姫路城の秘密!

白鷺城の沿革

 国宝にして世界遺産。姫路もんではないけれど、兵庫に住んでるだけで、なぜか気になる姫路城。改装も終わりさらに美しくなった白亜の城だが、姫路城には秘密の階層が存在することはご存じだろうか!

 白鷺城とうたわれるそのたたずまい。日本有数の巨大な天守と、三つの小天守をそなえ、渡櫓により連結された連立式天守閣の偉容は、残存する12天守の中でも、ひときわの異彩を放ち続けている。

 姫路城のある姫山に城が置かれるようになったのは、1333年のことである。その後、姫山は、城と城主をかえながら、一帯の拠点でありつづけた。秀吉の時代に近世城郭に改められ、三層の天守が建設された。

 姫路城が今の姿になったのは、1609年のこと。実に400年以上の年月が流れたわけだ。よくいままで残ったものだと思わずにはいられない。

 美麗にして荘厳、世界の宝にふさわしい姿だ。

姫路市

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 さて、姫路城の外観はとても特徴的なのだが、果たして何階建てであったかを記憶しておられる方はいかほどあるだろう?

 外からみるかぎり、姫路城は五階建てである。写真でも確認してほしい。五階建てである。目をこすって見ても……五階建てである。五階建てなのだ。

 だが、思い出して欲しい。姫路城を建設したのは、戦国の雄池田輝政である。豊臣恩顧の武将ながら、徳川家からも信をおかれ、その死においては、これで大坂は滅亡してしまうと豊臣方からも嘆かれたほどの真の武士だ。

 輝政は、人格者であっただけではない。幼いころから戦場を渡り歩いた真の武将でもある。

 戦国武将であった輝政は、姫路城を美観なだけではない、要塞として綿密につくりあげたのだ。

 姫路城は、戦うための城、なのである。輝政の周到な策立ては、むろん大天守にもおよんでいる。

大天守の秘密

 姫路城の外観はまちがいなく五層。これはすでに述べた。

 が、内部を詳しくみてみると、この城は六層の天守として設計されているのである。

 内容をくわしく見てみよう。一階から四階までは、大広間やいくつかの部屋のあるふつうのつくり。三階は、天井が高く、階段には踊り場がある。

 五階は、明かり取りつきの屋根裏。

 六階の最上は、書院風の大広間となってい

 六階だてのビルともなると、高くて25メートルほどになるそうだが、姫路城は、31.5メートルもある。ちなみに、姫山は、標高45.6m。石垣は14.85mであるから、海抜92mということになる。現存天守最大の城だけはあるのだ。ちなみのちなみに、重さは5700トン。かつての6200トンから、大幅ダイエットである。

 姫路城はでけえ。だが、でかいだけで、戦に勝てるのか? 五階に見えるのを六階にした……そんなことで、いばれるのか輝政?

地階の存在をいわせてくれ

 実は、戦の備えは、地階に存在するのだ。つまり、姫路城は、七階建てなのである!

 姫路城の地階は、外からみると、石垣の上部にあたるので、外観からはその存在はわからない。

 地階が存在する城は、他にもあるが、ふつうは倉庫として使用される。

 姫路城は、炊事ができるよう、流しがそなえつけられており、トイレも三カ所ある。

 これは、姫路城の地階が、籠城のための隠し階として、設計されたことを意味している!

 なるほど、姫路城は、天下統一後の建設である。だが、戦国の威風はのこり、戦の気配はそこかしこにたちのぼったままだ。

 輝政は、最後の防衛拠点して、大天守を築いたのである。

 地階の入り口は、二十構えの厳重な門がそなわっている。さすが戦国を生き抜いた男は、戦うことを徹底して考え抜いたわけだ!

 

 ちなみに、姫路城が戦につかわれることは今日までなかった。政府軍の兵1,500人に包囲されたこともあったが(じつはこのとき実弾の発砲もあり、福中門に命中している。なにすんねん!?)、不戦の城で令和の世をむかえているのだ。そんなわけで、トイレに使用の痕跡はなく、ばっちくないです。

 輝政の備えは、不要となったわけだが、この歴史の巧妙に我々は感謝するべきであろう。

 

 おかげで、姫路城は、大戦ものりこえて今日の姿があるのだから。

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