設立は1600年。1874年6月1日の解散まで、その歴史があります。
インド大反乱
セポイたちが、反乱を起こしたきっかけは、噂にあります。
「新しく弾薬を包むために配布された袋には、牛や豚の油が塗られているらしい――」
ここで問題になってくるのが、彼らの宗教でした。
ヒンズー教徒は、牛を神聖とみなしています。
イスラム教徒は、豚を不浄なものと敬遠しています。
「噂が事実なら、我々は、弾薬を取り出す度に、タブーを犯すことになる――」
当時インド社会は綿を特産品としていましたが、イギリスが綿製品を強制的に売りつけたことで、綿産業は壊滅状態におちいります。セポイを管理していた東インド会社は、この傭兵集団を海外に派兵しようとしていました。反乱の芽は着実に育ち、暴発する寸前だったのですか。
イギリスへの不満は、この噂をきっかけに爆発します。
セポイたちの起こした反乱は、全インドに広がりました。各地でイギリス軍と衝突していきます。
結果としては、セポイたちは、統制のとれたイギリス軍に大敗を喫します。これをきっかけに、インドは、東インド会社の手を離れ、イギリス国王に直接支配される自体となりました。
これ以降、長年にわたる独立闘争へと、発展していきます。
昔は、セポイの反乱と学んでいましたが、最近はインド大反乱と呼ぶようですね。セポイがきっかけではありましたが、反乱勢力は多岐にわたります。藩王国の強引な併合や、とり潰しなどがありました。貴族、役人、軍人の失業、貧困が問題化していたからです。根は深かったんですね。
ムガル帝国の滅亡
イギリスによるインド支配は、ムガル帝国を弱体化させます。
インド大反乱は、デリーより始まります。
デリー臨時政府は、ムガル皇帝を名目上の君主としました。ところが、皇帝バハードゥル・シャー2世は、デリーへの攻撃的と同時に降伏してしまい、裁判により、廃位。ビルマへの流刑となります。
ここにムガル帝国は、三百年あまりの歴史に幕を下ろすことになりました。
このようにムガル帝国を滅亡させ、インド社会に大混乱を引き起こした植民地支配ですが、タスマニア島でおこった蛮行に匹敵するものは、なかなかないでしょう。
タスマニアの悲劇
タスマニア島は、オーストラリアの南東部に位置しています。タスマニアデビルが有名ですね。ちなみに大陸のタスマニアデビルは、絶滅しています。
氷河期には、大陸と島は、陸続きの状態でしたので、歩いて渡ることが出来たんですね。氷河期が終わると、島は隔絶され、タスマニア人は独自の生活を送るようになります。
流刑の島
1642年にオランダ人探検家により発見され、植民が行われたのは、1803年。
アボリジニと系統を同じくする、原住民が暮らしていました。アボリジニよりも、原始的な暮らしをし、平和な民族だったそうです。
タスマニアが、流刑の島となった頃、島には9つの部族が存在していました。
この原住民を、イギリス入植者は、動物を狩るようにして、虐殺していくのです。
3000人あまりいたタスマニア人は、1830年に始まったブラックライン作戦により、135人にまで激減。生き残った人たちも、タスマニア島北東の島に強制移住をさせられます。
キリスト教や欧州文化を強制されたタスマニア人は、劣悪な環境と疫病によりさらに数を減らし、1876年には、最後の一人が亡くなってしまい、絶滅してしまいました。