ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

□  その三 呪われたこどもたち、伝説の幕を下ろすこと

○     1

 奥村がロビンと共に立ち去ってしまうと、洋一と太助のいる地点はちょうどブラックスポットのように戦場にぽっかり空いた空白地帯となってしまった。後方では城門付近からの火災が、激しく天を焦がしている。その火に照らされて死兵と騎士たちが激しく対立するのが見えた。
 その空白地帯にはときおり路地裏から死兵が迷いこんできた。二人は油樽を積んでいた荷車の下に這いこんだ。
「洋一、ここでも書けるか?」
「うん。紙は見えるよ。早くしないとウィンディゴがこっちに来るかも……」
「だけど、洋一、いいのか?」と太助が訊いた。洋一は顔を上げた。「その手にアーサー王を呼びだすということは、君がエクスカリバーを持つということだぞ。エクスカリバーを使えるのか?」
 太助は本気で心配している。それに多少困惑してもいた。剣を振るう洋一が想像できないのだ。洋一は茫然自失となった。とっさに太助ににじり寄り、服をつかんだ。
 太助は首を左右に振って、「ぼくは駄目だ。ぼくではエクスカリバーを持てないじゃないか」
「ぼくは剣術が使えないじゃないか」
 太助と洋一は荷車の下で激しく見つめ合った。二人は困りきって今にも泣きそうな顔をしている。やがて、太助は硬い表情をとき、
「アーサー王を信じよう。きっと力を貸してくれるはずだ」
 でも、つかうのはぼくの体じゃないか。と洋一は思った。腕力も体力もふつうの小学生だ。いや平均以下かもしれない。モルドレッドどころか、普通の兵隊にだって勝てやしない。
 洋一はそのことを伝えようとしたが、そのとき地響きがして、荷車も地面も激しく揺れた。ひときわ巨体の死兵が、荷車のすぐ側を歩いているのだ。
 太助は大刀を納め、脇差しをそろそろと抜いた。彼なりに死兵と戦う覚悟を固めたのだ。こんな場所で楽々と納刀をすませるのだから、父親に劣らず大した腕だった。太助は囁いた。
「洋一、ぼくもあんなやつの首は刈れない。父上を助けたいんだ」と肩をつかんだ。「書いてくれ」
 自分が無理を言っているのはわかっていた。けれど、彼も必死だったのだ。
 洋一はほとんどやけくそになって、固い路面に伝説の書を広げた。万年筆をポケットから引き抜いた。その硬い芯先は、彼の人肌で温かくなっている。けれど、彼が王都で見た人々の肉塊とおなじ命運を辿るのならば、この父の形見だって温かくなることはないだろう。
 洋一は吐き気と戦い頭を振って恐怖心を追い払いながらも、だめだこのままじゃ失敗する、と思う。だって彼は恐怖に負けてる、心を鎮めていない。文を書くための、自在を得ていないのだ。
 駄目だ。殺されるかもしれないなんて考えるな。これからのことは忘れろ。
「太助、太助、ぼくの側にいて。ぼくを守って欲しいんだ」
 太助は先ほどよりずっと強く、洋一の服をひっぱった。
「そんなの当たり前だ。刀にかけて、父上にかけて誓うとも」
 洋一はようやく顔を上げてうなず。恐怖よりも感動が先に立っている。けれどその目は暗闇でもはっきりとわかるほどに濡れている。
 洋一はなんどか目を瞬いた。アーサー王は確かに死者の島にいる。だけど、モルドレッドが洋一にくっついてアヴァロンに現れたということは、逆も可能ということだ。
 洋一は祈るような気持ちで文章をしたためる。
『アヴァロンにいたアーサー・ペンドラゴンは、エクスカリバーをロビン・フッドに託しただけではなかった。彼は自分自身で闇の皇子と決着を付けるつもりだったのだ』
 太助の見守る中、伝説の書は文を吸いこみはじめた。洋一は自信を得て――無意識に息を吸いこむ、胸が思い切りふくらんだ――書いた。
『アーサーは、洋一の右手の痣に巣くったモルドレッドを追い払ったとき、ある仕掛けをしておいた。闇の男を追いだした後、洋一の魂にぽっかりと出来た空白、そこに自らの魂を滑りこませておいたのだ。今彼は洋一の右掌に棲んでいる。洋一の体を喰らい尽くす死の呪いとしてではない。こどもたちを救い、三度イングランドを救済するためだった』
 洋一はそこでピタリと動きを止めた。万年筆のインクはスルスルと染みこんで、彼の書いた文章は薄くなり消えつつあった。洋一は右手を見おろす。
 太助が心配をして、「もう終わりなのか? そこまででいいのか? もっと――」
「ちがう、右手が、ぼくの手……」
 洋一は万年筆を取り落とし、それを左手で素早く受けた。太助が右の手首をつかみ、掌をひっくり返す。「肉腫だ」
 洋一は骨を押しのけ、肉を裂く激痛に絶叫した。大粒の汗をにじらし、口端からは涎が垂れている。手が真っ赤に腫れている。膿がどんどんたまるみたいに、掌が盛り上がってくる。血流がそこへと流れこんで、視界が一瞬暗くなった。ブラックアウトだ、と彼は思う。言葉が頭蓋をくるりと回って彼の脳神経をつついて回る。意識が遠くなる――背を荷台に打ち当て、頬を地面に打ちつけのたうちまわった。
「洋一、駄目だ、静かに……」
 太助の言葉もそこまでだった。声を聞きつけた化け物共が走り寄ってくるのが見えたからだ。
 荷車はまるでおもちゃのように軽々と宙を舞い、二人の体は剥き出しとなった。洋一は手首を押さえてまだ苦しんでいる。太助は威嚇に刀を煌めかしながら、彼を立たせた。
「洋一、走れ! ロビンの所に!」
 そういう間にあちこちの窓から死兵が飛び降りてきて、その醜さにも関わらず華麗に降り立つ。道にいる化け物の数は増えていった。先頭にいた死人が猿膊を伸ばすが、太助は腰をひねり、かろうじて躱す。二人は一散に駆けだしたが、死人らは辺りの物を蹴散らかしながら後を追ってくる。
「追いつかれる! 洋一、先に行け、父上を救ってくれ!」
 太助が身を翻そうとし、死兵に立ち向かおうとしたときだった。路地から騎士の一団が現れて、槍衾をつきだしては死兵どもと争いだしたのだ。
「小僧ども! ここでなにをしてる! ロビンはどこだ!」
「アーサー!」
 路地から現れた一団は、アーサー・ア・ブランドだった。ロビンを目指して命がけでここまで駆け参じてきたのだ。
 太助は喜びに仰天したが、彼と話している暇はなかった。彼は洋一の肩を抱いてロビンの元を目指しはじめた。二人は死兵のいないのを確かめ、路地を使い、少しずつ戦場の中心に近づいていった。洋一はその間も右手の痣にずっと話しかけている。その肉腫は傍目にもはっきりと分かるほど人顔の形をなしてきていた。
「アーサー王、ぼくらに力をかして、ロビンやおじさんを助けたいんだ」
「洋一」
 口の部分がさけて、声を発した。二人は驚きのあまり、まとめて転んだ。
 洋一は、「この声はアーサー王だよ」と言いながら物陰に這いこんだ。
「洋一、急げ、ロビン・フッドは死にかけておる」
「じゃあ力を貸してくれるんだね。ぼくたち……」
「時間はない。もうロビンはやられてしまったのだぞ」
 洋一、と太助が肩を叩いた。彼は顔を階段の隙間から出し、前方をうかがっていた。まだ闇が深くて前方で争っている人影がどうなっているのか、果たしてロビンとモルドレッドのどちらが優勢なのかは分からない。でも、エクスカリバーの輝きだけは、ここからでもはっきりと分かった。エクスカリバーは地面におち、石畳に突き刺さっている。誰も所持していないのだ。
「ロビンはほんとにやられたんだ。ぼくが注意を引いてやるから、君はエクスカリバーを拾え」
 太助は洋一の返事を待たずに駆け出してしまった。
「ど、どうしよう」一人になってしまった。おどおどと物陰に引きこみ、右手のアーサー王に囁く。「無理だよ、ぼくなんかじゃエクスカリバーを持っても戦えない!」
「洋一」とアーサー王は深く重みのある声で言った。それで洋一も我にかえる。「お主も知ってのとおりだ。普通の武器ではモルドレッドは死なない。お主の友人と義父ではやつを殺せないのだ」
「アーサー王はわかってな……」
「いやわかっている」とアーサー王は厳しかった「お主は臆病風に吹かれている。言い訳を考えて決断するのを忘れている。座して泣くことはいつでもできる。それはあの世でとておなじ事だ」とアーサー王は言った。「ロビンはもうだめだ。やつに期待することはできん。だが、やつを救うことはできるのだぞ」
「そんなこと分かってるよ!」と洋一は右手に向けて怒鳴った。そのとき道の後方から凄い叫び声がして、洋一はビクリとそちらを向いた。「ぼくは……」
「男が剣を持ち戦うことに、年が関係あるか! 泣き言をいうのか、勇気を示すのか、どちらか決めろ牧村!」
 洋一は怯えてうつむいた。「わかったよ――でも、ぼくに力を貸してくれるんだね?」
 アーサー王は動けぬ身ながら頷いたようだった。
 洋一は勇気を出して立ち上がった。アーサー王の一喝がどうも恐怖を払ったようだった。
 階段の陰から顔を出し、あらためて戦場の様子を確かめた。
「わしはお主を信じている、それは彼らもだ」
 とアーサーは言った。洋一は頷いた。太助もおじさんもぼくのことを信じている。
「お主ならやれるぞ。わしが肉体に憑依してもお主は自分を保っている。死人になることもないのだ」
「銃士たちのことを言ってるの? でも、どういう……」
「残念ながらロビンではマーリンに敵しなかった。だが、お主――お主は面妖よ。ロビンともわしともちがう。一人でない人間だ。モルドレッドに取り憑かれても、己を失うことはなかった」
「それはどういう意味……?」
「早くしろ、みな死んでしまうぞ!」
 その一言が決定打だ。洋一は意を決して立ち上がる。

