奥州二代目彦六一家

奥州二代目彦六一家

 街道を外れた林を進むと、いろは滝がある。
 支流らしきものが一本走っていて、そのまわりを三本の細い筋が、糸を引くように落ちている。
 この水がいい。ひどく澄んでいる。万病も、いろはの水を含めば治ると云われた。
 彦六は仁助を連れていろは滝に来ていた。寒いだけあって見物人もさほどなく、掛茶屋にも人気がなかった。
 彦六と仁助は、途中偶然会った修馬と、掛茶屋で饅頭をよばれていた。
 修馬は今は親父の後を継いで、岡っ引になっている。彦六との付き合いは相変わらずで、十手稼業も順調のようであった。
「よかったなぁ、半ちゃん」
 饅頭を片手に修馬が白い歯をのぞかせている。よかったとは、お目通りのことである。
「今は彦六ですよ」仁助が念を押すと、
「ああ、そうだったな」と、笑った。「おれは十手で、おめぇはのれんか。お互い妙なもん背負っちまったなぁ」
 愉快そうに茶を干した。
 彦六は物も云わずに口をもごもごさせていたが、
「長老方ってのは何人ぐれぇだ」
「俺が知るわけないだろう。お前のほうが詳しくなくちゃいけねぇよ」
 彦六は、もっともだとうなずいた。
「兄貴、そろそろ戻りやしょう」
 手にした饅頭を素早く食った仁助が、ひょいと床几を立ち上がった。
「俺はもう少しいるよ」
 修馬がいろは滝を見ながらのんびり云ったので、彦六は余分の金を払って饅頭を追加してやった。
 小女が来て、修馬の湯呑みに茶を注いだ。
 熱い茶を音を立てて飲みながら、修馬は梢の合間に覗く碧空に、幸せそうな目を向けた。
 太陽は中天にさしかかったが、相変わらず冷気は晴れない。地面がわずかに湿っていた。
「まだまだ冬だな」

 旅篭で、路を行く彦六を、引き戸から見下ろす男がいる。
「あれが彦六一家の二代目でさぁ」
 と、かたわらに声をかけた。彼の他に、九人の男たちが、集って下を眺めおろしている。
「まだガキだな」
「十九でさ」
 さきほどの男が即座に答える。
 訊いたのは、頬に傷のある三十年配の男だった。口に長楊子をくわえて、ぼりぼりと懐をかいた。麻の着流しがよく似合っている。男たちの頭のようだった。
「彦六一家も終りだな」
 頭風の男はなんの感慨もこめずに云った。
 見下ろす目が、異様に冷たく、ゾクリとするものがある。
「いかがいたしやす?」
 別の男が、頭の顔を覗くようにして訊いた。
「彦六一家に、本当の憂き目を教えてやりな」
 そう答える間中、頭の表情は変わらなかった。

