開国男! 『マシュー・ペリー』 提督の真実!

マシュー・ペリーの思惑

 ペリー提督と言えば、幕末期における、もっとも有名な外国人――といってよいでしょう。
 四隻の黒船を(内二隻は帆船)率いて来港し、夜も眠れぬ騒ぎを引き起こしたんですから、当時も今も日本人の記憶と記録に強く残っています。まあ、現代日本人は、教科書などを通じて知っておるだけですが。
 ともあれ、開国交渉の任についていたものの、このペリー、ただの外交官ではありません。というより、親父は私掠船の船長、兄二人は海軍畑。つまり絵に描いたような軍人一家に育ったわけ。
 自身も海軍社会にとびこむと、蒸気船の強化、士官教育の分野で頭角をあらわし、造船所長やその司令官を歴任! 本国艦隊司令にはなやかに就任したのち、大統領の命をうけ、はるか極東へと旅だったわけです。
 骨の髄まで海軍気質にそまったペリー提督。
 時の大統領が、第十三代ミラード・フィルモア(日本への航海中に、ピアース十四代大統領に交代)。
 大陸横断鉄道の敷設を推進し、ハワイ王国を支配化におくことに成功した人物だ。ところが、この大統領、日本との交渉では、「できるかぎり穏便に」すすめるよう厳命していたのです。
 ところが、ペリーは根っからの軍人だ。関係ないけど、フリーメイソンだ! 戦うということが、血管の裏側までしみ通っている。大統領には無断で恫喝外交を展開! 一方の幕府は、オランダからの事前情報で要求内容も想定済みで準備を進めていた! ところが、やってきたペリーは、交渉をするつもりがない。自分の要求をおしとおすことしか考えず、返答が気にくわないとなると、平和なお江戸に大砲を向けたのだから、幕府も庶民も大騒ぎです。
 幕府が禁じた江戸湾測量もかってにはじめる。幕府は一年の猶予をなんとか引き出すことに成功したが、ペリーはわずか半年でまた来航! これは将軍家慶の病死をねらってのことのようですが、やることがエグい。
 もっとも、交渉にあたった武家だって、長い平和の間もまったく貴族化せず(貴族はべつにいたから)武家としての本性を――多少骨抜きにはなっていましたが――いまだ保っております。
 そんな侍のおさめた国家ですから、小舟でのりこんでやっつけろ! なんて意見まで庶民からでる! 軍人対軍人が交渉にあたったようなわけですが、このペリー提督。出発前の上申書では、交渉次第ではありますが「琉球を占領する」とまで書いているんですね。これ、政府も承認していました。じっさい、先についた琉球では恫喝外交を堂々と行っています。

 ペリーは、もともと日本に対しては、恫喝をもってすべしという持論を、ずっともっていた人なんですね。
 記録に残っているものからわかるのは、
「蒸気船さえみせれば、日本人も、近代国家の軍事力を理解するはずだ」
 だとか、
「中国人同様の脅しをかければ、交渉にも効果があるし、国益にもつながる」 
 ペリーは、中国との交渉結果をふまえたうえで、日本も東洋の一国家にすぎないと、十把一絡げにまとめて考えていたんですね。(でも、40冊以上の書物を読んで日本のことは勉強している。オランダの妨害も予想していたので、長崎での交渉ははやくから拒絶すると決めていた)
 

 まあ、日米和親条約もちゃんと結んでいるんですから、成功したことはまちがいない。

ペリーはいい人なのか?

 ところで、ペリーが高圧的な態度に出ようとしたのは、なにも個人的な感情によるものばかりではありません。
 そもそも日本の対日政策が、穏健から強硬路線にかわったのは、当時のアメリカで「アメリカの遭難船員に、日本人が非人道的な虐待を行った」という謝った報道が信じられたためです。
 アフリカ艦隊の司令長官時代には、黒人奴隷を祖国に帰す運動にも参加して、実際に再移民の船団の指揮をとっています。これは、イメージが覆りますよね。江戸時代の浮世絵にかかれたペリーは天狗だもん。
 この功績のおかげか、マシュー・ペリーはリベリアでも著名なひとなんですね。

ペリー提督のその後

 ペリー提督って、ちゃんとしたぐんじんなんですね。
 蒸気船を主力にした海軍力の強化につとめて、「蒸気船海軍の父」とも呼ばれています。部下からは、「熊おやじ」なんてあだなもつけられていたそうです。
 この人はちゃんと海戦にも参加してます。海軍に入隊したのは、わずか14歳のとき! 二年後には兄二人と米英戦争に参加してます。ちなみに兄貴のオリバー・ペリーは、エリー湖の戦いで英雄となり、教科書にまで載っています。アメリカ人にとって、ペリーといえば、このオリバーで、弟のマシューペリーは、たいして知られてないんですね。意外。1819年のベネズエラ遠征時に亡くなっているので、1853年ペリーさんが日本にきたときは、とうに亡くなったあとです。ペリーが功績を出そうとし、退役後に日本遠征記などの出版を行ったのも、兄貴の陰に隠れがちな自身の立場をどうにかしたかったのかもしれませんね。

 日本開港をとげたあとは、体調不良となって、1855年に退役しました。日本遠征記、琉球訪問記などの出版に注力。1858年、63歳で死去。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあります。

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