山本周五郎 「安永一代男」

安永一代男

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闇しぐれ

   一

「先生、先生!」
 雨戸を破れんばかりに叩く音だ。
「先生は、いらっしゃいませんか。お明けなすって、辰でございます先生!」
「おう」
 安芸新太郎は盃をおいて立上った、玄関の格子を明け、棧(さん)を外して戸を明けると、転げるように跳びこんで来た男、
「辰か」
「先生、お逃げなすって」
 と男はそこへ意久地なくへたりこんで、
「やって来ます、七人ずれの侍が斬り死にの覚悟、水盃をしているところを見ました、早くお逃げなすって」
「あわてるな、そんなところへ坐って騒がずと、まあ上へあがれ」
「だ、伊達にいたってるんじゃねえんで、腹をやられて、先生」
 と辰は片手を下しながら、
「私や、もういけねえ」
「腹をやられた?」
 新太郎は辰のうしろへ廻って抱え起すと、片手で押えている腹の傷へぐっと手をやった。ねっとり温かい血の手ざわり。
「辰!」
「へえ」
「蚤に刺された程の傷だぞ、ばか奴! こんなことでもういかんなどと、江戸ッ児の面汚しだ、しっかりしろ」
「面汚しでもいけねえ」
 辰は口惜しそうに、
「もう眼が見えねえ、先生!」
「さあ拙者につかまれ」
 新太郎は辰の片手を肩に、担ぎあげるようにしながら座敷へあがった。
「私なんかにゃかまわねえで、お逃げなすって先生、もうやって来ます」
「黙っていろ」
 そこへおろすと手早く取出した外科薬と巻木綿、馴れた手順で、辰の着物を脱がすと、脾腹を横に三寸ばかりの傷。
「ざまあ見ろ」
 と新太郎が笑った。
「腸の面も見えぬではないか、辰!」
「へえ」
「是でも眼が見えぬか」
「へえ、どうやら、見えて来ました」
「笑わせるな、さあ此方を向け」
 薬で洗って木綿を巻く、荒療治だが生命に別状なしと知れたから歯を喰いしばって我慢する辰だ、
「痛いか」
「むーなあに、蚤の喰った程も感じねえ――ふう」
「脂汗が出ているぞ」
「それや駈けて来たからで――」
「はははは」
 手当が終ると、新太郎は辰をそこへ仰臥させ、軽く夜着をかけてやる、
「あ、そこへ坐っちまっちゃあいけねえ、先生!」
 新太郎は再び酒の膳に向う、
「お逃げなさらねえと――」
「もういうな」
 新太郎平然と盃を口へ、
「貴様今日までに一度でも、安芸新太郎の逃げるのを見たことがあるか」
「へえ、そ、それやあ有りません」
「それ見ろ」
 はぜの煮びたしを摘まんで、
「拙者は母の胎内にいる時分から逃げるのは不得手であった!」
「誰が」
 と辰が苦しさを忘れて、
「胎内で逃げたり、隠れたり――」
「あははは、誰でもそうかの」
 新太郎は笑って、
「それは不思議」
 と澄ましている。

   二

「全体」
 やがて新太郎が振返って、
「その腹の傷、どこで受けた」
「今日」
 辰は低い声で、
「出羽邸で、また賭場が立ちましてね」
「こいつ」
「まあ、お聞きなすって、例の通りすっかり剥がれての帰り、三平と二人で金杉の『裏松』で一杯ひっかけていると、対立の向うで九曜星、九曜星と云う声がするんで」
「む!」
「この辺で九曜星と云えば業平浪人……じゃあ無え、先生だ」
「そんな事を云い直すな」
「先生の外にゃあねえ筈、何を吐かしやあがるかと聞いていると、これが斬り込みの相談だ」
 辰は息をついだ。
「槍二人、鉄砲一人、刀四人、ふた組に分れて裏と表から討入る、一人も生きて帰るな、時刻は四つ半(午後十一時頃)と、水盃をしていやあがる、尚よく聞くと鉄砲を持った野郎は、裏庭の束の樹に登っていて隙があったらぶっ放すと云う計略、裏庭の棗の樹と云えば此家に定っている、こりゃ直にお知らせしなけりゃあーと」
 辰はふと口をつぐんで、
「先生、外で、何か音がしやしませんかい」
「大丈夫、拙者がついて居る」
「もう四つは廻っているでしょうねえ」
「いましがた聞えたようだな、まあ話を続けろよ」
「へえ」
 とまだ戸外の物音に耳を澄している、
「どうした」
「なんだかどうも、今たしかに変な物音がしたようなんで」
「臆病な奴だな、そんなに外が気になるなら、雨戸をみんな明けといてやろうか」
「否々それにゃ及びません」
 辰慌てて手を振った。
「それからね、三平の奴にそっと耳うちして私だけ外へ出たんで、急いで橋を渡って、方へ曲がる暗がりへ来ますとね、闇の中から誰だか知らねえが、
(若いの待て)
 と出やがったんで、
「何だ」
 訊くと、いきなり、
(八荒不破!)
 と云やあがって居合抜かなんかやりゃあがった、畜生と思って横っ跳びにとんだが、ここん所が焼火箸を当てられたような具合、やられた、と思うと無我夢中で、
『野郎名乗りやあがれ」
 と怒鳴りながら、後も見ずに此所まで、駈けつけて来たんで――」
「相手は名乗ったか?」
「へえ、どうだかよく知れねえ」
「あははは」
 新太郎は笑って盃をなめる。
「名乗りあやがれと云って置いて韋駄天に逃げたのでは、相手も名乗りようがあるまい、はははは」
「笑いごっちゃあ有りませんぜ」
 辰は不服そうに口を尖らした、新太郎は声を改めて、
「しかしその男、八荒不破と云って抜討をかけた奴、何者であろう」
「私あ、裏松にいた七人組の同類が、私の腕けたのをみつけて追いうちをかけやがったのだと思いましたが――」
「それなら直ぐにも斬り込んで来る筈」
「辻斬にしちゃあ妙だ!」
 云っていると、表の戸を静かに叩く音がした。辰は首をすくめて、
「そら来た」
と願え声である。

   三

「お頼み申す」
 戸を叩いては、低くおとずれる声。
「辰、起きろ」
「へえ」
「窮屈だろうが暫く我慢しろ」
 助け起して、戸棚の中へ辰を入れる、あとを閉めると、刀架から愛刀武蔵国宗二尺七寸という大業物を取って抜く、右手に提げて玄関へ下りて行った。
「お頼み申す、お頼み申す」
「――」
 無言で棧を外す、雨戸へ手をかけると、がらり明ける、同時にさっと斬った。
「わっ!」
 といってのめり込んだ覆面の一人、前のめりに倒れた頸から、とくとくと溢れ出る血だ。
「掛れ!」
 外の声。
「――」
 新太郎無言で身を退いた。戸袋の蔭にいると見たから、敢て踏込む者がない、と――不意に水口の方の雨戸をばりばりと蹴放す物音がした。
「踏込め!」
 もう一度下知の声がした。
「やっ!」
 といって一人が槍を、此所ぞと思う壺を狙って突出す、とたんに新太郎、そのいくかを?んでぐいと引いた。相手は引かせまいと操込む、刹那、新太
郎はその力につれてぱっと外へ出た。
「えい」
 槍もろ共突放されて、後ろざまに倒れる奴には眼もくれず、とび出るが否や、右側にいた一人の面へ横なぎをくれた。
「あ!」
 とたじろぐ。
「うぬ」
 残った一人が無法な突き、弾丸のようにとびかかるのを、さっと開いて探しざまひっ払った、脾腹を充分に裂かれて、
「がっ!」
 異様に喚きながらつんのめる。
「外だ」
 裏から入ったのが、家の中で叫んだ。
 槍と共に突きとばされたのは、立直って構えているが、もう積極的に突掛る気力がない、先に面をはらわれたのは、暗がりに跨んで呻いているばかり
だ。
「安芸新太郎は此所に居るぞ!」
 新太郎が叫ぶ。
「掛れ!」
 と二人が、一人は槍をふるって玄関から外へ出て来た。
「待て」
 新太郎が――、
「名乗れ、名を聞こう」
「――」
「名乗れぬか」
「――」
「然らば意趣を聞こう、頼まれてか、遺恨あってか、どうだ!」
 と、槍を持ったのが、それには答えずさっと突きを入れた、咄嗟に右へ、大きくとんで避ける新太郎、
「云え!聞こう」
 と促した。とたんに、いかん! と耳を劈く声、しまったと思ってすくめる首、耳元をびゅんと弾丸は外れた。
「うぬ、我慢ならぬ」
 呻くように、新太郎つつと寄りざま、突きかかる槍をはねあげて足を払う、
「うう」
 だだだと横ざまに倒れる。刹那! 後から拝みうちに斬りつけるのを入身に体当り、どしんとくれて身を沈めると、
「やっ!」
 振向きながら斬った。
 雨がしずかに降りだして来た。

   四

 五人を倒して、
「まだ居るか、居たら出て参れ!」
 大声に呼ぶと、東の樹陰から、同じ覆面の者が一人、ぬっと出てきた。
「貴公か、種ケ島は?」
「――」
「三十匁強薬(ごうやく)、腕がよかったら二丁は利くやつを、惜しかったな、どうだ」
「――」
 何を云われても無言、小太刀を青眼にとって、じりっ、じりっと詰寄って来る。
「ほう、是は出来る」
 新太郎は左へ廻りながら、
「いままでの奴らは藁人形を斬るようであったが、貴公は少し手応えがありそうだ」
「――」
「むざと殺すには惜しい」
「――」
「退かぬか、六人も倒れて居れば斬り込みの名目はたっている、退け!」
 突然陰の気合。小柄な体が躍ったと思うと真正面から突きだ、全くの捨身、合討に死のうという必死の業だ。
「おっ!」
 危く身を転じた新太郎、
「待て!」
 といいざま相手の利腕を逆に取った。同時に蹴上げてくる足を、さっと掬って、
「待てというに」
 とそこへ捻伏せた。
「――」
 無言で呼吸を忍ばす曲者、新太郎はその衿を掴んで引起そうとしたが、思わず手をひいて、
「貴公、女だな!」
 と叫んだ。衿へやった手に、ふっくらと弾力のある乳房が触れたのだ。そういえば腕などもむっちりと脂ぎって柔かい。
「さ、いわれい」
 新太郎は声を改めた。
「何の為の暗殺だ、遺恨あってか、討たれる筋があれば安芸新太郎、逃げも隠れもせず討たれてやる、意趣を聞こう」
「お起し下さいませ――」
 覆面の女が、弱々しく、
「お話し申します」
 喘ぎながらいった。
「さ」
 と新太郎が身を退ける、油断! 身を起した女は、ぱっと横へとんだ、
「あっ」
 と新太郎が手を伸ばすと、危くすり抜けて脱兎の ように闇へ、
「待て!」
 と五六間追ったが、足の早いこと、闇にまぎれて忽ち見えずなって了った。
「残念なことを――」
 呟きながら戻って来ると、
「先生、御無事ですか」
 と玄関内から辰が覗いている。
「拙者は無事だが、ここに無事でないのが五人ばかり居る」
「へえ五人やりましたか」
「二人は逃げた」
「五人とも皆のびてますかい」
「一人は助かるまい、だが四人は片輸になる位のことだろう、どういう訳で、拙者の首を狙ったか、それを知り度いのだが、此奴らとても饒舌るまい、大体見当はついているが――」
 新太郎は刀に拭いをかけた。
「や、降って来やあがった」
「入ろう」
「此奴らをどうしましょう」
「うっちゃって置け、誰か来て拾って行くだろう、あ、酔いが醒めた!」
 新太郎は寛々(かんかん)と家の中へ入って行った。雨は次第に降りつのるばかりである。

