お宝狙い

新選組八犬伝には上野寛永寺が出て参りますが、

当時の寺社と言うものは、1種のレジャースポットでありまして、富くじもやれば、全国の秘仏を公開する出開帳も行います

修復費用を稼ぐためで、許されてたんですね

富くじは同じ番号の書かれた紙と机の札を買い

紙の方は残して、木札を、松、竹、梅などと記した木箱に収めます

次に幕府役人監視のもとで、木札を錐で突いて当選を決めました。

箱の中身をぶちまけて、全部出す!

でも、やっぱりもとの箱に戻す

僧侶、読経

箱の上部の穴から、長い錐で突くという寸法

「松の何番」などと読み上げます

こうしたやり方で、百回突き、ひゃっかいめが、一等となりました。この百回目を、突き留めといいます

富くじならぬ、富突き、ともいいました

抽選日は毎月決まっていて

いつから目黒不動尊

16日が湯島天神

谷中の感応寺が18日になっていて、江戸の三富と呼ばれていました

このほか、両国回向院、浅草寺でも、毎月興業です。九日と、二十二日でした

値段は、享保期で一分。一両の四分の一ですが、三万円ほどですので、ちょっとお高い。当選金も千両までありました。

数人で買うのを割り札といいます。

あまりにも熱狂するのでお叱りを受け、享保以降は二朱、一分の半分です、で購入、一等は百両まで下げられました。

幕府公認のものを御免富と言いましたが、高額であったため庶民は気軽に買える、富くじを自分たちで作りました

これを陰富といいます。一文程度で買えました

非合法ですので、当選番号は、瓦版にして発表となりました

これが武士階級にも広がり、御三家の水戸家が勧進元になったりしました。

この水戸家をゆすったとされるのが、河内山宗春で、明治期には、歌舞伎の題材にもなっています

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