参勤交代見聞録

祭りなどで見る参勤交代は、はでで勇ましいものですが、現実の参勤交代には、悲喜こもごもあったようです。

そんなわけで、参勤交代雑学。

ああ、参勤交代

世界でも珍しい、参勤交代。諸大名が集まれば、家臣にそのまた香椎に奉公人まであつまって、江戸の人口は、約半分が武士、という日本でも珍しい状態になっていました。武家の都、ともよばれたゆえんですね。大阪の反対です。

またこのお武家さんは、基本的に生産することのない消費者であったので、この莫大な消費に江戸の経済は支えられていました。江戸の町民のほとんどがフリーターだったとか、好きな時に働いて暮らす独身男性だとか、そういう人たちは、この武家が支えていたんですね。

もっともこの参勤交代は、江戸時代のみにあった制度ではなく、織田信長や豊臣秀吉も、行っていました。

なので、幕府が制度化する以前から、自発的な参勤はあったんですね。

寛永十二年の武家諸法度は、諸大名の参勤交代を秩序化したものであって、いわば後付けで法令化されたわけです。

一年は国元、一年は江戸のスタイルは元和年間にはすでに定着していたようです。

身の制度は、文久二年に在府期間を三年間に一年、もしくは、一年に百日と改正されました。

三年後の慶応元年には制度を復旧させるんですが、諸大名は従わず。実質的には、幕府が滅ぶ六年前に、参勤交代の制度は終わってたと。

江戸時代にも、譲り合い

大工に雨、大名には川止め。

「大名に、別に知恵なし、川つかえ」

川止めにみまわれ、旅費がつき、国元に金策を走らせたら、用意できず。あげくに宿で立ち往生。ついたあだ名が、「しょうない藩」

これ史実なんです。庄内藩の行列が、福島宿でついに動けなくなってしまったと。笑えない話です。

多方、中山道は熊谷宿。からんでくるのは、加賀藩前田百万石、綾部藩九鬼二万石。

石高勝負では、圧倒的な差があります。ちなみに、加賀藩には、一万石以上の知行をもつ家臣が十三名おり、大名が九人いるなどと言われていました。

宿場に入ったのは、九鬼藩が先ですが、慣例として、小藩は遠慮をして、大藩に宿場を譲るものです。九鬼藩、残念ながら外様です。でも、加賀藩は、手前の本庄宿で泊まってくれた。大人じゃん。

大名同士いろいろ気遣いもあったんですね。

次回は参勤交代のトラブルについて。語ってみたいと思います。

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