その三 ゲバラガットの予言
1
太助ネズミを頭に乗せて、下へ下へと降りていった。気温がドンドン下がっていく。ナーシェルの体も、さすがに息が切れた。全身が汗で濡れた。湯気まで噴いた。おかげで寒さは感じないが、太助の方がまいってしまって、革袋に隠れてしまった。
地底に降りたつ。上空の光は届かず、闇がいよいよ深くなった。空気は冷澱している。気圧が上って、呼吸すらしづらい。
上昇気流のかすかな風が、わずかに育った草木を揺らしている。鳥の鳴き声が、降りてくる。なんとも不気味な光景だ。
洋一は皮袋の棒を取りだすと、火うち石でどうにかこうにか明かりを灯す。足元にいた、昆虫やとかげが、さあっと逃げた。
地底はとても広かった。あちこちに苔むした石垣が見えた。大昔の遺跡のようだ。
洋一の目前に、洞穴が水平に伸びていた。
「洋一。この後は、どうなる」
太助が訊ねる。
「この奥に、部族の守り神がいるんだ。ゲバラガットってよばれてる予言者なんだ。そいつに会って、お告げを聞かないと。ナーシェルには使命がある。ここで村を離れて、旅に出る覚悟を決めるんだよ」
洋一はナーシェルを呼び出したのは、この国――木の葉の国――を統べる木の葉の女王なのだと教えた。
「木の葉の女王は、水晶で見て、枯れ葉の危機を救えるのはナーシェルだけだと思ったんだ」
「何の危機だって」
「枯れ葉だよ。木の葉の国の全ての植物は、南からどんどん枯れ果ててる。木の葉の国は、常春の国だったのに」
それというのも、お隣のブリキの王様が、常春のストーブを止めてしまったからだ。
「まずはミッチとネッチを探して、木の葉の女王に会わないと」
洋一は、ここでシングルハットの身の上を説明した。
こことは別の星で、ネッチというこじきと暮らしていたこと。そして、ミッチという、これは貴族の男と、虹の冒険号という船に乗って、旅に出たこと。
三人はそうして宇宙をたびたび旅行しているのだが、今回もトラブルが起きた。
虹の冒険号は、石炭を燃料に飛ぶ宇宙船だ。ところが、ネッチとの喧嘩で怒ったシングルハットは、その石炭を全てたいらげてしまった。結果、燃料不足に陥った虹の冒険号は、この星に不時着した……というわけだった。
「燃料の石炭を食うのか、このネズミは?」
太助はやや不安そうに腹を撫でた。
とはいえ、洋一も洞穴の奥がどうなっているのか知っているわけではない。それが本の世界の恐ろしいところだ。洋一は、ナーシェルが予言者に辿りつくまでの困難を、わずか一行で表現した。その間起こったことを、洋一は知らないのだ。
洋一は、大人達に押し付けられた皮袋を肩にしょって、右手の松明だけを頼りに真っ暗な洞窟を探るように進んでいった。
2
この洞穴の奥にいるのは、部族から亀(実際には、亀ではないが)とも呼ばれる予言者だ。洋一にとっては、旅の目的など今さら知る必要はないが、元の物語がどう変わってしまったのかは、知っておく必要があった。自分たちの身体がどこにあるのかも、うまくすれば聞き出せるかもしれなかった。
亀へと続く通路は、自然にできたものだった。曲がりくねり、上へ行ったり下にのびたりしている。脇道もたくさんあったが、いずれも岩や土を使ってふさいであり、一本道も同然となっていた。
進むほどに気温が上がった。
地下の暗闇に対して、松明の灯りはあまりに乏しい。その煙に始終いぶされるものだから、二人の体は(特に太助自慢の白い毛皮は――太助が自慢しているわけではないが)、煤けて真っ黒になってきた。
