【長編朗読】「雪之丞変化 第九巻 狂飈の恋 下」三上於菟吉の名作  ナレーター七味春五郎 発行元丸竹書房

 

 

 

丸竹書房

文学朗読コンシェルジュ

雪之丞変化

作:三上於菟吉

美貌の女形、雪之丞。その白刃に秘められしは、地獄の業火か、悲恋の涙か。絢爛たる復讐絵巻が、今、幕を開ける。

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作品と作者について

作品解説

「雪之丞変化」(ゆきのじょうへんげ)は、三上於菟吉による時代小説の傑作です。1934年(昭和9年)から翌年にかけて『朝日新聞』に連載され、大衆文学の金字塔として今なお多くの読者を魅了し続けています。

物語の舞台は江戸時代の劇場。美貌の女形・中村雪之丞が、父を死に追いやり、家を破滅させた者たちへ、その芸と知略、そして剣の腕を武器に復讐を遂げていく姿を描きます。歌舞伎の世界を背景にした華やかさと、背後に渦巻く人間の愛憎、そしてスリリングな剣戟シーンが巧みに織り交ぜられ、読者を飽きさせません。

幾度となく映画化、舞台化されており、特に長谷川一夫が主演した映画三部作は不朽の名作として名高い作品です。本作は、単なる仇討ち物語にとどまらず、芸に生きる人間の業、愛と憎しみの相克、そして運命の皮肉を深く描いた、人間ドラマの傑作と言えるでしょう。

作者:三上於菟吉(みかみ おときち)

1891年(明治24年) – 1944年(昭和19年)。現在の埼玉県さいたま市出身の小説家。早稲田大学英文科中退後、新聞記者などを経て作家活動に入る。当初は純文学的な作品を発表していましたが、やがて大衆小説へと転向。「雪之丞変化」をはじめ、「白鬼」「妖日」など、怪奇趣味やエロティシズムを巧みに取り入れた独特の作風で人気を博しました。妻は同じく小説家の長谷川時雨。その波乱に満ちた生涯と共に、彼の作品は昭和初期の大衆文学を語る上で欠かすことのできない存在です。

主な登場人物

中村雪之丞(なかむら ゆきのじょう)

本作の主人公。江戸で人気を博す美貌の女形。その正体は、かつて長崎で非業の死を遂げた豪商・松浦屋清左衛門の遺児、雪太郎。父の仇を討つため、復讐の刃を胸に秘めている。

土部三斎(どべ さんさい)

元長崎奉行。雪之丞の父を陥れた仇敵の中心人物。現在は隠居の身だが、娘の浪路を将軍の側室にあげ、絶大な権勢を誇る。

浪路(なみじ)

三斎の末娘で、将軍の寵愛を受ける美女。観劇で見た雪之丞に激しい恋心を抱き、その運命を大きく狂わせていく。

お初(おはつ)

江戸で名を馳せる美貌の女賊。元軽業師。雪之丞に一目惚れするが、その恋は歪み、やがて激しい憎しみへと変わる。物語の鍵を握る危険な存在。

闇太郎(やみたろう)

江戸の義賊。権門や富豪から金を盗み、貧しい人々に分け与える。雪之丞の窮地を度々救い、彼の良き理解者となっていく謎多き男。

門倉平馬(かどくら へいま)

雪之丞の兄弟子であった剣客。雪之丞への嫉妬に狂い、彼を亡き者にしようと執拗につけ狙う。

広海屋(ひろみや)・長崎屋三郎兵衛(ながさきや さぶろべえ)

雪之丞の父を陥れた悪徳商人たち。欲深く、互いに牽制し合いながらも、さらなる富を求めて暗躍する。

連載朗読 目次

第八回 狂飈の恋 上

第九回 狂飈の恋 下

雪之丞への狂おしい恋に破れた女賊・お初。その想いは激しい憎しみへと変貌する。一方、権勢の頂点に立つ土部三斎は、娘・浪路を政略の駒としか見ず、己の欲望のままに過ごす。お初は三斎の屋敷に盗みに入るが、そこで雪之丞の姿を目撃し、嫉妬に燃える。雪之丞を陥れるため、彼女は同じく彼を憎む剣客・門倉平馬と手を組むのだった。

