徳川家康

徳川三代の天下普請

 家康公の江戸入府とともに開発のはじまった江戸湊。城は寂れ、武蔵野の寒村がぽつんとあるだけであったというのは史実でしょうが、江戸湊自体は、古来から多くの物資が行き交う交易の盛んな地ではあったようですね。

 とはいえ、江戸の開発は、家康公一代でなったわけではありません。最初の江戸入府が、家康49才のとき。年代でいうと1590年です。家康が、征夷大将軍につき、天下普請をはじめたのが、1603年。1605年には、将軍職を譲り渡しています。亡くなったのが、1616年。大坂夏の陣が1615年のことで、家康が江戸にいたのは、合計で四年半にも満たないと言われています。江戸の開発よりも、幕府と徳川家の地盤固めに晩年はついやされた、という事情があります。

家康公は、なにをしたのか?

 まず、入府時に不足していたのが、居住する平野が不足していたことです。武蔵野平野は湿地帯がおおく、家をたてるのに適していません。そこで、家康が行ったのが、神田山を切り崩して江戸城南の日比谷入江を埋め立てることでした。海に面した城という点では、私事ですが、近くのお城でいえば、赤穂城を思い出しますね。あそこもいまは埋め立てられて面影はないんですが、潮見櫓台などが残っています。蛇足。

 神田山は、いまの駿河台あたりですね。陸になったところは、日本橋・京橋・銀座一帯だそうで、江戸期にやったとは思えない大工事です。さすが、権現さま!

 家康は、他にも主要な運河をきりひらき、水運の礎を築き、日本橋を起点に街道を整備して、陸運をととのえ、江戸を海と陸両方から、日本中につなげていきました。

二代将軍の痕跡

 二代将軍は秀忠公。関ヶ原に遅参した人です。言わなくていいか?

 秀忠公は、氾濫のによる被害をおさえる仕事をてがけました。平川の流れをかえて、神田川を開削。この川沿いに新たな町を形成していきます。

 家康の築いた江戸城本丸もやりかえちゃいます。場所もかえちゃいました。

 ちなみに、家康が江戸に入ったときには、1457年に建設された江戸城が残っていました。1605年に、家康は本丸御殿を築き、二年後に、みんな大好き天守閣を築きます。正式名称は、舞鶴【ぶかく】城で、またの名が、千代田城です。江戸の人は、単にお城と呼んだようですね。総面積は、約三十万坪。もちろん、日本最大の城郭です。

 四年後に西の丸壕の工事も行われました。江戸城の周辺には大名屋敷を配して、これを内郭、としました。そのまた外には、寺社と町地が配置されます。これを外郭、といいます。さきの神田川は、外郭を守る外堀となります。自然の川を利用した壕ですね。

 秀忠公が、二代目天守を築いたのは、1622年のことで、初代はわずか15年ほどの命でした。

 家光の代になり、1635年に本丸御殿を新造。寛永12年のことです。同15年には、はやくも三代目天守を築いています。15年周期なの? と思ったら、翌年燃えちゃいます。

 1640年、懲りずに再建。今も絵図として残るのは、寛永天守のことです。外堀も外郭をまもるように一周させ、石垣も整備されました。

 徳川家三代にわたる天下普請は、ここに落着の日の目を見たのです。

 でも、1657年の明暦の大火で燃えちゃう。なんだかなあ。

 

 江戸城の天守は、建設から五十年で姿をけすことになりました。平和な時代に、天守は必要なし、町の復興を優先させるべき、という立派な考えから、今もないんですが、もしあったらどうだったでしょうねえ。維持費で、幕府はもっと貧乏になったんじゃないでしょうか?

 ちなみに現存天守は全て戦争に使われたことがありません。だから、幕府閣僚たちの決断は、正しかったんですね。見習ってくれ!

 

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