ねじまげ世界の冒険 第二巻 冒頭部分をチラ見せいたします!

    二

 紗英が指定したのは、キャラバンという名のオープンカフェだった。いい具合の日差しで、風も気持ちが良い。十時を半分ばかり過ぎたころあいで、客の入りもよかった。さきに着いたようだ。窓際の、通りがみえる席に、案内された。
 コーヒーをふたつ注文した。携帯に着信があった。席を指示するうちに、利菜の姿が入り口にみえる。手をふった。利菜がふりかえしてくる。その明るい表情に、紗英はほっとする。
 中学以降も、親友との連絡は、絶やしたことがなかった。日本に帰(き)省(せい)して、利菜や佳代子に会うのが楽しみだった。母親に会うよりも、この二人の顔をみるほうが、安心したものだ。ホームグラウンドにもどったような、そんな感じ。
 フライトアテンダントになって、世界中をとびまわるようになった後も、東京にもどるたびに、なにかにつけて連絡をとり、利菜に会うのがつねとなっていた。たがいに社会人となり、昔のことなど多忙な毎日に埋(まい)没(ぼつ)していたのに、いまだに親密な関係がつづいていたのは不思議なことだ。だけど、ここ一年ばかり。利菜とも神保町の旧友とも、連絡をとっていなかった。紗英はそのことに気づき、身震いをした。
 親密な関係がつづいたのは当然だ、と考える。子ども時代にあんなことがあったのなら(たとえ記憶が欠(けつ)落(らく)していたとはいえ)、自然なことではないのか?
 なのにこの一年ばかりは、意識的にしろ無意識にしろ、旧友のことをさけてきた。おまもりさまでともにつかまった面(めん)子(つ)のことを、すっかり忘れていたのである。
 物思いにしずむうち、利菜が店員と二(ふた)言(こと)三(み)言(こと)かわして席にちかづいてきた。
 利菜はすわりもせずに、紗英の肩に手を置いた。
「ひさしぶりじゃない、相棒。いつ東京にもどったのよ」
「まずは席につきなさいよ」と紗英は言った。「コーヒーたのんどいたから。アメリカンでよかったよね」
「なんでもまかすわよ。そこにかんしちゃ、あんたがプロだからね」
 二人は声をころして笑った。利菜がすわった。
「秀三さんは、どうしてる?」
「元気よ」
「純ちゃんは?」
「バスケはじめて、張りきってるわ」利菜が髪をかきあげる。「あの子とも会ってないでしょう?」
「何年生になったっけ?」
 すこし間があき、「五年生」
「そう……」
 利菜に会ってふくらんだ気持ちが急にしぼんで、紗英はうつむいた。利菜の娘も、あの頃の自分たちと、おなじ年代になっていたのだ。すべてが符(ふ)合(ごう)しているようで、紗英は息苦しかった。
「ジョンとはどうなったの?」
 紗英は鼻でわらう。「もうわかれたよ、あんなやつ。絵ばかり描いて、口ばっかでさ」
「絵で思い出したけど、わたしも本を出すことになってね」
「ほんと? すごいじゃん?」と目をまるくする。
「といっても、もう出版したんだけどね。絵本を一冊。とうぜんいってないよね」
 利菜の質問に、つばを飲む。利菜が、この一年連絡すらとっていなかったことに気づいていて、それ以上のことを言おうとしていることに、気がついのだ。
 顔を上げ、表情に不安がまじらないことを祈りながら、利菜の瞳をひたと見つめた。佳代子になにがあったの? 寛ちゃんになにがあったの? あんたたちはなにを知ってるの? と訊きたくなったが、その疑問は瞳のなかで渦巻くばかりで、一言も口にすることはなかった。本当は、すでに事がはじまっていることを知っていたからだし、利菜が口にすることで、その現実とむきあうことが怖かった。
 彼女はまた顔をふせ、ミルクティの揺れを見つめるふりをした。
「どんな本?」
 と訊く。利菜が顔をあげたので、
「いやいい。内容はいわなくていい」と取り消した。
「なにが書いてあるか、知ってるの?」
「知るわけないじゃない。楽しみはとっておきたいだけよ」
 だけど、なにが書いてあるかは知っていた。これまでの経過をおもんばかるに、利菜の絵本があのときの出来事を題材にしていることは、容易に想像できたからだ。怖いのは、利菜がそれを書いたときに、まったく狙っていなかったことだ。きっと彼女だって、おまもりさまのことは、すっかり忘れていたはずだから。
