明治従軍記者実情

 新聞離れ、が、進んでおりますが、日本に新聞が誕生したのは、天下国家を盛んに論じるようになった幕末のこと。

 明治になると、旧幕臣が中心となり知識人が新政府の失政を叩き、文明開化を論じる場として多くの新聞が創刊されました。

 新聞業界は吸息に発展して、部数戦争が巻き起こります。いかに読者の興味をひくか、スクープをとるか。

 1894年の日清戦争は、格好の活躍の場となりました。国民の関心事としては、これ以上のものはない。少しでも鮮度のよい現地情報をえるのに、重要となったのが従軍記者でした。

 指揮官にはりつくことのできる、コネをもつ記者が尊ばれましたが、そんな記者は数がいない。

 そこで用意されたのが、文章のプロでした。文才さえあれば、戦場のレポートは思うままに、臨場感を出すことができる。そこで、新聞社が目をつけたのが、小説家、と、画家です。小説家ならその文章力で、戦場の様子を紙面に自在に展開できる。また写真が普及する前なので、優れた画力で読者の視覚に訴える画家は必須。

 明治の小説家や画家、知識人といった人たちは、よほど血気盛んであったのか、自ら危険な戦場に身を投じていったのです。その中には、今も教科書にのる各界の大物たちが、きら星のごとく並んでいます。

 テレビ時代劇にもなった半七捕物帳をものにした岡本綺堂。

 武蔵野で知られる国木田独歩。小説家になる前は、新聞記者でした。

 他にも、俳人の正岡子規。西洋画家の黒田清輝。書道家の中村不折。地理学者の吉田東伍。翻訳家の水田栄雄。

 日銀総裁、貴族院議員を務めた深井英五。電通を創立、光永星郎。

 文才、画才を認められての起用とはいえ、後に名を残す人々が多かったのはさすが。案外、日清戦争での従軍経験が、後の人生に影響を与えたのかもしれませんね。

 

 

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