ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

◆ 第二章 狂った物語と世界の真実

 

□   その一 三人の新しい仲間と、牧村一家の役目のこと

○     1

「おい、起きろ」
 奥村が刀のこじりで、団野の肩をついた。
「狸寝入りなどしおって。貴様、洋一に書かせた契約書をどこに隠した」
 洋一は、まだ団野に息があったことに驚いた。
 奥村につめよられると、団野は抵抗する気力もうせたようだ。奥村は細身ながら、その身ごなしは、いかにも武術で練りあげたらしい、無駄のなさと切れがあった。
「暖炉の上の金庫にある……」
 と団野は言った。口元から、大量の血液がこぼれ落ちた。酔っていることも手伝って、血が止まらないものらしい。胸元を血で染めながら、奥村にひったてられた。
 洋一は、あたりに立ちこめる血の臭気に、団野にたいする恨みの気持ちも忘れた。彼の人生はいたって平穏で、身のまわりでおきた暴力と破壊の結果に、ついていけなかったのだ。
 三人は団野の惨憺たる様子にも顔色ひとつかえていない。みんなこういう光景になれているんだろうか? と洋一は思った。気後れから、リビングに向かう一行とも、距離を置いた。
 団野は院生に内職をさせ、こつこつと金を稼いできた。リビングの調度は、デスク、絨毯にいたるまでかなり豪奢なものだった。カーテンひとつにいたるまで、ずいぶん金をかけているようだ。
 大柄な暖炉をつくり、その上には壁をくりぬいた金庫があった。団野がダイヤルをまわし金庫を開けると、札束やダイヤがみえた。かなりの量だ。そのうえに、院生に書かせた契約書の束が、クリップでとめられ乗っかっていた。団野は契約書を男爵にてわたすと、暖炉の前にすわりこんだ。
 ミュンヒハウゼンはしばらくその契約書をパラパラとめくっていたが、やがてびりびりにやぶくと、暖炉にほうりこみ火をつけた。暖炉のなかで、契約書はこれまでの院生の苦しみをあらわすように、身をくねらせ真っ黒になる。紙は灰になり、団野のかわした契約も反故となった。
 団野はその間、ぐったりとうなだれたまま、男爵の方を見ようともしなかった。ひとつには、あごが砕けて、しゃべることもおっくうであったのだ。
 ミュンヒハウゼンは、真っ黒な墨とかしていく契約書をみつめながら、団野にむきなおり、
「これが本物であろうとなかろうと、紙切れで人を縛ることなどできはせんぞ」
 とおごそかに言った。この後、男爵はさまざまな事柄を告げては洋一を悩ませることになるが、このときの振る舞いだけはまっとうだったといえる。
 団野は、一瞬、ミュンヒハウゼンをにらみあげたが、すぐにそっぽを向いた。
「貴様、他の院生にもおなじことをしておるのだろう。一人前の男のくせに、弱い者いじめなどをしおって、恥を知れ」と言った。
 それから洋一にむかって、
「たとえ契約が本物だろうと、無法な法にしたがうことなどはないのだ。社会の法がいかに必要だろうとも、人は魂に法をもっておる。魂の法とは名誉なのだとわしは思う。人の名誉尊厳をおかす権利など、神にとてありはしない」
 男爵はふさがっていない方の目で、団野をにらみつけた。
「貴様が正しいと思うのなら、わしはこの子の洋館におるから、いつでもかかってこい。わしのこの身と名誉にかけて相手になるぞ」

