ねじまげ物語の冒険 全文掲載!

□  その三 罠にはまったロビン・フッド

○     1

「モーティアナがつれていた銃士は百名足らず。大方は死人となったと見ていいでしょう」とロビンは現況を説明した。「だが、やつらは昼間を嫌う。陽の高いうちは屋内に閉じこもって出てこないのです。すくなくともパレスチナではそうでした。攻めるとしたら早朝。が、疑問がある。我々の闘ったモルドレッドは慎重な男でした。やつがロンドンを捨て、単身で出向いてくるとは思えない」
「モーティアナのでたらめなのかも」
 洋一は無意識のうちに右腕を撫でている。その言葉には多少の期待がこもっていたが、男爵は否定した。
「ウィンディゴは何重にも策を巡らすやつだ。裏にやつがいることを忘れるな。そして、ノッティンガムにはモーティアナがいる。やつは魔女だ。おそらく魔術の力でロビンと我々を引きはがそうとするだろう。不信を植えつけ分断し、各個撃破するのはやつのよくつかった手だ」
「しかし、死人になった銃士は知能がなくなるようだった」とアラン。「モーティアナのいうことを聞くはずがない」
 奥村が、「ノッティンガムが堕ちてどのぐらいが経ったのです」
「二日は経っています」
「ウィンディゴには十分じゃ」と男爵。「ウィンディゴはのう。かつてのマーリンかそれ以上の存在だといえばわかりやすかろう。やつは直接手を下せんが、配下の者に力を与えておる。モーティアナは力を増し、モルドレッドもまたそうじゃ」
 奥村が、「ノッティンガムの危険よりもモルドレッドとモーティアナに手を組まれることの方が厄介だ。危険だが、ノッティンガムのモーティアナをまず叩くべきだ。モーティアナが倒せないならば、モルドレッドも倒せまい」
 なぜならば、モルドレッドの方がウィンディゴの力を色濃く受けている可能性が高いからだ、とは奥村もいえなかった。
「だけど、あいつはロビンを狙ってるぜ。どんな手をつかってくるか……」
 スタートリーは不安のあまり言葉をきってロビンを見た。ロビンは一同の意見を吟味するように目を閉じている。彼はいいだろう、といって目を開けた。
「ギルバートとタックはここにのこって、引きつづき諸侯と連絡をとってくれ。ロンドン奪還の準備を進めるんだ。我々はノッティンガムでモーティアナを討つ。攻撃は明朝――」
 明日――
 洋一は愕然となった。その暗澹たる思いは、兵士たちの恐怖心をすべて飲みこむほどに深かった。モーティアナとやる。そう聞くだけで、洋一の手足は一挙に冷えていった。そして、冷えた体のうちを妙に熱い息が流れていった。明日……
 洋一は待ってくれと言いたかった。ぼくはなんの準備もできていない。それをいえずに唾を飲んだ。今、モーティアナと闘うなんて無理だ、と洋一は思った。あいつはロビンだけじゃなくて、太助とぼくのことも狙ってる。あいつの使い魔を斬ったから。洋一は伝説の書に力を吸われてやせ細った自分の体を見おろした。彼にとって唯一戦う手段は本しかない。伝説の書と、創作の力。
 洋一だって、最終的には本に頼らざるを得ないことは分かっている。でも伝説の書は彼をいったんは拒絶したのである。
 洋一は不死身の男まで登場させたウィンディゴの力を恐れていた。男爵たちが戦いの場に本の世界を選んだことをようやく理解した。みんなウィンディゴにはかなわないからだ。でも、あいつが手を出せなくとも、モーティアナが、モルドレッドがいる。彼は伝説の書を胸にかき抱いたが不安は去らなかった。たかが小学生の想像力で、あんなやつらと戦えるのかはなはだ疑問だった。自分が伝説の書に呪われているとわかってからはなおさらだ。
 意識の混乱する耳にロビンの声が聞こえた。
「みな、今日は疲れた体を休めろ」
 洋一はよろめきながらも顔を上げた。ちびのジョンらがロビンの命をうけて森の奥へと引き返していく。洋一はミュンヒハウゼンの後に付いていく。その顔からは、保護者にあえた喜びは完全に消えていた。こどもには似つかわしくない切迫した表情でつぶやいている。
 書かなきゃ。伝説の書が使えるのはぼくだけなんだから。と洋一は考える。書くんだ、ぼくは書くぞ……
 書くぞ……