○     2

 奥村たちがロビンの元に駆けつけたときはもう遅かった。
 あの瞬間、地面に倒れ伏すロビン・フッドの無惨な亡骸を見たのは、奥村左右衛門之丞のみだった。
「ロビン・フッド! ロビン・フッド! 立て!」
 奥村の絶叫で、仲間たちもそんなロビンに気がつく。奥村は敵を躱してモルドレッドに駆け寄ろうとする。
「もう遅いぞ、異国の男!」
 モルドレッドはニタニタと笑い、エクスカリバーの柄に手を伸ばした。自分が苦痛を与えた少年らの父親だとみとってのことだった。少年らの父親は死兵にふたたび進路を阻まれている。モルドレッドはロビンの部下たちの悲痛な叫びを横手に、ついに聖剣を手にとった。
 モルドレッドが手の内に鳴動を感じたのはその瞬間だった。まるで魂の奥底から激震が走るようだった。エクスカリバーが灼熱し、皮膚を焼いた。モルドレッドは全身を振るわせながら聖剣から手を離した。
「なぜだ、エクスカリバー!」
 右手は焼けただれ、肉の焦げた臭いと紫煙を立ち上らせている。
「俺以外の王がどこにいる! なぜなのだ!」
 モルドレッドはふりむいた。仲間の助けを借りて、死兵の脇をすり抜けた奥村とアジームが自分目がけて迫ってきたからだ。
 奥村はモルドレッドの焼けただれた手を見た。刀に目を落とし、聖剣に視線をうつす。
だめだ、俺たちもエクスカリバーには触れない。あいつの二の舞だ」
「ならば、自らの刀で殺すまでだ」
 とアジームはいう。奥村の返事を待たずに、暗黒の王に打ち掛かっていく。
「父上!」
 奥村の耳に、幼い叫び声が届いたのはそのときだった。奥村は目の前の敵すら忘れて左方を見た。彼の息子が、死体を飛び越え、剣風をさけつつ、父親の元に駆けてくる。奥村は胸が張り裂けそうになるのを感じた。ロンドンでの悪夢がいちどきに蘇ったのだ。
「太助! なぜここに来た! 下がれ!」
「いやだ!」
 太助は父親の隣に来ると、刀を両手に、モルドレッドと対峙する。父親の視線を避けながらも、その顔は緊張と安堵の色に満ちている。
 親子はまるで大小の作り物のようにおなじ構えをして、モルドレッドと向かい合う。
「ばかもの、洋一を守ってやらんか!」
「ぼくと洋一で父上を守ると誓ったんだ。それに洋一はうまくやったよ」
「だが――」
「あいつならうまくやるよ!」と太助が言った。奥村は驚いて息子を見た。「あいつはちゃんとアーサー王を呼びだしたじゃないか! あんな状況でも本を使いこなしたんだ! だったら、今度はぼくらの番だ! あいつを助ける番だ!」
 奥村の胸は息子の一喝に熱くなった。最悪の自体だが、モルドレッドがロビンから受けた傷は回復していない。エクスカリバーならモルドレッドを殺せるのだ。もうやるしかない。
 奥村は息を整えて、それでもにこりと笑みを見せた。彼には太助の心情がよくわかった。言いつけこそ守らなかったが、それでも彼には期待通りの息子の姿だった。強情にも息せき切って駆けつけたその様は、まさしく古の侍そのものではないか。彼の息子は父母の期待に違わなかった。奥村は助太刀が武門の誉れなら、今ここで二人で死んでも構わないとさえ思った。
「いいだろう。こいつを弱らせて洋一に止めを刺させるぞ」
 アジームがモルドレッドの剣威におされて、たたらを踏み下がってきた。モルドレッドの足下にはすでに三人の騎士が転がっている。エクスカリバーに拒絶されたモルドレッドの怒りは凄まじかった。
 奥村たちはモルドレッドを弱らせるべくこの呪われた男を取り囲んだ。そして、そこから離れた戦場の一角では彼らの少年が聖剣を目指して走っていた。

○     3

 ちびのジョンだけは真っ先にロビンの元に駆けつけた。けれど、ロビンは黒霧にとりつかれている。その体から流れ出た血液は生き物のように蠢いて、傷口を塞ぎはじめていた。ロビンが苦悶し、手足を引き攣らせる。ジョンは傍らに膝をつくと、重病人に対してそうするように、彼の右手をその大きな掌に持つ。
「だめだロビン! 死ぬな! 死兵になどなるな!」
 ロビンはジョンの声に応えるように手を握りかえしてきた。
「そうだ、逆らえ、がんばれロビン!」
 ちびのジョンは死んだ友人を守ろうと、ロビンの頭を抱えこんだ。ロビンの端正な顔が醜く引きつり、牙と剛毛を生やしはじめている。ウィンディゴが、お主のロビン・フッドはもう死ぬといい、モルドレッドの体から抜けでた古のこどもたちは彼らを指さしケタケタと手をうって笑いだした。ジョンには腹立たしく悲しいことだった。
「死んでからもモルドレッドのところでお勉強か。でもなあ、そんなのはまっとうな人間のするこっちゃねえ。人の不幸を笑うなんて、心のねじくれた人間のするこった。そんなこっちゃいけねえんだぞ。おめえたちだって別の場所でまっとうな生を受けてたら、別の魂にだってなれたろうに。でも今からだって遅くはねえんだ」
 ジョンはこどもたちに頬を張られ、小さな手で髪を引き回されながらも諭しつづけた。頭にあるのは自分を救ってくれた二人の少年のことだった。あの連中だったら、モルドレッドの邪悪な魂にだって決して屈することはなかったろう――そして、その二人の少年は、ともに古の皇子に立ち向かっていたのだ。
 少年の一人がジョンの視界に飛びこんできた。ジョンは驚いた。体にのしかかる重圧が軽くなるのを感じた。ウィンディゴも少年の意図を察して飛び去ったからだ。
「洋一、こんなところに来ちゃ駄目だ! ひっかえせ!」
 とちびのジョンは言った。けれど、少年はなおも駆けて戦場の中心に近づいていく。彼が目指すのが聖剣と知り、ちびのジョンは瞠目したのだった。
「まさか、あいつ……!」

