許可を得ずに藩を抜ける脱藩。多くの藩で、死罪、お家とり潰しなど重罪が課されていました。役職によりますが、藩士は役人でもあり、軍人でもあります。主君への不忠のみならず、情報漏洩の危険もあったためですが、ですが、有名志士で脱藩して活動したという話はよくききます。彼らは、なぜ死罪にならなかったのか?
実は、全ての藩が重罪を貸していたかというと、そうではなく、また脱藩の障壁となる関所も、後世に言われるほどの厳しさは(少なくとも幕末には)なくなっていました。
倒幕の先兵をなしていた長州藩志士たちは、東西奔走していましたが、そんなことができたのも長州藩が脱藩に対して寛容だったから、といわれています。
吉田松陰は、22歳の時、最初の脱藩をしました。友人(宮部鼎蔵ら)東北旅行を計画していたのですが、藩からの許可がなかなか下りず、勝手に旅立ってしまったのです。
長州藩は、江戸で松陰をとらえます(東北は、しっかり見聞した後の話)。
死罪とまでは行きませんでしたが、武士身分と収入は没収(士籍剥奪・世禄没収)。
けれど、藩主の計らいで、国内遊学を許されています。
この時の長州藩藩主は毛利敬親。人材育成に尽力し、松陰才を認めて重用していた殿様です。長州藩士の活躍は、脱藩の罪が緩かったというより、この殿様のおかげかもしれませんね。
脱藩に対して藩士の認識があまくなったのも、松陰先生の前例があったのが原因かも。
そうせい公などと言われた敬親ですが、藩士には慕われており、敬親を顕彰した石碑が旧長州藩領には多く残っています。そうせい、といっても、本人は無能でなく、政治を藩士に任せていたけれども、重要ごとでは必ず自ら決断したそうで、四賢候には入っていませんが、それ以上の賢候だったのかも。司馬遼太郎は、
かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた
と書いています。
話がそれましたな。
高杉晋作などは、五回以上も脱藩! 処分は投獄と謹慎だけです。他にも脱藩者は、数多くいましたが、黙認もしくは微罪で、死罪になったものはほとんどいませんでした。
他藩でも脱藩の黙認は、珍しくなく、幕権だけでなく、なんの権力も下がっていたのかもしれません。というより、下の身分が上を圧倒していく、革命期の特徴なのでしょう。
坂本龍馬が、脱藩して、全国を自由に移動するのを不思議に思っていたのですが、関所が形骸化していたことも要因の一つであったようです。
逆のケースの代表は土佐藩で、脱藩者を厳しく取り締まっています。犯罪者として指名手配、坂本龍馬も、勝海舟の口利きで許されるまで、表には、出られませんでした。これは藩主が英邁で、力をもっていたことも関係していると思われます。
手続きを済ませて藩を抜けることも不可能ではないですが、身辺調査をうけ、問題がないことを確認してからになりますので時間がかかり、松陰のように申請していながら、無断脱藩してしまう者もでる始末。
お侍は大変ですよね