○     2

 男爵と奥村はこの勇敢な少年らの育て親として、ロビン一味の歓待を受けた。二人の前には食料が山と積まれ、泡立つビールが用意された。
「しかし、モルドレッドが物語に加わるとはどういうことだろう」
「それに、あの手の痣はひどい。あの呪いは本物に見えます」
 男爵は怒りもあって力強くうなずいた。「あれはかなり痛むといっておる。呪いはやがて全身におよんで、死に至るという話だぞ」
「モルドレッドを倒せば、呪いはとけるのでしょうか?」
「わからん。だが、ここは物語の世界だ。必ず世界観が存在する。アーサー王の伝説と混じり合っているようだが、二つの話が関係してくるはずだ」
 奥村は男爵の言葉をよくよく考えた。「アーサー王の伝説の中に、呪いを解く鍵があるかも知れないということですか」
「そう思う」
「ともあれ、ロビン・フッドはモルドレッドと対決するつもりのようですな」
「我々も参加するしかあるまい」
「洋一と太助はどうします」
「連れて行く。わしはもう片時も二人をそばから離したくないのだ」
 奥村も同感だった。
「洋一はやはり伝説の書に呪われてしまっていたのだな」
 不憫なことだ。と男爵は言った。哀れむように洋一をみた。
 奥村はモルドレッドの謎を解く鍵は伝説の書にこそある気がした。いや、もうやるしかない。方法がなかろうとも、自分が中世の王を斬り殺すまでだった。