 二人はそれから、とりとめのない話で盛りあがった。幼馴染が顔をあわせたら、かならずといってとりくむ話題。昔話と、当時の知り合いの近況について、花を咲かせたのだ。利菜は、小学生時代の恩師が、また神保小学校にもどったことを教えてくれた。中学時代にくっついた、吉田と熊谷という先生の間に、三人の子どもが生まれた話。初恋の谷村君に、三人目が生まれた話。
 だけど、どこかしら紗英はひっかかっていた。ながい付き合いのせいか、利菜がいろんな話をふせているように感じられた。悪い話は、全部。
 ひとしきり笑った後、利菜は椅子にもたれかかって、吐息をついた。ガラスごしに、通りに目をやった。
 紗英はそんな利菜を見つめている。二人は、本題にはいる覚悟を決めたようだ。
「そろそろ、帰ってくるころだと思ってたよ」
「わたしのシフト表でも持ってんの?」
 利菜は笑わなかった。真顔で、紗英のことをみかえした。「そんな気がしただけ」
 利菜は話した。神保町でまた殺人事件が起こっていること、行方不明事件が起きていること、クラスメイトの子どもが、殺されたこと。
「松本君の息子さんだったの? 良治君?」
 利菜はうなずいた。
「うそでしょう。犯人は捕まってないの?」
「つかまってない。警察は、連続殺人の犠牲者じゃないかっていってる。遺体の一部を切りとられてたんだって。佳代子が教えてくれた」
「佳代子とは連絡をとってたの?」
 利菜は首をふって否定した。「ここ一年は、ぜんぜん」
 紗英はまたティーカップに目をおとした。ふと二人が、カップをなでまわしたり見つめたりするばかりで、中身をひとつも口にしていないことに気がついた。
 利菜の顔からは、笑みが消えていた。かたい表情だった。
「子どもたちが殺されてる。寛太や達さんの知り合いの子どもよ。私たちの知り合いの子どももいる」
「待ってよ。わたしは最近まで、五年生のときのことを覚えてなかったのよ。あんたはどうなの?」
 ややあって、「おんなじ。五月に佳代子が手紙をよこすまで、あの山のことはすこしも思いだすことがなかったのよ。でも、夢や幻覚では、ずっと暗示してたのね」
「幻覚をみてたの?」
「おかしい?」
「おかしがってるように見える?」
「真剣なふうに見えるわね。あんたも見てたの?」
 利菜は取調官のような冷静な目で、紗英のことを観察している。相手の話を、じっくりと訊くときにみせる、冷(れい)徹(てつ)な表情。
 紗英は言った。「見てた。溺(でき)死(し)女(おんな)をなんども」
「あたしも見たよ」
「不眠症にもかかった?」
「かかった。夢遊病にもかかった」
「帰りの飛行機でさ……」
 と紗英はいいかけて、ふと口をつぐんだ。41便には仕事で乗りこんだのに、紗英はいま、帰りの飛行機と口にした。べつに、日本に帰省する予定ではなかったというのにだ。
「飛行機でなにがあったの?」
「おったまげるようなことよ」
 紗英は笑おうとしたが、唇がふるえて中途半端に終わり、きゅっと唇を引きしめた。
 話した。飛行機のなかで、溺死女があらわれたこと、コクピットで見た光、そのなかを通りぬけ、結果的にロンドン東京間のフライトを、二時間ばかり短(たん)縮(しゆく)したこと。それは空間を飛びこえたことにほかならない。集団での瞬間移動といえなくもないが、そんな話は査(さ)問(もん)会(かい)ではいちども口にしなかったし、仲間と再度話しあうこともしなかった。
 そのとき利菜のみせた行動は意外で、それでいて利菜だからこそ納得のいくものだった。彼女はさも、納得したようにうなずいたのである。
「佳代子はね、またおさそいがはじまってるんじゃないかっていってる。それも、子どものときよりずっとひどいことが起こってるって。わたしはあのときのことを全部思い出したわけじゃないけど、でも、もう一度……なんていうのかなあ」
 言葉につまった。利菜にはめずらしいことだった。
 紗英は少し下を向く。「召(しよう)集(しゆう)がかかってるってこと?」
「誰から?」利菜が問いかえす。
「わかんないよ。でも、あんたはおさそいっていった」
「子どものころは、そういってた……」
「わるいものって? 昔はあいつらのこと、そう呼んでたよね」