   五

「ひどい血ですぜ」
 内へ入ると辰が、新太郎の衣服の裾を見て声をあげた。
「返り血だ心配するな」
 新太郎帯を解きながら、
「それより貴様横になって居れ、傷口を縫うまで動いてはいかぬ」
「あ痛たた」
 辰は矢庭に眉をしかめて、
「そう云われたので急に痛くなってきた、あ痛たた」
 辰を横にして、汚れた衣服を脱ごうとすると、ばたりと衿元から落ちた物がある。
「何だ――」
 と見ると、銀平打の釵。
「はて妙な物が」
 拾いあげて検めると、片面九曜星、片面が丸に二引の比翼紋だ。
「九曜星は拙者の紋だが、丸に二引は――、丸に二引――」
 暫く考えていたが、はっと胸にこたえたらしく、思わず釵を握り緊めて、
「それでは彼の女が!」
 と呟いた。
 この安芸新太郎は何者だろう。
 越後野本の小藩、林田備前守の国老次席安芸銑造は新太郎の父である。故あって家を勘当され、江戸へ出て早くも五年になる、今年二十八歳。色が白くて、眉秀で、眼涼しく髪濃く、身丈抜群にして弁舌能く――と何拍子も揃った男振りだ、芝新銭座(しんせんざ)の浜よりに、空地のまん中に立腐れ同様な家を借りて住むこと半年にして、
「新銭座の色男」
「業平浪人」
 と綽名がきまって、その喧嘩っ早さ、義気の強さと共に、わっと人気が集った。殊に近くの娘や浮気な女房連は、新太郎の通る度に胸をときめかして覗き見をする位、中にも新銭座の表通りにある小料理屋「よし田」の女主人、お園という中年増が大したのぼせ方、頼まれもせぬに押掛けて行って濯ぎ物から拭き掃除、飯、酒の面倒までのがさぬ親切、これでもかこれでもかと心中立をするがもう三年になるというのにものにならぬ。それもその筈、当の新太郎は男振りとはまるで逆に、剣は真影流を極めて、自分独特の一派を編出しているし、槍は佐分利流(さぶりりゅう)をよくし、おまけに顔真卿(がんしんけい)そこのけの書も書く、それでいてまだほんのぼっちゃん、嘘も隠しもない、母親以外には未だ、女というものに一度も触れたことがないのである。
 この新太郎、今年の春、安永八年の頃から、何となく様子が違ってきた。
 今までは喧嘩口論、我勝に買って出て、強いという奴を片端から挫き廻り、弱い者、虐げられる者には着ている物を脱いでも之を助ける、来る日も来る日もその事で夢中だったが、ばったりそれがやんで了った。
「業平浪人どうかしたぜ」
 と皆が首を傾ける程、毎日酒びたり、時々出掛るかと思うと、二三日何処かへ見えなくなって、いつかふらっとまた帰って来る。
 女どもはやきもきして、
「いいのが出来たんだよ」
 というし、やくざ共は口を尖らして、
「焼が廻ったのよ」
 とぼやいている。唯我が辰公だけは、誰が何といっても新太郎党で、
「今に見やあがれ、うちの大将がどんなに暴れだすか、その時吃驚して馬鹿にでもなるな」
 と力んでいる。
 辰公、通称「目貫の辰」といって、大きな声ではいえぬが、彼実は掏摸(すり)である。
 さて――。
 新太郎は、九曜星と二引の比翼紋(ひよくもん)を彫った奴を拾ったが――。

 

恋侍従

   一

 お坊主が襖際から、
「伊豆守様お詰めにござります」
 と云った。
「伊豆?」
 田沼意次は振返った。
「はい、松本様が」
「そうか」
 うなずいて、再び調書に眼を戻しながら、
「此方へと申上げろ」
「はい」
 お坊主が去ると、暫くして、色の浅黒い小柄な、眼の鋭い武士が足早に入って来た。勘定奉行松本伊豆守である。
 意次は机に向ったまま、調書へ朱筆を入れていたが、伊豆守の坐る気配を知ると、振返って微笑しながら、
「首尾は?」
 と訊いた。
「は、是に」
 伊豆守は懐中から一通の書状を取出して意次に渡した。
「返歌かの?」
「御意にござります」
 と伊豆守は苦笑しながら、
「案外に手強き女性、秀持いささか持て余し気味で恋ござりました」
「それはそれは、お骨折御苦労」
「しかし」
 秀持は声をひそめて、
「美しゅうござりますな」
「貴公もそう思われるか」
「なかなかもちまして、あれ程の美貌、江戸中にも数ござりますまい」
「ふふふ」
 意次は笑って机へ向直った。
「それから」
 伊豆守は改めて、
「江戸屋八右衛門より嘆願書が参って居りましたが、如何にござりましょう」
「見たか――」
「は」
「明礬(みょうばん)専売のことだな」
「左様にござります」
 意次は眉を寄せ、口をつぐんだ。
 それは前々年、即ち安永六年秋既に三井家から願い出ている事であった。大阪の山屋でも二十万両の献納金を以て、この明礬専売権を自分の手に握ろうとしているのであった。これらはみな多額の献納金に依って、全く専売権を買取ろうとする運動であったが、最近になって豪商江戸屋八右衛門が嘆願書を上ったのは、専売権は幕府に於て握り、江戸屋がその管理を引受けて、年々租税を納めようと云うのであった。
「一度」
 と意次は振向いて、
「江戸屋と会ってみて――」
「は」
「だがワシではまずい、伊豆殿が会われて、篤と吟味された上、その上で何とか考えることに致そう」
「は」
 礼をして去ろうとする。
「あ、伊豆殿」
 呼び止めて一綴りの書類を渡し、
「是を」
「金華山の件でござりますな」
「左様」
「試掘(しくつ)をさせまするか」
「そう考えているが、それに就ては意見を聞く者がいるで――」
「風来山人でござりましょう」
 秀持が微笑しながら去った。
「どうして御存知だ」
「知友にござります」
 そう答えて伊豆守は座を立った。

   二

 秀持が去ると間もなく、傍衆の一人が、
「上様お待兼ねにござります」
 と知らせて来た。
「唯今、参上仕る」
 不愛想に答えておいて、尚四半刻ほど、熱心に書類のあれこれに朱を入れたり、削除したり、算盤をはじいたりしていたが、やがて筆を摘いた。
「居るか」
 と声をかけると、控の襖際で、
「旬市ござります」
「花を持って参れ」
「は」
 意次は手を伸ばして、秀持の置いて行った例の書状をふところへ入れる。そこへ襖を明けてお坊主が、一茎の葛(くず)の花をさした花瓶を捧げて来た。
「お上へあがるからの」
「お持ちいたしましょうか」
「いやそれは儂が持って参る、直ぐにさがる故、後藤東が詰めたら待たして置け」
「は」
 意次は花瓶を捧げて長廊下へ出た。
 御居間の襖まで来ると、詰めていた傍衆の一人が、静かに襖を明けて、
「相良侯にござります」
 と平伏した。
 意次が入って行くと、こしかけに倚って支那風の卓に向っていた家治が、
「おお」
 と云って頬笑んだ。
 病弱の人で、眉の秀でた、額の高い、眸の鋭い相貌に、冴えた蒼味がさして、一種の凄愴な感じを接する人に与えた。
 意次の手にある花瓶を見ると、
「其方達、遠慮せい」
 と小姓の方へ振返った。両名の小姓は平伏して、滑るように退出する。家治は待兼ねたように、
「吉報だな」
 と頬笑みながら云う。
「どうござりましょうか」
 意次も微笑しながら答えて、葛の花を卓の上に置いた、
「凶報なれば花は白の筈ではないか、焦らさずと――」
「此の花、御存知にござりますか」
「花のことなど――」
「否、花などと仰せられまするが、此の花はさように疎かにはなりませぬぞ」
「何ぞ――」
 意次は頷いて、ふところから彼の書状を取出し、それを静かに家治に渡した。
「是は?」
「御返歌にござります」
「彼女からか」
「御意」
 ぽっと家治の頬が染まった。
 閨室(けいしつ)は、才媛の聞え高き由紀子であるが、病弱な家治との間に子なく、その上、才媛がたの女性に多くあるように、彼女は理智の勝った、順序の厳しい女だったから後宮は極めて冷たいものだった。
 将軍の職を襲って十有八年、今年四十になる家治が、頬を染めながら披いた薄葉(うすよう)には、みごとな筆跡で、

  葛の花の色うすきは
  おとずるる人もなく秋野に
  痩せし心と思いたまわれ

 そう云う意味の歌がしたためてあった。
 家治はみたびまで読み返すと、卓の上に膝を突いて額を支えながら、
「相良侯!」
 と云った。
「はあ」
「彼女に、いつ逢えるか」