○     3

 日没の荒野を走っていた。だだっ広い草原で隠れるところはどこにもない。太陽はもう沈もうとしていて、丘の起伏の影からは死人たち。彼が弱るのを待っている。洋一は沈む太陽に向かって叫んだ。待ってくれ、まだ沈まないで! 陽が消えたらあいつらに殺されるんだ!
 洋一は草に足をとられて転んだ。すると、太陽から黒点のようにウィンディゴが飛んできた。
「小僧!」
 ウィンディゴが彼を追い抜き行く手を塞いだ、その暗黒のベールは大空を覆うカーテンのようにでかかった。彼の恐怖でふくれた世界一巨大な兵士だった。洋一は後ろを向いて逃げだそうとしたが、細腕が腰に巻きつき食い止められた。モーティアナだ。老いさらばえた手で彼の足にからみついてくる。モーティアナは下半身が引き千切れており、ローブの下からは大腸が垂れ下がっている。あやうく失禁しそうになると、硬い指が彼の股をまさぐった。
「やめて、やめてくれ!」
 背中になにかが被さる。小僧! と呪いの声を上げて彼の肩に上膊を投げだす。洋一が悲鳴を上げるたびにモルドレッドの体がとけた、それは死の呪いとなって体の中に染みていく。
「助けて誰か助けて」
 と洋一は自由な腕だけを前方に伸ばして悲痛な声を上げた。
「助けるのはお前だ!」
 ウィンディゴが落雷のような声を落とす。洋一が恐怖に耐えかねて目を開くと、目の前に伝説の書が浮かんでいる。本だ、ぼくの本だ、と手を伸ばした、すると、つかもうとするたびに、本はヒラヒラと彼の指をすり抜ける。
「どこへ行くんだ、こっちに来い!」
 洋一が叱りつけると、突然本の表紙が開く。ページの中央から血がしみだして、それはたちまち紙いっぱいに広がってボタボタと垂れ落ちだした。その血液の真ん中に目が開き、誰かの頭がぐっと突き出てくる。
「本が欲しいか? でもお前もこうなるぜ」
 洋一はギャアとわめいてたちまち失禁してしまった。モーティアナがゲラゲラと笑いながら、彼のふくらはぎに食いついた。
 ウィンディゴが言った。「どこへ行く小僧。お主の目的はわしを討つことのはず」
「仇討ちなら……」
 と洋一は震える声で言いかえした。本当は叫びたかったのだが、情けのない声しか出てこない。仇討ちならもういい、なんて口が裂けても言えなかった。言いたくない、言うもんか、と強情をはる。拒否だ、断固拒否するぞ
 体の内に入りこんだモルドレッドが彼の体を操作しているのだ。瞼が勝手に開き、目玉がひとりでに動く。前方から、ヨタヨタとゾンビのように不格好な歩きでやってくるのは、誰あろうロビン・フッドその人だった。体中に銃痕があり、どうやらすでに死んでいるらしかった。「俺を助けるんじゃなかったのか小僧」
「ぼく、ぼく助けるつもりだったよ、書くつもりだったんだ!」
 目玉がまた動いた。左からやってくるのは、ミュンヒハウゼン男爵だ。こちらは頭蓋骨が半分むき出し、やはり死んだ後だった。白目をむいて、彼を指さし、
「お前にはがっかりだ。これが名付け子だとは嘆かわしい」
 洋一は反論しようとしたが、もう息も出てこない。ちびのジョンが右からやってきて(モルドレッドはご丁寧に、そちらに首を向かせた、鎖骨を肉の中で自由に動かし、添え木のように据え付けている。もう首も動かせない)、血を反吐のように吐きながら彼を非難した。
「おめえは嘘つきだ! おめえのやってきたことは全部嘘だった! この大嘘つきのコンコンチキ! おめえはヨーマンでもなけりゃ侍でもない! ただの薄汚い小僧っ子が、みんなを騙しやがって! みんなをお前が巻きこんだんだ! 両親の敵を討つなんて笑わせるな!」
 洋一は今では大粒の涙を流していた。だけど、モルドレッドが目を閉じさせてくれない。だから、彼は最悪の罰のように仲間たちの死体を脳裏に刻みつづける。
「ぼくはやるつもりだった! ぼくは……!」
 最後まで洋一が気に掛けていた少年は、すぐ足下のぬかるみにいた。モーティアナはいつのまにか死んでいたが、太助は傷つきながらもまだ生きていた。太助少年は泥の沼に下半身をずっぽりと埋めながら、洋一に向かって手を伸ばしている。
「洋一、ぼくを助けてくれないのか?」
 それはあまりに痛々しく悲しげな声だったので、洋一はひゅっと息を吸いこんでしまった。太助の背後から腕を伸ばし、底なし沼に引きずりこもうとしているのは、実の父親なのだった。
「やめろ、やめろ! おじさん、太助を連れて行かないで」
 身をよじると、腰に寄りかかっていたモーティアナがブラリと腕をひねって落ちた。洋一に同化したモルドレッドが、背骨の真ん中から第三の腕をはやしている。彼の頭を抑えつけ、友人がよく見えるようにした。
「ようく見ろ小僧。これが事の顛末だ。みんなお前のせいだ。お前はしくじった。なんの役にも立たない無能なガキだ。俺たちに逆らうなどと大それた事だったんだ。その結果がどうなったか、ようく見ろ!」
 モルドレッドの絶叫は最後には団野院長の声と重なった。モルドレッドと院長、それにウィンディゴまで加わって、彼の頭を抑えつける。太助の顔が近くなる。
 洋一は涙の海におぼれるようにして意識を無くしこうつぶやいたのだった。
 もうやめて、ぼくの降参だ、もう降参だ……

