞いだった。息子が生まれてこの方どんなにありがたいと思ってきたことか、その事の万分の一も彼は息子に伝えられなかった。申し訳なさが涙となり、ポトポトと頬を流れた。息子の顔に落ち、彼の息子が、泣いているようにも見える。
「息子は、息子は天下一の孝行者でござんした。これほどの、これほどの息子がいて、拙者は天下一の果報者にござんす。その息子に報いることが一度たりとも出来もうさなんだ。そのことが悔やまれて、悔やまれて。積願が果たせずともかまいもうさん。拙者息子のためなら、腹を切り申す。主君を持たぬ浪人ゆえ、せめて家族のために腹を切り申す。なのに、何故息子が父より先に死なねばならんのか」
 ミュンヒハウゼンは老いた手で顔を覆う。彼は一息に何十年も年を食った。
 洋一は呆然とその光景を見つめている。目の前にいる三人は何万光年の彼方。現実の事とはかけ離れて見えた。
「拙者は、拙者は我が儘でござんした。息子はどんな生き方でもできるのに、拙者の我が儘で側に置き申した。命を狙われていることも、預ける場所がないこともすべて言い訳でござんす。息子を手放すのが耐えられなかった。それ故に、このような若輩の身で死なせることになり申した。不憫でなり申さん。拙者の息子でなければと思い申す。かような苦労も、かような死に様もせずにすんだろう。申し訳、申し訳なく」
 洋一は急に腹が立った。奥村がなぜそんなふうに謝るのか彼には理解しがたかったのだ。あんなに強くてあんなに頼れたおじさんが、別人のように力をなくして肩を垂らす――うそだ、こんなの現実じゃない、目の前にある光景、あれこそがデタラメだと彼は思った。だって、彼は知っている。太助という少年がどんなに父親のことを誇らしく語っていたか、どんなに親を愛していたかを。太助の口が恨み言を発したことなんてあったろうか? 断じてない。いつも前向きだったじゃないか。
 それは彼が真っ直ぐな人間だからで、真っ直ぐな人間に育てられたからだと洋一は思った。太助を育てたのは今はひとりぼっちで泣きにくれている侍である。洋一はこんなのだめだと拳を握る。こんな結末誰も望んでるもんか。これが物語の世界なら、絶対に幸せな結末にするんだと。
「太助はおじさんと一緒に居られることを喜んでた。おじさんが育ててくれたことをずっと感謝してたんだ。太助は誇りを持って生きてた。だから、こいつは、ぼくなんかよりずっと偉いんだ」
 奥村が泣き顔を上げる。その泣き顔を見ると、洋一は今よりもっと腹が立った。太助は父親を尊敬してた。父親のこんな姿は見たくなかったろう――それが自分のせいというなら尚更だった。
「太助は死んだって後悔なんかしない。おじさんがしても、こいつはしない。後悔しない生き方はおじさんが教えたんじゃないか! 人を羨んだり、生まれを悔やんだりしない生き方の方がずっと大事だ! 学校に行くよりずっと大事だ! だから、ぼくは……!」
 洋一は、その幼い友人をどんなに尊敬していたか、言葉に出来なかった。だから、彼は唇を噛みしめて涙をこらえた。
 洋一の言葉が胸に刺さり、その言葉は奥村の胸につかえていた感情をどっと押し流した。それですべてが報われたわけではない。ただ洋一のことがありがたかった。そのようにして息子に接してくれた初めての友人のことがありがたく、ひとえに頭の下がる思いがした。それが太助にとってどれほど支えになったことか、このときハッキリと分かったからである。
 沈黙が影に落ちた。奥村はがっくりと肩を落とし、息子の腕に手を添えている。洋一は伝説の書を懐からとりだし(胸当てを固く縛っていたから苦労してとりだした)、上から手を当てる。自分になにができるのかはわからなかった。でもなにをすべきかはわかっていた。洋一は奥村の、優しいけれど血に塗れた手を見ながらつぶやいた。
「男爵、ぼくを太助と二人っきりにして欲しいんだ」