【最新】第十回 壁に耳あり 上

三斎屋敷での一件以来、雪之丞への執着を募らせる女賊お初。彼女は彼の宿屋へ忍び込み、そこで雪之丞と師匠・菊之丞が交わす「敵討ち」の密談を立ち聞きしてしまう。雪之丞の秘密を握ったお初は、それを武器に彼を思いのままにしようと画策。芝居茶屋へと呼び出し、恋情と脅迫を織り交ぜ、雪之丞に緊迫の対決を迫る。

第七章 壁に耳あり 上

 軽業のお初、婆やが、小鍋立てをして、酌をしながら、何かと世間ばなしをしかけようとするのを、今夜にかぎって、邪魔な顔——
「うん、そいつが聴きものだねえ——面白いはなしだ。だが、またあとで聴こうよ。あたしはちっとばかし考えたいことがあるんだから——」
 婆やを追いやって、手酌で、ちびちびやりながら、
 ——おいらほどの泥棒を、とッつかまえたなら、御贔屓すじの三斎から、どんなにか讃められるばかりではなく、それこそ、江戸中が、わあッと沸いて、人気はいやが上にも立つだろうのは、目に見えたはなし、それを知らねえような、雪之丞でもあるまいが、何として又、追い出すようにして、おいらを逃がしてくれたのか? 何にしても、妙な奴だなあ。
 そう心に呟きながら、猪口をはこぶ、彼女の仇ッぽい瞳に、ほんのりと浮んで来たのは、夜目にも、白く咲いた花のような、かの女がたの艶顔だった。
 ——だが、あの生れ損い、何という綺麗さなんだろうねえ、あんまり世間の評判が高いから中村座をのぞいたときにも、思い切って舞台すがたの美しい役者だとは思ったが、素顔が、又百倍増しなのだもの、三都の女子供が、血道を上げるのも無理はねえ——
 と、讃めて置いて、又、おこりっぽく、
 ——おいらあ、しかし、今夜のことは忘れはしねえぜ。逃がす、逃がさぬは別として、とにかく、お初姐御の仕事は、てめえが立派に邪魔をしやがったのだ。てめえがよけいなことさえやらなけりゃあ、三斎の奴の枕元から、せめて葵の紋のついた印籠の一つも盗み出して、仲間の奴等に威張ってはやれたのに——ほんとうに、憎らしい奴ッたらありゃあしない。ようし、どうするか、覚えてやあがれ——三斎から盗むかわりに、てめえの部屋から、一ばん大切な物を取ってやらずには置かねえから——
 盗みが渡世になってしまっているお初、雪之丞に、不思議な好奇心を懐くと同時に、妙な発願を立ててしまった。
 ——一てえ、あいつの宿はどこなんだろう? あしたは、芝居町の方へ出かけて行ってくわしく訊してやらざあならねえ。
 パンパンと手を打って、婆やに、
「お銚子のお代りだよ」
 と、いったが、それが来ると、
「ねえ、婆や、おまえも立派な江戸ッ子だが、今度はちっとばかし口惜しいわけだね?」
「何がで、ございます。御新造さん」
「何がって——中村座の大坂役者に、すっかり持っていかれてしまったじゃあないかね? 折角の顔見世月をさ、江戸の役者が、一たい、どうしているのかねえ?」
「それがやっぱし、珍しもの好きの江戸ッ子だからでございましょうねえ——聴けば、雪之丞とかいうのが、あんまり大評判、上々吉の舞台なので、来月も、つづけて演たせるとか言っているとか申しますが——」
「もちつき芝居まで引き止めるのかえ?」
「はい、忠臣蔵で、力弥とおかるの二役で、大向うをうならせたら——と、いう話があるそうで——お湯屋なんぞでは大した噂でございますよ」
 この婆や、こんな話になると、じきに乗り出して来る方なのだ。お初はしきりに考えこみはじめるのだった。