○     2

 団野の家を出たとき、洋一はまさに十何年の刑に服した囚人の気分だった。外はまだ夜で、事故の起こった夜のままで、だけど彼には十年ばかりの月日がたったかのように感じられたのだ。この夜は実にさまざまなことが起こり、そのたいていのことが彼にとっては初めての経験ばかりだった。だけど、彼の中でまったく色あせることなく燦然と輝きつづけていたのは、両親を亡くした悲しみという感情だった。
 洋一は団野の庭に立ちつくし、しばらくあたりを見回した。男爵たちは無言で洋一の言葉を待っている。ミュンヒハウゼンは来たけれど、彼の両親は来ていない。吐く息がいやに白く、洋一はそのことにすら悲しみを感じた。
 空を見上げた。悲しみは去らなかった。新しくできた三人の仲間の方を向き、無言で話のつづきをうながした。
 男爵はゆったりと足を踏みかえながらきりだした。
 その大筋はこうだ。洋一の両親、牧村恭一と牧村薫の二人は、ただの私設図書館の職員なのではなく、本の世界をまもるための番人だった。彼らは世界中から初版本を集め図書館に保管していた(どうりで古めかしいへんてこな本ばかりあるわけだ! 大昔の作家の生原稿まであったのだから!)。
 そして、男爵はこういうのである。いま、世界の人たちは本を読まなくなり、物語は力をなくし、その世界は崩壊しかかっている。ある本では話の筋が完全に狂い、善人が悪人となっている。登場人物たちの多くは目的意識をなくし、役割を忘れさっている……。
 ちょっと待ってよ、と洋一は言った。「本の力とか、本の世界とか、どういうこと?」
「だから本の世界があるのだ。お前の両親は……」
「じゃあ、男爵は!」と洋一は大声をだした。「本物のほらふき男爵だって、そう言ったじゃないか!」
「そのとおり」
「じゃあ、もしもだよ」と洋一は急きこんだ。「もしもその話がほんととして、だったら男爵は本の世界の住人ってことになる」
「そのとおりだ」と男爵は重々しくうなずいた。「わしはもともとがほらを吹くという人物だ。余人とはちがい、創造の力をもっておるのだ。つまりは、物事を生みだす力だ。だから、物語の世界と中間世界を行き来することができたのだ」
 洋一は言葉をなくした。ようやっと、「中間世界?」と問いかえした。
「本と現実世界の中間にある世界のことだ。中間世界は現実の人々の思考の力、意識の力でできておる……とわしは思っておる」
「勝手に思えばいいじゃないか」と洋一は言った。その唇は震え、瞳からは涙があふれだしていた。「勝手にすればいい。本の世界とか、中間世界とかわけのわからないことをいうな!」と彼は言った。「ぼくは両親のことが知りたいんだ。父さんと母さんがなんで死んだのか知りたいんだ。理由なんかなくたって知りたいんだ! それなのに、わけのわからないことをいうな!」
 と彼は言った。彼の言い分は理不尽なものだった。運や不運というものは元来わけのわからないものだし、洋一の両親が事故で死んだのだとするのなら、そこには男爵の知る理由などあるはずはないのだから。
「洋一」
 と男爵はなだめるように手を伸ばしてくる。彼は後ろに躙り下がってその手をかわす。
「よいか、中間世界では狂った物語の影響が如実にあらわれておる。彼らは中間世界の住人なのだぞ」
 と改めて奥村たちを紹介する。
 本の世界というだけでも信用できないというのに、この中間世界というのも洋一の理解を苦しめた。それらの世界は、これまでとこれからの人々の記憶や感情の力で形作られていて、その意識の質により、いくつもの世界にわかれている。中間世界は中つ国とも呼ばれていて、たとえば、奥村親子たちがやってきた世界は、夢と冒険の中つ国と呼ばれているし、ウィンディゴが支配しているのは悪の中つ国である。三人は次元をわたる機関車にのって(江戸時代に奥村の先祖がつかったものらしい。ひどく骨董めいた話だった。)現実の世界にやってきた。しかし、時すでに遅く、牧村夫婦は命を落としたあとであり、たった一人の子息は役人によりつれさられたあとだった。