   三

 意次はちらと家治を見上げて、
「まだ早うございましょう」
「何故――」
「あのような女性は、急ぎましてはことを損じまするで、いま三五度」
「歌か」
 家治の額が雲る。
「是非に――」
「しかし、まごまご致して居って若し 誰ぞほかに」
 いいかけたが、流石に口籠った。意次は微笑しながら、
「たそがれの少将――」
 という。
「白河が、なにか」
「されば」
 意次はいたずららしく、
「殊の外の執心にて、日毎の文を通わせ、物を贈りなどして、彼の女性の――」
「もうよい」
 家治は眉を寄せながら手を振った。それを見ると意次はにこにこして、
「しかし御安堵遊ばせ、彼の女性には少将が別してお嫌いらしく、文は封のまま火中、贈物は手をつけず返さしめらるるとの事――」
「ほう」
 家治は傍らを向いて、
「名うての白河が、嫌われてか」
「流石に、京の女子は眼が高うござりまするよ」
 そういって意次は笑う、家治も苦笑しながら歌をしたためた紙を巻いた。その時襖の外に、
「申上げまする」
 と声がする、
「紀伊中納言様、御参入にござりまする」
 家治は眉を寄せて、
「会い度うない」
 と意次に呟いた、意次は頷いて、
「私、おめに当りましょうか」
「うん、頼む」
「さようなれば、これにて――」
「しかし、いまの事は、どういたしたらよいか、それを」
「兎もあれ、いま一度、御歌を」
「いつまでに」
「今宵、私が直々に会いまして」
「うん、では二刻もしたら、其許まで持たせて遣わそう」
「は、では――」
 意次は辞儀をして座をすべり出た。襖の外には、紀伊家参入を報じた傍衆の一人が平伏していた。
「中納言家にはお詰の間にか」
「は」
「わしが御挨拶申上ぐるで、よろしい」
「は」
 意次はそのまま雁ノ間へ向った。
 御錠口から、長廊下へ出てしばらく行ったところで、不意に背後へ人の駈け寄る気配がしたから、二三歩つつと出て、意次が振返った。すると、そこに白面の貴公子が、蒼白な顔をして、差添に手をかけて詰寄っていた、意次はちらと見て、
「これは、白河侯!」
 と声をかけた。
 定信は、じっとり額に汗をにじませ、殆ど差添を抜きかかったが、
「御座所間近にござりますぞ!」
 と意次に一喝されて、そのまま動けなくなった。意次は声を低めて、
「御短慮はなりませぬ、主殿(とのも)一人を斬ったとて、御治世が良うなりまするか、御身分柄を篤と御思案遊ばせ!」
 強くいいきると、そのまま振向きもせずにその場を去った。定信は狂ったような眼で、じっと意次の後姿を見送っていたが、その唇は口惜しさに、ぶるぶると願えていた。

   四

「やあ恋侍従か」
 入って来た意次をひと目見るなり、紀伊治貞が荒荒しく声をかけた。意次は微笑しながら進んで座につく、
「此頃は色道修業いっそう積んで日夜邸に芸者どもを呼び入れ、歌舞の賑わいに近隣をおどろかしているそうじゃが、わしなどもあやかりたく思うぞ」
「お戯れを仰せられまする」
「戯れ――? 戯れではない、世上もっぱらの評判じゃ」
 治貞は皺面をこきあげこきあげ、言葉の裏に毒のあるだけを含めていいつのる。
「明和以来の御政治逼迫、商衰え農餓え、窮民は巷に御治世を恨み奉る折柄、老中筆頭の相良殿が放埒(ほうらつ)何ぞ景気直しの禁厭(まじない)でがなあろうかと、この老人かねて頭をひねりおるが、とんと合点せぬ、どうじゃ禁厭のいわれ聞かしてくれぬか」
 意次は低く、
「世上の風評など、私の存じませぬこと、お聞きすて願わしゅう存じまする」
「ほう――」
 治貞は大仰に眼をみはって、
「相良殿放埒の事、根もなき風評といわれるのじゃな!」
「仰せの如くにござります」
「さようか、ふむ、心得置こう」
 治貞はうなずきうなずき、
「ま、それはそれでよしとして、今日は将軍家に謁見を願いとうて参入いたしたのじゃが、御都合はどうあろうか」
「上様には、御頭痛にて」
「又か――」
 治貞は皺面をこきあげて、
「御虚弱もさることながら、来る日も来る日も、やれ頭が痛いの腰がつるのと、さようなこと故大事な政治向にも隙が多く、心黒の者がのさばる始末に相成るのじゃ」
 意次は聞かぬ風で、
「いずれにもあれ、右ようの次第今日の御謁見はかないますまいかに存じまする」
「いや、もう一度お伺い申してくれ、今日は吃緊(きっきん)のことにて参ったれば、押して御引見下さるよう!」
「御謁見御強要はお差止めにござりますぞ」
 意次の語気がぴっと鋭くなった。
「……」
 治貞は気をぬかれて思わず口をつぐむ、意次はしずかに
「今日は御登城の御例日にはござりますまい、押掛御登城にもお咎めの定めある筈、憚りながら、軽がるしき御振舞はおつつしみあそばすよう、きっとお願い申上げまする」
 治貞の拳がふるえた、性来の精癖がむらむらと胸へ盛りあがって来た、しかし営中の掟を動かすことが出来ないー。
「か――!」
 咽喉も裂けよと吹を吐いて、青銅の啖壺の中へ吐きすてると、
「相分った、押掛登城はわしの失策、よくぞ教えてくれたの」
 いいながら立つ、意次が、
「お坊主!」
 と呼ぶのへ、
「聰明な聞え高い相良殿ゆえ、ぬけめ無う、そちこちと取繕うているじゃろうが。のう、諺にも縫うた袋は縫目より破るると申して、いつかは――」
 意次は治貞の言葉には耳もかさず、平伏するお坊主に向って、
「中納言様御下城じゃ」
 といってすっと座を立った。それを見ると治貞嚇となって思わず、
「待て!」
 と叫んだ。お坊主は蒼くなって身をずり退ける。意次はそ知らぬ態で長廊下へ――。
「待てというに、主殿!」
 治貞は遂に癇癖を発していた。

   五

 意次は尚も聞かぬさまで行く、
「待て!」
 と追って出た治貞、大声に、
「待てと申すに待たぬか、この成上り者」
 と怒鳴りたてた。
 しかし意次は苦笑したまま、足早にお杉戸をぬけて、自分の溜間へ入って了った。
 松平越中の、殺伐な振舞といい、紀州中納言の押掛登城といい、何か風をはらむ不気味なものが、身近に迫っているのを、意次はひしひしと感じた。
 田沼意次が老中の職に就いたのは、明和六年のことであった。
 既に時勢は宝暦初年より悪化し諸物価の騰落甚だしく、空米相場(くうまいそうば)を停止したり、万石以下に知行所の米を買い、米価暴落を防がせたり、高利貸を禁じたり、種々の方法を講じてみるが一向に思わしくないばかりか、明和に入ってより幕府の財政は窮乏に窮乏を重ねて来た。
 意次が老中に任ぜられたのは、実に斯様(かよう)な危急の時機で、将軍家治の絶対的な信任を得ると同時に、極めて劃期的な手腕を発揮しはじめたのである。
 意次の第一着手として、安永元年二月、江戸大火を機として、独特の通貨膨脹策を建て、先ず新鋳の南鐐二朱(なんりょうにしゅ)等の通用を令した。同時に銀及び銀箔の私売買を禁じ、諸種の会所を設置した。この会所は官民合同組合のようなもので、特に長崎に設けられた長崎唐船物売買会所というのは、幕府直属の役人を差遣わし、現在の関税と同じ組織をもって居った。秩父、桐生、伊勢崎には、絹物会所が置かれた、これは絹糸(けんし)一貫目について何程、絹布(けんぷ)一定について何程と、会所で捺印の上税をとる。また他に石灰会所、明礬会所などと、多くの会所を設けて、利準を官民折半にしようとした。
 これらの新しい法政は勿論、いずれも富豪のよろこばぬところであった。
 意次のとった会所の触手は、商人達のあらゆる事業に、あらゆる商品に、あらゆる取引に喰い入って来るのである。どんな些少な商売の中にも、必ず税が割込んで来る。
 おのおの世襲専売の業を擁し、年々手を濡らさずして巨利を 基にして来た富豪達は遽に狼狽して、
「老中を更えよ!」
 という運動をはじめた。
 一方、卑賤より身を起して、君寵を専らにし、一代にして相良の城主七万五千石の高位に経登り侍従にまで任ぜられた意次の、異常な出世を苦々しく思う一派が陰々裡に幕府の内部に結合しつつあった。
 殊には、安永五年、将軍家に子がないので当然継嗣問題が起った時、紀、水派の硬論を押切って、一橋治斎(はるさだ)の子豊千代を容れた。之は勿論、将軍家治の希望するところであったが、紀、水派は意次の専権によるものと深く恨んだ。
 外には富豪共が暗黙のうちに、意次排斥の策を講じ、内には御三家をはじめ、譜代の重臣が、意次免ちゅつの機を窺っている。
 年若き白河候、松平定信の如きは、血気に逸って、自ら幕府の奸賊を斃すべし、と、必死に意次の首を狙っていた。
 四面楚歌!
 まさに意次は楚歌に包まれていた。
「何ぞ、お間違い事にてもー」
 意次のあとから、溜間へ入って来た勘定奉行松本秀持は、気遣わしそうに訊いた。
「なに、例の潮癖じゃ――」
 意次はそういって机の前に座ったが、ふと秀持の方を見て苦笑しながら、
「じゃが、あの御人、なかなか答句を吐かれたぞ」
「何と――?」
「優をの、恋侍従と申されて、はははは」
「それは」
 といって秀持も笑った。

 

秋の灯

   一

 よし田、と軒行燈の出ている、新銭座の小料理屋の暖簾をぱっとはねあげて、
「へ、面白くねえよ」
 と入って来た男、
「おや辰さん」
 お園が帳場から声をかけた。
「如何にも辰さ、辰で大きに悪かったね」
「まあ酔っておいでかえ」
「白面で――」
 と辰公、まさにこれ、目貫の辰公、とっつきの敷板へどっかり、崩れかかりながら、臍まで浸み込んだ酒気を、ぷうと吐く、
「ねえ、白面でこんな世間が、歩けるかってえんだ、憚りながら、姐さん――いやさお園たぼ、米がね」
 また咽喉をやけに鳴らして酒気を吐く、と片方の手を逆に、胸元から額の上まで、ぐいとこき上げながら、
「米が、両に八升てえんだ、米だぜ」
 がくんと頭を垂れて、
「べら棒め、御入国以来、こんなばかげた値があるかてえんだ」
「へえ、是や驚いた」
 お園は、徳利を燗鍋に入れながら、
「辰さんがお米の値を云うなんて大体その方が御入国以来と云う図だよ、そして、たいそう力んでいるが、両に八升てえのは高いのかえ、それとも安いのかえ」
「おうおう、ばかにしなさんな、いくら目貫の辰が、なんだっても、へん、江戸っ児だ、米の値ぐらい知らねえで、憚りながら、今日さまが、ねえ――」
「もう分ったよ」
 お園は頬笑んで、
「おおかた何所かで聞きかじっておいでだろうが、どうせ知ったふりをする積りなら、おしまいまでよく聞いて来るもんだよ、だらしがない。高いか安いかを知らないで、両に八升と値ばかり聞いて来たって通用しやしないやね」
「へん、面白くねえや」
 辰は肩を突きあげて、
「全くよ、全くのところ、面白くねえくれえのもんだ、へ! さようでございますかってえんだ、ねえ、それじゃあお伺い申し奉りますがね、姐さん」
「あいよ」
「へっへ、どうでえ今の返辞は、あれで取って二十六だってえんだからね、始末にいけねえ、世の中に色気っくれえ怖えものはねえよ」
「年のことを云いなさんな」
 お園は眉を寄せて、
「楊貴妃は百六つで日本に生まれ更って、耀夜姫(かぐやひめ)になったと云うじゃあないか」
「ばかあ云いなさんな、百六つは三浦の大輔だあね、耀夜姫になったな姐妃(だっき)のお百さ、あれやあ九尾の狐の化けた奴で、今あ箱根で殺生石になってらあ」
「はははは」
 お園も、流石に我慢できなくなって笑いだした。
「箱根の殺生石はよかったねえ、はははは」
「へ、面白くねえよ」
 辰またふくれる。
「あい、ついたよ」
 小女に徳利を渡しながら、
「辰さん、いまの話を、先生に話してあげたらどう、御褒美に一升はうけあいだよ」
「勝手にしやあがれ」
 辰は小女から徳利を受取ると、ぐいっと二杯、続けざまに呷りつけて、
「先生まで持出されりゃあ世話あねえ、ますます面白くねえよ」
 と、そのとき暖簾を分けて、
「何が面白うない」
と云いながら、ぬっと新太郎が入って来た。