 軽業のお初、その晩は、婆やと、中村座の噂ばなしなぞで更かして寝についたが、翌朝、目がさめる早々、何となく後味が残っていて、どうもこのままでは済まされぬ気がしてならぬ。
 ——あのばけ物は、おいらが、江戸で名代の女白浪だと、まさか気がついてはいなかったろうが、贅六風情に、邪魔立てをされて、このまま引ッ込んでいたんじゃあ、辛抱がならぬ。どうなっても、あいつの宿に逆寄せをして、目に物見せてやらなけりゃあならない。
 朝風呂にはいって、あっさりと隠し化粧をすると、軽く朝げをすまして、例の町女房にしては、少し小意気だというみなり、お高祖頭巾に、顔をかくして、出かけてゆく先きは山ノ宿の方角だ。
 芝居町で、出方にいくらかつかませれば、役者たちについての、表立ったことはじきに何でも判って来る。
 菊之丞、雪之丞の、切っても切れぬ親子のような師弟が、一緒に棲んでいる宿屋の名を聴きだし、ちゃあんと、日のある中に、所もつき止めると、夜更けまで用のないからだ。
 ——あいつの舞台を、もう一度見てやろうか知ら!
 と、つぶやいたが、ちょいと癪にさわる気がして、中村座のつい前の、結城座で、あやつりを見たが、演しものが、何と「女熊坂血潮の紅葉」——
 ——畜生め、昔の女熊坂は、死に際に、恋人の手にかかって、女々しく泣いて懺悔をしたかも知れねえが、このお初は、そんな性とは丸っきり違うんだ。おいらあ、三尺高い木の上から、笑って世の中を見返すだけの度胸はちゃんと持ち合せているんだぜ。人をつけ、馬鹿馬鹿しい。
 あやつりを出て、どこをどうさまよって、時を消したか、すんなりとしたお高祖頭巾の姿が、影のように、まぼろしのように、山ノ宿の、宿屋町にあらわれたのは真夜中すぎ——
 芝居者相手の雑用宿のいじけた店が、二、三軒並んでいるのを、素通りして、意気で、品のいい「花村」というはたご屋の前に、ほんのしばし、立ち止って行灯を眺め、二階を見上げたお初、ニッと、目で笑った。
 ——ふうむ、もうかえっていやがるな。待っておいでよ。おめえの枕上に、ついじきに立ってやるから、——
 こうした家の、裏口を、あけ閉てすることなんぞは、お初に取っては、苦でもない。まるで風が隙を潜るようなものだ。
 何分、朝の夙い役者を泊めている家、すっかり寝しずまっていることゆえ、裏梯子を、かまわず上り下りしたところで、見とがめる目も耳もあるはずがなかった。
 ——あいつ等め、表二階を打っとおして借りているってはなしだっけ。
 と、お初は、裏梯子の、上りつめたところで立ち止まったが、ふと、その表二階の、すっかり灯の消えた部屋部屋の、一番奥の一間に、かすかにあかりが差しているのを認めた。
 ——おや、あすこだな、起きているな。そういえば、何だか、もそもそ、話しごえがしていやがる。厄介な——
 お初は、すうっと、薄暗い廊下を、通り魔のように抜けて、その部屋の前まで行って、立ち止まった。
 話しごえは、男二人だ。やや皺枯れた年輩ものの声と、もう一つは、たしかに聴き覚えのある、あの雪之丞の和らかく美しい声が、ひそひそと囁き合っているのだった。