○     4

 洋一が、激しく吐息して目を開けたのは、太助の死に顔を見た後だった。夢だったのか、と彼は声に出さず口の中でつぶやいた。洋一は毛布にくるまって寝ている。もちろん暖房には足りなくて、地面と接した背中はすっかり冷えていた。中央の焚き火は真っ赤に燃えている。脇を見ると、先ほど死んだ太助少年が、毛布にくるまりスヤスヤと寝息を立てている。
 洋一はホッと息をついた。闇の中で顔を赤らめながら股間を確かめる。良かった。どうやら失禁してはいないようだ。洋一はもう一度太助を見る。いつもなら、すぐに目を覚ますのに、今日はワインを飲まされたせいか、それとも父と会えた安心からなのか、グッスリと眠っている。洋一は羨ましさと安堵感が入り交じった複雑な顔をした。太助がそんなふうに気を抜いてくれて、本心は嬉しかった。
 その後すぐに伝説の書を確かめにかかった。
 彼は布を腹巻き代わりに巻き付けている。本の感触を布越しに感じた。大丈夫だ、本は盗られてない。でも、今にも本の表紙からさっきの男が飛び出し彼の腹を食い破りそうで、ちょっと怖かった。
 洋一は身震いをした。
 周囲にはそうした焚き火のグループがいくつもあった。歩く人の姿が見える。モーティアナの夜討ちを警戒して、見張りがたっているのだ。
 毛布から抜けだすと、悪夢から逃れるようにして焚き火に背を向ける。見上げると、梢の隙間から大きな月が複雑なモザイクに切り取られて彼を見おろしていた。洋一は本の世界の月は不思議に大きく見えるなと思った。現実の月とこの世界の月がおなじである必要はまったくないことに思い至って、軽く首を振り笑みを漏らす。それから、ウィンディゴは次はどんな仕掛けをしてくるだろう、どんな創造をするつもりかと考えて、また身震いしたのだった。
 焚き火を少し離れると、土地が下り、土手のようになった場所に出た。そこに腰を下ろした。土地が起伏しているせいか、そこからだと空の隙間がよく見えたからだ。さきほどの月とは反対方向で鮮やかな星だった。洋一は学校で良くそうしていたように体育座りをして息を吐き、一人になったなとぼんやり思った。星を見上げていると、目尻から自然と涙がこぼれたが、自分ではそのことに気づいていなかった。あれが夢であったことに馬鹿のように安心していた。まだしくじったわけじゃない。まだ取り戻せるんだ。
 後ろでカサカサという音がした。夢の帳は遠くなった。彼は目尻の涙を急いで拭いてふりむいた。ミュンヒハウゼンだった。
 男爵は奇妙なほど悲しげで冷静な目をして彼を見つめながら、更地を行くような滑らかな足取りで森を横切った。洋一は男爵が軍人で騎兵隊長も勤め、トルコ軍とも戦ったことを思いだした。いずれも物語の世界での話だった。
 男爵は隣にきて実の祖父がそうするように彼の隣におなじ格好で腰掛けた。
「男爵は月に行ったことがあるんでしょ?」
 男爵はうむと頷いた。
 それから男爵は月の話やそこでの仲間たちとの活躍をひとしきり話してくれた。彼は座談の名人で話は面白かった。けれど、二人を見おろす星々と周囲の冴え冴えとした空気はすぐに彼の心を現実に引き戻した。
 眠らないのか、と男爵は訊いた。
 眠れないんだ、と洋一は応えた。
「男爵、ぼくに本の使い方を教えてよ。明日はきっと本を使わなきゃいけなくなる。そんな感じがするんだ。男爵もそう思うでしょ?」
 ミュンヒハウゼンはこどもように膝を揺すって微笑んだ。なぜか悲しそうだった。すぐに下を向いた。
「お主はのう、伝説の書に少しこだわりすぎだと思う」
 洋一は真っ赤になってうつむいた。「でも、ウィンディゴがぼくに言ったんだ。どちらの創造の力が勝つか、勝負だって。あいつはモルドレッドをロビンの世界に連れてきた。物語を悪い方に作り替えてる。不死身の兵隊まで創ったじゃないか。それに対抗するって事は、伝説の書をつかうことだと思うんだ」
 ミュンヒハウゼンが洋一の肩を揺すった。洋一は顔を上げた。
「わしはそうとばかりも思わんのだ。なぜならば、わしもお主も、本の世界で行動することで、ウィンディゴの策略を打ち砕いてきたからさ」
「どういうこと?」
