延暦寺、焼き討ちの真実

 織田信長の残虐性をあらわすものとして、これまで幾度となく語られてきた、比叡山焼き討ち――

 けれど今では信長の性格も含めて後世の脚色がかなり入っていることがわかってきています。比叡山についても、戦国と現在の格差は大きく、現代のイメージで戦国の比叡山を見てはいけないようです。

 そもそも戦国の比叡山は、独立した武装勢力であり、反信長勢力の軍事拠点となっていました。何せ彼らは無辜の僧侶などではなく、他の寺や町の焼き討ちを行っていたのですから。

 当時大寺院では、盗賊対策の名目で武装化が進み、比叡山は、その中でも過激な寺であったのです。琵琶湖という物流の拠点を押さえ、数千人の武装した信徒を抱え、砦まで持っていました。その勢力は戦国大名もかくや。記録によると、とくに標的とされた園城寺などは、五十回以上も、焼き討ちを行っています。

 だけでなく、延暦寺は、京への討ち入りも行っています。法華宗の勢力拡大を阻止するためだったようですが、六角家と共同して、洛中を襲撃(1536年の出来事)。三万ともいわれる軍勢で、法華宗21の本山を焼き払い、三千人の宗徒を焼き殺し、多くの民衆を巻き込みました。応仁の乱に匹敵するほどの死傷者を出しているのです。

 寺では世俗化が進み、信長の焼き討ちでは、女子供も死なせることになりました。本来、比叡山は、女人禁制であり、女性がいたこと自体がおかしいのです。

 民衆の不満は募っていたものの、延暦寺は、大名に多額の献金を行い罪を逃れていました。織田信長も、当初は話し合いで事態の解決を図ります。

 信長の要求(武装解除と、浅井朝倉軍に加担しないこと)を延暦寺は、拒絶。浅井朝倉軍を寺に招き入れ、信長を激怒させています。

 こうして信長は比叡山焼き討ちを、決行するわけですが、これだけ過激な寺ですから、焼き討ちは、信長の前にも行われていたのです。最初の焼き討ちは、1435年(信長の焼き討ちは、1571年)足利義教により行われ、根本中道で多数の僧侶が焼身自殺を遂げました。義教による、有力僧の殺害が原因で、義教が、殺害された後は再び武装。数千人の僧兵を抱えるにいたります。
 1499年には、細川政元が焼き討ちを行います。

 これらは、徹底的な物ではなかったので、寺はいずれも復興。信長は、大部分を焼いた上で、比叡山を完膚なきまでに屈服させています(最近の発掘調査では、信長の焼き討ちも限定的なものであったという報告もあります)。

 第六天魔王を名乗った信長ですが、本来は伝承ほど残虐な人物ではなかったようですね。 

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