 水いろちり緬のお高祖頭巾をかぶったままの、軽業お初が、廊下の薄暗さを幸にして、そッと、障子越しに片膝をつくように、耳をすましているとも知らず、夜更けの宿の灯の下に、ひッそりと、昼間は語れぬ秘事を囁き合う、雪之丞とその師匠だ。
「いかにもそなたが、そこまで腰をおとしてしずかに事を運ぼう気になったのは何よりだ」
 と、これは、菊之丞の、やや錆た声で、
「何分にも、かたきの数は多いのだし、すべてがこの世にはばかる程の、それぞれの向きの大物たち、並べて首を取れるわけがない——ゆるゆると、人目に立たず、一人一人亡ぼしてやるのが一ばんじゃ、しかし、わずかの間に、それだけ事を運ばせたは、さすが、そなただの」
 雪之丞、師匠の前で、だんだんに着手し進行せしめている、復讐方略の説明をしているものらしい。
 が、お初に取っては、今夜、この役者の宿で、こんな密話を聴こうとは全然予期していないことだ、思いもかけぬ物語だ。
 ——何だねえ? かたきの、首のと!
 と、彼女は呆気にとられながら、
 ——この次の狂言の、筋のはなしでもあるのかしら? いいえ、それとは思われない——でも、あの、雪之丞がかたき持ち? あろうことかしら?
 妙に胸が、どきついて来るのを押えて、耳をすますと、中では、当の女がたが——
「わたしにいたせば、思い切って、一日も早く、片っぱしからいのちも取ってつかわしたいのでござりますが——父親の、あの長の苦しみ、悶えを考えますと、さんざこの世の苦しみをあたえたあとでのうては、一思いに刃を当てたなら、かえって相手に慈悲を加えてやるような気がされますので——でも、お師匠さま、三斎の娘ずれと、言葉をかわし、へつらえを口にするときの、心ぐるしさ、お察しなされて下さりませ」
 この人にだけしか、口に出来ぬ愚痴をも、今夜だけはいえるよろこびに、雪之丞の言葉は涙ぐましい。
「じゃが、心弱うては!」
 と、師匠が、
「悪魔にも、鬼にもならねば——この世の望みは、いかにたやすいことも成らぬのが恒じゃ」
「は、わたしとても、その積りでござりますれど——」
 お初の、まるで無地のこころにも、いくらか、事の真相がわかって来るような気がされた。
 ——やっぱし、人は見かけに寄らぬもの——あの雪之丞、では、一方ならぬ大望をいだいている男だと見える——それでこそ、あの腕の強さ。気合のはげしさ!
 彼女は、昨夜、咄嗟、さそくの一瞬の、雪之丞の働きに、今更、思い当たるのだった。
 ——そして、しかも、その相手の一人が、土部三斎のじじいだとすると、こいつあよっぽど舞台の芝居よりも面白い。ことによったら、このお初も、一役、買ってやってもいいが——それにしても、あの優しい、なまめかしい女がたの身で、随分思い切ったことを考えるもの——
 お初は、かぼそい、白い手で、巌石を叩き砕こうとしているのを眺めてでもいるような気がして来て、自分のからだが痛くなるのだった。
 彼女は、雪之丞に、ある同情を、今やはっきりと抱きはじめたのだ。

 軽業のお初と、世に聴えたほどの女泥棒、師弟二人の秘話を、思わず耳にして、さすがに枕さがしもしかねて、そのまま煙のように役者宿を出てしまったが、このまま、これほどの他人の大事、歯の中におさめたまま辛抱していれば、見上げたもの、さすがはいい悪党と、讃められもしたろうに、お初とても、凡婦——凡婦も凡婦、いかなる世上の女よりも、欲望も感情も激烈な、おのれを抑えることの出来ぬ性分だった。
 ——役者の身で——あんななまめかしい女がたの身で、聴けば、江戸名うての、武家町人を相手に、一身一命を賭けて敵討ちをもくろんでいるとは、何という殊勝なことであろう。そしてあの、おいらを捕まえたときの、騒がずあわてぬとりなし、役者を止めさせて、泥棒にしても押しも押されもされぬ人間だ。
 と、そんな風に、すっかり感心してしまったのが、運のつきとでも云おうか、その晩以来、寝ても醒めても、どうしても忘れられないのが、雪之丞の艶すがたとなってしまった。
 ——ほんとうに、どうしたらいいのかねえ——おいらあ、生れてから、こんな気持にされたことははじめてだが——まさか、このおいらが、あんな者に恋わずらいをしているのだとは思われないけれど——
 相変らず、長火鉢の前、婆やに、燗をつけさせて、猪口を口にしながら、癇性らしく、じれった巻きを、かんざしで、ぐいぐい掻きなぞして、
 ——だけれど、そういうもののおいらだって、まだ若いんだ。ときどき、男が恋しくなったって、お釈迦さまだって叱りゃしめえよ。なんなら、ひとつ、ぶッつかって見るか? くよくよ、物案じをしているのは、娘ッ子のしわざだ。軽業のお初さんが、恋の病——か、ふ、世間さまが、さぞお笑いだろう。
 そこは、年増だ、爛熟のお初だ——じりじりと、妄念という妄念を、胸の奥で、沸き立てて見たあとは、そのほとばしりで、相手のからだをも、焼き焦がして見ずにはいられなくなる。
 ——それに、いかに方便だってあの晩の話で見りゃあ、三斎屋敷のわがままむすめ、大奥のこってり化粧にも、何かたらし込みをしている容子——あれほどの男を、しいたけ髱なんぞだけに、せしめさせて置くってわけはねえよ。おいらあ、もう、遠慮はいやになった。
 根が小屋もののお初、こう思い立つと、火の玉のようになって目的をさして飛びかかってゆく外にない気がするのだ。
 ——そうだとも、愚図愚図しているうちにゃあ、いつかこの髪だって、白くなってしまわあね——それどころか——
 と、さすがに淋しく、
 ——いつまで、胴についている首だかわかりゃあしないよ。
 彼女は、だんだん木枯じみて来る夜の、風の音を聴き分けるにつけ、現世の望みを、一ぱいに、波々と果たしてしまいたい気持に、身うちを焼かれて来るのだった。
 ——おいらあ、あの太夫を口説いてやろう。江戸のおんなが、どんなに生一本な気持をもっているか知らせてやろう——なあに、あいつが、肯かねえというなら、そのときは、あいつの敵の味方になって、さんざ泣かせてやるだけだ。
 お初はあらぬ決心をかためて、茶碗に酒をドクドクと注いで、紅い唇でぐうっと引っかけるのだった。