○     4

 右手はまだ痛んでいる。けれど洋一は走っていた。ともだちを救い、物語の世界を救うために。洋一はこのことで父と母も救えるんだと信じた。だって彼は元気な二人を最後に、遺体には顔すらあわせていない。彼の中では両親はいまだに苦しみの真っ只中。彼はそれを助けたくて一生懸命に走っている。遺体を飛び越え、剣林弾雨の中、金色の光目がけて駆け抜けた。
「アーサー王、モルドレッドだ!」
「わかっている」
 とアーサーは言った。アーサーの顔は洋一の胴体を向いていたが、視覚は少年と同化している。
「洋一、来ちゃ駄目だ!」というジョンの声が聞こえた。
「ジョン、エクスカリバーの鞘を……!」
 と洋一はそちらも見ずに叫びかえした。息が切れて脇腹が痛い、こんな状態でモルドレッドをやっつけられるなんてまったく信じられなかった。
 モルドレッドは奥村、アジーム、太助を相手に大立ち回りを演じている。他の仲間たちはみな倒れ、あるいは銃士たちと奮戦している。モルドレッドは、三人の剣の達人をものともせずに戦っている。むろん傷は受けているのだが瞬く間に回復している。確かに普通の武器では死なないのだ。
 洋一はより一層身を屈めて転がるように駆けていった。それは砂浜で旗をとるビーチフラッグの選手のようだった。彼は右手を伸ばしエクスカリバーの柄を目がけて飛びこんだ。洋一は聖剣を支点にグルリとまわった。その拍子に聖剣は地面から楽々抜けたが、またその先端を地面につけた。
「お、重い!」
 エクスカリバーを地面から引き抜いた瞬間、洋一の腰は重みに負けて砕けてしまった。彼はほとんど膝をつきかけてよろめき、
「力を貸すって、右手だけじゃないか!」
 と文句を言った。まさしく、アーサー王の意力がやどったのは、彼の片腕のみだった。聖剣をわずかに持ち上げるだけでも、彼の全身はブルブルと震えている。左手を使おうとすると、エクスカリバーはたちまち彼の皮膚を焼いた。アーサー王は彼がエクスカリバーを持てると言ったが、それはアーサーの宿った右手のみの話だ。
「これじゃあ、剣なんて使えないよ! アーサー王、もっと力を……」
「洋一!」
 右手が鋭く叫んだ。アーサー王だった。洋一が顔を上げると、黒い影が星空をさざめかせながらまっすぐに飛んでくる。
「ウィンディゴだ!」
 ウィンディゴは竜巻となって彼を襲った。風が彼を取り巻いて、洋一は息も吸えなくなる。洋一は聖剣にしがみつき、懐の本をまさぐった。
「くそ、伝説の書を使えばいいのか……」
 と洋一は言ったが、この状況で書きこむなんてできない。だめだ、そんな暇はない。と彼は言いかえした。同時に思いだしたのだ。自分たちが行動でも物語を導いてきたのだということを。そう男爵が言ったから、洋一は左手を本から離した。ぼくはお前に頼らない。行動で物語を変えられるんなら。
 やってやる、やれるぞ!
「アーサー王、二人であいつを殺すんだ! 力を貸して!」
 洋一は胸の内にこう叫んだ。
 男爵、ぼくはもう本に頼らないぞ。
 アーサー王が何事か答えたようだが、ウィンディゴは彼の五感を奪い、その耳にはなにも聞こえなかった。洋一はエクスカリバーを引きずりモルドレッドに近づいた。ウィンディゴの力も彼を食い止めることはできない。様々な幻術も、アーサー王の加護の元では十分な力を発揮しなかった。
 ウィンディゴは人外の雄叫びを上げ、モルドレッドも洋一に気づく。
「小僧、なぜお前が聖剣を使える! なにをやった!」
 モルドレッドはアジームを斬り飛ばし、奥村を足ではじき飛ばした。
「洋一!」
 と奥村。
 モルドレッドが洋一の心臓目がけて、黒剣を突きだした。奥村は夢中で立ち上がると、二人の間に身を割りこませる。愛刀を眼前にたて、刺突を受け流そうとする。だが、黒剣はその刀身を削り、奥村の左胸を貫いた。奇しくもロビンとおなじ箇所だった。
「おじさん!」
「父上!」
 奥村は刀を放りだすと、モルドレッドの右腕を抱えこんだ。
 洋一はどうしていいかわからなかった。奥村の背中から黒剣が突き出て、血をしとどに垂らしている。
「貴様、離せ!」とモルドレッドが言った。
「洋一、こいつを刺せ、刺すんだ!」
 洋一は我に返ると手首を押さえて、エクスカリバーを引きずりだす、奥村の左へとまわった。右側からだと、モルドレッドの腕と剣がじゃまでうまく刺せないと思ったからだ。洋一は奥村の脇をすり抜けると柄を持ち上げ、倒れこむように剣を突きだした。モルドレッドにとっても咄嗟のことだった。左腕で聖剣をふせごうとするが、エクスカリバーは刀身をしならせ、モルドレッドの上腹部に突き立った。アーサー王は本当は心臓に突き立てたかったのだが、洋一の背が低く、下から突き上げる格好になったのだ。
 洋一は驚いた。エクスカリバーが突き立った箇所からは、赤子たちの魂が次々と飛び出してきたからだ。それは金色の輝きをもって洋一の体を突き抜けていった。その魂はひどく冷たい。洋一はそれにもめげずに剣を押しこむ。けれど、刺さらない。洋一の脚力が不足して、腹筋にわずかに埋まっただけだ。それでも、エクスカリバーは灼熱し、モルドレッドの身を焦がしている。彼は身を引こうとするが、奥村が腕を抑えている。聖剣の光に生き身を焼かれ、モルドレッドはうわっと呻いた。その背後ではウィンディゴも苦悶している。
「アーサー王、もっと力を貸してくれ!」