「書くつもりか?」と男爵は尋ねた。「だがどうやるというのだ。太助はもう……」
「太助は死んでない! 二人にして欲しいんだ。ぼくと太助二人きりだ!」
 奥村は太助をそっと床に寝かせると、洋一に膝を向け、深々と頭を下げた。
「お頼み申す」
 男爵は迷ったが、ややあって、
「わかった。奥村部屋を出るんじゃ」
 奥村は力なく首を垂れる、さ迷うように出て行く。最後に洋一を見て微笑む。男爵は残った。
 背の高いミュンヒハウゼンが膝をついて、洋一と頭の位置をおなじにした。
「いいのか?」
 洋一はうなずいた。ミュンヒハウゼンはやや不安げな表情をその皺顔に貼り付けて、洋一の肩に手を置く。男爵は迷っていた。洋一にやらせるべきか。けれど、太助が蘇るのならばわずかな可能性にも賭けたい思いだ。この少年はひ弱に見えながらも、伝説の書をどうにか使いこなしてここまでやってきた。男爵はその可能性に賭けたかった。本来ならば自分はこんな事をいうべきではないと思う。洋一は、太助とおなじく忘れられた一族の最後の生き残りである。下手をすると、ミュンヒハウゼンはその二人共をも失うことになるだろう。けれど、彼は言わずにはおられなかった。この二人は力を合わせ、どんな艱難をも乗り越えてきたのだから。この窮地にすら期待するなというのは無理というものだ。彼はこの名付け子まで失うかもしれないという恐怖心を脇に押しやった。
「ここが本の世界だということを忘れるな。物語には世界観が必ずある。ウィンディゴですらその世界観に縛られておる。お主は本の書き方を父親から教わっておろう。その鉄則を守るんじゃ。物語を作るとき、自分がどうしてきたかを思い出せ」
「ぼく、ぼく、やれるよ。大丈夫だ」
「物語の世界に法則があることは分かったはずだ。あの魔女が実際の魔力をつかったように、ここは現実の世界とは大きく相違する。その法則を見抜くことだ。そしてここはあくまで物語の世界。実現するアイディアがあるならば、書きこんだことは必ず現実になるはずだ。残念ながら、わしには文が書けん。お主にすべてを任せるのは、申し訳ないが……」
 立ち上がり、背を向けて歩きはじめたミュンヒハウゼンを、
「男爵」と呼び止める。「ぼく、太助と話してたから、あいつの気持ちがわかってたんだ。こいつがおじさんや男爵に感謝してたの、嘘じゃない」
 ミュンヒハウゼンは振り返り、淡く優しい顔をした。洋一は顔を下げていたからその笑みは見えなかった。
「でも、怒鳴ったりして悪かったよ。このことが終わったら、おじさんに謝ろうと思ってる」
「わかった」
 男爵は出て行った。洋一は改めて奥村太助を見下ろした。その顔はまったく青白い。死体かゾンビでもこれほどひどくはないだろう。彼の友人は呼吸もほとんどしていないように見えた。狭い路地に面した窓から、明かりがかすかに落ちて、彼は懐から伝説の書をとりだした。

○     6

 あれは今朝のことだった。洋一は太助とのやりとりを思いだした。自分を励ますように背中を撫でてくれたこと。彼の語った言葉を逐一思い出していた。洋一は太助の死を悲しんだ。ああ、こいつはこんな所で死んじゃ駄目だ――この一人ぼっちの友人に、いろんなものを見せてやりたい、自分の持っているものを分けてやりたいと思った。太助がなにも望まないのは、元もとなにも持たないからなのかもしれない。だけど、もっと求めていい。いろんなものを手にしていい。誰にでもある権利を行使して欲しかった。ささいなことで、おだやかなことでいいから、戦いや痛みや血や涙のないところに彼を連れ出してやりたかった。生まれて死ぬのが平等なら、普通に生きる権利だって持っているはずだ。蘇れ、と洋一は太助の肩を撫でながら思った。彼は声に出さず、口の中で舌を動かし奥村太助に訴えかけた。二人でウィンディゴをやっつけるんだろ? 一緒にやってくれるっていったじゃないか。いつものように立ち上がり、いつものように前向きに、自分を導いて欲しかった。洋一は太助が平凡に生きられないのなら、一緒に歩いてやるつもりだったのだ。
