新撰組八犬伝用 人物紹介動画ファイル! 「近藤勇昌義の場合」その一 ――史実の中の近藤勇

 七味春五郎の手による執筆のはじまった新撰組八犬伝ですが、こちらは八犬伝と題するだけあって、史実どおりとはいかないです。そこで、今回は、史実の新撰組は、どのようなものであったのか、おおまかな流れを追っていきたいと思います。

 それでは、新撰組と歴史の流れを、近藤勇を中心にざっとみていきましょう。題して、史実の中の新撰組、その発足と、京都時代編です。

 

史実の中の近藤勇!

 近藤勇は、江戸時代末期に生まれた。新撰組局長として高名な人物であり、甲陽鎮撫隊をひきいた折りは、大久保大和と名乗っていた。この大久保姓は、徳川慶喜より、特別にたまわったものである。天然理心流、四代目宗家としても知られている。

 近藤勇の生誕は、天保五年、1834年の事であった。割合に裕福な農家であったようで、父久次郎と、母みよとの間には、長男音五郎と、三男粂蔵がいる。幼名は勝五郎で、後に勝太と改めている。

 さて、勝五郎が江戸牛込にあった試衛館の門を叩いたのは、嘉永元年1848年の十一月のことであった。天秤よろしく、翌年の六月には目録を受けている。同年十月十九日には、三代目近藤周助の養子となった。嶋崎勝太と名乗ったのち、近藤勇と名を変えている。

 万延元年1860年には、松井つねと結婚。翌年には、四代目襲名披露の野試合を行った。二年後には、一粒種となる、長女たまが誕生している。

 なお、近藤の試衛館道場は、福地桜痴によれば、手入れの行き届いたこぎれいな道場と家屋であったという。百坪ほどの土地に建つ平屋造りで、狭いながらも前庭、中庭、後庭をそなえ、庭石や、山紅葉、高野槙などが植えられていたという。実戦に強い剣法で、のちに京洛に血風をまき散らすことになる。

 天然理心流は、日の宿の名主であった佐藤彦五郎をはじめとする有力門人をかかえており、上京後も書簡を用いて交流し、またこの門人たちもたびたび援助を行って、勇を助けた。

 ちなみにこの彦五郎と小野路村の名主であった小島鹿之助とは、義兄弟の契りをかわしている。両人ともに豪胆な人物であったらしく、幕末には、幕府の献策をうけいれて、農兵隊を組織し、その一部は、のちに甲陽鎮撫隊と行動をともにしている。

 

勇、京へ上る

 こうして、多摩地方で、道場経営を行っていた四代目近藤勇が、門人とともに風雲を告げる京へとのぼることになったのは、文久三年、1863年のことであった。清川八郎の浪士組募集にのっかってのことであった。徳川家茂の上洛警護がその目的であったが、京に到着したこの当夜、清河は突然、朝廷への尊皇攘夷の志を建白するという、その真の目的をあかし、江戸に帰還するといいはじめた。もともと近藤は、幕府直轄領であった多摩地方の農民である。幕府にたいする忠義の心は篤い。あくまで朝廷を優先する清河に反発したといわれている。

 近藤をはじめとする試衛館組八名の他、水戸藩出身の芹沢鴨ら、計24名が分派として京に残留することになった。

 文久三年三月四日。十四代将軍、徳川家茂が入京。二条城に入った。将軍の上洛は、三代家光の後はおこらず、実に229年ぶりの出来事であった。近藤ら三十数名は、伏見で家茂をむかえ、二条城まで警護している。近藤の感激はいかばかりか。

 このとき、家茂は、天皇とともに、賀茂神社に参拝しており、天皇が公式に御所をでたのもまた、実に237年ぶりの出来事だった。家茂は三度上洛し、上洛したまま、大阪城にて亡くなっている。家光の頃は、三十万の行列であったが、このとき、家茂が引き連れたのは、わずか三千名あまりであった。

 同年三月十日には、京都守護職であった会津藩主松平容保に嘆願書を提出。これが受理され、市中警護を目的とした壬生浪士組が結成された。三月二十五日には、浪士組の一人、殿内義雄を暗殺している。新撰組最初の粛正と言われている。脱退、切腹、病死が相次いで、壬生浪士組は、結局、近藤ら試衛館派と、芹沢派五名の二大派閥を形成することとなった。

 この時期、将軍家茂の東帰は六月のことであり、将軍に随行していた井上源三郎の兄、松五郎とさかんに交流している。

 

 同年の夏には、八月十八日の政変がおこり、このときの働きが認められ、武家伝奏より、新撰組の名を拝命している。ちなみにこれ以前は、自らを、壬生浪士の他、誠忠浪士、真浪など様々な名で読んでいたようだ。新撰組の名は、会津藩の軍制に古くからあるそうで、市中見廻りを命じられたことからも、期待のほどがうかがえる。

