曲亭馬琴 豆知識

■新撰組八犬伝と曲亭馬琴
新撰組八犬伝、の元ネタは、もちろん南総里見八犬伝です。
この項では、Twitterの投稿記事をまとめていきたいと思います。■曲亭馬琴はこんな人
曲亭馬琴は、江戸期における、随一の小説家です。著作も多く、ベストセラーをいくつもだし、なにより、副業なしに原稿料のみで暮らせたのは、この人だけです。
当時、戯作者というのは、ちゃんとした職業ではなく、社会的には一等下に見られていました。

曲亭馬琴は、生涯に数百冊もの著作を残しました。目が見えなくなり、里見八犬伝を仕上げてからも、創作を辞めませんでした。
73才で失明し、没したのが82才でした。このため、傾城水滸伝、近世説美少年録など、未完のままとなってしまいました。

■北斎と曲亭馬琴
馬琴に関しては、高岡先生も、何も言わないですね。葛飾北斎については、たびたび言及されてるんですが。

馬琴と北斎は、全く同時代の人でして、組んで仕事をしたこともあるそうです。北斎が馬琴の挿絵を描いてたんですよ。
寝起きをともにしながら作品を仕上げたそうです

葛飾北斎の挿絵とは、豪勢ですが、これは当時の#浮世絵師 が、何でも描けて、はじめて一人前と認められた、という職人側の事情もあります。北斎は、春画も描いています。自分で文章まで書いたそうです
ともあれ、江戸期最高の戯作者と浮世絵師がコンビを組んだというところが、面白いですね

江戸 期の挿絵は、文章と絵を巧みに組み合わせた構図になっており、作家が下絵を描き、絵師に細かく注文をつけたそうです。

ただ、二人が組んだときは、北斎ももう四十代で#浮世絵師 として、売れはじめた頃
馬琴に、もっとも多くの挿絵を提供した北斎ですが、衝突するとこも少なくなかったようです

葛飾北斎とは、喧嘩別れしたとの、言い伝えもありますが、馬琴は、人への手紙の中では、北斎を絶賛していたそうです。また、後に八犬伝の挿絵を書いた柳川重信は、北斎の弟子にして、娘婿でもあります

北斎、馬琴、二人ともに、稿料が高くなったので、版元が組ませるのを嫌がった。北斎の人気が高まり、読本の挿絵を書いている暇がなくなったともいわれています。こちらが真相かも知れません。

曲亭馬琴の生年は、明和4年6月9日 1767年7月4
死没が嘉永元年11月6日 1848年12月1日

一方、葛飾北斎、宝暦10年9月23日 1760年10月31日 死没が、嘉永2年4月18日 1849年5月10日

北斎の方が年上ですが、亡くなったのは、半年ほどしか変わらないんですね
合掌

■南総里見八犬伝
曲亭馬琴 は、稿料だけで生活できましたが、今のような印税システムが、ありませんでした。原稿料のみで暮らせたとはいえ、数百冊もの、作品を残してますから、やっぱり楽ではなかったのかな?

里見八犬伝 は、文化十一年1814年に刊行されました。天保十三年 1842年にようやく完結。足かけ28年。

この25年後には、江戸幕府までなくなります。

この28年のうちには、息子が亡くなったり。目が見えなくなったり。息子の嫁に代筆させたら、自分の嫁が怒って、嫁と姑の大戦争。

そんなことやってたら、奥さんの百さんも亡くなり

まあ、大変ですよ。代筆やってくれたお路っつあんは、読み書きが満足にできなかったんですから
馬琴程の作家で、おまけに八犬伝が未完となったら、版元も手を尽くして代筆を用意したはずなんですが、馬琴先生、自分の性格をよくわかってたんですかね

■馬琴の出生と放蕩時代
曲亭馬琴は、下級武士の出と思っていましたが、曾祖父の興也は、旗本松平家の家老だったそうです。ただ、父の代に小姓にまで没落
父の興義は、滝沢家再興を目論み、五人の兄弟を厳しく教育します

ところがその父の死によって、一家は離散し、末っ子の馬琴もさらなる苦汁をなめていくことになります

滝沢馬琴とも、呼ばれていますが、滝沢は本名であって、ペンネームと組み合わせるのは正しくありません。
馬琴はこの滝沢家の再興に、生涯にわたって挑み続けました。
馬琴こと、滝沢興邦には、四人の兄がいましたが、次男三男は早くに亡くなります。三十歳の頃には、長男羅門も亡くなります