   二

「まあ先生」
 とお園が。辰公はこきんと頸をゆすって、
「ちえっ、濡れ場の二丁が入った、こいつますます面白くないよ」
「何かぼやいて居るが」
 新太郎ずっと入って、
「また骨まで剥かれたとみえるの」
「どうでも宜しゅうござんすよ」
 辰公ふくれて、
「どうせ、あっしら風情、どこぞのお人のようにゃあ参りやせん、へい」
「僻め僻め」
 腰掛へ片あぐらを乗せて、
「酒――」
 と云う。
「あい、ただ今」
 お園が浮き浮きと立つのへ、辰公舌を出して、さも忌ま忌ましいという声音、
「あいただ今――か」
 口真似て、
「はてさて、年増の色気とフグの毒には、当ったら薬がねえと云うが、故人はうまく云ったもんさね、ああ桑原、桑原」
「などと吐かして」
 新太郎が笑いながら、
「田町の薬店あたりで、なまこのようになっているのは誰であろう」
「じょ、冗談!」
 辰公眼を割いた、
「あんなすぶたに、このお兄いさんが」
「ほう、すべたか――」
「ま、先生」
「よしよし、今度逢ったら訊いてやろうか、たしか小野松屋の」
「先生と云ったら!」
「小野松屋の――おおそれよ、お梅とか申したのう、うん」
 うなずいて、
「辰兄哥が申していたが、お前すべたか、とな、たしかに訊いて遣わすぞ」
「冗談、これこそ本当の冗談です」
 辰公、いくじなくも首を竦めた。
「辰まさに謝まりやした、本当に云いかねねえんだから、実に業平浪人――という人は。いいえこの通り、まさに兜を脱ぎました」
「ふふふふ」
 新太郎は唇で笑う。
「さては年増の毒も、そう悪うはないとみえるのう」
「年増?」
「ではないか」
「可哀相にまだ四ですぜ」
「ほう、人は見掛によらんもんだな、あれで十四か」
「へん!」
 頭をしゃくって、
「正真正銘の二十四、大きに悪うございました」
「はっはっは、到頭泥を吐き居ったな、藪をつついて蛇を出すというが、貴様のは他人の頭を叩いて己れの尻を割るというところだ、どうだ参ったか」
 お園が燗徳利を持って近寄りながら、
「今頃は薬店あたりで、くさめをしているお人がございましょうねえ」
「それでも是で、辰公と雖も惚れられる女があるからな、世の中の面白いところだ」
「そねめそねめ」
 辰公が盃を仰って、
「どうせ二人と一人、嬲り殺しは覚悟の上だ、さあ矢でも鉄砲でも――」
 云いかけた時、門口で、大きく、
「安芸殿に御意得度い!」
 と呼ぶ者があった。新太郎は片手の盃にお園の酌を受けながら、
「新太郎はこれに居る、入られい」
 と答えた。

   三

「御免!」
 といってぬっと入って来た三名の武士、いずれも黒羅紗の眼出し頭巾を冠り、紫揃いの柄糸を巻いた無反りの長刀を帯した異様の風体だ、武者袴の裾を括って、足拵えも充分にいでたっている。
「安芸新太郎は拙者だが」
 盃を甜めて、
「何か御用か」
「されば」
 先頭にいた一人が、ずいと寄って一封の書面を差出した。
「この書状御覧が願い度い」
「――」
 新太郎、右手で受取ると、封じめを口へもって行ってびりりと引裂き、中の書状を摘まみ出すより左手に持った盃をぐっとあおって、書状をぱっと投披いた。
「まずい字だのう」
 とつぶやく。
(美酒一盞献じ度く、御光来待入る。日日八荒不破流開祖 吉川太伯)
「八荒不破流――?」
 新太郎くびを傾けて、
「はて聞かぬ流儀だが、酒一盞に招ぜられて否みもなるまい」
 書面を掴みつぶしてふところへねじこむと、三名の方へ振り向いて、
「して、貴公らが案内か」
「如何にも」
 うなずくと、
「御都合がよろしくば、唯今これから御案内いたす!」
「参ろう」
 新太郎は益を叩る。
「が――燗徳利一本、これを飲んで参るから、ちと待たれい」
「待ちましょう!」
「忝いのう」
 新太郎はにやり笑って、
「お園さん」
「あい」
「久し振りで、聞かせようかな」
「あい、でもあのう」
 お園は気遣わしそうに三人の方を見る、辰公もそわそわと尻が落着かぬ有様だ、新太郎ぐっと板の上へ膝をのせて、
「ははは、此の御三名に悪いというか、なあに、此の方々とて、縁もゆかりもない己に、酒を飲ませようという粋主人に使われる御仁達だ、端唄一曲を厭とも申されまいて、なあ御三名」
「――」
 三名は無言で外向く。
「はははは」
 新太郎笑って、
「それ見ろ、みんな御所望と仰有る、では新太郎自慢の端唄――四つの袖、だ」
 と――眼をつむって、静かに――。

  四つの袂に霜が降る
  もう退け過ぎの仲の町
  聞く人もない蘭蝶を
  約束かため身をかため世帯
  しょせんはつれ弾きが
  結句気ままな悪のはて
  今夜は月もまんまるな
  ふたつ並んだ影法師

 胸のすくような良い声、心ゆくままに唄い終ると、
「やんや、やんや」
 お園が手を拍つのへ頷いて、
「では今宵はこれ限り」
 と最後の盃をって描く。
「辰――」
 呼びながら立って、辰公の肩を叩く。
「薬店へよろしゅう、はははは」
 大きく笑った。
「さ、参ろうか」

   四

 木挽町から築地へぬけるところに、草茫々と生えた原がある。後に采女ケ原といわれたところ。その頃は原のまん中に、雨水が溜ったほどの沼があって、葭が身丈を凌ぐばかりに伸びていた。
 その沼を背にして、五人ばかりの侍が、人待ち顔にたたずんでいる。
 いずれも眼出し頭巾をかぶり、紫揃いの柄糸を巻いた無反りの強刀をぼっこんだいでたち、中に頭株らしいのが、ひどい癇症とみえて時折きくん、きくんと頸を痙攣らせている。
「おそいな!」
「は――」
「何をして居る!」
「迎えを出しましょうか」
「ま、も少し待て」
 吐き棄てるように云い放って、苛々とその辺を歩き廻っていたが、
「佐伯!」
 と一人に振り返って、
「何か焚かぬか」
「は――?」
「火だ、灯りがなくては足場を失う、同志討でもやったらお笑い草だ」
 佐伯と呼ばれたのが、直ぐに焚き物を探しに行く。傍から別の一人が、
「先生、それでは、殺りますか」
「――」
 きくんと頸を揺すって、
「彼奴、どうで、素直にうかと云う筈はない、手を引かぬ時は斬り棄てろと、お上の仰せだ。ふふふ久方振りで関物の切れ味をたのしもうて」
 少し離れているのが、
「どうやら来たらしいぞ」
 と闇をすかして見た。
 佐伯と呼ばれたのは、焚き物を集めて火をつけていたが、湿っているので、なかなか燃え上らぬ、頻りに煙に咽ていた。
「来たらしい」
「先生、来たらしゅうございます」
 と云う時――。
 原の向うで、安芸新太郎の柔かく高い笑い声がした。
「背筋のあたりからのう、ぼんのくぽまで、ずんと何やら走ったと思ったのが病みつきよ、あははは」
「――」
「安芸新太郎源友正、生年二十八にして初めて恋の切なさを知り申した。いや正だよ、胸のあたりがこう、熱うくなって来てのう、あははは」
 笑う鼻先へ、
「待ち兼ねたぞ!」
 とつぶやいてスッと出た侍。
 例の、きくん頭である。新太郎一歩退った。
「ほほう」
 と見廻して、
「これは奇妙、いずれもお揃いで強盗頭巾に無反りの太刀、紫の柄糸、美酒一盞の客に新太郎を招いたは御辺達か」
「如何にも!」
「これは又意外な趣好」
 新太郎ぐるりあたりを見廻して、
「枯れ葭に沼、闇夜、狐狸も棲まぬ荒地で酒宴とは、みかけによらぬ風流の仁達よ。面白い! 一盞頂戴仕ろうか」
「馳走申そう、が――」
 と相手が出た。
「主人より客に所望の土産がござる、その土産頂戴した上で、のう」
「心得た、望まれい」
 頸つれの侍、ちらと左右へ眼配せする、七名の部下らしき連中、さっと二人から遠退いた。
「安芸氏!」
 声を低めて、
「葵坂の寮の御方より、手を退かれえ!」
「や!」
 新太郎が叫んだ。