 近藤・土方は、新見錦を自殺させると、田中伊織を暗殺。九月十六日には、芹沢鴨らを暗殺と、立て続けに粛正を行っている。

 八月十八日の政変以降、京都政局は近藤の支持する公武合体派が掌握することになり、一橋慶喜、松平容保、これに桑名藩主松平定敬をくわえ、「一会桑政権」が発足することとなった。新撰組がその一角を担ったのはゆうまでもない。

 

池田屋事件と禁門の変

翌元治元年1864年のことである。尊攘派志士の京都潜伏をつかんだ新撰組は、枡屋喜右衛門を捕縛する。このとき、邸内からは、鉄砲甲冑および諸藩浪士との書簡や血判所が見つかっている。この枡屋の正体が古高俊太郎である。長州藩の間者の大本締めであった。

古高の供述から、放火計画をしった新撰組は、探索を開始し、同日には、池田屋にて多数の志士と斬り合い、この捕縛に成功している。宮部鼎蔵、吉田稔麿をはじめ七名が死亡。重傷は四名。二十三名の捕縛であった。新撰組の名は一挙に高まった。出動隊士三十一名が受けた報奨金は、換算して、二千数百万に及んだと言われている。一方多数の志士を失った長州藩は、七月十九日、禁門の変を引き起こす。蛤御門にて、会津薩摩ら幕府兵と激突した。

 新撰組も東九条村にて長州藩と激しい銃撃戦を行い、これを打ち払っている。翌々日の21日には、新撰組四十名と会津百名とが、天王山を攻めている。真木和泉ら十七名は、陣屋に火を放って自刃している。その潔さに心を打たれた近藤らは、彼らの遺体を手厚く葬っている。

 禁門の変は一日で終結したが、二万八千戸の家屋をやく被害を出した。江戸には近藤の死亡が伝わったほどである。小島鹿之助は、義兄弟の安否を確かめようと奔走。約一ヶ月後には、生存が確認され、胸をなで下ろしている。

伊東甲子太郎の入隊と、山南啓助の死

 池田屋事件、禁門の変と大事件が続き、脱走と粛清により、隊士の補充が急務となった。目前には長州征討がせまっている。近藤は再び江戸に下向し、隊士募集をつのる。このとき、せんじて京を発っていた藤堂平助が伊東甲子太郎を紹介している。

 近藤は、伊藤の人品を高く評価し、入隊を切望する。これに応える形で、伊藤は道場を畳み、実弟、門人同士をひきつれて、新撰組に入隊した。

 近藤は、伊藤を厚遇し、参謀というあらたな役職までもうけている。広島への出張にも伴うほどだったが、水戸学を学んだ勤王派の伊藤は、佐幕よりの新撰組とは相容れなかったようだ。

 伊藤入隊の翌年、元治二年二月には、山南敬助が脱走し、切腹するという事件が起きている。山南は、文久三年十月、大阪での不逞浪士との斬り合いで重傷を負っており、以降は病床にふし、表舞台から姿を消している。初期は芹沢の暗殺にも加わった山南だが、池田屋にも禁門の変にも病のため、参加できていない。一説には、屯所移転に反対した山南の抗議の脱走だったとも言われている。その潔い切腹を近藤は賞賛している。

 五月改元が行われ、慶応となった。閏五月二十二日には、家茂が再度上洛し、新撰組は再び二条城までの警護を行っている。

 慶応二年、近藤は前年につづき、広島出張を松平容保より下命(かめい)されている。だが、いずれもうまくいかなかったようである。

 同年の九月には、伊藤との間で、時局論の対立がおこり、近藤は分離を警戒するようになった。

 慶応三年、伊藤らは新撰組を離れ、御陵衛士となった。近藤土方もこれを認めている。

 同年六月、新撰組隊士は全員が幕臣となった。近藤はお目見え以上の旗本となり、以降は、要人との交渉をおこなうようになった。なお、同月には、西本願寺から、不動堂村に屯所をうつしている。

 十月十四日、薩長に、倒幕の密勅が下り、徳川慶喜は、大政奉還を行いこれを回避している。十八日、近藤は伊藤甲子太郎を酒宴に誘い出し、油小路にて暗殺。その死体を用いて、御陵衛士をさそいだし、襲撃している。

 

 十二月九日には王政復古の大号令が出された。新撰組は将軍不在となった二条城の警護を命じられている。

 十八日。上京した近藤は、御陵衛士の篠原ら八名に、馬上にて銃撃を受ける。近藤は右肩に傷をおい、剣士としての生命をたたれた。一報をきいた慶喜と容保は、伏見まで医師をさしむけている。

 近藤は病状の悪化していた沖田とともに、療養のため下阪し、以降京の地を踏むことは二度となかった。

 

 いかがだったでしょうか? 今回は、時系列にしたがって、近藤勇と新撰組の事件を扱いましたが、次回以降は、近藤勇の背景事情や、新撰組の事件簿などの詳細に迫りたいと思います。

 新撰組八犬伝においては、義の珠の犬士でありながら、冒頭より斬首される近藤勇。盟友土方歳三は、信の珠の犬士であり、この斬首を見届けています。未来を見通すことのできる土方は、近藤の復活を予知するのですが、その方法は果たして……

 

 

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