闇の中に人の気配を感じて、洋一は何度も振り向いた。ウィンディゴがまた出てくるのではないか、あいつがつきまとっているんじゃないかという不安を拭えない。右肩にのった太助の存在がなければ、恐怖に屈していたにちがいなかった。洋一は、弱気になっちゃだめだと自分に言い聞かせる。ウィンディゴは、精神が弱ったときに現れる。猜疑や嫉妬に怒り、弱い心が生み出すいろんな悪感情を、巧みについてくるやつだ。
太助がきいた。
「この場面は、何か事件が起こるように書いたのか」
声に不穏なものが混じっていたので、洋一はぎくりと立ち止まる。
「どういうこと?」
洋一が太助の目を覗きこむ。ネズミだから、黒目ばかりで、表情は少しも読み取れない――でも警戒の色を称えた目で、彼を見ている。
洋一は壁際によって、
「このシーンは」と話をはじめた。「ナーシェルが亀に会って、予言を聞くだけなんだ。それで成人の証は示される。ナーシェルは洞窟の奥にある泉で胸に成人の証を受けるんだ。(といっても大人たちが指につけた水で、彼の胸に印を書くだけだけれど。)事件は起きない」
「だったら、なぜ血の臭いがするんだ」
太助が、洞穴の奥に顔を向けていった。
洋一はヒッュと息を吸いこむ。彼の鼻には、何も感じない。でも今の太助はネズミだから、遠くの匂いが嗅げるのかもしれなかった。
洋一は洞窟の奥に顔を向けて、ジリジリとした声音で言った。
「亀に何かあったのかも」
洋一は少し小走りになった。太助は振り落とされまいと、肩にしがみついている。血の臭いは、もはや強烈なものになって、洋一にもハッキリとわかった。
「きっと予言を知られたくないやつがいるんだ」
洋一は足をはやめた。
太助が疑問を口にする。
「大人たちの中に、ウィンディゴの仲間がいるのかもしれない」
二人は顔を見あわせる。だったら、ここは袋小路だ。
洞窟は奥に進むにつれて道が広くなっていった。ゴオゴオと、水の流れる音がする。洋一は歩度をゆるめる。
体育館がスッポリ入るほどの空間が開けた。水音は耳をつんざかんばかりになる。
洋一が松明を掲げると、広場の奥に滝があり、地面にあいた亀裂に向かって、地下水を吐き出している。洋一が亀裂を覗き見ると、地下の川が小さく見えた。30メートルはありそうな絶壁である。
滝のことは描写した。滝のまわりに鍾乳石が棚田をつくり、七色に耀く水を称えている所も書いたはずだ。でも、こんな亀裂のことは想像した覚えすらない。
物語の変化に、付き合っている暇はなかった。亀裂の側では、血の海があり、予言者の巨体が横たわっていたからだ。亀――といっても、予言者は甲羅をしょっていない。軟体動物をおもわせるが、それは極端に太っているからで、わずかな距離なら二本足で歩くこともできた。ゴヅゴツした黒い肌はサンショウウオのようだ。目玉は黄色いはずだが、サメと同じく瞬膜をもっている。今は白い皮が降りたままだ。
松明をかかげる。でっぷりと肥えた腹に、刺し傷がいくつもあった。背中にも。血は止まっていた。血だまりは、傾斜をつたい、川になって、亀裂へと吸い込まれていく。
洋一はゴクリと唾をのんだ。松明を持つ手が震えている。亀のまぶたがあがり、濁った眼があらわれた。細長い瞳孔が洋一をみた。そして――
小さきものよ……
巨大なガマ口から、弱々しい声が出た。
洋一は一歩後じさる。
こいつ、息があるのか、といったのは太助である。
「ゲバラガット」洋一はおそるおそるゲバラガットの短い腕に手を触れた。「誰にやられたの?」
ゲバラガットは答えなかった。悲しげに顔をゆがませただけである。
「わしはもう助からん。この傷を見ろ」
ゲバラガットは咳き込み血を吐いた。岩にもたれ身を起こす気力もないようだ。
「予言の子よ。すぐに都に向かうのだ。木の葉の女王をすくえ」
「救え?」洋一の声は動揺で震えている。「救えってどういうこと? 女王の身になにがあったの?」