 ひたむきな、突き詰めた恋ごころが、女ぬす人の魂を荒々しく掻き乱した。
 お初の情熱は、いわば、埒を刎ね越えた奔馬のようなものであった。
 軽業おんなのむかしの、向う見ずで、無鉄砲で、止め度のないような、物狂おしい狂奮性がカーッと、身うちによみがえって来たのだ。
 小屋もの、女芸人とあざけられて、人並の恋さえゆるされなかった世界に、少女時代をすごした彼女は、むしろ反抗的な、争闘的なものをふくんでいない愛情なら、決して欲しくないような気さえするのだった。
 ——あの女がたのまわりに、何百人の女がまつわっていたって、それが何だ? どんな家柄や金持の娘たちが、わがもの顔にへばりついていたって、それが何だ? おいらだって、生っ粋の江戸ッ子なんだし、どんな男の奴も、一目見れば、ぽうッとなってしまうだけの色香もまだ残っているんだよ。ようし、三斎のむすめとだって、立派に張り合って見せようじゃないか。
 そう思い立って、愚図愚図していられるお初ではない。
「婆や!」
 と、叫びながら、手をパンパン鳴らして、
「婆や、お湯の支度をしておくれよ。急ぐんだよ——大いそぎ」
「お出掛け?」
 と、台どころから言うと、
「うん、出かけるのさ、ちょいとめかして出かけたいのだよ」
 小さいながら、檜の香の高い、小判型の風呂が、熱くなるのを待ちかねて、乱れかごに、パアッと着物をぬぎすてると、大ッぴらに、しんなりとしていて、そして、どこにか、年増だけしか持たないような、脂ッ濃さを見せた全裸に、ざあざあと、湯を浴びせはじめるのだった。
 胸も、下腹部も、股も、突然かけられた熱い湯の刺戟で、世にも美しいももいろに変わる。
 ——おいらだって、文身ひとつからだにきずをつけずに、今まで暮して来たのだ——長さんの名前だって、二の腕に刺れやあしなかった——だけど、ねえ、太夫、おめえの名なら、このからだ中に一めんに彫ったっていいと思っているのさ。
 ふっくらした腕を、左右、そろえて、見比べるようにしながら、こんなことを、彼女はつぶやくのだった。
 いつもの、薄化粧を、今日は、めっきり濃くして、丁寧に髪を掻いたお初、大好きな西陣ちりめんの乱立てじまの小袖に、いくらか堅気すぎる厚板の帯、珊瑚も、べっ甲も、取って置きのをかざって、いい時刻を見はからって、黒門町の寓を出る。
 芝居町のまがきという茶屋の前まで来て、かごを捨てると、奥まった一間に通って、糸目をつけぬ茶代や、心づけを、はずんだが、
「ちょいと、たよりをしたいところがあるから硯ばこを——」
 女中が、持って来た、紙筆を取り上げて、小綺麗な、筆のあとでお初は書いた。
折り入ってお話しいたしたきことこれあり候まま、ちょいと、お顔拝借いたしたく、むかし馴染おわすれなされまじく候。お高祖頭巾より
 この手紙はすぐに中村座楽屋に届けられた。