   五

「承知か」
 と詰寄る相手、新太郎は四辺に眼を配りながら、
「貴公、何者だ」
 と訊く。
「書面の通り、吉川太伯!」
「誰に頼まれて」
「そのようなこという要はない、承知か不承知かそれだけ聞こう」
 新太郎うなずいて、
「聞かそう」
 と低く
「不承知だ!」
「よし」
 吉川太伯一歩さがる。
「不承知とはかねて此方も察していたところだが、そうはっきりいいきるには、覚悟あってのことだろうの」
「改めて訊くまでもあるまい」
 新太郎にやりとした。
「よし、では抜け」
「ほほう」
「抜け!」
「拙者はこれで結構だよ」
 吉川がさっと左手をあげた。遠退いていた七名の者が、つつと寄る。焚く火が細く、枯れの底に沢の水を見せて揺れた。
「三人――五人」
 新太郎は足場をはかって、
「八人か!」
 という、
「見たところ胆のありそうなは吉川某一人、あとは木偶同様だな、では馳走の美酒、頂戴いたそうか」
 吉川太伯が、
「いずれも、ぬかるな!」
 と叫ぶ、
「――!」
 無言のまま抜きつれて、一同ぐるり新太郎を取巻いた。焚き火の焔が細くなる――。
「安芸!」
 太伯が冷然という。
「死出の餞別に聞かしてやる、今頃はな、葵坂のお邸に、別動組が十名あまり!」
「や!」
 と新太郎。太伯つづけて、
「御命を申受けて参っているのだ」
「しまった!」
「ま聞け。留守は小侍両名に端下女、奥勤女合せて七、八人だ。寄せた奴輩は屈強無残のあぶれ侍、御方をそれと知らねば、さぞ痛快に働きおろうて」
「!」
 新太郎つと左へ一歩、右手を柄へ、
「うん!」
 という、刹那!
「えい!」
 太伯の腰が落ちて、居合抜きだ、びゅっ! と鼻先へ空を切って飛ぶ剣、
「は!」
 がつん、一髪の間にひっぱらった安芸、右足地を蹴って猛然と突きに出る。
「とう! とう!」
 二段に外して退く太伯、
「かかれ!」
 と叫ぶと、
「やっ! おう!」
 うしろと右のが、餓狼の如く迫った。と知る新太郎、身を沈めざまぐっとふと振り向く擬勢を見せる、刹那! 逆に右のへ、
「いち!」
 と叫びながらの突き。充分入る、
「があっ――」
 死のうめきのたつ同時に、
「に、さん!」
 新太郎の声、つづいて二人が倒れた。
 焚き火の火は――絶え絶えに。

   六

「残るは五人か」
 と新太郎が低く。その声は、秋の夜の風にもまして、冷たく、鋭く相手を刺した。
「太伯どの」
「――」
「今宵お振舞の酒は」
 云いかけてぱっと左へ跳ぶ、そっちにいた二人が慌てて避ける、とたんに身を転じて吉川へ下ざまの払いだ、危く避けたが、おっかぶせてひゅっ! ひゅっ! と縦横無尽に、電光のように、新太郎の刃風は魔気を発して肉薄した。太伯あおられて退る!
 と一人が、
「わっ!」
 必死すてばちの絶叫と共に、体ごと、太伯と新太郎の間へ、とび入って来た。
「邪魔だ!」
 と躱していなす新太郎、
「え、やっ!」
 と片手なぐり、脾腹を割られて前のめりにつっ倒れるのには眼もくれず、だだだと迫って太伯につけながら、
「今宵の酒は――」
 と新太郎の声がひびく。
「いずれも、少々日が経ちすぎて折角ながら、拙者の口には不足でござるよ」
「――」
「お振舞、この位で、御辞退と致そう」
「――」
「如何?」
 言葉尻へ、気合に乗った太伯、
「うぬ!」
 喚くのと、突きを入れるのと同時だった、必殺の剣、眼前に閃めく、刹那! 新太郎は身を沈めて、
「うまい!」
 云いながら左へ避けざまに、
「かっ!」
 と太伯の肘へ一刀、
「つ――」
 二三歩たたらを踏んで立直る太伯、その時既に新太郎は、
「ご! ろく!」
 と叫んでいた。
 六人めに斬られたのは、勢い余って、焚火を踏み越え、古沼の中へ上半身をのめり込ませて倒れた。
「もう宜かろう」
 と新太郎。
「頭様まで膝の筋を斬り放されて是以上に闘う要もあるまい、八荒不破流という太刀筋も拝見したし、馳走充分に頂戴した、退かぬか、吉川氏!」
「――」
 吉川太伯、刀をさげると、静かに四五歩うしろへ退いた。
 瞬いていた焚火の焔が落ちる。
「流石にお分りが宜いのう」
 新太郎にやり、
「先日もな、拙者宅へ斬り込んで参った仁があった、五人――七人であったかしらん、三人倒した時に拙者が、退かれい! と申した、ところが強情な仁達で、最期の一人は逃げたが、六人枕をならべて斬死にだ」
 刀を押拭って鞘へ、
「あっぱれと申せば、あっぱれ、愚と申せば愚――はっは、それにひきかえ、太伯どのはのう」
 云いかけたが、くるり踵をかえすと、
「いずれ」
 そう云って、
「御用もあれば、又」
 と云う声は、既に二三十歩も先から聞えて来た。
 裾をからげて、左手に鍋元をしかと脳みながら、芝口御門の方へ新太郎は宙を飛ぶように、走っていた。

   七

 坂をあがって、右が島津家上邸、左が出羽の本間邸、邸はずれに空地があって、十五六本の赤松が樹っている。
 松林を前に、石段を、七八つ下りると、質素な表構えで、黒塀を取廻した数寄屋風の邸がある。走って来た新太郎、表門を右へ廻って裏手へ来ると勝手知った木戸、拳をあげて三度ずつ二回叩いたが――内からは何の応えもない。
「遅れたか」
 と足をあげて木戸を蹴放す、中へ、殆どのめり込むようにして、植込を、築山を、走り越えながら奥庭をめざして進んだ。
 数寄屋の前まで来ると、
 ちゃりん!!
 という音、斬りむすぶ気配だ。
「新太郎、参上!」
 喚きながら音のする方へ、走って行くと、ふいに煌々と灯明るい奥庭の有様が、眼の前にひらけて見えた。
「あ」
 と足を止める新太郎。見ると縁先に、奥勤女たちが燭台を提げて立つ、中に、田沼意次をはさんで白髪頭の島津重豪(しげひで)、松本伊豆守がしずかに庭先の斬り合いを見物していた。
 倒れている者四、五。残っている者は一人、例の黒羅紗の眼出し頭巾、太伯一味の装束である。これに立向っているのは、年の頃二十四五であろうか、色浅黒く、眉きつく、小柄だが、ひきしまった体つきで、一刀流をよく使うらしく、鋩子尖を下げ気味に、じりじりと敵を圧迫していた。
 新太郎の姿を見ると、
「安芸か」
 意次が声をかけた。
「はっ」
「宜い宜い、此方へ来て、見て居れ」
 新太郎が縁先へ進むと、
「いま少し早く参れば、面白い勝負が見られたに、惜しいことをしたぞ」
「失態! ひらに――」
 手をつくのを、
「いや、今宵は勤めの外、失態ではない――ま、見て居れ」
「皆様、御無事にて?」
「うん」
 意次はうなずいて、庭先の勝負へ眼をやる、新太郎も沓脱ぎに腰をかけて見物になった。
 黒頭巾は僅かに右へまわる、
「殿!」
 若者が声をあげた、
「うん」
 島津重豪が応える。
「此奴――どこを斬りましょう」
「そうだのう」
 重豪が赭顔(しゃがん)に笑を含んで、
「立ちながら、首を刎ねる――も面白いが」
 云いかけたが、
「いや、御庭前を汚すのう」
「では――」
「心の臓を一刺、ふた太刀まで用いずに斃して見せい」
「仕りましょう」
 答える、隙!
「おっ!」
 おめいた黒頭巾が、真向へぐわんと斬りつける、と見せてかえす、猛然と払いに寄る。
 ちゃりん!
 受けて、ぐぐぐと寄身に迫る若者、
「八幡!」
 叫ぶとみるや、
「――!」
 陰の気合だ。体がさっと沈むと思うと、きらり、闇に秋の灯の弧を描いて、ばっと、うしろへ跳びしさった。同時に頭巾の男は、
「うーむ」
 呻いてそこに立竦んだ。

   八

「みごと、みごとだ」
 島津重豪がそう云って、意次に振返った、
「相良侯、如何?」
「あっぱれな若者、いかにも、近頃になく感服仕った」
 重豪ほくほくと、
「竜次郎、近う!」
「はっ」
 竜次郎と呼ばれた若者は、充分刀に拭いをかけて、灯にかざして歯こぼれを改めると、鞘におさめて縁端に進み寄った。
「潮田」
 意次が呼ぶ。廊下の角に片膝立てのなりでいた用人潮田宗典が、
「は」
 と云って立つ。
「その死体、表の松林へ取り棄てい」
「はっ」
 退ろうとしたが、
「死体をあらためませんでも?」
「宜い」
 意次うなずきながら、
「証固となるような物、持たせて寄来す筈はない、構わず抛り出して置け」
 云うと重豪の方へ向いて、
「薩摩侯、入りましょう」
「やあ」
 重豪が、
「竜次郎も参れ」
 と云う、若者は手を下ろして、
「返り血で、衣服が汚れました故私はこれにて――」
「そうか、わっははは」
 重豪笑って大きく手を振る、
「美しいお傍女が居ると、竜次郎なんども、衣服の事に気をつかうとみえる、いや宜い宜い、さらば先へ戻って居れ」
「殿」
 竜次郎があわてた様子で、
「左様なことを」
「構わぬ、男が女に惚れること天地自然の理義じや、威張って申せ、そうではござらぬかのう、相良侯」
「薩摩侯はお分りがよろしゅうござるな」
 意次頬笑んで、
「参りましょうぞ」
 と云うと、すっと先に座敷へ入って行こうとした、がふと足を止めて、
「新太郎」
 と振返った。
「――」
「後で頼みがあるから、お遠間で待っていて呉れぬか」
「は――」
 意次と重豪は去って行く、新太郎は立上ると、
「失礼ながら」
 と若者に声をかけた。
「島津侯御藩中にござるか」
「左様、諏訪竜次郎と申す」
「いや申後れた、拙者は市井の無頼、安芸新太郎、当時芝新銭座に住い居ります」
「お噂は――」
 と竜次郎がうなずいて、
「かねがね、相良侯より承わって居りました。当代無双の剣豪に加えて江戸随一の美男――」
「猿若へなど出て、のう」
 新太郎は打消し笑って答えた。
「いや真実」
 竜次郎が、嫉ましげに、新太郎の横貌へ眼をやった。
「噂以上の男振りでござるよ」
「これで女に惚れられぬから、心得ぬことではござらんか、はははは。いや、これから諏訪氏と美男くらべ、ひと暴れ仕ろうか」
 そして新太郎は数寄屋を表へ廻った。

 

こころ

 

   一

 