洋一は後ろを振り返る。誰か来る気配は、まだない。焦りでその目線は泳いでいた。これ以上奥には行きようがない。
「ぼくら、予言がほしいんだ。ゲバラガット、ぼくらのなくした物がどこにあるのかを占ってくれ! どうしても取り戻さないと。それがないと、女王だって……」
ゲバラガットは力なく、アーアーとうなり、体を揺らしている。
「わしはもう目が見えん」
そういえば、ゲバラガットはまっすぐに前を向いたままだ。
「わしの手を」
洋一は言われるまま、手を額に置いた。ゲバラガツトは血を失いすぎていた。手は、氷のように冷たい。洋一の焦りで熱された体と心を癒やすかのようだ。
ゲバラガットはしばらく呆けたように――あるいは死んでしまったかのように、みじろぎもしなかった。だが、その手がびくりと震えたかと思うと、表情が険しくなり、短いうなりを上げた。そして、
「こいつは予言の子ではない!」
ゲバラガットは激しく血を吹き上げながら、暴れ始めたのである。
3
「ゲバラガット!」
洋一はわめいた。ゲバラガットはナーシェルの髪をつかみ上げ、死にかけとは思えない怪力で振り回している。
太助が悲鳴を上げて転がり落ちた。洋一は、ゲバラガットの手を押さえて、
「ゲバラガット、落ち着いて! 話をきいてよ!」
だが、ゲバラガットは、こいつらは違う! こいつらは偽物だ! とわめき散らしている。
偽物だ!
「ぼくらは偽物じゃない!」
洋一はようやくゲバラガットの手を振りほどいた。
「ぼくらだってだまされたんだ! 確かに、ぼくはナーシェル本人じゃない! だけど……」
洋一は押し黙った。太助が足下に走ってきた。ゲバラガットはもう暴れていない。その手はだらりと体側にたれ、目は今度こそ力をなくし、灰色に濁ってしまっていた。
「ゲバラガット……」
洋一は恐る恐る手を伸ばす。ゲバラガットの手首をにぎるが、その短い腕はまるでトコロテンのようにやわらかくたれた。
「ああ、そんな」洋一は絶望の呻きを上げた。「だめだ、だめだゲバラガット! 僕らは予言を聞いてない!」
そのとき、洞穴の出口の方法から、無数の足音が聞こえた。
4
「まずいぞ洋一! 身を隠すんだ!」
太助が再び肩にのぼった。通路の奥は、松明の灯りだろう、明るくなっている。
洋一は、松明を谷底へ投げ落とした。ゲバラガットの側を離れ、岩を上へ上へと登っていった。棚田にたまった冷たい水も、今はまったく気にならない。
大人たちはすぐにやってきた。騎士たちとゴンドーラの男たちだ。
ゲバラガットの死体はすぐに見つかった。洋一は小さな泉に体をひたし、身を隠した。
「見ろ! 予言者が殺されているぞ!」
「ナーシェルだ、ナーシェルが亀を殺したぞ!」
大人たちを見下ろし、洋一は歯がみした。違う、ぼくらじゃない、と叫べたら、どんなにいいだろう。
大人たちは、あいつの様子はずっとおかしかった、とナーシェルを疑っている。武器も持たない子どもが、殺人を侵したことに、疑問すら挟もうとしない。騎士たちは落ち着いて、オットーワイドたちに口添えしている。だが、それは洋一と太助の不利になることばかりだった。
その間、洋一はずっと違和感をおぼえていた。この世界に来てからの騒動で、見落としていたことがあったのだ。
「何がおかしいかわかったぞ」と彼は太助にささやいた。「トランプ兵だよ。あいつらはトランプ兵じゃない」
いぶかる太助に洋一は説明する。
「女王の兵隊は、トランプでできてる。トランプに手足と頭がついてるやつだ。ぼくはそう書いたんだ」
「だが、あいつらは普通の人間だぞ」
「あいつらだよ」洋一は確信をこめた声で言った。「あいつらが偽物なんだ。この物語には、あんな奴らはいなかった」