 お初が、そんな境涯に育ったにも似合わず、器用な生れつきで、さして金釘という風でもなく、書き流した手紙が、中村座の楽屋に届けられたとき、雪之丞は、それを読み下して、ジッと考えたが、思い当たることがあるように、目にきらめきを湛えた。
 使いの女中に、
「このお女中、背のすらりとした、物言いのきびきびしたお人でありましょうね?」
「ええ、さようでございます。よく気のおつきになるような、下町の御新造さんというような方ですが、手前どもへは、はじめておいでで、くわしくは存じません」
「お目にかかり度いが、何分、今晩は、先にお約束したところがありますゆえ、またいい折に、お招きにあずかりたいと、そう、丁寧に申し上げて置いて下されるように——」
 茶屋の女中は、たんまり心付けを貰っている事ではあるが、雪之丞ほどの流行児を、そう気ままに扱うことが出来ないのは承知ゆえ、
「さぞ、残念にお思いなさると存じますが、よんどころございませんから——」
 その返事を持ってゆくと、お高祖頭巾の女と名乗ったお初は、別に失望したようでもなく、さもあろうというように、うなずいて聴いて、
「大方、そんなことを言うであろうと思うていたが——お気の毒だけれど、もう一度、手紙を届けて下さるまいか——」
 そして、新しく、結び文をこしらえた。その文面は、
壁にも耳のあることにてござそろ、密事は、おん宿元にても、かるがるしく申されぬがよろしく候、くわしくお物語いたしたきけれど、おいそがしき由ゆえ、今宵は御遠慮申し上げまいらせ候、かしく
 茶屋の女は言われるままに、又も雪之丞の楽屋をおとずれねばならなかった。
 もうすっかり滝夜叉の出の支度をしていた雪之丞は、結び文を解いて一瞥したが、この刹那、彼の顔いろは、濃い舞台化粧の奥で、サーッと変ったように思われた。
「このお女中、この手紙を置いて帰られたか?」
 と、彼は、いくらか震える唇でたずねるのだった。
「いいえ、まだ——多分、お返事を、おまち兼ねと思いますが——」
「では、はねたら、すぐに伺うゆえ、しばしおまちを——と、そう申して置いて下され」
 出場だった。
 稀世の女がたは、楽屋を出て行った。
 お初は、女中から、二度目の手紙が、十分に奏功したということを聴くと、ニンヤリと、染めない歯をあらわして笑った。
「まあ——現金な」
 そして、女中に、あらためて骨折りを包んでやった。
「太夫が来たなら、お酒の支度をして下さいよ」
 女中が去ってしまうと、お初は、ジーッと、瞳を見据えるようにした。
 ——あの人は来るそうな。来ずにはいられぬわけさ。でも、怖わ面で口説くのはいやだねえ——おいらの気持をじきに判ってくれて、たった一度でも、やさしい言葉をかけてくれればいいけれど——このおいらは、敵にまわると、どんなことをするかわからないから——