 洋一はますます頭が混乱した。目の前にいるこの男爵が、体温を感じ、血をながしているこの男爵が本の登場人物にすぎないなんてそんなことがあるはずがなかった。洋一はこれまでなんどとなく本を読んできたが、物語の筋が狂っていたことなんていちどもない。
「さきほどからもうしているウィンディゴとは」男爵はさらにいう。「おそらくはわしと同種の……創造の力をやどした人物のはずだ。あやつは悪の登場人物をしたがえて日々力を増しておる。自分たちの都合のいいようにストーリーをねじまげておる。悪の中間世界を支配し、別の世界に影響をおよぼしておる」
 奥村が言った。「我々はウィンディゴの勢力と戦ったが、力およばなかった」
「そこで我々は本の世界をたてなおし、すこしでもウィンディゴの勢力をそごうと考えたのだ」
 ほらふき男爵は本の世界をとびだし、本の世界の救済にのりだしたが、そんななか、長年本の世界をまもりつづけた洋一の両親は、ウィンディゴの手により殺される。洋一の両親は世界中の初版本だけではない、伝説の書物をもっていて、本当はその本をまもることこそが役目だったのだ。伝説の書は、書かれたことを現実にしてしまう力を持っている。そしてそれをつかえるのは、ゆいいつ創造の力をもつ現実世界の人間だけなのだ……。
 洋一はなんとか反論しようとした。本の世界などないし、次元をわたる機関車もない(そもそも別の世界というもの自体がないのだ)。文字はちゃんと紙に印刷されているのだから、それが初版本とはいえ、話が変わってしまうなんてこと自体がありえない。が、男爵も奥村たちもそれが当然の事実であるかのように話し、洋一との会話は、ある、ない、の堂々巡りにおわってしまう。
 洋一はこの三人は頭がおかしいんじゃないかと疑った。男爵も奥村も根っからの善人なのだとは思う。まっすぐないい人たちなのだと……。だけど、あの格好としゃべっていることを考えると、団野に負けないぐらいの気ちがいとしか思えない。
 自分をだましているのならまだいい、始末に負えないのは、この三人が自分の主張を芯から信じていることだ!
 たとえ善人でも、気の触れた人はいるにちがいない……。
 洋一は男爵の話をよくよく考えようとした。矛盾をというよりは、ちょっとでも信用できそうな部分を探そうと努力した。だけど、そもそもが荒唐無稽な話すぎて、受け入れようにもとっかかりすら見あたらない。洋一は男爵のことを信じたい気持ちと、そんなばかげた話はありえないと叫びだしたい気持ちとで、はちきれんばかりだった。洋一のまわりにはゲームも映画もふくめて(ちくしょう漫画もだっ)作り物の話ならごまんとある。そして彼はそれが作り物だと知っている……。物語の種は出尽くしたといっていいほどだし、いろんなことに説明がついてる。つまり不可思議なことを受けいれる下地は、彼の心から消えかかっていた。その意味で、人が本を受けいれがたくなっているとはいえる。だからといって、出来物の本が狂ってしまうだとか、この現実以外にも、いくつも世界があるだとか、それも本の世界だとかいう話はまったく受け入れがたかった。彼はこの三人は頭がおかしいんじゃないかと思いかけた。死んだ両親の知り合いのことをそんなふうに思うなんて、彼の良識(それが小学五年生の良識とはいえ)が許さなかったが、そもそも自分の親の知り合いだという話自体が怪しいものだった。
「だが、今後をどうするのだ」
 と男爵は言った。洋一の怒りに初めて揺らぎがさした。
「わしとしては、残ったおぬしの力を借りたい。もはやここに残るわけにもいくまい。役人の世話になるというのなら、それでもいいが……」
「家に帰る。あそこはぼくの家だ!」
「それでもよい。家に帰れば、なにが起こっているかはハッキリするからな。だが、お主あまり気を抜きすぎて怪我をするなよ」
 よけいなお世話だ、と洋一は思った。

