ねじまげ物語の冒険の、冒頭部分をチラ見せいたします!

     3

 洋一はびっくりして目をしばたかせた。誰? と声をかけたのだが、喉からは空気の漏れるかすれた音しかでなかった。院長の言葉と打撃は、彼をすっかり萎縮させていた。あの院長が、窓にまわって見張っているんだろうか? と考えた。
 洋一は、もうなにもかもが嫌になり、また涙をこぼしながら横たわろうとした。そのとき、
「洋一、洋一……」
 窓の外にいる誰かが、彼の名を呼んだ。院長の声ではなかったが、洋一はかえりみなかった。
「ぼくはもういない。牧村洋一は死んじゃったんだ……」
 洋一は空耳だろうと、背を向けつづけた。ひどい激痛で、考えることすら億劫だった。すると、
「洋一、おらんのか? おのれ、返事がない。奥村、玄関にまわって様子を見てきてくれ」
 玄関っ?
 洋一は体を痛めたことも忘れて、身をひるがえした。
 たいへんだ、そんなことになったら、院長がまた目を覚ましちゃう。
 洋一は立ち上がってとめようとしたが、院長に痛めつけられた足のために、その場に膝をついてしまった。
「待って……」と彼は院長に聞こえないよう細心の注意をはらって、外の男に声をかけた。「ぼくならここにいる。よけいなこと、しないでよ」
「おお、洋一、そこにいたか」
 洋一は外の男の無遠慮な大声に腹が立った。
「ちくしょう、ぼくはこんなに苦労してるのに、なんでそんな大声をだすんだよ」
 というと、身も世もなく泣けてきた。
「うむ、この窓には鍵がかかっておるな」
「格子もじゃまですな」
 別の男が言った。
「洋一よ、わしらに手を貸して欲しい。まずは窓を開けて、顔を見せてくれ。洋一」
 洋一は耳をうたがった。ぼくの方こそ、人の手を借りなきゃ立てないぐらいなのに、手を貸してくれだって?
 いったいどうなっているんだろうという疑惑が心をかすったが、洋一は心にわいたかすかな希望にすがりついた。スーパーヒーローを信じるには彼は年をとりすぎていたけれど、それでも外の男たちが自分のことを知っていて(でなければ、なんで名前を呼んだりするだろう!)、院長とは無関係の人間であることだけはわかった(そうでなければ、なんで窓から呼びかけたりするだろう!)。
「役所の人なの?」
 洋一は言った。足立という人の様子から見て、あの人たちは、あたごの実態を少しは理解しているようだった(それなのに自分をひきわたすとはひどい話だが)。ひょっとしたら、外にいるのは父さんの友人かもしれない。
 ともあれ、いまの洋一は、なんにでもすがりつきたい気持ちだった。彼は痛む足を引きずり、ソファーやデスクに手をついて、窓ににじり寄りはじめた。
「待って、すぐに開けるから、待ってよ。玄関にはまわっちゃだめなんだ」
「おお、洋一、なつかしきわが友よ。顔を見るのも久方ぶりなら、声を聞くのも久方ぶり……」
 外の男は、舞い踊るような声音で言った。洋一は、どうにも変な人だな、と泣き笑いの顔に滴をつけながら、窓へと向かっている。
「待ってよ。院長に痛めつけられたんだ」
 洋一はやっとの思いで窓にたどりついた。薄い緑のカーテンを月明かりが照らし、外ではまだこの夜にみた満月が照っているようだった。自宅であんパンを食べ、本を読んでいた時分のことを思いだすと、すべてが夢であるような気になった。
 ああ、この痛みだけでも、夢と消えてくれたらいいのに。
 洋一はカーテンに手をかけた。咳きこむと、白い息の中に血の飛沫がまじり、ぞっとした。口の中もずいぶん切ったようだった。
「なにがあったのだ洋一、しっかりせい」と表の御仁は慌てた様子だ。「我らには危険が迫っておる。気を抜いてはいかんぞ」
 抜いたりするもんか。
 カーテンを引き開けた。そして、口をあんぐりと開けた。
 格子の向こうにはどでかい鷲鼻をした、白髪の男が立っていた。十八世紀の貴族が被っていたような、豪奢な絹の帽子を頭に乗せている。その帽子からは大きな鳥のはねが飛び出し、ひらひらと揺れていた。洋一が絵本でみた貴族の挿絵を想像したのは、男の目が青かったからだ。本物の白人で、しかも、その髪は、ルイ十六世のように幾重にもカールをまいていた。窓の向こうに立っているから全身は見えないが、大昔の赤い軍服めいたものを着こめかしている。背も高いようだった。
 洋一は顔をゆがめてカーテンを閉めようとした。頭がおかしくなったと思ったからである。
「どうした?」
 とその赤づくめの服を着こんだ白人の老爺は言った。洋一は老人をよくよく見直した。彼の服はナポレオンが着ていた服みたいに紐やボタンがあちこちについて、装飾がほどこされている。おまけに腰にはサーベルをさしている。
「本物なの?」
「なにをいってる。こどものころ会ったろう?」
「記憶にないよ。あんた、誰?」