 芝居茶屋の奥ざしき、女客と役者の出逢いのために出来たような小間には、手を鳴らしてもなかなか女中さえはいっては来ないような工合になっていた。
 その、しいんとした、静かな部屋に、珍しく襟に顎を差し込んで、うなだれ勝ちな、殊勝なすがたをしているお初、やがて、小屋の方で大喜利の鳴物、しゃぎりの響きが妙な淋しいようなにぎわしさで聴えると、唆られたように顔を上げた。
 ——おや、もう、閉場るようだが——
 鬢にさわって見たり、襟元を気にして見たりしているうちに、間もなく、廊下がかすかに鳴って、女中の案内で現れて来たのが、朱いろの襟をのぞかせた黒小袖に、金緞子の帯、短い小紋の羽織——舞台化粧を落したばかりの雪之丞だ。
「ようこそ——さぞいそがしいからだでしょうに——」
 お初はいくらか上釣ったような調子で迎える。
「長うはお目にかかれませぬが、折角のお招きゆえ——」
 女中は、ほんの形ばかりの酒肴を並べると、去ってしまった。
 雪之丞が、まるで容子を変えて膝に手を、屹ッとお初を見上げたが、
「いつぞやは、思わぬところで逢いましたな?」
「おかげさんで、あの折は——」
 と、微笑したお初、もう、心の惑乱を征服した体で、猪口を取ると、
「太夫さん、まあ、おひとついかが——」
「いや、ほしゅうござりませぬ」
 雪之丞は見向きもせず、
「それよりも、今宵、話があるとて、わざわざのお呼び——その話というのを、伺いたいもの」
「まあ、三斎屋敷のお局さまとは、深更けの酒ごともなさるくせに、あたし風情とは杯もうけとられないとおっしゃるの——ほ、ほ、ほ」
 お初は、冷たく笑って、手酌で、自分の杯に注ぐと、うまそうに一口すすって、
「やっぱし、お前さんも芸人根性がしみ込んでいるのかねえ——それ程の大事を控えた身でも——」
 雪之丞の、美しい瞳に、冷たい刺すようなきらめきが走った。彼はあの二度目の手紙を受けてから、何かしら決心しているに相違ない——壁に耳——若し、大事を真実この女白浪に気取られているとしたら、生かしては置けないのだ。
「わたしとそなたとはあの夜だけ、ほんのかりそめに出逢うた仲、それなのに、なぜまた立ち入ったことを言われるのじゃ?」
「ほ、ほ、袖擦り合うただけのえにしでも、一生の生き死にを、一緒にせねばならぬこともありまさあね——わたしが、お前さんが、どんな大望を持っているか、それを知って、かずならぬ身でも、力を添えようといったとて、何の不思議もありますまい。わたしは、ねえ、太夫、お前を敵にまわし度くはないのですよ」
 お初の目付には、相手の胸の底に食い入ろうとするような、荒々しいものが漲った。
 雪之丞は、その瞬間、ハッと、何ものかを感得した。
 ——この人は、わしに何か望みをかけている。世の中の、多くの女子のように——
 彼は一種の恐怖と嫌悪とを感じた。そしてその女が、しかも、自分の大秘密をかなりくわしく知ってしまっているらしいのだ。

 しかし、雪之丞に取っては、一生の大秘事を、感付いているらしい、この女白浪のお初が、自分に対して、毒々しい恋慕の情を抱いているのがまだしもな気がした。
 事を仕遂げるまで、何とか綾なして置くことが出来るとすれば、手荒くふるまわずとも済むであろう——女一人の、いのちを断たずとも済むであろう。
 けれども、お初は、恋にかけても、強たかなつわものだ。すこしも緩めを見せようとはしない。
 ぐっと飲んだ杯を、突きつけるように差しつけて、
「ねえ、太夫、何もかも、不思議な縁と、きっぱり覚悟をしておくんなさいよ。すこしはこれで、鬼にもなれば、仏にも、相手次第でどうにもなる女なのさ——だけど、ねえ、いのちがけで想い込んだお前、決して、御迷惑になるようなことは、したかあないのですよ」
 雪之丞、苦い思いで、杯を干して返して、
「思召しは、ほんとうにうれしゅうござります。もうじき今月の狂言もおわりますゆえ、そうしたら、ゆっくりお目にかかりたいもの——」
「何ですッて! 気の長い!」
 と、お初はジロリと、流し目をくれて、
「あたしが、どんな世界に生きている身か、知らないお前でもあるまいに——」
 彼女は、別に、声も低めなかった。
「いつ何どき、見る目、嗅ぐ鼻、ごずめずの、しつッこい縄目が、この五体にまきつくかわからないからだなのですよ——明日のあさっての、まして、十日先きの、二十日先きの、そんなことを楽しみにしてはいられないのです——」
 じれったそうに、お初は唇を噛みしめて、ぐっと、からだを擦りつけるようにするのだった。
「それは、よう知っているなれど——しかし、そんなに性急にいわれても——」
 雪之丞は、そこまでいって、女の了見が、怖ろしいまでに据わっているのを見ると、いっそ正直に、何もかも打ち明けた方が——と、思って、
「実は、そなたは、どう思うていられるか、この雪之丞、心願のすじがあって、女子に肌をふれぬ決心をかためている身——そなたなら、この気持を、察して下さるだろうと思うのでござりますが——」
「ほ、ほ、ほ!」
 と、お初は突然、すさまじい声で笑った。
「ま! 本気そうな顔をして——ほかの人なら、その一刻のがれもいいだろうが、このあたしにゃあ通らないよ、なぜと言って、お前は三斎の娘御の、お局さまを、どん底までたらし込んでいるというではないか——見通しの、あたしの目を、めくらにして貰いますまい——」
 ちょっと、指で、雪之丞の口元を突くようにして、
「まあ、こんな、可愛らしい口付をして、何という嘘ばっかり——」
 と、笑ったが、急に、頬を硬ばらせて、
「太夫、用心して口をおききなさいよ——相手が、ちっとばかし変っているのですからね——そして、そういっては何だけれど、あたしの口ひとつで、お前の望みがけし飛ぶのはおろか、いのちさえあぶないのだ」