「幻覚のことを?」
 紗英はうなずく。利菜が、
「でも、あれは幻覚以上のものだったよ。あれがなんだったのかは思い出せないけど、幻覚は人を殺したりしないし、佳代子をひっぱたいたりしないんじゃないかな……」
「みんなはどうしてるのよ?」
「まだ町にいる」
 利菜は知っている経(けい)緯(い)を、ひとつずつ話しはじめた。佳代子たちが山にもどったこと、自分に手紙をくれたこと。佳代子との電話のこと。
「もうひとつ困ったことがあってね」
 と利菜は笑った。不思議な――笑いたくもないのにそうしているような――不思議な笑みだった。
「うちの両親と連絡がとれないのよ。あのときも母さんがいなくなったはずだけど、とにかく電話をしてもつうじないの」
「携帯は?」
「だめだった」
 紗英は息をのんだ。思いだしたのだ。
「またあの家に?」
「どうかな……」利菜が眉(まゆ)根(ね)をよせる。「坪井って人が死んで、あの宗教はなくなったはずだよね。母さんも、足を洗ったはずだし。でもね……」
 利菜が口をつぐんだ、訴えるような目で見つめてくる。
「わたしは両親とも連絡をとってなかったのよ。一年ばかりの間、神保町のことはいっさい考えてこなかった。無意識のうちになんだろうけど、わたしは逃げてたんだと思う」と彼女は言った。「でも、ここまできたら、そうもいってらんないよ。あんたはどう思うの?」
 紗英は指をくみあわせた。「あんなことがあったのに、みんな忘れてのほほんと生きてさ、つけがまわってきたって感じよね」
「忘れたのはあんたのせいじゃないよ」
「ともかく……わたしはなんだかわかんないけど――」と胸に手をあてる。41便で感じた力のことを思う。あの女が発していた力のことも。「自分に働きかけてくるなにかがあるのを知ってる。わたしだってこの一年、わけのわからないまま生きてきたけど」
 仲間やまわりの人間に、さんざん迷惑をかけたけど。
 紗英は、男性ほどもある上(うわ)背(ぜい)を、精一杯のばした。
「それが私の人生なら、むきあうしかない」
「よくいった」
 と利菜が微笑んだ。
 とはいえ、石川紗英といえば、芝原利菜が、上原利菜のままで、そのことに感謝したいような心持ちだった。紗英はともに過ごした中学時代をおもい、そのときかわした友情も、その後に自立した人生を歩めたことも、全部小学五年生のあの夏に起(き)因(いん)していたのだと感じたのだ。
 利菜が、セカンドバッグを手にして立ち上がる。
「午後の便で、千葉にもどろう。両親のことも確かめときたいし、こっちにいても、なにも始まんないからね」
「どんなことになるかわかる?」
 利菜は首を左右にふった。
「わかんないけど……むこうにもどったら、思いだすことも、きっとあるよ」
「出かけることはいってあるの?」
「旦那にも娘にもいってある。何日になるかわかんないけど、むこうにもどるって」
 紗英は、利菜を追って立ち上がる。
「秀三さんは、なんていってた」
「秀ちゃんには、町の様子はいってないから。娘もいっしょに連れてけなんて、いってたけどね」
「殺人事件のことは知らないの?」
「知らない。話してないから」
 利菜は会計をすますために、財布をいじくりだした。
 紗英はその背を追いかけて、「それっておかしいんじゃない? 出版社につとめてるんでしょ? あんたの故郷で連続殺人が起こってるんなら、耳にも入ってるんじゃないの?」
 テレビにもうつっているはずだし。
「知ってるだろうけど……」利菜がふりむく。「連続殺人の起こった神保町と、わたしの故郷がおんなじ町だとは、思ってないのよ。わかる?」
「そんな……」
「つまりこういうことよ」紗英の肩を叩く。「あんたのいう力が働いてんのは、わたしたちだけじゃないってこと。秀ちゃんやみんなに働いてる」
「うれしそうね」
 利菜は肩をすくめて、「公平ってことでしょ? それならわたし、納得できる」
 紗英は、不服そうに唇をかんで眉をひそめたが、心中では利菜の意見に納得していた。彼女だって、こんな事態に巻きこまれているのが自分たちだけだとは、考えたくなかったからである。

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