1958年徳川秀忠の遺骨が調査されました
そこで骨にまで届く銃創痕がいくつも発見されたそうで
秀忠の初陣は関ヶ原の戦いです
戦自体をさほどこなしておらず、大将として後方にいたはずですが、前線で戦うタイプだったのでしょうか
やはりこの人も戦国武将だったのですね
秀忠公は恐妻家のイメージが強いですが、いちどだけ女人に手を出したことがありました
子供ができちゃった秀忠公
お江の方を恐れ一度も会わずに養子に出しちゃいました
これが会津初代藩主保科正之
異母系の家光をよく支えたと言われていますが
幕末の因縁はこんなとこからはじまってたんですね
家光と保科正行の出会いは偶然だったそうで
お忍びで数人の部下を従え出かけた家光公
目黒の寺に立ち寄りそこに飾られた美しい菊に目を留めます
菊を持ち寄ったのは保科正行の母親でした
住職は、「保科は将軍家の弟君、なのにわずかな領地しか持たず貧しいのはまことおいたわしい」と嘆きます
家光は、驚き、すぐさま保科を呼び、有能な弟をたいそう気に入って、山形藩主として召し上げました
病床にあっては、次代将軍、家綱の後継者を頼むほど
会津松平が、徳川に恩義を感じたのは宜からぬことでした