江戸諸藩物語

大江戸諸藩実情

 江戸時代、数多くの藩が存在しましたが、それぞれは幕府に従いながらも、基本的には独立自治を保っていました。

 参勤交代のおかげで、江戸のはやりが伝わったり、江戸の影響は大きかったでしょうが。

 現在のようなラジオもテレビもない時代。幕末には、東北と九州の藩とでは、言葉が通じず筆談をしたほどです。知れば知るほど藩は面白い!

 一方で、庶民は、整備された街道のおかげで安全な旅を楽しんでいました。関所も厳しかったのは、江戸時代の初期だけで、手形も簡単に発行されました。老人が旅に出るときは、幕府から殊勝であるとして、見舞金が出たほどです。

 さて、天下太平の江戸時代。諸藩はどんな藩運営を行い、小氷河期の天災を乗り切ったのか(潰れた藩もありますが)、のんびり語っていきたいと思います。

松前藩の場合

アイヌとの交易

 蝦夷地においてアイヌ民族との交易を独占した藩です。アイヌ民族は過酷な収奪を受けて、1669年(寛文九年)にはシャクシャイン首長を中心とした反乱が怒りました。

 ところが、松前藩はアイヌ民族との交易支配の権利を、幕府から受けていたわけではなかったのです。

 1604年の慶長九年、徳川家康は、当時の松前藩藩主、松前慶広に「黒印状」を与えました。

 家康の認めた権利は、 「松前氏に断りなく、アイヌ民族と交易すべき事」 です。これは、直接、渡海を問わず禁止されました。

 逆にアイヌ民族に関しては、往来自由。アイヌに対し、不条理な真似をすることは固く禁じており、違反者は厳罰に処すことを通達しています。

 つまり、松前藩には、アイヌの人たちから収奪する権利すらえていなかったのです。

 家康と幕府の認識では、アイヌ民族との交易の届け出先でしかなく、蝦夷地の領有権、並びにアイヌ民族の支配権も認めてはいませんでした。

 ですが、松前藩は、黒印状を盾に、蝦夷地を支配して、アイヌ民族から収奪をするようになります。

 松前藩は、農業による収穫がなく、財政基盤の中心は、アイヌ民族との交易によっていました。そして、その交易はアイヌにとって過酷なものへとなっていくのです。

 もっとも、松前藩では、土地的に稲作が不可能であったため、無高でした。家臣には、漁場と商場を知行地として与え、主従関係を結んでいました。商場(あきないば。単に場所ともいい、地方ごとに区切っていました。モンベツ場所、クナシリ場所、イシカリ場所、などなど)はアイヌと交易をする場所です。位の高い家臣が管理し、その交易権が知行となっていました。

 知行主(家臣)に認められていたのは、年1回自腹で船を仕立てて交易すること、のみでした。

 最初のうちは、家臣たちが松前に出店をおいていた近江商人などから、物資や生活費を借りて交易を行っていました。交易がさかんになり武士の手に負えなくなると、場所請負人」として、商人に交易そのものを任せるようになりました。知行主が受け取るのは運上金ということになります。

 アイヌの人たちにとっては交易の相手が松前藩だけですので、交換レートを三倍にされたり、不利益なものになっていきます。藩船により鮭を大量捕獲、鷹狩り用の鷹の確保や、砂金をとるために内陸部を切り開いたり、アイヌの生活を脅かすようにもなっていきました。

蝦夷地から追い出される

 ちなみに蝦夷地が幕府領となった時期もあります。
 第一次幕領期が、1799〜1821年。第二次幕領期が、1854〜1868年です。

 この時期、松前藩は、文化四年(1807年)な、九千石に降格させられ、陸奥国伊達郡梁川(福島県伊達市)に移封となりました。そのさい、家臣の半数を浪人させ(244名を除籍。梁川へ連れて行けたのは、111名)、十四年間苦渋をなめることになります。(その縁で、松前町と伊達市は、姉妹都市となっています。)
 松前藩は、幕府や公家に蝦夷地への復帰を働きかけます。努力が実ったのは、1821年の文政四年のことでした(梁川藩は廃藩。1855年に松前家の飛地領となります)。