 街道から脇道に入って、林に囲われた漢永寺に出た。
 人影がなく、森閑としている。木漏れ日が日溜まりをつくっていた。本町にぬけるには、ここを通った方が近い。
 本堂の中ほどにさしかかった頃、木影から四人の男が走り出てきた。
「なんだ、おめぇらは」
 彦六と仁助はぎょっとなった。男たちは全員刃物を抜いている。
 旅篭で彦六を見下ろしていた、あの男たちである。
 ほお傷の男は交ざっていないが、彦六の窮地には変わりがなかった。
「あ、兄貴」仁助はすっかりうろえて、彦六の着物の裾をつかんだ。
 彦六一家は城下でも一、二を争う勢力を持っている。先代が死んだ今、これを蹴落とそうとする者がでるのは当然だった。
 男たちは無言である。
 彦六は草鞋を脱いで身構えた。
「やるぜ、仁助」
 一声かけると、仁助もさすが一家の若いもんである。これも腹を据えて草鞋をのたくそと脱ぎにかかった。
「おめぇさんがた本当におやりなさるか?」
 彦六は器用に片目をつぶって、低く宣告した。…………一同は何も云わない。答えの代わりに匕首と刀を光らせた。彦六はちっと舌打ちをもらした。
 隣で草鞋を脱ぎ終えた仁助が、ごくりと喉を鳴らしている。
 彦六は、匕首を使わせれば右に出るものがないぐらい腕が立ったが、このことは文悟ぐらいしか知らない。ただの喧嘩には絶対につかわないからだ。
 匕首を教えてくれた伴兵衛じいもそのことを厳命していたし、彦六にもそんなつもりはさらさらなかった。喧嘩に刃物を持ちこんじゃあ、咲きかけた花もしぼんでしまう。
 彦六は、武士の喧嘩は一番割りに合わなくて、花もないと思っていた。意地かなんだか知らないが、喧嘩には喧嘩の法度がある。それを守ってやるから、喧嘩はたのしいのだ。侍のは、意地の張り合いが即座に命のとりあいにかわる。彦六が世間のいうやくざ者でも、喧嘩で死ぬような馬鹿はしなかった。
 だが、今回はただの喧嘩ではすみそうになかった。これは真の殺し合いだった。男たちの腹部を圧迫するような殺気がそれを告げている。しかも、彦六の懐に、匕首はなかった。
 男達はぞろりぞろりと間を縮めてくる。刀を持ったのは一人。残りの三人は匕首である。
 使うのはあの男だな、と彦六は見ていた。まず動きがちがう。後の三人は、自分と同業のようだった。
 八双に構えをとる浪人風の男を見て、彦六はふいに休臥斎のことを思い出した。
 浪人が、一歩男たちより前に出た。刀を上段に、すうと吸い上げた時には、さすがにどきりとした。
「きえぇぇ!」
 男が烈帛の気合を放った。彦六はとっさに仁助を突き転ばした。
(かわせるか)
 胸にふと疑念が生じた。男は上段に刀をかまえ、斬り掛かってくる。
 二尺五寸の大刀が、眼上にそびえたったように見えた。
「兄貴」
 転がったままの仁助が、泣きそうな声で叫でいる。
 男がずんと彦六に迫り、殺気をこめた眼光が脳髄を射抜くようであった。
(斬られるっ)
 彦六は半ば観念しかかった。
 その時、横合から一人の侍が走り出てきた。二人の間合に割り込んで、今や斬り殺さんとした浪人の殺人刀を、手にした刀ではっしと受けた。
 彦六は凝然となった。篠山休臥斎である。
「素手で刃物につっかかるとは、無茶をしなさる」
 休臥斎がくだけて笑った。そのまま男の刀を押し戻した。
 彦六の全身からすうっと力が抜けていった。
 先代が生きていた頃、貫蔵一家とあわや決戦という時に雇い入れた浪人なのだが、先代の人柄と彦六一家の家風が気に入り、そのまま居着いてしまった。
 彦六一家に流れつく以前、なにをしていたかはたれも知らない。だが、腕は立つ。
 浪人が後方に跳びすさった。やくざ者が狼狽えている間に、脇の下草ががさりとなった。
「そろそろあらわれると思っていたよ」
 と出てきたのは、若衆頭の文悟である。後に続いて灸蔵たちまで小走りに走ってきた。どうやら掛茶屋から、ずっと彦六の後をつけていたようである。
「お前さん方、どちらだね」
 文悟が余裕のある態度で凄味を聞かせながらそう問いかけた。手癖の悪い雷蔵が、彦六を狙われて早くもふーふー云っている。
 休臥斎が、一同を守るようにしながら下がってきた。白刃は水平にかざしたまま、一分の隙もなかった。
 休臥斎は、男たち、特に浪人ていの男を見据えている。手強いと云えばあの男ぐらいのものだ。
 残りは休臥斎から見ればズブの素人だった。刃物を持ち、数で勝ればなにほどのものでもなかった。
「今日のところはお互い引かないかね? そっちの助っ人さんは一人きり。後はこちらと同じ無頼の徒だろう。勝敗は見えていると思うがね」
 文悟の言葉に、男たちは、明らかに心を動かされているようだった。互いの顔を見合った後、うめき声を残して逃れ去った。
 休臥斎が、ぱちりと刀を鞘におさめる。
「文悟の兄貴」
 仁助が咎めるようにわめいた。何もせずに黙って帰したのだから当然である。捕えて、誰に頼まれたか泥をはかせればよかったのだ。
 もとより、文悟にただで帰す気はなかった。
 若い衆に目を走らせ、二人を追っ手にやった。こうしておけば、いずれあの男たちは雇い主の元へ帰っていくはずである。
 仁助はほっと胸を撫で下ろし、あらためて文悟の慧眼に感服した。
 文悟は彦六の前に立ち、「すいやせん、若」と膝に手をつき腰を折った。
 彦六は苦みばしった顔で、「だしにつかいやがったな」と、云った。
 仁助はようやく思い至り、あっとわめいた。道理で朝からみなの様子がおかしいと思った。文悟たちは、彦六が襲われることを見抜いていたのだ。
 かといって、屋敷を出ないわけにはいかない。彦六もそうとわかって退くたまではなかった。そこで文悟は一計を案じ、敵をいぶりだすことにした……。
「そのようで」
 顔を上げた文悟がにたりと笑った。
 彦六が、「まあいいさ」と苦笑する。
「相手はどこの一家のもんでしょうね」
「古いとこじゃ、二ノ宮一家か。貫蔵一家じゃあるまいし」
 と灸蔵が首をかしげた。
 彦六は一同の言葉を聞きながら、男たちの立ち去った方に目を走らせた。
「浪人か……?」休臥斎に云う。
「そのようですね。大した腕じゃありません」
 こともなげに答える休臥斎。この男の腕は世人の知るところだ。
「それより、困ったことになりました」
 文悟が、下から見上げた目を底光りさせた。

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