明治書生物語

学生はつらいよ

明治の頃、地方から上京した学生たちの呼び名は、「書生」

ルームシェアで、下宿の一部屋を寝床とし、夢を語り、牛鍋をつつき、酒をくらう。寄席に吉原、義太夫に、東京となった花の都に鼻を伸ばす――

 当時、風体言動が粗野なことをバンカラ風といいました。西洋染まりのハイカラに対抗する書生の様子ですが、現代でいえば、応援団に名残があるかな、といったところです。夜這いに励む学生を揶揄した言葉でもありました。

 日清戦争が終わる頃には、堕落書生が多くなり、仕送りを使い込まないよう、学資を保管する会社まで生まれています。

 明治中頃には、硬派・軟派の二流が生まれ、坪内逍遙が、

「生意気に絹の着物を被りたり、博多の帯を結わえたり、駒下駄をはいて」

 いたりする軟派に対し、

「尻の辺りを赤くなった白地の単位を被りて、白木綿の尻子をまきつけ、腕まくりしたる」

 と肉体派の硬派の様子を書き残しています。この軟派なものたちの風紀を糺すために作られた伸すが、角帽。

「意志薄弱なるが故に悪友の誘惑に陥る物が少なくない」

 という理由だそうですが、これを提案したのは、硬派学生のグループからでした。

 世をはかなみ、自殺者が多く出たのも、明治の特徴で、発端となったのは、夏目漱石の教え子「藤村操」である、といわれています。日光の華厳の滝で投身自殺をしてしまいます。後年漱石うつ病の遠因になったのではないか、とも言われていますが、この藤村のみではなく、さまざまな理由で、多くの青年が命を絶っていきます。

 日露戦争後には、梁山泊を称して大酒をあおりながら天下を論じる集団も多く見られるようになりました。オシャレに走ったり、堕落して学業を放棄、ゆすりたかりに走るもの、路傍にたって流行歌をうたうもの、露天を出すもの、良家の子女を誘惑するもの。

 そんな学生たちを抱えた大学は、どんなものだったのでしょう?

明治大学実情

 1872年。明治五年に「学制」が公布されました。これは1879年。明治12年に廃止。教育令と姿を変えました。1886年。明治19年、教育関係の法律が整備。その三月には、「帝国大学令」が出されます。四月はじめ、「小学校令」「中学校令」「師範学校令」交付。月末には「高等師範学校・高等中学校・商業学校の各管制」が交付されます。

 教育制度は整っていきましたが、当時、「大学」と名がついていても、実質的には「専門学校」の扱いでした。そのころすでに、慶應義塾大学、早稲田大学はありましたが、厳密には、大学、ではなかったのです。

 そのわけは、政府が大学というものを七つの「大学区」で統治しようとしていたから。その大学区の中に、中学区、小学区を設置する砲身でありました。正式に大学と名乗れるのは、七つのみで、その全てが国立、という方針だったのです。

 その大学区は、今の国立大学の基になっており、

 東京――帝国大学
 京都――京都帝国大学
 東北――東北帝国大学
 九州――九州帝国大学
 大阪――大阪帝国大学
 名古屋――名古屋帝国大学
 北海道――北海道帝国大学

 となっていました(大正、昭和になって設立されたものも含みます)。
 日本統治下の韓国、台湾にもも大学区がもうけられ、

 韓国――京城帝国大学
 台湾――台北帝国大学

 がそれぞれ設立されています。

 幕末には官費私費を投じて欧米への留学が行われていましたが、明治政府は、西洋に通じた人材を生むために、海外留学の制度化にも着手していきます。
 明治初期、岩倉具視が作成したガイドラインには、

 工学系――イギリス
 法学系――フランス
 理学系――ドイツ
 社会科学系――ドイツ
 農学系――アメリカ

 この分野は、この国、と明示されています。幕末の留学経験者からある程度の情報を得ていたのか。とまれ、当時の政府では、それぞれの分野でもっとも先進的で、日本にとって有用な国を把握し、効率的に学習すべし、という方針を示していたようです。

 明治の高等教育機関は、国家の行く末を担う高級官僚、高級武官を育成するためのものであり、各行政分野における専門知識をそなえたものを大学で育成し、最先端の軍事理論を身につけさせるために士官学校を設立しました。海外留学よりも、国内で育成したほうが安価で早期育成が望める、という方針のようですが、日本語で、あらゆる分野の専門書を読めるようにしてくれた、翻訳者たちの努力も忘れてはいけませんね。ふつうは、英語が基準であり、母国語のみでノーベル賞が出せるのは、日本ぐらいなものですので。
 とはいえ、明治の初期ではテキストは直輸入された海外論文です。大学生は、バイリンガル、トリリンガルであることが必須。ついていけなくて、堕落してしまう気持ちもわからんでもありません。

 基本的には優秀だったようで、大学で教鞭をとったドイツ人教師は、生徒はドイツ語をよく理解し、通訳は助手ていどの仕事でよい――と故郷に書き送っています。

 明治の学生は、国家の柱石を担う優秀な人材として期待をされており、大学のあふれた現在ではちょっと想像できないほどのエリート集団。だからこそ堕落した様子が今も残っています。なんせ、当時は月謝も高く、進学率も低いものでしたから。

 森鴎外や、夏目漱石など、優秀な人材は国から命じられ、留学をはたすことも珍しいことではありませんでした。

 例えば、高等中学校では、全国の公私立の尋常中学校から選抜して学ばせていました。その学力は、今で言えば、難関大学を受験するぐらいの学力を入学時点で要求しており、そこから選ばれた人たちが大学に入れる――実に狭き門です。高等中学校進学のための予備校も、すでに存在していたほどですから。

 こんな彼らは、明治大正へと国を背負ってたつことを期待されたエリート中のエリートでした。

 藩閥の変革は、学閥から起こったとも言えるかもしれませんね。

 

 

 

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