滝沢家を、背負って立つことになった馬琴先生ですが、そのころは、ようやく作家としてひとり立ちしようとしていた時期で、お百さんと結婚して手に入れた履物商も廃業。でも、二児の父。
馬琴には、滝沢家をどうすることもできません。そんな中、戯作者として大成するべく、馬琴の挑戦が始まります。

曲亭馬琴は、意外に苦労人です。父親は、旗本松平鍋五郎信成、一千石、の用人でしたが、 可蝶と号する俳人でもありました。馬琴も絵草紙に親しみ、七歳にして発句をし、このまま文人の道を歩むのかと思えば、
九歳のときに、父は51才で死去。兄の興旨が17才で家督を継ぎました。

馬琴の不幸は、主家が兄の俸禄を半減させたことからはじまります。次兄は、養子に出ています。興旨は、母と妹を養うため、家督を馬琴に譲り、戸田家につかえることを選択します。馬琴、この時、10才です。

松平家に一人残ることになった #曲亭馬琴 こと、#滝沢興邦 。

ところが、新たに使えることになった、主人の孫八十五郎は、癇性持ちで、

障子に「木がらしに思ひたちけり神の旅」と書き付けたそうですが、その心境やいかに

さて、主家を飛び出した馬琴は、兄の元に転がり込みます。兄の勧めで戸田家の徒士になったりもしましたが、天才故の尊大な性格であったのか、長続きせず、18才にして家を飛び出し、市中を転々とする生活を送ります。どこも長続きせずに、渡り奉公をする有様。馬琴、雌伏のときです。

放浪生活をおくる馬琴ですが、長兄は徘徊に親しみ、ともに越谷吾山に師事します。21才で俳文集を編み、医術、儒学を学び、旺盛な知識欲を見せています。
1785年に母が亡くなると、1786年には次兄が急死します。貧困の馬琴を家族の不幸が襲うわけです
若い馬琴は、自分の行く末に、迷う日々を送りました

やたら多作で、目が見えなくなってからも書くのをやめなかったことから、真面目一徹の印象のある#曲亭馬琴 ですが、青年期はまあ、放蕩三昧。母親の臨終時も居所がわからず、兄達が探し回ってようやく、死に目に会えた、ほどです。医術を学んだのも、性病にかかったからその次いで、と言われています

まあ困った人です。馬琴先生は。

24才にして、ようやく作家を志しますが、当時は、小説家の社会的地位が大変低くあんなものは、穀潰しがなると思われていた時代。
馬琴先生、それ、まともな職じゃないよ。

流行作家、山東京伝の門をたたきます。

ところが山東京伝は、その頃弟子をとるのをやめており、京伝門下に入ることはかないませんでした。
それでも家に出入りすることは許されたと言いますから、達人は達人をしるで、山東京伝も、若い馬琴に光るものを見たのかもしれません。
まあ、京伝と馬琴は6才しか違いませんけど。

24才で作家を志した曲亭馬琴ですが、翌年には、京伝門人大栄山人の名前で黄表紙を出版しました。
タイトルは、儘用而二分狂言
版元は、芝の泉屋市兵衛

この年は、京伝の黄表紙を代作していました。

馬琴、25才。まだまだ目は出ません。

馬琴は、第一作を出版し、戯作者の道をようやく一歩踏み出した折も折。
師匠筋となった山東京伝は、寛政の改革に引っかかって、手鎖五十日の刑に処せられます。ちょうど馬琴も洪水で住まいを失い、京伝の元に逗留し、感和亭鬼武らとともに、代作を書きました。

翌1792年、京伝の紹介で、書肆蔦谷重三郎のもとに寄宿します。いまでいうとプロデューサー、TSUTAYAの由来になった人です。写楽を世に出した人でもあります。
日本橋通油町に書店を開き、黄表紙、浮世絵などを販売しました。

山東京伝とともに、処罰を受けて、財産半減の処分を受けます。気骨のある人で、戯作者絵師の世話を焼いたので、その中に馬琴もいたわけです。馬琴、北斎の合作が生まれたのも、この人のおかげか!

一流の戯作者らと交わり、また無名の逸材を次次と世に送り出しています。馬琴がいい例ですね

1793年、馬琴27才。京伝、蔦谷の世話で、飯田町の履物商伊勢屋の、百という未亡人の婿となります。ところが馬琴は、武士としての誇りを捨てなかった人で、蔦谷で手代として働いたときは瑣吉と名乗り、履物屋になっても会田姓は名乗らず。手習い師匠をやったり、長屋の大家をしたりして、身を立てます。

南総里見八犬伝が、原文で、読めるありがたいサイトです。html版の他、PDF版もあります。

fumikura.net/text/hakkenden.html…

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