○     3

 洋一はふるさとの洋館に向けて、暗い夜道を歩いていく。住宅街を抜けるせまい路地だった。さほど高くもないブロック塀が無表情につづいている。街灯の明かりが四つの影を、たがいちがいに伸ばしている。洋一は街路にみおぼえがあった。自転車でなんども通ったことがある。近くには押尾琢己というともだちの家があるはずだ(タク、タク、とともだちは呼んでいる)。とすると、あの養護院はおなじ町内にあったわけだ。
 さて――
 洋一こそ救うことができたが、恭一と薫の二人が死んだいま、一行の足取りは重いものであり、陽気な気配はどこにもない。奥村が洋一の手をひき、くたびれきった男爵を太助が支えている。だが、一行のなかで、もっともくたびれきり重い足を引きずるように一歩一歩足を進めていたのはきっと洋一だったろう。
 彼は今日起こった出来事と、さきほど男爵から聞かされた言葉とをいくどとなく反芻した。痛めた足をひきずりながら歩き、いまごろ寺勘たちはのんびり眠ってるんだろうなあと恨みがましい気持ちで考えた。寺勘こと寺内勘太郎は、クラスでも一番の親友だった。養護院を逃げだしたことで、もとの学校にはもう戻れないだろうし、とすると寺勘たちにも二度と会えないわけだ。そもそも彼の人生がこれからどうなるのかすらわからない。それなのに、男爵ときたら……(洋一はこの老人のことを男爵と呼ぶことすらいやだったが、ほかに呼びようがないのだから仕方がない)。
 洋一は両親の死とあんな養護院に預けられたショックでほとほと弱り果てているのに、あんなばかげたつくり話をきかされて、腹が立つやらすっかりうちひしがられるやらで頭のなかがくらくらした。男爵のことを一端は信用したのだが、その気持ちが消えかけたほどだ。
 洋一はいつの間にか奥村の手を握りしめている。奥村が不審そうにかえりみた。
 不審といえばこの奥村自体が不審だった。彼は本物の侍で、号を休賀斎ともいうらしい。彼は幕末に中間世界にわたった日本人の子孫だそうだ(少なくとも彼らの頭のなかでは、と洋一は皮肉めいた気持ちで考えた)。曾々祖父は幕府の御家人だったそうで、上野の戦争で負けたあと、仲間とともに中間世界にわたる町人たちのなかにまぎれこんだのだという。
「傷は痛むか」奥村が言った。彼はゆったりとくつろいだ様子の中にも目つきだけは鋭く、いかにも剣の達人といった風情があったが、つないだ手はいかにも柔らかく暖かだった。低く落ち着きのある声色で、そのいたわりのにじむ声を聞いていると、こんな人たちのいうことは信じるもんかと気をはる洋一も、ほろりと涙をこぼしそうになる。
 奥村は、身長は百六十センチのなかばほどで、彼の父親の肩ほどしかない。背格好まで、昔の日本人そのままだった。
 奥村は思いをめぐらすように、天に首を仰向ける。彼はこちらの世界にはじめてきた。中つ国とはずいぶんちがうようだった。
 奥村は言葉を選び選びして話しはじめた。「君の父上とは、こどものころあったぎりだったよ。わたしは久々の再会を楽しみにしていた」と湿りを帯びた声で言った。彼は今三十七才で、恭一と出会ったころにはすでに元服をおえていたそうだ。そのころは中つ国とこの世界の通路はあちこちにあった。恭一は父親に連れられてなんどか中つ国を訪れていた。だが、その通路がウィンディゴの手により封じられたあとは、恭一の消息は男爵のもたらす風聞によるばかりだった。奥村は年の似た息子たちを引き合わせようと考えていたが、自分が恭一に会うことは二度とふたたびなかったわけである。
 奥村は気を取り直すように肩をゆすり、こうきりだした。
「こどものころの恭一は気が強くてな。わたしはすでに剣術がそうとうつかえたんだが、恭一のやつは関係なく突っかかってきてな。向こうみずで、考えるより先に行動しては、あとで困ってな」
 奥村は思いだすようにかすかに笑ったが、その笑いもじきに涙にまぎれてしまう。
「だが、勇敢で正義感の強いやつだった。わたしはあいつが大好きだった。会えなくなったそのあとも。わたしとあいつは血を分けた義兄弟だ」
 洋一は驚いて言った。
「親指の傷のこと」
 恭一の指には一文字の傷があり、こどものころともだちと兄弟の誓いをかわしたときに作ったのだといっていた。親類はいないが、血を分けた義兄弟がいるんだと。だから、家族の誓いのために親指に傷をつけた団野のやり方は、洋一にとっては他人以上に信憑性のあることだった。