 洋一は足を突っ張りながら叫ぶ。モルドレッドは右腕では黒剣を握ったまま奥村を突きのけようとし、左腕では洋一の頭をつかんだ。
 太助がその隙をついて、モルドレッドの右手に回る。上段から刀を振り下ろし、モルドレッドの利き腕を真っ二つに切り落とした。右腕が鮮血を散らし、奥村とともに地面に突っ伏する。
「父上!」
 太助は父親を横目に刀を構える。洋一は、おじさん、とつぶやいた。奥村は黒剣を墓標のように抱えたまま動かない。洋一は上体を聖剣にかぶせる。火傷にもかまわず剣の柄頭に左手を添えた。モルドレッドは左腕で洋一の顔面を殴った。木の枝を折るような音がして鼻が砕け、歯の破片が口中に散った。洋一はボトボトと血を吐きだすようにして咽せ、それでもかまわず一歩一歩と地を掻いた。歯の欠片が飛び散る。舌も切った。右顔に拳を喰らって頬骨が折れた。洋一は信じられないほどの痛みに失神しかけるが、折れた奥歯を噛みしめまたそこで炸裂した痛覚の激しさに意識を遠のかせる。
 痛みだ、痛みのスパークだ!
 ウィンディゴがまとわりついてくる。あきらめろ小僧、そんな体ではもう無理だ。洋一お前まで死ぬつもりかと父や母の声色を真似て、洋一を説得しにかかる。けれどウィンディゴがそうしたのは失敗だった。父や母の声を聞くたびに洋一は意識をとりもどしたし、目前のモルドレッドと自分を取り巻くウィンディゴの影に憎悪を燃やして足を進めたからだ。
 ぼくはお前らを許さない。父さんと母さんの敵をとるぞ。殺せるもんなら殺してみろ!
 太助がむちゃくちゃに剣をふりまわし、モルドレッドのところかまわず斬りつける。モルドレッドは全身に傷をおって血を吹き出し、奥村少年を睨み、血まみれとなったこどもたちを呪い、エクスカリバーを押しこんでくる牧村少年の髪を掴み上げた。
 洋一は意識を遠のかせながらも思い出していた。それはこれまで出会ってきた人たちのことだった。男爵の言うとおりだ。これまでどれだけの人に育てられてきたことか。洋一はともだちのカッツンや、学校の先生や、街の駄菓子屋のおばさんも、ホームセンターの店員のお姉さんも、そして、なにより両親のことを思い出していた。その人たちのために死んじゃ駄目だと彼は思った。彼は一歩また一歩と、わずかずつ、けれど着実に足を踏み出していく。モルドレッドはそのたびに苦悶の呻きを上げ、血を吐き、かつ彼を殴りつける。洋一は急に団野のことを思いだし激昂した。殴られるのならもう慣れた。なにをしたってきかないぞ
「死ぬ覚悟ならしたってもう言っただろ! お前の方こそあきらめろ!」
「くそ餓鬼め小僧め、五百年生きつづけた俺を殺すというか!」
 彼は日本刀の刃に切り裂かれ、右の目玉を地に落とす、中途から切れた右腕からは噴水のように血が噴き出している。傷はあちこち塞がろうとするものの、太助が狂ったように刀を回して、新たな傷を作りつづける。
「こいつら、俺に逆らうか! 剣を抜け! 下がれ小僧!」
 モルドレッドは洋一の腹を打った。その後頭部に鉄槌を振り下ろした。洋一の意識はまた遠くなる。内臓がひしゃげるほどの痛み、それにも彼は良く耐えた。けれどもう限界だ。
「洋一、死ぬな洋一!」
 太助は洋一を救おうと、とっさに刀を下げた。真下から伸び上がるようにして剣を突きだし、父のお返しとばかりに、モルドレッドの喉首から脳天を貫かした。
 モルドレッドは血走った目で少年らを見た。その喉からは声は立たず、ゴボゴボという血泡の音がした。洋一はほとんど意識をなくしながら、モルドレッドの体から赤子たちが抜け出してくるのを感じた。洋一はさらに一歩足を踏み出してエクスカリバーをモルドレッドの体に突き立てた。
「がんばれ、洋一、体を立てろ」とアーサー王は言った。
「無駄な抵抗をするな! 死に絶えろ、小僧!」とウィンディゴは言った。
 洋一はウィンディゴが彼の精神を捕まえにかかるのを感じた。洋一の意識が薄らいでいるのを利用して体を乗っ取ろうというのだ。させるもんか、と洋一は思った。ぼくは本の世界を守ってきた一族だ、父さんに代わってぼくが本の世界を守るんだ――
「エクスカリバー、こいつをこの世界から追い出してくれ。こいつと本の絆を断ち切るんだ」
 と彼は言った。エクスカリバーはさらに輝きを増した。アーサー王が死者の世界からさらに力を送りこんでくる。洋一がまた一歩踏みだす、モルドレッドに近づき右腕が屈曲する。アーサー王はその隙間を利用した。聖剣をねじり、モルドレッドの心臓目がけて突き入れていく。
 聖剣が食いこむたびにモルドレッドの傷口からは赤子たちの魂が抜け出ていく。モルドレッドは首を仰向け、天を仰ぎだした。もう全身の穴という穴から血が流れている。聖剣の輝きが聖杯の力を押しのけ心臓を焼いた。復活しない。細胞たちはそのまま死につづけた。復活しない――聖剣の傷口は塞がらなかった。モルドレッドが身を起こそうとするままに洋一の体に被さったときには、古代より生きつづけ、無用の死を生み出しつづけた男はついにその命脈を途絶えさせていた。そして、ウィンディゴの断末魔が――
「牧村! 忘れるな! わしがこの世界を去ってもお主との勝負が終わったわけではないということを!」
 洋一はモルドレッドの重みを支えられない。暗黒の王とともに倒れた。ウィンディゴの絶叫が聞こえた気がした。太助の声も。洋一は確かに微笑んだ。
 牧村、だって。あいつようやくぼくのことを認めたな……。
 そして、視界は暗くなり、意識は遠のいていく。