「では、泣き虫ジョンが本来の姿をとりもどし、ノッティンガムを出たのはなぜだね? ここにロビンを信じる多くの仲間が集まったのは? シャーウッドの無辜の民がモーティアナの魔術にも命を落とさず生きながらえたのは?」
 洋一は涙がみるみる乾いていくのを感じた。
「それはのう、わしやお主が登場人物と一緒になり、敵と戦うことで物語をよい方向に導いてきたからじゃ。――もちろん本を使わないということではない」
 ミュンヒハウゼンは洋一に向けてやさしく微笑んでいた顔を、ふいに正面に向けた。洋一もおなじ方を見た。
「だが、本を使うことばかり考えてはだめだ。ロビンや仲間たちを救ってきたのはこの本ではない」とミュンヒハウゼン男爵は洋一のおなかを叩いた。「お主の知恵と」と言って額を指で突く。「勇気だ」
 そうして胸を突かれると、洋一の心にも男爵の心がポトリと落ちた。洋一はさっと顔を背けて下を向いた。涙がにじんだからだ。
「その本のせいで恐ろしい目にも遭ってきたろう」
 とミュンヒハウゼン。洋一は驚いて顔を上げた。
「知ってるの? この本に閉じこめられた人たちのこと」
「大勢見てきた」と男爵はうなずいた。「その本はあまりに魅惑的だ」
 洋一も無言でうなずいた。その沈黙には本に飲みこまれた人物たちへの深い共感があった。同情も。
「お主にはおなじ末路を辿って欲しくない。どうしても本を使わねばならん時は自ずと来るじゃろう。わしとて本の力を使わずにロビンが勝てるとは思っておらん」とミュンヒハウゼン。「だから最初の質問に戻らねばならん。お主はわしに本の使い方を教えてくれ、と言った。わしは生憎と本の使い方は知らんと答える。というよりも、その本は誰にでも使えて、誰にとっても危険なものなのじゃ。むろん作家の持つ創作の手段は非常に有効じゃ。じゃがのう、ここには生憎と作家と呼べるのはお主一人しかおらん」
 作家と言われて洋一は妙に気恥ずかしくなった。なにやら一人前の大人みたいだ。
「本を使いこなす唯一の方法があるとするならば、それは本に負けぬ強い心というほかない。そして、これはおおむね心の問題であって、使い方ではないという事じゃ」
「じゃあ、ぼくには本は使いこなせないじゃないか」
「父親を信じることじゃ」と男爵は言った。「お主をちゃんと育ててくれたとな。これまでの自分と人とのつながりを思いだすんじゃ。伝説の書の力を執行するのは、お主の信じる力だからじゃ」
「自分を信じろって、どうやって?」
「お主に秘めた才能を信じろなどとはいわん。それでは慢心にしかならん。それは自信とは似て非なるものじゃ。これまでやってきたこと。人がこれまでやってくれたことを思い出せ。みんなに感謝せい。そうすればお主は一人ではない。お前が生まれてこれまで何千何万という人がお前に関わり育ててくれたじゃろう。それこそがお主の力なんじゃ」
 洋一は自分の人生を振り返ったが、おおむね出てくるのは学校生活ばかりだった。友人や先生のことを思いだした。洋一は自嘲するように笑って首を振った。
「大切なのは、なにを書くのか、どう書くかということだ。おそらく実現不可能なことでは本は願いをかなえまい。無理なことがらでは、世界に亀裂が生じることと思う。本は無理を埋めるためにつじつま合わせをするじゃろう。ウィンディゴがモルドレッドを登場させた。それはいい。だが、モルドレッドは強く元の世界に縛られておるじゃろう?」
 洋一は思いだした。ロビンをイングランドに呼ぶそのつじつま合わせがどうなったのかを……。
 最後にミュンヒハウゼンは、物語を生みだすとは空白を埋める作業なのかもしれんな、と言った。けれど、その空白という名のピースを埋めるにも、周囲の形に合わせなければならない。
 できるだろうか……?
 二人は元の場所に戻り眠った。当然のことながら、洋一に押し迫る不安と重圧の重しは減らなかった。頭の中では様々な想念が渦を巻いていた。ロビンはモーティアナをやっつけられるだろうか? ロビンを守らないと。でもあいつは太助のことも狙ってる。モーティアナはどうやってみんなとロビンを引きはがすつもりだろう。食い止められるのかな? 洋一は、そうして、雑多なことを思い浮かべては不安をかきたてていた。けれど、眠りに落ちる直前に彼が思いだしたのは、男爵の次のような一言だった。
 最後には本の力が必要になるじゃろう。

