徳川家の支配を盤石とするために、豊富家を滅ぼしたとされる家康
実際の家康は、秀吉との遺言を守り、豊富家との融和を行っていました
関ヶ原の戦いでも、西軍東軍ともに、秀頼への反逆者を倒す、という大義名分を掲げていました
関ヶ原のちの、1603年にも孫娘を秀頼に嫁がせています
当時は、豊富家の勢力はいまだ大きく、幕府を成立させた後も容易に手出しが出来なかったため、といわれています
家康は豊富家を配下に置くための融和政策を数々とっています
最終的に決裂し、大坂の陣につながりますが、豊富家が一大名として生き残る道もあったのかもしれませんね