○     5

 牧村洋一は夢の中にいた。けれど、そこはウィンディゴのもたらす闇ではなく、輝くような純白の世界だった。洋一はアーサー王の声をきいて目を開けた。
 そこはシャーウッドの森だった。モーティアナに破壊される前の森の姿だ。雨が降った後なのか、森はしとどに濡れていた。ひどく幻想的な風景だった。アーサー王は彼のすぐ側に立っていた。疲れたな、ひどく疲れたと洋一は思った。夢の中なのに、もう指一本すら動かせない。苦痛のない世界ではあったが、彼にはいささか居心地が悪かった。
「よくやったぞ洋一」
「アーサー王、モルドレッドは死んだの……?」
「ああ、我が息子は死に絶えた」
「ウィンディゴは?」
「やつもこの世界を去ったようだ」
 洋一は微笑んだ。
「ぼくらやったんだね……」
「ああ、やったとも」アーサー王はしゃがみこみ、涙に濡れた洋一の頬を拭った。「だが、お主の人生は、俺とちがって、まだまだ苦難に満ちているようだな」
「アーサー王だって、アヴァロンの暮らしを捨てて来てくれたじゃないか」
 アーサーは、ニヤリと子供っぽい笑みを見せた。
「人は退屈よりも困難を求めるものさ。お主もまたそうなのかもしれん。そして忘れるな。自分が困難に真向かい、乗り越えることの出来た人間だと」
 アーサー王は立ち去った。首を向けた洋一が見たのは、アーサー王を迎えにきた、円卓の騎士たちの姿だった。トリスタンがランスロットが、彼に向かって手を振った。洋一は微笑んだ。
 洋一は、アーサー王の言葉になにか応えようとした。けれど、彼の意識は、酩酊状態のようにぐるぐると回りはじめ、それで昏倒したときとは逆に、夢から覚めていったのだった。洋一は、いますぐに目を覚まさなければならないと知っていた。深い意識の底にいながら、大事な友人が悲しみの底にいて、ひどく困っていることを知っていたからだ。