 この女、捨鉢に、どこまでも追い詰めて来る気じゃな?
 雪之丞は、浅間しいものに思って、ゾッと寒気さえ感じたが、お初の方では、相手の気持の忖度なぞは少しもしなかった。
 見れば見るほど美しいし、こちらの身分を知って、厭気を露骨に見せているのを見ると、ねじくれた恋ごころが、却ってパアッと煽り立てられて来る。
「ねえ、太夫、あたしを、清姫にならせずに置いておくんなさいよ——あたしは自分で自分をどうすることも出来ないように、いつの間にか成ってしまっているのです。あたしは、お前をちっとも苦しめたいことはないのですよ。たった一度、かわいそうな女だと、抱き締めてくれさえしたら——」
「そなたは、わたしが、どんなに本気に申しても、わたしの心の誓い、神ほとけにも誓ったことを信用が出来ないのだ」
 雪之丞は、困じ果てて、
「わたしが何も、そなたがどんな渡世をしているからというて、それをいとうではさらさらないなれど、今この場で、望みを叶えて上げることは、何としても日頃の高言に思い比べても出来にくい。そこを、よう聴きわけてくれたなら——」
「いいえ、いやじゃいやじゃ」
 と、女賊は、髷がゆるみ、鬢の毛がほつれるほど激しく、かぶりを振って、ぎゅっと、雪之丞の二の腕を、爪の立つほどつかむのだった。
「あたしは、思い立ったら、ついその場で、火にも水にも飛び込んで来たからだ——ことさらここまで思いつめ、ここまで口に出した願い、この場でなくては怺えられぬ、いやなら、いやで、あたしだとて、可愛さ、憎さ——どんなことでもしてのけますぞえ」
 事実、この女、自分を捨てる気になったら、こうして一緒に地獄の底までも引き落してゆくだけの、怖ろしい決心をつけかねぬ形相だ。
 雪之丞は、運命のいたずらに、呆れ果てた。
 ——蠅一匹殺したくはないのだけれど——ことに依ったら、この女を、何とか始末せねばならぬか知れぬ。
 雪之丞、毒蛇のように、火を吐かんばかりに、みつめて来る、相手をチラリと見返して、
 ——思い直してくれればいいのに、何という執念ぶかさ!
「何をじっと見ていなさるのさ」
 お初は、手酌で、杯をふくみながら、
「あたしの顔が、蛇にでもなったの? 角でも生えたの?」
「ではこういたそうかしら」
 と、雪之丞は、強いたやさしさで、
「折角の、そなたの心持、このまま、別れてしまうのも、何となく、わたしも心淋しい——さりとて、この家では、どういたそうとて、人目もある——」
「ま!」
 と、お初は、急に、生き生きと、躍り立つような目顔になって、
「嬉しい!」
「大分更けたようだし、そろそろこの家を出た方が——」
「で、これから、どこへ行くつもり」
 お初は、猪口を、器用に、水を切って、
「外は寒いから一つおあがんなさいな」
 雪之丞は、うけたが、呑まずに、膳に置いた。
「待乳山とやらの下に、しずかそうなうちがありましたが——」

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