 そうして牧村洋一は、また奥村太助と二人ぼっちになった。戸を閉め切り、日中の湿った空気の中で、父親が教えてくれたことを思い出そうとした。自分の指を見たが、情けなくも震えている。彼は、くそっ、と小さな声でつぶやいた。泣くつもりなんかないのに、涙がにじんでいる。彼は自分のことを情けないと思った。おじさんや男爵にはあんな啖呵を切ったのに、自信がないのだ。太助が死ぬのも自分が死ぬのも恐れている。こんなことをしてる場合じゃない、うまくやるアイディアを練らなけりゃと思ったけれど、体の奥底が震えてそれで全身が強張っている。喉がカラカラだ。
 お父さん、お母さん……、と彼は思った。けれど、もう代わりをしてくれる誰かはいない。この部屋にいるのは彼と太助だけだった。
「才能なんてないじゃないか……」
 洋一はびくりと腰を上げた。今聞こえたのは自分の声なのに、自分がつぶやいたことにも気づいていなかった。彼は泣き出してしまった。
「やっぱりぼくには無理だよ。太助ごめんよ」
「お主の友人は死ぬ」
 洋一はまたぎくりと身を起こした。低い声がすぐ側で聞こえた。「ウィンディゴ……?」辺りを見回すが誰もいない。彼の身動きで塵が舞うばかりだった。ウィンディゴがここにいるはずない。あいつは本の世界には入れないんだ。
 洋一は立ち上がって、部屋を見回した。薄暗くて、それに死の臭いがちょっぴりする。その死の臭いは足下の少年が発している。洋一はもう一度、太助……とつぶやいた。太助のすぐそばに自分の置いた伝説の書が落ちている事に気がついた。
 ――本だ。ぼくは伝説の書の悪い部分とも向き合っている――さきほどしゃべったのは、この本だったのだ。そうしてみると、赤い表紙は邪悪にもニタニタと笑っているようにも見える。彼に創作をさせたがっているのはまちがいないが、本を形成する大半の部分は彼に失敗させたがっている。そのうち、伝説の書が一人でにパラパラと開き、洋一はひっと尻餅をついた。耳の奥でブンブンと唸る声がし始める。大半が意味不明な外国語だ。伝説の書に飲まれた人物たちが、彼が本を使おうとそして弱い心に負けようとしているのを見取って出てきたのだ。洋一は鼓膜に噛みつくような無数の声に耐えかねた。
「うるさい、誰も死ぬもんか、向こうへ行け!」
 叫び声とともに、鼓膜に巣くう無限の音は追い払った。背後でカチャリと音がする。誰かがノブを回そうとしたが、また元の位置に戻った。洋一はほっと息をついた。二人は彼を信じて、事を託している。
「心だ、伝説の書を扱うのは、強い心なんだ」洋一は伝説の書に手を伸ばし、本を閉じると、固い表紙の角を掴み上げた。その本を顔の高さにまで持ち上げると、「本の持ち主はぼくだ。主人はぼくだ。まちがえるな。わかったら、いうことを聞け」と囁いた。洋一ははっと足下を見おろす。太助がうめき声を上げている。彼は膝を滑らすようにして、顔の側に手をついた。
「しっかりしろ。目を開けろよ」
 と耳に近づき囁く。喉元からあふれる血を目にし、肩を揺するのだけは我慢する。洋一はふいに、自分がどんなに太助を大事に思っているかに気がついた。共にすごした時間はわずかなものなのに、血を分け合った兄弟のように感じている。そして、実際に血を分け合った肉親はもういない。洋一は二人がいなくなったときのぽっかりとした空虚感を、今もまたおなじ強さで味わった。
 いやだ。頼むから、いなくならないで。
 洋一は言ったが、喉からは息すらでない。