○     6

 洋一が目を覚ましたとき、頭上を真っ黒な人魂が、いくつも飛び交うのが見えた。視界は眩んで、吐き気もした。実際に、横をむいて胃液と血を吐きだしたが、おかげで、目はふだんどおり見えるようになった。明星の大空を舞うのは、モルドレッドの残した五百の魂たちだった。まるで、猛烈に回転するドーナツみたいだ。
 モルドレッドは死に、ウィンディゴの魂も去った。赤子たちは、行き場をなくして泣き叫んでいる。この世を、悲嘆と、憎悪の絶叫が満たしている。赤子たちは、生存者を憎むように、その身めがけて突進する。ロンドンでようやく生き残った人たちも、魂が身を通りぬけるたびに、内臓を毒す悪寒を感じ、生命力を吸いとられていった。それは、父親の手を握り、悲嘆にくれる、奥村少年もおなじだった。彼は、赤子の魂が身を貫くたびに、身をのけぞらせている。その体には、死の亀裂がいくつもあらわれている。
 洋一は、自分には、赤子の霊が影響しないと感じていた。赤子たちが彼の体を通り抜けても、呪いが彼には生じなかったからだ。結局は、アーサー王の言うとおりらしかった。なにが原因なのかは、わからない。けれど、彼は霊という霊に強いようだ。
 洋一は、ヒビの入った肋に顔をしかめ、二倍にふくれて、血の流れる顔面に苦しみながら、地面に腕をついて身を起こした。口の中で、舌が膨らんでいる、なんども嘔吐いた。赤子の悲鳴に、街中が満たされる中、太助! と友人の名を呼んだ。太助が涙にくれた顔を上げた。その顔は死の呪いに半分方覆われている。
「洋一、父上が……」
「太助、大丈夫なんだ……」と呂律の回らぬ舌でいう。「エクスカリバーだ、エクスカリバーの鞘だよ! あの鞘には傷をいやす力があったじゃないか……!」
 それは、アーサー王の最後の贈り物めいていた。太助はわかっていると答えた。その顔は希望に満ちていたが、魂がまた身をつき抜けて、父親の体に突っ伏する。奥村の体からは、まだ黒剣が立っている。出血を恐れて、剣が抜けないのだ。洋一は、自分が鞘を取りに行くしかないと感じた。アジームたちも、赤子にやられて、立つことができないでいたからだ。
 洋一は、ちびのジョンが、鞘を拾ったかも知れないと考えた。必ずそうしたはずだ。鞘がなければ、いまごろロビンは死んでいる。モルドレッドの死とともに、死兵からは悪霊が抜けて、元の死体にもどっている。洋一は、ロビンのそんな姿など見たくなかった。死人ならもうたくさんだ。
 洋一は、くじいた足を引きずり、鼻血にフガフガと息をし、まるでノッティンガムで見たゾンビのように、ヨタヨタとロビンの元を目指した。生き残った騎士たちも、みんな死の呪いにやられて、死にかかっている。赤子らの力は、どんどん強くなってきている。このままでは、みんな無駄死にだ。
「ジョン!」
 と、洋一は呼んだ。ちびのジョンは、ロビンの側でうつぶせに倒れている。洋一の声に気づいて、顔を上げた。洋一は、フラフラとジョンの元に行き、顔のそばに膝をついた。
「ジョン……」
 しかし、屈強のヨーマンも、死の呪いには勝てない。亀裂に、唾を垂らして苦しんでいる。
「ジョン、しっかりしてよ。こいつらをどうにかしないと……」
「洋一……」
 と、ジョンは、洋一の腕に手を伸ばす。死の呪いに覆われた腕は、すごく冷たい。亀裂から噴きだす、黒い気体も。ジョンは急速に死につつある。洋一の身内は、ゾオッと冷えた。
「確かに、このままじゃみんなくたばっちまう。でも、こいつらが悪いだなんて、俺には思えねえ。こいつらを救ってやりてえんだ。こいつらは、赤子のうちに殺されたんだぞ。このまんまじゃ、かええそうだ。かわいそうだと、俺は思うんだよ……」
「でも、どうすりゃいいのさ!」と、洋一は、癇癪を起こした。「こいつらをみんな鎮めるなんて、ぼくには出来ないよ!」
 洋一は胸を抱える。自分は本になにかを書きこむべきなんだろうか? でも、Goサインは出ていなかった。それに、彼にはなにか引っかかることがあったのだ。
 それはロビン・フッドだ。ジョンの脇で気絶しているロビンには、死の呪いがまったく発生していない。
「ロビン!」
 洋一はロビンの肩を揺すった。ロビンのベルトには、金色の鞘がさしてある。ジョンが拾って、ロビンの腰に戻しておいたのだ。ロビンの胸元は、真っ赤に染まっているが、衣類の下の傷は、すっかり塞がっている。
「傷が治ってる」
 洋一は、鞘を抜きとってみた。無限の治癒の力が働いたのは、その瞬間だった。彼は、驚いて両手を見おろし、顔に触れた。骨の砕けた激痛も、肉の裂けた激痛も、内臓の死滅した激痛も、みんなまとめて引いていった。まぎれもなく、鞘の力だった。モルドレッドが、エクスカリバーを持つアーサー王を殺せなかったのも、うなずける。鞘の力は、洋一の細胞を活性化させ、だけでなく、死んだ細胞も蘇らせていた。呼吸とともに、復活の力が出入りしている。それは、身内の六十兆個の細胞に、すみやかに行き渡る。内臓や首の痛みが退くと、彼は胴体を真っ直ぐに伸ばせるようになった。生まれたてのように快調だ。それで、気がついた。ロビンも、アーサー王の力を受けていたのだ。彼は、王権を委譲されている。それは今もだ。赤子たちの呪いにかからないのも、それならば説明がつく。自分の元からは、アーサー王は去ってしまったけど、ロビンなら――