「わしはミュンヒハウゼン男爵。お前の父の親友にして、よき仲間、お前の名付け親でもある」
 洋一は顔を上げた。両親から、自分の名前をつけたのは、外国人だと聞いていたからだ。だが、洋一の頭ではミュンヒハウゼンの名が、いくつもの連想をともなって、ぐるぐると回っていた。
 ミュンヒ、ハウゼン。
「でも、ぼくその名前きいたことあるよ。家にある本に出てたもん」
「いかにも。わしこそがほらふき男爵」
「なにをいってんだ。父さんのともだちだって? じゃあなんでこんなときに仮装してるんだよっ」
 洋一は窓を開けた。十二月の冷たい空気がしのびこんできた。男爵の背後には、着物をめかしこんだ小柄な男が立っている。頭の上に乗っかっているのはちょんまげみたいだ。月代こそ剃っていないが、腰には刀を差している。
 最初の男はミュンヒハウゼンの仮装で、こっちは侍の仮装をしてる……洋一の心に、むらむらと怒りがわいた。しかも、男のわきには、洋一とおなじぐらいの年恰好の少年が、男と似たような格好をして立っていた。その少年も、おもちゃみたいな刀をさしている。
「誰だよ!」
 声がすっとんきょうに高くなった。
 ミュンヒハウゼンがふりむいた。
「彼は奥村左右衛門之丞真行。お前の両親の友人だ。あれは奥村太助と申すもの。奥村の子息である」
 洋一は怒りに身を震わせる。
「ぼくの父さんも母さんも死んじゃって、あさってには葬式があるんだぞ。ともだちならなんでそんなふざけた格好をしてるんだよ」
「お前こそずいぶんではないか」ミュンヒハウゼンは落ち着きはらって、鷲鼻の下のちょび髭をなでた。「ひさしぶりにあったというのに、ふざけたとはなんだ。お前を見つけだすのには苦労したのだぞ。しかし、お前の身に起きたことを思えば……」
 ここでミュンヒハウゼンは口をぽかんと開けた。
「その傷はどうした?」
 自分では気づかなかったが、洋一の姿はまったくひどかった。まぶたも唇も腫れ上がっているし、やけどをしたところは広範囲に炎症をおこしている。殴られすぎたのか、ろれつもおかしくなっていた。
「ここの院長にやられたんだ」
 思いだすだけでも悔しく、くちびるをかみしめる。ミュンヒハウゼンと奥村が顔を見合わせた。
「何者だ?」
 と、男爵は怒りを押し隠した声で(隠しきれていなかったけれど)言った。
「ここの院長だよ。団野院長。知ってて来たんじゃないの?」
 男爵は渋い顔をした。
「われわれは今日になってようやくこちらに到着したのだ。だが、一歩間に合わず恭一たちは救えなかった」
 洋一の頭で、またも疑問が渦を巻いた。その疑問は、心を締めつける荒縄のようだった。
 救えなかった――救えなかったと男爵は言った。両親は交通事故で死んだと聞いている。事故は突発的に起こるものだ。なのに、救えなかったとはどういうことだろう?
 奥村が、「男爵、そやつもウインディゴの手のものかもしれませぬ。急ぎましょう」
「ウインディゴってなにっ?」
 洋一はとうとう悲鳴を上げた。ミュンヒハウゼンと奥村がまた顔を見合わせた。「知らんのか?」と男爵は逆に面食らったようだ。
「知るわけないよ。ぼくはあんたたちのことだって知らないんだぞ」
 奥村が、
「ともあれ、ここから救い出しましょう」
 と言った。洋一は初めて奥村と目があった。気づかわしげな視線だった。それは、両親が彼にいつもかけてくれた視線だった。不覚にも、洋一は鼻っ柱が熱くなった。
「だめだよ、ぼく契約書にサインしちゃった。ここを出たら、ぼくは刑務所にいれられるんだ」
「なんの話だ?」とミュンヒハウゼン。
「契約書なんだ。院長にいわれたんだ。ぼくはこの養護院を出てはいけないし、ここのことを誰かに話してもいけない。ぼくはもう二度とここから出られない……」
 洋一が涙ながらに訴えると、男爵は怒りに身を震わせた。
「わしはお前の洋館に立ち寄り、お前はお前を保護する施設に入れられたと聞いた。わしは、お前がこの国とこの国の役人に保護されていると信じた。だが、来てみればどうだ。わが親愛なる友人の息子にして名付けの子は、痛めつけられ、目も覆わんばかりのありさま」
「でも、ぼく……」
「しっかりしろ洋一、人を保護する法はあっても、人を縛る法などないぞ。さしづめそやつはウィンディゴに支配されておるのだろう。だが、わしらが来たからには安心しろ。お前の身は必ずや守ってやる」
 その申し出に、洋一の顔はかがやき、胸は熱い思いでみたされた(ウィンディゴのことはさっぱりわからなかったけど)。洋一は目の前をじゃまするデスクを乗り越え、格子に近づこうとした。だが、そのとき、彼の背後で扉が開き、廊下の明かりが暗い物置に差しこんだ。

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