 そうした大切な人間が、まるでちっぽけで、まったく価値のないやつみたいに、あっけなくも死のうとしている。彼に様々なことを語った口から血を流し、頬に涙の筋を残し、あっけなく死のうとしている。洋一は太助の死を受け入れられなかった。いつの間にかこの侍の少年を決して死ぬことのない無敵の存在のように崇めていた。だから、そんな人間が無言で力なく横たわっていることを信じたくなかったのだ。
 しっかりしろ、ぼくなら太助を救えるんだ。夢のとおりにするつもりか。
 ああ、そういえば、父親は、書くときは心を鎮めるようにいっていたっけ。
「だけど……」
 脳裏には父親の残像が居残っている。洋一は必死に考えをまとめようとしたが、ヘドロが脳の回路をせき止めたみたいになにも出てこない。
 このままじゃだめだ。やり方を変えないと。
 洋一はよろめくように立った。彼は自分に言い聞かせた。この臆病者、しっかりしろ。男爵は期待してくれたじゃないか。太助だってそうだ。おじさんだって信じてる。本の力を引きだすのは信じる力だって男爵が言った。
 そういえば父さんはいろいろ教えてくれたな、と彼は思った。母親が持ってきてくれた、コーヒーとジュースの甘い香りを、ふと思いだす。
 駄目になったときのことは、駄目になってから考えればいい、と奥村少年ならいうかもしれない。だけど、洋一は言い訳がしたかった。頭は結果を考えたがっている。恭一は思考の流れをコントロールする方法を彼に教えたが、洋一にはついに理解できなかったし、今もってそうだ。結局のところ、恭一がなにかを伝えるには、彼は幼すぎたのだ。洋一はもう無理だと思った。なんども助けてくれた少年が、目の前で毒を盛られ血を流し死につこうとしているのに、落ち着いて文をまとめるなんてできるだろうか? そんなの無理だと彼は思う。うまくいかなかったときの恐怖、おじさんや男爵らの落胆を思うと吐き気がする。それどころか文を書き終わったとき、彼の肉体は骨しか残っていないのかもしれない!
 奥村の落胆を思いだすと、洋一は暗澹となった。つまりあれは自分自身の姿だった。両親を失った自分自身と重なり合ったのだ。
 だからこそやらなきゃ駄目だ。太助が義兄弟だというんなら、今度こそ家族を救うんだ。
 洋一はカッと目を開いて、太助を見る。ぽとぽとと涙をこぼしながらも本を開いた。
「書かなきゃだめだ……、ぼくが文を書かなきゃ太助は死ぬんだから」
 そういえば、こいつはいっていたっけ、いつでも最高の力を発揮するために、いつでも準備をしておくんだって。
 Qを出せ。Qをだすんだ、洋一は我知らずつぶやく。洋一が口を酸っぱく教えられたのは、Goサインが出るまで書くな、ということだ。書いていてつまらなかったら、それはGoサインの出ていない合図である。Goサインが出るまで、Qを出せ。いいQを出せば、いい答えは必ず出るからだ。
 恭一は、こどもにもわかりやすいよう、Q&A方式という言葉で教えてくれた。今思うと、彼の父親はなかなかにいい教師だった。行き詰まったときは、Qを出せ。答えを探すのはそれからなのだ。
 洋一は恭一のように、頭で理論的に理解しているわけではなかった。けれど、感覚的にはそのことがわかっていた。記憶にむかってうなずくと涙を拭った。
「Qをだすんだ」
 喉は焦りにヒリヒリしている。そこに唾を押しこんだ。図書館のどでかい机に座り、恭一の教えを受けているつもりになる。そうして父の教えを思い出そうとした。
 漠然と考えちゃだめだ、ポイントはなんだ? どうすればいい?
 小説を教えるとき、恭一はいつも右隣にいて優しく彼に語りかけてくれた。洋一はソファに座り、友人から流れ出る血液がじっとりと絨毯を濡らすのを見ながら、自分のすべてを賭けようとした。
「ぼくは書く。ぼくは書くぞ」
 洋一は父親の万年筆を握りしめた。このとき、大人用の立派な万年筆が、いやにか細く感じられたのだった。

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