「ロビン、起きて! 起きろ、こいつ!」
 と、洋一は、ロビンの肩を揺すった。ロビン、ロビン、と名を呼んだ。ロビンはおとなしく揺られるばかり。眼を開けない。洋一は、最初は慎重に、やがては力任せに揺すりだした。
「ロビン、目え覚ませ! こいつらを死者の世界に送るんだ! そうだよ、ジョンのいうとおりだ! みんな行き場をなくしてるんなら、導けばいいじゃないか!」
 ああ
 と、ロビンが、痴呆のように、力のない声を発した。洋一はロビンの顔をつかんだ。顔をうんと近づけて、瞳を覗いた。目玉の奥のその奥に、アーサー王がいる気がした。
「アーサー王、力を貸して。こどもたちを導きたいんだ。元々は、あなたが命じて殺したんじゃないか! 責任をとるべきだよ!」
「あいつが閉じこめていた魂か」と、ロビンの瞳が動き、天を見て言った。二人はともに驚いた。ロビンの右腕が勝手に動き、側に落ちていた、トリスタンの弓を、拾い上げたからだ。
「弓を使えばいいの?」
 と、洋一は、アーサー王に訊いた。
「弓で導けとでもいうのか」ロビンも戸惑っている。彼は、洋一と目を合わせて、「だが、死者の島など、どこにある。どの方角だ」
 そのとき、無数の魂が、ロビンと洋一の体をすりぬけて、二人は、わっと喚いて、突っ伏した。
「くそ、こんなもの喰らいつづけていたら、身がもたんぞ」
 実際、ちびのジョンは、すでに意識をなくしている。洋一は、
「ロビン、死者の島は、この世界にはないんだ。あのときは本、が導いてくれた。きっと、方角なんて、関係ないんだよ」
 ロビンは途方にくれて天を仰いだが、顔を戻したときには、何事か決心したようだった。わかった、と彼は言った。
「アーサー王を信じよう。彼はこの子らのことで、確かに心を痛めていた。俺には分かるんだ。洋一も、そう思うだろ?」
 洋一は、力強くうなずいた。一時は、あの人と一体となったのだから、当然だ。アーサー王の気持ちなら、嫌というほど知っている。モルドレッドに抱いた、憎しみと愛情のことも。贖罪の意思も。
「アーサー王!」と、ロビンは身内に語りかける。「俺に、もう一度力を貸してくれ。今こそ借りを返すときだ。赤子たちを、導いてくれ!」
 ロビンは、トリスタンの弓を支えに立ち上がる。天を舞う、狂った魂どもに呼ばわった。
「赤子らよ! 昔日に死に絶えし、不幸の子らよ! 話を聞いてくれ! 俺は、これより、この弓で天を射る! 汝らの苦しみも、不幸な旅も、もう終わりだ! さまよえる子らよ! 戒めはとかれたと、信じよ! 恨み言があるならば、あの世でアーサー王にいうがいい! だが、ここは、お主らの居場所ではない!」
 赤子たちは、発狂したように飛び狂い、ロビンと洋一の邪魔をした。死の呪いは、黒雲となり、地上の嵐となり、二人をのみこんだ。洋一は、ロビンの右足にしがみついた。ロビンは、ただ無心で足を開いた。これまでの過去、何万回とそうしてきたように、両腕を、四方に開く。この地上で、最も美しく弓を射る男は、今一度強く、弦を引いた。
 ロビンが、天に向かって矢を射ると、その矢は黒雲を消し飛ばし、一条の光となって、どこまでも高く上っていった。弓矢の残した軌跡は、光の帯となり、周囲の死の空気を取りこんで、どんどん太くなっていく。ロビンは、つづけざまに矢を打った。矢は、光の尾を引きながら、天をつん裂き、雲へと吸いこまれていく。天が、割れた。矢は消えたが、金色のカーテンを残していく。
 その漏斗状の光は、死の呪いを吸いこみ、地上には、激しい風が起こった。洋一は、身を屈して、伝説の書をかばい、どうにか天を仰いでいた。ロビンの真下からだと、それは、光で出来た道路に見える。ロンドン中を飛び交っていた魂が、一つまた一つと、ロードの中へ吸いこまれていく。その間もロビンは必死で弓を射つづけている。赤子らにはロビンを憎み、いまだ攻撃する者たちがいた。だが、その者たちも、ロビンの魂に触れ、その奥にいるアーサーの心情を知り、次第に数を減らしていった。ロビンは、何百回と矢を撃つつもりだった。トリスタンの矢は、その期待に応えて、次々とロビンの手の内に現れたが、彼ももう限界だった。ロビンは、ぜいぜいと荒い息をつき、さも重そうに弓を下ろした。彼が、光道を仰ぐと、その光は、なにかを感謝するように、ロビンの顔を撫でた。ロビンは、疲れ切った顔で、うっすらと笑った。そのまま、仰向けに、ばったりと倒れてしまった。洋一は、ロビンの側に這い寄った。呪いの雲は、消えている。
「さあ、洋一。奥村を助けに行ってこい。赤子らは、もう大丈夫だ」
「うん」
 と、洋一は返事をしながら、天を見た。光の道は、最後の赤子を取りこむと、その端から氷が溶けるような自然さで、闇の中へと還っていく。