 新太郎は意次の言葉通り、自分に与えられてあるお遠間に待っていた。
 壁のどこかで、さっきから細く、
 ころろ、ころろ。
 と虫が鳴いている。しみ透るような秋の夜気が、紙燭(しそく)の光輪にとけて、新しい備後表の上を、水のように流れるのが知れた。
 新太郎はふと眸をあげた。帰雲行水の陰が眼前をかすめたのだ。
 半年前までの酒は、世を捨て、人に拗ねた酒であった――が。この頃の酒は、胸の苦しさを忘れ、美しい幻をうち消そうとして飲む酒である。
 春三月、十日頃のことであった。夜桜の酒に浮かれて、足もとも危く、赤坂山王の下を歩いてと、七八人の侍が、女乗物をかついで宙を飛ぶようにやって来るのに逢った。眼にとめるでもなくやり過すと、二三十間あまり後から、
「あの駕籠止めて――」
「狼藉者でござります、あの駕籠を――」
 と必死の叫びをあげながら、二三人の端下女らしいのが追って来た。
 前後、善悪の差別をつける暇もなく、
「よし!」
 といって新太郎、踵をかえすと、
「その乗物、待て、待て!」
 喚きながら追った。声を聞きつけて、 殿にいた四人ばかりが、足をとめて振返る、と新太郎を認めて、頷き合いながら手に手に抜いた。
 新太郎は追いつくと、
「理非は知らぬ、女性の救いを求むる声によって罷り出た、その乗物止められい!」
 叫ぶのに、耳もかさず、四人の者がいきなり斬りつけて来た。
「無法な!」
 と新太郎、抜合せると手間暇なく、峰打で四人を倒す、乗物は早くも半丁余り遠くへ、
「待て!」
 脱兎の如く追う。
 見付手前二丁ばかりのところで逃げきれぬと見たか乗物を早く四人、そこへ駕籠を下ろすと抜きつれて新太郎を迎えた。
「止せ止せ!」
 新太郎が駈けつけながら、
「先の四人も土をなめて後悔し居るぞ、下手に動かずと、乗物置いて退散しろ」
 と云う。一人が声鋭く、
「控えろ、この内には身分高き姫君がいますのじゃ、みだりに手出しをすれば素首が飛ぶぞ、退け退け」
「ぬかすな!」
 と跳び込んだ新太郎、
「や!」
 叫ぶと脇の一人へ峰打をくれる、危く避けたが、足場をとられて溝の中へ、水音高く落込んだ。続いて残る三人、あっという間もなく打倒すと、
「うふん――」
 新太郎、あっけなさに、かえって拍子ぬけの態だ、刀を拭って鞘に、おさめるところへ先刻の端下女と、おっ取刀の侍四五名が、血相変えて駈けつけて来た。
「や、御無事だ!」
「早く殿を!」
 というところへ、馬をとばして乗っつけ来た老武上――それが田沼意次だった――が、馬をとび下りると、急いで果物の前に進み寄って両手を膝に、
「主殿にござります、御安堵遊ばせ」
 と低く云った。果物の内からは、
「はい」
 ひと言答えがあったばかり。
 しかしその声の美しさ、僅かに離れて聞いていた新太郎の耳に、いまでも忘れられぬ響きとなって残っている――。

   二

 それが縁で――。
 間もなく新太郎は三日毎に、葵坂の邸に警護の宿直を動める身となった。しかし飽くまで勝手気ままの新太郎、随身を嫌って、新銭座の住居は変えず、勤め外には荒屋のまろ寝を続ける約束であった。
 邸のあるじは、あの夜の声の主だ。
 宰領は田沼意次、付人として島津重豪t(しげひで)の藩中からも、交代に四、五名ずつ、眼立たぬように宿直しているらしい。
 こんな厳重な警衛を要するこの姫は、そも何人だろう。奥動女たちの呼ぶ名も、ただおひいさまというばかり、いず方の如何なる身分の姫君か想像もされぬ。
 その上に――。
 左様な重い身分の姫が、乗物のまま奪われかかったり、御命を縮めよと斬り込みをかけられたりする、そもそもこれは何の意味だろう。
(不思議だ!)
 新太郎は何度そうつぶやいたかしれぬ。
 夏のことだった。
 例日の動めで、お遠間に詰めていたが、ひどく暑い晩で、蚊やりの煙にも眼がいたく、つい風を吸い度くなってお中庭の方へ出て行った。すると山吹の垣越しに、お内庭のはずれ築山とお池に面して数寄屋の土庇を深く、なで髪に質素な黒好みの装いをした、年若のお端女とも見える乙女が立っていた。
 新太郎はお端下女と思ったので、垣の此方からなに気なく、
(暑うござるな)
 と声をかけた。
 乙女は、池面をみつめて、うっとりと放心していたらしいが、新太郎の声を聞いてふと振返った。
(いま少しすると月が出る――)
 重ねて新太郎がいった。乙女は振返ったまま暫く新太郎の顔を見つめていたが、
(はあ――)
 と低く答えて、また池の方へ眼を戻した。無愛想な娘だな、と思ったが、新太郎にはかえってその方がよい。自分も胸を押しはだけて風を入れながら、
(下町と違って、山手がかりは涼しいと思ったが、かえって蚊など此方の方が多い位だ、これこのように縞模様のある奴なんどは、下町には居らんからのう)
 などといった――が。
 思えば冷汗、その乙女こそ邸の主、おひい様であったのだ。
 それと注意されて、逃げるように自分の部屋へ引取った新太郎、何かしらん血がおどって、頬がほてって、心の底が焼けるような気持だ。眼を閉じれば、ひきしまった雪のような肌、新月のにおうかと疑われる眉、愁いを水晶に溶かして滴らせたような眸子。あのつつましい黒好みの、お端下女にさえ見あやまった程の衣装――、何ひとつとして思い浮かばぬものとては無い。
 たまさかにもれ聞える琴の音にも、お端下女が心なく唇にするおひいさまという声にも、不覚や新太郎の胸は熱く騒ぐようになって行った。
 酒――。此の頃の酒は、この苦しさ、胸の辛さを忘れるための酔いだった。壁からしみ出るような虫の音がふとやんだかと思うと、廊下を静かに近づいて来る足音がした――新太郎はその音で、回想の糸をぷつり絶った。
「新太郎、居るか」
 襖の外で声をかける、意次だ。
「は」
「待たせたのう」
 そういって意次はしずかに部屋の中へ入って来た。新太郎は火桶の傍を少し居退ってかたちを改めた。

   三

 座に就くと意次が、
「今日、何ぞ変った事はなかったか」
 と訊く――。
 新太郎は手短かに、先夜の斬り込みと、今宵木挽町の原へ誘い出しをかけられた始末を語った、しかし吉川太伯の名までははっきりといったが、第一の斬り込みに鉄砲を持っていた、男装の女の事は、何故か話すことが出来なかった。
「ふむ――ふむ」
 いちいち頷いていた意次、
「して、八名のうち致命の者の数は――?」
「さあ――二名は、恐らく助かりますまいが、あと四名は当座の傷、太伯の左腕は最早役にはたたぬかと――」
「宜し宜し」
 意次は眉をよせながら、
「惜しい奴だが、理否の差別がつかぬで」
「御存知にござりまするか」
「吉川かの?」
「は」
「知って居るとも、彼奴、以前神谷源心の道場に居ってのう、飛竜剣と自称する居合を以て江戸中に聞えた奴じゃが、それがいつか――さる方に買われて徒党を組み、表面は八荒不破流剣道指南と道場を構え、実は儂の首を狙って居るのだ」
「ほう――」
「愚かな奴らよ」
 意次は冷笑した、新太郎つと顔をあげて、
「何か、御用にてもござりますか」
「うん」
 と意次が、
「それが、のう。少々――」
 と口を濁す。
「憚りながら、何事ないとも」
「それは分って居るが、別な話じゃて」
「はあ」
「実は――」
「――」
「おひい様がの」
 新太郎の胸が、どきんと大きく波うった。意次は心を決したらしく、
「其許に会うて遣わそうと申される」
「――」
「生命を的の奉公」
「――」
「ひと言ねぎろうてやろうと、のう」
「は」
「お眼通り、願うか」
「――」
 かっと耳鳴り。新太郎はじっとり腋の下に汗だった。
「御遠慮申上げるか、例の無い事で、些かも迷って居る、と申すのが……」
 何か仔細ありげに云いかけたが、廊下を足早に来る人の気配、意次はきっと顔をあげた。
「申上げまする」
 襖の外まで来ると、奥勤女の声で、
「お待ち兼ねにござります」
 と低く云う。
「唯今」
 意次は答えて、
「は」
 と、女が去るのを聞き儲かめ、
「新太郎!」
「はっ」
「参れ、お眼通り仕ろう、その上の事だ、どうなるとも思案のほどはあろう、これ」
 謎のような言葉、
「――」
 新太郎、さすがに些かためらって、ちらと意次の顔を見上げたが、意次は外向いて座を立った。
「お待ち兼ねじゃ、来ぬか」
「はっ」
 きっと唇をひき結んで新太郎は立った。生来二十八歳、初めて思いを焦がす人に、安芸新太郎は、逢えるのだ――。

   四

 古代更紗へり取、紙本石刷の襖に、殿上風の敷畳、仮構えの上段には御簾が下りている。十畳ばかりの小書院造りで、壁間(へきかん)には古い仏画が掲げてあった。
 新太郎は意次の後から入って、下座に平伏した。意次が低く、
「安芸新太郎にござります」
 と披露する。
 御簾がきりきりと捲き上げられるのを、新太郎は殆ど夢心地に聞いた。
 意次がささやき声で、
「御挨拶申上げい」
 という、殆ど同時に、
「新太郎、久しい対面じゃな」
 あの声だ。
「は――」
「顔を見しや」
 新太郎しずかに面をあげた。夢に見、幻に描いたその御方が、いまそこにいる。胸をこがし、心を狂わしたあの眸子が、唇が、頬が、かがやくばかりに微笑しながら新太郎を視つめている――。
「御機嫌うるわしゅう」
 新太郎の声はふるえていた。
「そなたも健固か」
「は――」
「警護の宿直、よろこばしく思います」
「は――」
 御方の笑顔が、はっと消えた。澄みきった眸子が、生々とかがやきをました、そして無量の情怨をこめて、この思いを汲めといわんばかりに、ひしと新太郎の眼を視入った。
「新太郎!」
「は――」
「また、折々――」
「――」
「来て、たも――」
 新太郎がはっと手を下すと、きりきりと御簾の下りる音がした。
「退ろう」
 意次の声に、面をあげると、最早御簾の中にも、その人の気配はなかった。
 廊下へ出ると、
「此方へ参れ」
 意次がそういって、数寄屋の方へ新太郎を導いた。お端下女が紙燭を点じてさがる。
 座につくと、意次が、
「近う寄れ」
 新太郎思わず意次の眼を見上げた。意次は紙燭の火へ眼をやって居た。
 新太郎はずいと居進んだ。
 意次はしばらく、新太郎の面をうち見ていたが、やがてその眼を紙燭の火に向けた。
「新太郎」
「は」
「長らく、秘して居ったが」
 意次の声は極めて低い、
「今宵、彼の御方の御身分を明かそう」
「は」
「実は――」
 眼を、再び新太郎の方へ戻しながら、
「当上様の二の姫君――」
「え?」
「千代様と申上げる御方だ」
 新太郎は千千仞の谷底へ突き落されたよう、しばしは頭をあげる気力もなかったが、
「しかし、当上様には」
 とようやくに訊きかえす、
「万寿姫、御一人より外に、姫君ありとは伺いおりませぬが」
「それがな」
 意次は太息と共に答えた。
「千代姫君の母公は御部屋於知保(おちほ)の方であった。しかるに御台所には、日頃から於知保の方を太く疎ませられ、千代姫君御成長をよろこばれず、尾州家と計って、幾度か姫に害を加えられんと遊ばされたのだ――」
 意次は暗然と言葉を切った。