 さて、第一次幕領期では、
 弘前藩――西蝦夷地、国後、択捉警備担当
 盛岡藩――東蝦夷地、国後、択捉警備担当
 仙台藩・秋田藩・鶴岡藩・会津藩――非常時出兵担当

 時に交替しながら警備を担当し、厳しい環境や、栄養不足による疫病の発生により死者が多発することもあったようです。また、樺太には会津藩が上陸警備を行っていました。ロシアのクシュンコタン襲撃、後のことです。奥羽諸藩は、戊辰戦争のため、蝦夷地警備どころではなくなってしまいますが、飢饉天災の藩財政の悪化に耐え抜きながら、北方からくるロシアの脅威と戦ってたんですね。
 ご先祖さま、ありがとう!

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松前藩、城持ち大名へ!

 松前藩が城主大名となったのは、1849年嘉永二年に、津軽海峡の警備強化のため、幕府から築城を命じられたことから始まりました。五年をかけ、完成した松前福山城は、旧式の築城としては日本最後の物となります。昭和十六年、国宝に指定。太平洋戦争も生き延びた松前天守ですが、1949年の役場火事からの飛び火で焼失。現在の天守閣は、1961年に再建されたものです。

江戸三百藩 その最後の時やいかに!?

 

 幕末を迎えたとき、諸藩は残らず大混乱です。

 官軍につくのか、はたまた幕府か?

 近代化に向けた動乱の時代を諸藩はどう迎えたのか?知れば知るほど面白い!

 江戸三百藩、最後の時!

秋田藩の場合

 秋田藩(久保田藩)は外様であり、居城は秋田県秋田市にありました。

 石高は、二十万六千石(実高は四十万石)。

 最後の藩主は、佐竹義堯

 幕末、秋田藩がついたのは、当初幕府側でありました。その方針が揺れ始めたのは、戊辰戦争がはじまり、官軍に勝利が流れたからです。

 朝廷は仙台に、奥羽鎮撫総督を派遣します。対する奥羽越列藩同盟は、仙台藩領に集結します。

 東北が風雲急を告げるなか、秋田藩勤王は、仙台藩から同盟の維持におとずれた使者を惨殺して、官軍につくことを決定します。

 当時はどの藩も官軍優位であるとみていました。官軍につくには、先鋒を願い出るか、藩内の佐幕派を処罰するかをして、尊王派に忠誠心を示す必要がありました。

 秋田藩も、同盟の使者を斬るだけでは済まず、官軍から、庄内藩を攻めることを命じられます。慶応三年の、薩摩藩邸焼き討ちの報復でありました。

 秋田藩も、庄内藩が江戸の町を討幕運動の被害から守ろうとしただけであり、あくまで幕命に従ったのみであるとわかっています。心から承服することはできず、また下級藩士たちには尊王思想すら理解していないものも多くいました。

 隣国を攻めろと言われても、秋田藩の士気は上がりません。薩長は後ろからけしかけ、無理矢理戦わせます。大義すらみえないなか、秋田藩は会津藩が降伏するまでの間、北は盛岡藩、南から仙台庄内藩勢に侵略されます。

 結果、奥羽戦争での死者は、

 庄内藩 322人

 長岡藩 309人

 米沢藩 283人

 盛岡藩 112人

 官軍についたはずの秋田藩ですが、その死者はもっとも多く、361人となっています。

 領地の三分の二が戦禍にあい、官軍の軍費もまかない、財政は悪化の一途を辿ります。戦後の賞典もわずかなものでした。

 ちなみに、現在は秋田藩で通称されていますが、明治2年(1869年)には「久保田藩」と公称しています。

 元々古代には、秋田城がありましたが、居城があったのは羽後国秋田郡久保田。

 その「久保田城」を採用してのことです。 明治4年(1871年)になって「秋田藩」と改称。古代の古称「飽田(あぎだ)」に戻したんですね。秋田の人は、近代まで、あぎだ、と発音していたはずです。

 ちなみに久保田城にはもともと天守がなかったそうで、1880年(明治13年)の大火で、城内の建造物はほぼ焼失。堀も大半が埋め立てられました。

 現在は、千秋公園となり、御隅櫓が復元されています。

攻城団

久保田城(秋田県秋田市)の見どころや構造、歴史や雑学、さらに地図などのアクセス情報を写真つきで詳しくご紹介します。久保田…