○     5

 洋一はほとんど眠れず、しょぼつく目を開けた。周囲は闇が消えて、鳥が梢を渡り、梢の隙間から木漏れ日が落ちている。その光の光線は四辺形の不思議な図形を幾つも伸ばしている。美しかった。物語の世界がこんなにも美しくて、洋一はふと涙が出たのだった。横たわったまま、目尻を一筋また一筋と涙がこぼれる。ぼくはもっともっと世界を見てみたいこんな所で死にたくないと強く思った。ぼくはあんなやつらに殺されない。父さんと母さんはずっとぼくを守ってた。ウィンディゴに狙われたのはそのせいだ。彼は遠の昔から自分が呪われていたことを知っている。両親はそのことを隠匿し、使命を擲ってでも息子を守ってきたのだ。洋一は、お父さんお母さん、と心の中で呼びかけて、赤子がするようにもどかしげに手足を捩った。仇を討つぞ絶対にあいつをやっつけてやる。
 ふいに視界が遮られ、太助の目玉が彼を覗いた。「大丈夫か」と彼は訊いた。
 洋一は無言でうなずいた。
「でも泣いてる」
 洋一はうなずこうとしたが、分厚い涙と鼻水の固まりがどっと出口に押し寄せて、彼は溺れないよう顔を背けた。少し咳きこんだ。
「ぼくは怖い……」
 しぼりだすと、もう我慢できなくなり、洋一は両手をついてまるで吐瀉するように嗚咽を上げた。
 太助は困ったように、でも慈しみをこめてその背を撫でた。
「しっかりしろぼくが付いてるぞ。ぼくが手助けするとも。一緒にウィンディゴをやっつけるんだ」
 太助は小声で、けれど友人にちゃんと聞こえるように耳に口を近づけて囁きつづけた。だから彼は気づかなかった。彼らの守護者とでもいうべき二人の人物が、そんな少年たちを温かく見守りつづけていたことに。その悲しいけれど素敵な朝だけはウィンディゴの脅威が遠ざかっていたことにも。こんな朝はもう当分訪れないのだけれど……。

○     6

 曇天から、夜は立ち去った。牧村洋一と奥村太助は何日かぶりにノッティンガムにもどってきた。思えば、あの日は下水をつかっての逃避行で、街の上部をみる余裕もなかった。けれど、これほどまでに様変わりをしたのでは、かつての城塞都市を知る人たちもその比較は難しかった。
 戦いの到来を告げる不気味な空の下、ロビン・フッドと主な人たちはノッティンガムを下方にのぞむ丘まで来ていた。ノッティンガムはその空の下で沈黙している。城門は開け放たれたままだった。慌てて逃げだしたらしく、街道には大八車や家財道具が散乱している。そして、その隙間を埋めるように死体がいくつも転がっているのだった。その城塞都市は所々から黒煙を上げているが、それも霞のように薄く、家々の帳を抜けると空と混じり合って見えなくなった。あの下に何千という死体があるのを感得して、洋一は懐を抱いた。
 そのうちロビン・フッドの命令が人々の口から伝わってきた。
「死兵とは戦うな。狙うはモーティアナだ。老婆を見つけろ」
 兵士らの大声に洋一は無意識にうなずいていた。
「いよいよだ。あの宿での決着を付けるぞ」
 と隣で太助が言った。洋一は小さくうなずいた。もうずいぶん泣いたから気持ちはすっきりしていた。後ろ向きになったり逃げだそうとすることもなかった。けれど、恐怖心だけは漬け石のように乗っかってどこうとしない。奥村にいうと、恐怖心だけは決してどこにも行かないものなんだそうだ。
「恐れと縁を切ることは出来ないよ。うまく付き合うしかない」
 とおじさんは言った。そのとおりかもしれない。
 洋一は震える胸をそっと撫で下ろす。彼は蛇が嫌いだが、もう一生ものになりそうだった。