   五

「要は――」
 と意次が続けた。
「御台様の御潔癖、それに加えて御部屋様於品の方も御台様の御付女(おつき)として、京より下向された女性だからのう――、江戸育ち、営中古参の、それもひとしお御美しく利発の於知保の方が、煙たくあらせられるは避け難いことであろう」
 新太郎は静かに頷いた。
「かててくわえて、竹千代君(家治嫡子)薨去(こうきょ)、御跡目直しを控えて、御三家二卿の策動となっては御聰明ながら御女性のこと、千代姫君の御身に如何なる御憎しみが加えられようも計られぬ仕儀。上様それと感ずかれて、表向の御披露もなく、ひそかに姫君をわしと、薩摩侯とに御托し遊ばされたのじゃ」
「しかし」
 新太郎が、
「御跡目豊千代君の入らせられし上は、最早千代姫君の御身上も御安泰にござりましょうが――?」
「御台様御一党の思召しでは」
 意次は声をひそめて、
「千代姫君をして、万一豊千代様御簾中にでも直さしめられては――と。のう、それを案ぜられて」
「それは、如何にも」
「勿論、当上様におかれても、殊の外千代姫君御鍾愛にて、豊千代様御簾中に直され度き思召しなしとは申されぬ、それ故にこそ――一層姫君の御身上が危ぶまれるのだ、高貴に生れ給うて、安らかに枕も温めまいらすることの出来ぬおいたわしさ――察せい」
「は――」
「御年頃にならせられても、月花の御慰めなく、たまさか遊山を楽しましめまいらせんとすれば、この春の山王の如く、のう――あの節も新太郎なくんば如何あらせられたか、考えるだに老の胆が縮む。今宵もふと、新太郎と申すに眼通りを――と仰せ出された時、――」
 新太郎の胸はかっと熱く、
「儂には御心の程が知れた故、頓(にわか)にはお眼通り願わする気になれなかったのじゃ、御方は其許を通して、世の中の相を見られ度いのだ、其許を通して、人間の姿に触れられたいのだ、姫君も、最早十八に相成られたよ」
「――」
 新太郎は自分の息吹の熱いのをうとましく、恥かしく感じながら、身動きもせずに頭を垂れていた。
「斯くうち明けて話す上は、此上とも出精頼み入るぞ」
「は、卑賤の私」
 新太郎は両手をついて、
「望外の思召し、何ともなくただただ御方様の為に」
「うん、その一言何よりじゃ」
 意次は頷き頷いて、
「何なりと望みがあれば、かなえて進ぜよう」
「思いも寄りませぬこと、しかし」
 新太郎がずいと膝で寄る、
「御伺い申すことが一つござります」
「うん――?」
「御奥勤女に、佐賀とか申される者が居りまするな?」
「おお、居ったと思うが、それが――」
「素性の程はたしかにござりましょうか」
「と申すと、何か不審の事にてもあるか」
「いや――」
 といいかけたが、何を思ったか新太郎すっと立って、廊下に面した障子を、不意にがらっと引明けた。
「誰だ」
 新太郎が叫ぶ、
 ばたばた――と、誰か廊下を、上へ走って行くのが見えた。

 

十夜くずれ

   一

 麻布月ヶ窪にある時宗の名刹、東光寺は、お十夜講で賑わっていた。
 境内にある、厄除地蔵が、それに加えて例月の縁日というので、山門から執行院の前、ずっと出て谷町の方まで、昼からぎっしりの物売店、辻講釈、もぐさ売、綿温石、因果者の小舎掛までが、わんわと人を呼んでいる。
「三の字、さっさと歩びねえ」
「待てと云うこと」
 三の字、実名松かさの三吉という、先に立って急っついているのは、例の目貫の辰公。三の字となら、手前が兄哥分だから、辰公も今夜ははばである。
「足に根が生えるぜ、さっさと来やな」
「そういうな、あの娘をあのまんま、そう素気なく見捨てて行けるものか」
「なにを、娘――?」
「それ見な、兄貴だって娘と云えば」
「むだあ云わずと、何所だ何所だ」
「それそこよ」
 指さすところに、白髪まじりの老母が、もぐさを売っていた。
「百病に灸すべしとは、えへん、時珍が本草にも精しゅうござりやす、近松の浄瑠璃にも、ひと火すえたや切艾と申しやしてな、達者自慢の灸嫌いは、暦をひらいて吉日を難じ、二日と聞いてわがままを慎むのたとえにござりやす、えへん明堂灸経に、灸点三歩ならざれば孔六にあたらずと、えへん――」
 辰がどんと三吉を小突く、
「へん、洒落にもならねえ、行くぜ!」
「邪険にしやすんな」
 三吉が、
「ああ見えても、あの婆さん、まだ手入らずだぜ、そうとすればよ、皺は寄っても娘に相違は――」
「殴るぜ!」
「待ちねえということ」
 人ごみにもまれて、無駄口がと切れる、が再び寄ると直ぐ燃える舌だ。
「こう見や、兄哥」
「なんだ」
「豪勢とでけえまんじゅうだぜ――」
「だらしのねえ野郎だぞ手前は、饅頭のでけえのなぞに眼をつけやがって、けっ、江戸っ児の面汚しだ」
「面汚しでも、でいえよ、何か口上をぬかしてるが聞いて行こう」「饅頭の口上なんぞ聞いてみろ、明日っから神田上水が腐っちまわあ」
「まあそういうなよ、見るは法楽、聞くは、聞くは――」
「絶句一分と定めたり」
 辰公が手を出して、
「さあ一分!」
 つい鼻先には、大きく幕に三階菱に『都』の字を染出した屋台、片方に蒸籠を三構え置いて、男三人、女一人が、せっせと饅頭を造っている。一方に――でっぷり肥えた中年男が、咽喉を嗄らせて口上を云う。
「うあ――遠からん者は餅搗く兎の耳にも聞け、近くは眼にも都饅頭。色気より先ず食物の世の中、よしや蛇の道は上戸が知るとも、餅は餅屋が理屈を申さば、そもそもこれは江都饅頭の本店にて、桃太郎が黍団子は、まま此店の勧進なり」
「来や!」
 辰公がぐいと三吉の袖をひいた。
「猩々が饀の講釈を聞いたって、亡者が成仏しやあしねえ、全体手前は――」
 云いかけて、
「――!」
 ぐいと辰が、三吉の牌腹を小突いた。鴨がみつかった――という合図である。
 三吉、辰公の眼のゆくところを見ると、年配は五十余り、頭巾を冠って黒羽二重の衣服、青貝を散らした贅沢造りの大小を、邸風に格式張ってさした立派な武家が、供もつれずに――寛々として行く。

   二

「ぬかるな!」
 と囁いた目貫の辰公。
 人混みを押分けて、例の武家の向うへ、通りぬける、すれ違いざま当りをつけると、懐中にずしりと重み、板物に小粒をとりまぜ、五十両は欠けぬ――と見当をつけた。
「久し振りの鴨、お鴨様、様さま」
 ほくそ笑んだ辰。
 宜い程に踵をかえすと、左手でやぞうをつくって、人混の中を蹣跚と鼻唄――。

  四つの袂に霜が降る
  もう退け過ぎの仲の丁

 業平浪人から聞き覚えの、端唄を低くうたいながら行く。頭巾があるから、よくは分らぬが、身分ありげな人品、
「しめた」
 もう一度頷いて、近寄る。
 三歩――二歩、よろめいて、僅かに肩を相手の腕へとん、当てる刹那、辰の右手がさっと閃いた。とたんに!
「慮外者!」
 武家の口を衝く叫び。
 体を捻って、むずと辰の右手を取る、
「畜生!」
 辰が、取られた手を逆に廻してどーんと体当り、思わず放す手、ひらりと、燕のように身をかえした辰。三吉が右にいて、
「わあっ、仇討だあ――」
 途方もない叫び。
 わあっと人混みが一時に乱れ、崩れて、わきかえる中へ、とび込もうとすると、
「待て!」
 と云って、どこから出たか七八名の侍。
「へい」
「殿、何か――?」
 一人が、例の武家の傍へ走り寄った。殿と呼ばれた武家は、苦笑しながら近寄って、
「うん、ふところを抜かれたよ」
「おのれ無礼者」
 二人が、そこに居竦んでいる辰の、衿髪をむずとつかんだ。武家はそれを制して、
「手荒な事をするな、余の油断じゃ、抜いたものを戻して放つが宜い」
「と申しまして、此奴――」
「邸へ引立て参ったが宜かろう」
「不届至極な、下郎め」
 頻りにいきり立つ。殿さまが、
「人が立つ、みとうも無いでないか、早う取戻して放ってやれ」
「はっ」
 衿髪とっているのが、
「これ賊!」
 と怒鳴る、
「殿お忍びの折故、お慈悲をかけられるとの仰せじゃ、さ、御懐中の品を御返上申して、お詫を致せ」
「へ、へい、しかし私は」
「なに?」
 辰ぶるぶる慄えながら、
「私は、な、何も存じませんのでへい、実にその、何も――」
「ほう何も知らぬ?」
 武家が再び苦笑して、
「そ奴の懐中を検めてみろ」
「はっ」
 二人が左右から、辰の手を取って引く、一人が、そそくさと体を改めた。
「な、何も、何も存じませんのでへい、酒に酔って、お殿さまに、つい突当って、へい、それ丈のこってございます」
 ぶるぶる慄え――こいつが術で――ながら辰公、眼尻でちらと三吉の安否を見やった、とっくに代物は三吉の手へ渡っているんだ、へん! 殿さんか、障子の棧か知らねえが甘えものさ――。と胸の内に呟いたが。何をみつけたか、ぎょっと眼を瞠って、
「あっ、野郎!」
 と呟いた。