 奥村は軽く驚いたように洋一をみおろした。「そうだ。あいつの指にも残っていたか」
「強い思いのこもった傷はな、なかなか消えんのだ」
 と男爵がぶっきらぼうに言った。
 奥村はまた前を向いて歩きはじめた。
「よくあちこちを冒険したなあ」
 洋一にはその冒険の内容まではわからなかったが、こどものころの父親の姿がほんの少し覗けた気がしてうれしかった。恭一は本好きで穏やかな人だったが、こどものころはそんな一面も持っていたのである。
「紹介が遅れたが」奥村はやさしげに微笑した。「あれはわたしの子息。奥村太助だ」
 左隣を歩く少年がぺこりと頭を下げた。一つ年上ということだった。洋一より二ヶ月遅い八月生まれだ。父親とおなじ直新陰流を習い、こんどの旅にくっついてきた。
「わしらは恭一の力を借りるつもりじゃった」男爵が肩を落として言った。「洋一よ。ウィンディゴはまったくやりたい放題じゃぞ。中間世界との通路はあらかた閉じられてしまうし、使えるものもわしらにとっては危険すぎる。骨董の機関車をつかってやっとこの世界に来れたのだ。新陰流の使い手もほとんどやられてしまったぞ」
「わたしの仲間だ」と奥村が言った。
「わしらは狂った本の世界をすこしでも元にもどし、ウィンディゴの勢力を少しでもそいでおきたかった。だが、やつらはわしらの行動を読んでおるようだ」
「母さんは? 母さんも中つ国に行ったことがあるっていうの?」
「なにをいっとる。お前の母親はもともと中つ国の人間ではないか」
 洋一はあきれて口を開けた。だけど言葉が出てこなかった。彼は奥村に手を引かれて後ろ向きに歩いている。その視線の先で男爵はひどく落ちこみ、見た目以上に年老いてみえた。
「母さんは、母さんはまともだった」
「あたりまえだ」
 洋一はふと思いついたことを急いで言った。「戸籍は? 生まれたら役所に登録するもん」
「そんなものはなんとでもなる」
 そんなばかな、と洋一は思った。奥村が常識人(のように見える)だから、ついほだされそうになったが、やっぱり男爵のいっていることは異常だった。おかしいよ、そんなの、と洋一は小声でいいかえした。
「なら、母親の祖父母はどこにおる。お前は会ったことがあるのか?」
 母方どころか両親のどちらの祖父母とも会ったことがない。そもそも血縁がまったくないから、養護院に預けられたのだ。洋一は黙ったが、男爵のいっていることにはまったく納得できなかった。そもそも、祖父母がいないことと中つ国や本の世界のことは関係がないのである。
 洋一は男爵にたいして恩義があった。これから養護院に閉じこめられて生きていかなければならないと信じていたから(それも十年だ!)男爵が院長を倒したときの感動といったらなかった。だけど、自分の両親が本の登場人物に殺されたと聞かされては黙ってはいられない。
 男爵は本の世界云々の話以外は、いっていることはまっとうだった。彼の口振りは端々から誠心を感じさせるものだった。洋一はその矛盾に苦しんだ。そもそもミュンヒハウゼンとは、ほらふきを生業としているのである。これらの話自体がほらであってもおかしくはない。洋一は本物のほらふきは自分のうそを信じることができるという話を聞いたことがある。嘘発見器にも引っかからない人間がいるのだ。男爵もそのたぐいの人なのかもしれない。
 このままついて行っていいのか迷った。だけど、相談すべき人が今はいないのだ……。
 洋一はこれからの身の振り方を決めるにあたって本当に迷った。せめて担任の阿部先生にだけでも相談したいと思った。男爵がまともならすぐについていってかまわない。団野の元を離れ、もといた洋館に戻れるのなら、なんだってしただろう(後に残る院生のことを思うと、気の毒でならなかったが)。
 結局、洋一が男爵に手を貸すことにしたのは、彼の話を信じたからではなく、生まれ育った家に帰りたいという一心だった。断ったところで、洋一には養護院での暮らししか残されていないのだ……。
 洋一の両親がどうやって殺されたのか、それは男爵にもわからないということだった。
 月は沈み、星は消えた。夜は朝に変わろうとしている。洋一は、白い息を薄靄に吐き出しながら、ここまで誰にも行き当たらなかったのは、幸いだったなと考えた。それから、両親が事故にあったのはどこなんだろうと考え、また涙をにじませるのだった。