「だが、どうする?」
洋一は、大人たちの声を聞こうと、棚田の峰になっている部分を音もなく移動した。
騎士たちの声がする。
「ゲバラガットの声が聞こえたぞ。あの子たちを偽物だといっていた」
「偽物なんてことがあるか」モヒカン頭が反論している。「ナーシェルは、我々の村からともに連れてきたんだぞ。どうやって入れ替わる。なぜそんな必要がある」
「あの子は普通の子ではない」騎士はマントをひるがえし、熱弁をふるう。「予言の子だ。幸いをもたらすとは限らない。枯れ葉の危機をもたらしたのは、あの子どもなのかもしれない! 女王は、あの子を幽閉するために呼び寄せたのかもしれんのだ!」
「うそだ!」
洋一は夢中で叫んでいた。大人たちの首がまわり、いっせいに彼を見た。「ぼくらは亀を殺してない! 偽物はそいつらの方だ! そいつらはトランプ兵じゃない!」
「剣だ!」と太助も洋一の頭にのぼっていった。「そいつらの剣を改めろ!」
「そうだよ! 僕らは武器をもってなかった! そいつらの剣には、血糊がついてるはずだ!」
騎士たちはハッとして、みな剣の束に手をやった。オットーワイドらはどよめき彼らもまた弓と槍に手をかける。
洋一はもう一度言った。
「女王の部下ならトランプ兵のはずだ!」
騎士たちが兜の面をあげた。洋一がそこに見たのは、闇に輝く深紅の瞳である。騎士たちの肌は真っ黒で、まるで干からびた死体のようだった。その裂けた口から飛び出たのは、聞くに堪えない怪鳥の叫びだった。電車のレールが奏でるきしみ音に似ている。ついに正体をあらわしたのだ。
二人がゴンドーラの男たちに襲いかかり、一人は洋一に向かってナイフを投げた。洋一は暗闇で見えなかった。太助に頭をはたかれて、慌てて身をひねった。ナイフは洋一の肩をかすめた。洋一は棚田の池に転がる。水飛沫が、天井から伸びる、鍾乳石に飛び散った。
その飛沫が戦いの皮切りとなった。闇の中で矢が飛び交う。騎士たちは剣と盾を掲げてオットーワイドらに迫る。
「オットーワイドは不利だ」太助は池から這い上がってブルブルと身を揺すって水気を落としている。「あいつら、普通の人間じゃない」
太助の言うとおりだ。闇の騎士たちの力は、人間離れしている。オットーワイドたちの簡易な槍は騎士たちの鎧に跳ね返された。
「みんな、殺されてしまう」
「今は逃げないとだめだ!」
5
水をはね散らかして、夢中で駆けた。
棚田から転げ落ちると、モヒカン頭とオットーワイドが松明をもってそばにきた。
騎士らにむかって、オットーワイドが吠えた。
「化け物め!」
部族の男たちは、騎士を囲み、勇猛果敢に戦っている。
オットーワイドは半数を率いてきた。時間はいくらも稼げそうにない。
「なにがあったのだ!」
「ゲバラガットは、虫の息だったんだ!」
三人と一匹は、洞窟の出口に向かった。
「予言は聞けなかった。でも、ゲバラガットは、女王を救えといってた」
「お前たちを逃がす。女王を助けに行け」
6
騎士たちは猛然と後を追ってきた。オットーワイドは、足止めを残しながら、外へと駆ける。櫛の歯が欠けるように、数が減っていく。出口まであと少しになった。洋一の側にいるのは、オットーワイド一人だ。
後方から、絶叫が轟く。二人は、足を止めた。
「もはや、これまでだ」
オットーワイドが、松明と腰のナイフを渡す。
洋一は、
「武器もなしに、どうするのさ!」
「わかっている」
オットーワイドは洋一を抱きしめ、その額にキスをした。
「さあ、行け。成人の儀式は果たされた。ゴンドーラの男として使命を果たせ!」
「オットーワイド!」
オットーワイドは呼び止める声にもかまわず、奥へと引き返していく。