   三

「無いか?」
 殿さまが、少し苛立たしそうに、
「はっ」
 あわてて侍が、いろいろと探るが、手拭一本、紙一帖、唐桟縞の小粋な財布――勿論中身は小銭五六枚だ、――それっきり、外には藁しベ一本出て来ない。
「どうもこの外には、一向に」
「そ奴の仕業に相違ないのだ、よく検めて見ろ、早く――」
「はっ」
 廻りは、わんわんという人集りだ。
「可哀相に、濡衣をかけられたんだぜ」
「見ろ、ぶるぶる慄えてらあ」
「なあに、ああいう手合は、哀れっぽく見せかけるのが術よ。抜いた品だって、どこへ隠すか、素人にゃあ分らねえ」
「おや、お前知ってるのかい」
「先ず足袋の中か」
「素足だぜえ」
「だから怪しい」
 わっわと騒いでいる。
 と――人集りをかき分けて、四十あまりのばかに身柄の大きい男、顎髯の艶々と黒いのを胸まで垂らし、眼光炯々とした奴が、右手に三吉の腕を捻りあげながら、
「どいた退いた」
 とその場へやって来た。
 辰公が、あの野郎! と叫んだのは、蓋しこの有様を見たからである。
「あ! 暫く」
 髯が声をかけた。侍の二三人がばらばらと殿様の周囲をかこむ。
「何だ何だ?」
「掏摸にかかられた御仁は、貴公か」
「控えい!」
 一人が威丈高に、
「これに在すは――」
 いうのを制して殿さまが、
「待て」
 と一歩前へ、
「如何にもわしだが、何か――?」
「御貴殿か」
 髯がにやりと笑う。
「さぞ御迷惑でござったろう、拙者が取戻して進ぜたから安心さっしゃれ」
「ほう――其許が?」
「其奴を幾らはたいたところで、抜き取った品は疾く同類が持って逃げて居るじゃ。江戸の掏摸は洒落たものでなあ、はははは」
 髯は笑いながら、
「それ、この品でござろう」
 と紫帛紗包みの紙入をずいと差出した。
「うん、相違ない」
 殿さまが受取る、そのままふところへ。
「過分の働き、添い」
「中身を検めたら宜しかろうが」
「いや別状ない」
 さすがに育ちは争えぬ、と辰公いまいましいながら、感心して見ている、三吉は面目なげに、眼顔で頻りに辰公に謝っていた。
「品が戻る上は」
 髯は改めて、
「この両名、拙者の方にお任せ下さるまいか、如何」
「結構じゃ」
 うなずいて、
「たかの知れた鼠賊、だが番所へひくも大人気なき業、放ってやったら?――」
「これ!」
 髯が、三吉の腕をぐいと捻じあげる、
「あ、つつつ」
「お赦しが出た、拙者と共に参れ」
「痛、痛い!」
「其方の奴も、此所へ!」
 と髯が、辰公を抑えている侍へ云った。
 辰公もがいたが駄目だ。

   四

 髯は両手に三吉と辰を提げて、
「こいつら、うるさくくと、一緒にいょかいて参るぞ!」
 ぞろぞろと、物見高くついて来る群衆を追い散らしながら、執行院の前へやって来た。
 松の根方に、ひしお売りと並んで、一基の見台の如きものが置いてある、上に一冊の書物を置き、もう毛並びの乱れた古い孔雀の羽根が一本、仔細らしくのせてある――のを前にして、むくつけな書生が一人、提灯を提げてぼんやり立っている。
「おい!」
 髯が声をかけると、
「はっ」
 書生は夢から醒めたように、
「せ、せん、先生」
 と振返った。
「此奴ら二人、確と押えて居れ」
「な、な、何者で」
「今宵のな、宿賃だ」
「は?」
「宿賃の代だ、逃がすなよ」
「は、は!」
 辰公は泣き声を出して、
「もうお赦しを願います、この通り、もうすっかり面は晒されるし、二度と悪事は働けません、どうかお赦しを――」
「めそめそ申すな」
 三吉も傍らから、
「是以上は殺生でございますよ旦那、もう全く結構で――」
「貴様の方で結構でも、当方では未だ結構ではない。儂がな、いま少々稼いでみるから、そこで暫く待って居れ、えへん」
 髯が見台に向った。
 この時分には、もう、さっきから後をつけて来た群衆が、ひしお売りの前から、並び松三本を埋めてぐるり取巻いていた。髯は、漆黒の顎髯をぐいとつかんでしごきながら、ひとわたり人垣を見廻して、
「え――えへん!」
 ともう一度咳をした、とたんに、人垣の後の方から大声で、
「よう風来山人!」
 と叫んだ者があった。
「わしを見知る者があると見えるな」
 髯は大きくうなずいて、
「それは愛い奴、風来も両国を喰い詰めてな、斯様に縁日講日を廻り歩く始末じゃ、志あらば聴いて行け、一紙半銭の報謝で古今の物識となる。風来の講釈はな、そこら辺りに読古した稗史小説の類でないぞ、東夷南蛮北狄(ほくてき)西戎(成獣)、四夷八荒天地乾坤、空、虚として究めざるなく、人運の律、時運の理、命数の規、さながら掌を指すが如く明記して聴かせる。今皆はな、前講として平家物語の中、哀れいと深き重衡(しげひら)斬らるる一条を読む、えへん!」
 と髯をしごいた。
「野郎――」
 辰公が三吉を小突いて、
「どじを踏みやあがって、この――」
「そ、そうじゃねえ兄貴」
「何を」
「あの髯野郎が、見ていやあがって、又ばかに足の早え畜生で――」
「だ、だ、黙れ」
 書生が怒鳴った。この男吃りとみえる。
「へい」
 首をすくめる、髯が振返って、
「やかましい、講釈の邪魔になる、天紅!」
「は、は、はい」
「貴様、帯を解いての、そ奴らを其所の松へ括しつけて置け」
「し、し、しょ、しょ承知―」
 可愛相に、辰公、三吉の二人は天紅書生の帯で、松の木へ括しつけられて了った。
「さて、前講(ぜんこう)を始めるぞ」
 等が声をはりあげた。

   五

「もし、先生、先生!」
 新太郎ふっと眼が覚めた。
「誰だ」
「私です、ちょっとお明けなすって」
「辰か」
「へえ」
「何か知らぬが明日にしろ、眠うて――起きるのが面倒だ」
 頭もあげない。
「そうでもござんしょうが、ちょっとどうかお明け下せえまし、実は客――おきゃ、お客人をお連れしてめえりましたので」
「客――?」
「へい、是非どうか」
 新太郎むくり起上ると、枕元の大刀を左手に、ずいと土間へ下りた。
「入れ!」
 といいざまがらり戸を明ける。外は――いい月夜だ、青白い光に濡れて、四つの人影が立っている。
「へい―此方がその」
 と辰が、低い声で、
「私の、お、お、親分で」
 殆ど消えんばかり。
「何をぼそぼそやっている、いずれの仁か知らぬが、御用とあればむさ苦しゅうござるがお入りなさらぬか」
「ほう――」
 髯が、大きく眼をむいて、
「掏摸の元締にしては人並な口を利くのう」
「叱っ、叱っ!」
 辰が制すのを、ちらと見たばかり、
「如何にも見たところむさ苦しいが、露に打たるるよりはましであろう、御免」
「――」
 呆れている新太郎の前へ、髯はずいと入った。あとから例の、天紅と呼ばれた書生が、見台を担いだなりで、これ又遠慮もなく入って来た。
「辰!」
 新太郎が、
「この御仁らは――?」
「へい、その――」
 辰が、三吉と一緒に、土間へ路みこんだまま頭へ手をやって、
「全体、この三公が、その」
「兄貴、おいらの名を出すこたあなかろう、このお二人の――」
「やかましい!」
 髯が怒鳴った。
「つべこべと、いつまで口争いを致している。貴公」
 と新太郎に向って、
「この両人を御存知であろうな!」
「――」
「どうだ!」
 新太郎ぐいと帯をさげた。
「貴公、何だ?」
「わしか、ふむ、わしは見る通りの男だ」
「己も見る通りの男だ」
「――」
 髯が眼をむいて、
「掏摸の頭などを致す分際で、人がましく高座にいるという法があるか、下に居れい!」
 喚いたが、声の大きなこと。
「はっははは」
 新太郎笑って、
「己が掏摸の頭なら、さしずめ貴公は押込の手下であろう」
「なに押込?」
「夜陰に他人の家へ踏込んで、大声に嚇しつけるなんど、正に押込夜盗の有様でないか、おお怖や」
 ふざけた男だ、新太郎首をすくめて、一歩出るや、むずと髯の襟髪を掴んだ。

   六

 しかし、一刻の後。
 新太郎と髯とは、辰、三吉、天紅を傍に置いて、大盃をあげていた。
「そう云う訳でな」
 髯が、
「辻講釈一夜の鳥目が木賃宿の代にならぬ、ままよ露宿は貧の栄耀と洒落のめしての、夏のうちは濁酒ソウピィデリンケン、大いに惑星の研究を致し居ったが、斯様に秋深み風冴えて参ると凡夫の悲しさ、屋根の下が恋しゅうなる、それでのうても朝起きて、この髯に霜めが結び居るを見れば、人生四十年転(うろ)た落莫を感ずるでなあ、あはははは」
 新太郎うなずいて、
「御尤も」
「幸い――と申しては悪いが、今宵の騒ぎじゃ掏摸と見て手を出したは、云わずと知れた仲裁役で、先哲安兵衛の故智にならい、一夜の宿を工面せんず窮法、先刻よりの無礼、淵源するところ如是じゃ。ま、赦されい」
「いや手前こそ」
 盃をさして、
「ところで、不躾ながら」
 と新太郎が、
「見受くるところ、下凡の講釈師とも見えぬが、差支えなくば御姓名を御聞かせ下さらぬか――?」
「名乗る程の名でもないがの」
 髯がにやり苦笑して、
「姓は平賀、名は源内、福内鬼外とも風来山人とも号し」
「別に天浪人、松籟子の名も――」
 と新太郎笑って、
「ござりましょう――が?」
「や、人の悪い」
 髯が眼を剥いた、
「存じながら、ひとに名乗らせるなんど」
「いやお怒りなさるな」
 新太郎は酒をさして、
「江戸の水を飲んでいて、先生の時と、放屁論を知らぬこそ不思議。――ただ、素直にお名乗り下さるか否か、それを知り度う存じましてな」
「益々人が悪いぞ」
「と申すも、志道軒などの薫育よろしきを得た結果にて」
「これは敵わぬ」
「ははははは」
 快さそうに新太郎は盃をあおった。
 平賀源内は讃岐の人、生来の英質を以て、はじめ藩の茶坊主にのぼり、儒書の研鑽に没頭、後同藩の薬草園を管理した。藩を致仕して長崎に遊び、蘭学を修め物産の事を究め、諸国を漫歴の後江戸に出た。儒と医とを業として居るうち館林侯に見出され、二百石を以て仕えたが辞し、巷間に流浪しつつ著述或いは物理化学に専心、酔って街頭に一世を罵るの言を放ち、転々として居を温めず、今日に至っているのである。
「此方は――?」
 と新太郎が訊く、
「これはわしの弟子、東天紅と号する男、長枕得合戦などは此男の作でな」
「せ、せ、せ先、先生」
 天紅は口を尖がらせながら、
「そ、そそそん、そんな、ででででたらめ、でたらめ、らめを、おっ、おっ」
 真赤になって吃っている。
「いや承知して居るよ」
 新太郎笑って、
「あのような作、お若い貴殿にものされよう道理もなし。当代、あれ程の洒落、山人を措いて外に――」
「先ず一蓋参ろう」
 源内は盃をさして、
「業平浪人なかなか話せる、朋友のかためじゃ、ぐっとあけて呉れ」

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