○     4

 それから歩くこと一時ばかり、洋一はついに図書館のたつ小高い丘の森を目にした。その山は針葉樹の深い緑を基本としている。一行は洋館へとつづく、さほど道幅のない曲がりくねった坂道を見上げて立った。空気は冷え冷えとして靄も出ている。日が昇りきるまでは、まだまだ時間があった。車が通るには狭すぎる道が、丘の上の屋敷まで曲がりくねって続いている。少し高いビルに登れば、町のどこからでもその屋敷は見えたから、利用者が少ないわりに名前だけは知られていた。
 その森が両親のものなのかはわからなかったが、ほとんど手入れはされていなかった。道は一応舗装され、コンクリートの路肩もちゃんとある。対向車両が来ると、徐行して通るのがやっとだった。交通の不便はあるが、静けさだけは一等地であったから、その昔は利用者も多かったらしい。
 洋一はこの坂を、そのさほど長くもない人生でなんど上り下りしたかわからない。坂の袂で丘を見上げながら、まるで十年ぶりに生まれ故郷にもどってきたかのような、そんな心持ちだった。道の脇に生える下草にさえ、懐かしさを覚えた。
 洋一は友人たちとピストルごっこをし、山を駆け回り、カブトムシを捕ったりしたことを思いだした、繁殖のために、古畳を拾ってきたこともあった。あれはどこに隠したんだっけ……。
 秘密基地を造り、キャンプをし、焼き芋を焼いて、鳥の巣を作った。この山はこれまでのかれであり、これからのかれでもあるはずだった。両親の、死さえなければ……。
 男爵は疲れた体に鞭打った。「さて、もうひとふんばりだ」

○     5

 男爵は洋館へとつづく道々、なんとか洋一を訓戒しようとした。洋一はそれが宗教家の述べる信条よろしく、仲間内でしか通用しないばかげた戯言としかとることができなかった。
 洋一は黙って話を聞いている太助を不思議に思った。二人はほとんど話をしていない。
「君はどう思ってるんだよ? 本の世界に入れるとか、そんなこと本気で信じてるのか?」
 洋一の声はいささか挑戦的になったが、これはいたしかたない。
 太助は洋一の言葉にかすかに眉根を曇らせた。「わからない。ぼくも本の世界には入ったことがないんだ」
 洋一は男爵に、ほらあ、という顔をしてみせた。
「無理もない。信じがたいという諸君の気持ちは、わがはいがいっとうよくわかる。なにせ、そんな反応にはなれっこだからな」
 さもあろう、と洋一は思った。
「だが、お主たちの気持ちとこれから降りかかるであろう苦難は無関係なのだ。城にさえつけば、なにが真実かはじきに明確になるだろう。そのときにこの話を信じず気を抜いて敵の計略にかかったとして、そんなときに相手は容赦などしてくれん。一流の剣客たちですら命を落とすような危険な輩が相手なのだ。腹だけは屹度かかえて、覚悟してくれ」
 太助が、本の世界のことはともかく、ウィンディゴはほんとにいるし、中間世界はほんとにあるんだ、と言ったから、洋一はますますふさぎこんだ。どうやら味方はいないものらしい。
 洋館までの道には外灯すらない。森閑としていた。夜は明け始めていたが、鳥の声すらしなかった。洋一には通い慣れたその道が、妙に禍々しく見えたのだった。