 進軍は始まった。
 ロビンフッドと三百の兵隊は、ノッティンガムの城門を抜けた。ロビンの周囲ではその閣僚たちがすわ死兵かと武器を抜いて身構えたが、街はそれ自体が死体と化したようにシンとしている。
「みろよ、ロビン」
 ウィル・スタートリーが戦くように言った。路傍に石のごとく転がるのは死体だ。女性も幼児もたくさん混じっている。口は悪いが女こどもに優しいスタートリーを痛く傷つけた。スタートリーは剣と歯を食いしばりみんなを追い抜くように足早になった。つられて全軍の速度が上がる。ロビンはスタートリーを諫めようとした。なんの罠があるか分からない。列の後尾が門を抜け終わったとき、ロビンがふりむいた。
「おい、待て! 門を閉じるな! 開けるんだ!」
 ノッティンガムの城門が凄い速さで閉まっていく。大地を削る音がロビンの耳にも聞こえたが、門を閉める者は誰もいなかった。近くにいた兵士たちが、門扉に取りつき突然の閉門に抵抗した。城門に働く力はすさまじく兵士たちは弾かれあるいは引きずられた。挙げ句の果てには三人の男たちが門に挟まれ圧死するのが見えた。胴体を引き千切られた仲間の上半身が地に落ちる。騎士たちはまるでなにかにすがるようにロビンに目をやった。ロビンはもうその方角を見ていなかった。彼は前方に目を向けていた。「くそ」と彼は言った。道に転がる無数の遺体が、起き上がり始めていたからだ。
 どう見ても死体である。半ば腐敗が進んでいるし、みな白目を剥いている。内蔵を垂らしているものもいる。動かないのは首がもげた者だけだ。あんな大けがを負って生きていられるならば、この世で死ぬ者はいないだろう。
 どういう理屈かしれないが、あの老婆、死体を操れるものらしい。
 ロビンがとっさに剣に手を掛けると、固い鞘の感触はなく、どろりとした粘着質の液体が彼の右腕を飲みこんだ。ロビンが目を見張って見おろすと、剣を中心に、まるでコールタールのように真っ黒な液体がしたたり落ちて、彼の下半身を飲みこんでいる。ロビンはその液体から足を引き抜こうとしたが、膠のようにへばりつきピクリともしない。
「ちくしょう、ジョン!」
 そう叫ぶわずかな合間に、その黒いヘドロは津波のように立ち上がり、真上からロビンの体を飲みこんだ。
「ロビーン!」
 ロビンは息も吸えず、動くことも出来なかった。
 ジョンは夢中でヘドロをかきわけた。他の仲間たちも、黒泥をいやとかぶりながら、泥をかきわけロビンを救い出そうとする。けれど、ロビンに近づくことは出来なかった。ヘドロが後から後から湧いてくるのだ。ジョンは大きく息を吸いこんで、頭からヘドロに突っこんだ。夢中で手足を振り回し泥の海を泳いでどうにかロビンの手を掴んだが、その時にはジョンも力つき、意識が遠くなっていた。二人はヘドロの中で、体が引っこ抜かれるような感覚を覚えた。そして、臀部に固い地面の感触と痛みを感じて目を開けた時には、ヘドロに包まれたまま見知らぬ場所に舞い落ちていた。モーティアナの術中にいとも容易く嵌ったことを、どちらともなく呪ったのだった。

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