 洋一は走った。彼が走るたびに、太陽からは月が除かれ、地上をさす光糸は増えていく。洋一は、日溜まりの中を、飛ぶように走った。地上に次々生まれる影を追い抜くようにして、彼は走った。奥村の元では、死の呪いの解けた奥村太助が、いまだ父に取りついて、洋一早く、と、叫んでいる。
 二人は、もどかしげに、奥村の帯をひっぱると、大刀と脇差しの隙間に、エクスカリバーをねじこんだ。
「利くのか……」
 と、太助は、不安げにつぶやいた。でも、あれほどボロボロだった洋一が、走れるほどに回復している。彼は、意を決して立ち上がると、黒剣に手をかけ呼吸を整えた。洋一は、奥村の体が揺れないよう、肩を押さえた。
「いくぞ」
「うん」
 太助は呻きを上げながら、父親を戒める呪いの剣を、慎重に引いた。締まった肉が抵抗し、太助は傷口を広げないよう、注意深く剣を抜き取っていく。
 洋一は、黒剣の抜ける側から、奥村の傷口が塞がっていくのを見た。黒剣には、血の一滴すら、ついていない。
「いいぞ、太助! 治ってる、治ってるよ!」
 太助は、黒剣を引き抜くと、急いで跪いた。「父上!」
 おじさん、と、洋一も言った。「おじさん、死んじゃだめだ。ここまで頑張ったんじゃないか! みんなで、そろって帰るんだろ!」
 傷つき、あるいは勝利に浮かれる騎士たちも、子供たちの様子に気づいてやってきた。アジームも、アラン・ア・デイルも、ウィル・ガムウェルらも。ロビンに、ジョンも。タックに、ミドルもやってきた。子供たちの周囲には、人だかりが出来ていた。みな、子供たちの父親が、蘇るのを、祈っている。
 太助は、自分が死にかかったとき、父親がどんな思いをしていたかを知り、申し訳なく泣けてきた。父に、その罪を謝りたかった。洋一のおかげで、親より先に死ぬ愚は、犯さずにすんだ。けれど、父がこの世からいなくなるには、彼にはまだ早過ぎる。教わることも、見てほしいことも、まだまだあった。なによりも、彼は、父の声が聞きたかったのだ。
 奥村が、一声呻いて目を開けると、もうだめだった。太助は、父の胸に突っ伏し、大声を上げて泣きはじめた。
 ちびのジョンが、ほっと胸をなで下ろしている洋一の胸をつかんで、手荒に、宙高く放り上げた。ジョンは、落ちてきた少年を、力任せに抱きしめると、グルグルと回りはじめた。初めは、痛いやめてと、言っていた洋一も、そのうちに、大声を上げて、笑いはじめた。
 それは、呪われた都に響く、実に久方ぶりの笑い声だったのである。

 

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