○     6

 その洋館は巨大な建築で、小規模ながら三階建ての、立派な城の様相を呈していた。二階と三階には立派なバルコニーがある。西洋の城と聴くと、誰もが連想するような鋭角な尖塔が三本ばかり。正面には三メートルばかりの巨大な門をようし、中に入るとすぐは、舞踏会が開けるほどのりっぱなホールがあって、奥にはスロープの階段が二階までつづいている。
 個人が持つにしてはいささか大仰すぎるほどで(恭一の愛車はボロのサニーだったし、牧村家はじっさい慎ましやかな生活をしていた。)、事務処理に来ていた役場の職員は(男爵たちは彼らに洋一の居所を聞いたらしかった。訊きだすには骨がいったことと思われる。)ここを結婚式場にでも変えてはどうかと冗談口を叩いたほどだ。日本で造られたというよりは、ヨーロッパの古城を移植したといった方が想像しやすいかもしれない。
 その城がいつできたのか知っている人は一人もいなかったし、ゆいいつ知っていたと思われる洋一の両親は死んでしまったのだから、なんとでもいえるわけだ。男爵ならばいろいろと知っていることも多かろうが、洋一はもうこの老人のいうことに聞く耳を持つ気がしなかった。後々には事情が変わるわけだが……。
 屋敷の内訳はこのような形である。部屋は大小三十を数え、トイレは一階と二階にふたつあり、ほとんどの部屋が本で埋まっている(トイレもふくめて)。洋一の部屋と両親の部屋は二階にある。ともだちが来たときにつかう部屋は、一階の玄関の右側。開けると庭に出られる大きな観音扉がついているから冬場は寒い。もちろん個人の部屋にも本がたくさんある。
 通路にも各個室にも羅紗地の高価な絨毯をひいていて、これだけでも図書館の値打ちは高かった。高級な暖炉があちらこちらにあったし(それこそ院長宅の暖炉など比較にならない)、天井を支える柱は本物の大理石。図書館という体裁があるとはいえ、親子三人が暮らすにはあまりにも広すぎる。このため洋一は、三階にはかくれんぼにつかう以外は、ほとんど行った試しがない。
 おかしなことは、その図書館の書物が、あらゆる国の言語で集められていることだ。洋一の両親はフランス語の部屋、英語の部屋と整理してはいたが(もちろん日本語の部屋がもっとも蔵書豊かだが)これでは利用者がふえないのも当然といえた。こうした事情も、洋一が男爵の言葉をまるきり否定できない要因のひとつだった。日本にある日本の図書館で、外国の客などめったに来ないのに(なにせ日本人すら来てくれないのだから)外国語の書物を集める理由がないのである。洋一は以前から不思議だった。図書館には作家の生原稿を集めた部屋もあって、結構値打ちものと思われるこれらの品々をどうやって集めてくるのか実に不思議だった。それに、男爵が話していた伝説の書――洋一はそれとおぼしき本の在処を知っている……。
 一行は朝靄を抜けて鉄格子の門をくぐった。空はまだ明け切ってはいない。地面の土は朝霜で氷り、踏むとパリパリと音を立てる。その薄い日射しともいえない日射しの中で、苔むした白亜の洋館を見上げたとき、洋一は百年ぶりに凱旋した兵隊のように、妙に感傷的な気分になった。この図書館だけが変わっていないことに(敷地に生えている草の数すら変わっていないことに)妙に不思議と感動したのだった――出発したのは、この晩のことだったのだから変わっていなくても当然だったが、彼の体内時計はずいぶんと早回しを行ったようで、この一晩が十カ年にすら感じられたのだった。そして洋館は自分の凱旋を喜んでいるようにさえ見えた。
 洋一は、今にもこの窓の明かりがついて、心配した両親が飛び出してくれたらいいのに、と思った。そして、長い坂道にこそ辟易しながらも、自分がこの図書館をどれほど深く愛していたかに気がついた。へんてこな部屋、へんてこな書物、へんてこな両親を愛していた。どれもが彼の自慢の種だった。
 洋一は二人に会うのは無理なんだという気持ちと、もしかしたらという期待を、胸でせめぎ合わせながら、玄関の階段に近づいた。脇に回ると、左から三つ目、下から三番目のブロックに手をかけた。そのブロックを揺り動かすこと数度、ブロックが石垣から外れた。洋一はそのあとにできた空洞に手を差しこみ、冷たく冷えた鍵をとりだした。ふりむくと、三人に震える声で言った。
「あった……」
 もしこれまでの人生のなにもかもが変わったのなら、この鍵もなくなっていて、もう洋館には二度と踏みこめないだろうと覚悟していた。だから、その合い鍵の存在は、洋一の肺に朝のすがすがしい空気を送りこむように、胸にあったかすかな希望をふくらませた。
 洋一が、泥で汚れ朝露に濡れる合い鍵を、大事な戦利品のように掲げてふりむいたとき、洋館ではすべての部屋で明かりがつき、何万人という数の人間の声があふれ出してきた。
 洋一は図書館をかえりみた。玄関の階段をふらつく足で下りながら。明かりのついた窓を見た。見慣れた厚手の本が、ボールのように横切るのを見た。ガラス越しに、空を飛び交う本の姿を、確かに見た。
「誰かいる……」と洋一が震える声でつぶやいたときには、ミュンヒハウゼンと奥村は鋭く剣を抜いて、洋一と太助の背後にきていた。男爵が厳かな声で、こうつぶやくのが聞こえた。
「すでにはじまっておる。見捨てられた書物が、怒り狂っておるぞ……」

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