殉死はつらいよ……

武士と言えば、江戸の華。受ける刑罰も庶民とはちがいます。たとえば、磔や火あぶり、のこぎり引き、などといった重い罰は武士にはありませんでした。

とはいえ、死罪がなかったのかといえばそんなことはなく、武士には他殺、という処刑法が、総じて適用されなかったからです。

それは、武士は、自らを処するもの、との考えに基づくもので、閉門、蟄居、召し放ち、切腹などがありました。

近藤勇は、新撰組八犬伝の冒頭で、斬首されていますが、あれなどは、お前は、武士とは認めないと言っているわけで、なににもまして重い刑罰であったわけです。なんせ、江戸の華ではなくなるのですから。

このうち、もっともよく適用されたのが、召し放ち、でしょう。今で言えば、解雇? リストラ? といってしまうと、武士にかわいそうですが、まさにそれ。お前はもう家来じゃないっていわれちゃうんですから。江戸時代の武士にとっては、なにより大事な、お家、を取り潰されてしまうわけです。これはきつい!

閉門と蟄居は、現在では、きかない罰ですよね。蟄居は、出勤や外出を禁じられて、一室に謹慎させられる刑のことで、勝海舟のおやじさんなんて、天保の改革やらにひっかかって、蟄居謹慎させられています。まぬ、息子の海舟も蟄居処分は受けているので、遺伝なんですかね?

閉門は文字通り、家の門という門をふさぎます。屋敷の窓も塞がれて、門は竹で作った囲いでふさぐ。あるいは、表玄関を釘でうちつけて、出入りできぬようにする。夜間には出入りすることができたようですが、目立つことこのうえないですね。武士にとっては、きつい生き恥です。

期限つきの場合もあれば、一生つづく場合もあります。永久蟄居というのがそれです。

さて、タイトルにある殉死ですが。これは自殺ではありますが、刑罰ではないですよね。主君の死後、家来たちが後を追って命をたつことをさすわけですが(追い腹ともいいます)、戦国時代にはよくあった風習のようです。

これが、平和になった江戸時代にもあったのです。

たとえば将軍さまの殉死ですが、家光のときは、五人。秀忠公は一人。神君家康公は……誰もいません。殉死がなぜ平和な江戸に流行したのかはじつはきっかけがあって、それは家康公の四男、松平忠の病死がきっかけなんですね。このとき、殉死をしたのが、近臣の三人。これが美談として、世間にひろまっちゃいます。これをきっかけに真似するものがあらわれた。すると、殉死をした武士の遺族には、褒美まででる。名誉もある。ものまね殉死があいついで、ブームのようになっちゃったわけ。

だから、家康公は一人寂しく神様になったのに? 家光の時代では、五人も殉死がでたんですね。もっとも殉死がおおかったのは、鍋島勝茂。隆慶一郎の「死ぬこととみつけたり」でも、有名です。この殿様の殉死が26人。そりゃ死にすぎでござらあ。

殉死をしたものには、下級武士もたくさんいたそうですが、忠義の心をしめそうとしたのか、ともあれ、そのたびに有能な人材がいなくなったのでは、藩としてはたまらない。四代将軍家綱公は、殉死を禁止。五代将軍綱吉公は、下級武士の殉死も禁じて、ここに殉死の火はようやく消えたというわけです。

めでたしめでたし……かな?

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