結着!本能寺 Q&A






 

結着!本能寺Q&A

信長の遺体は見つかっていないといいますが、本当ですか?
はい、織田信長の遺体は本能寺の変の後、見つかっていないというのが通説です。本能寺の変で信長が自害した後、本能寺は炎上し、その焼け跡から信長の遺体は見つかりませんでした。このため、信長の遺体の行方については様々な説が唱えられています。主な説としては、完全に灰になった説、持ち出された説、明智光秀が見つけられなかった説などがあります。
焼けた結果、誰が誰のものなのか、わからなくなっただけでは?
おっしゃる通り、焼けた結果、誰の遺体か判別できなくなった可能性も十分に考えられます。当時の火災消火技術や科学捜査技術を考えると、現代のようにDNA鑑定などで個人を特定することは不可能でした。本能寺の変の際に信長が自害した本能寺は大規模な火災に見舞われ、信長だけでなく多くの家臣や小姓も亡くなっています。損傷が激しかった、複数人の遺体が混じり合った、意図的な隠蔽といった可能性が考えられます。
木造の火災で、骨が灰になるほど高温になることはあるのですか?
はい、木造建築の火災でも、骨が灰になるほど高温になる可能性は十分にあります。一般的な木造住宅の火災の燃焼温度は、1000℃から1200℃に達すると言われています。特に、密閉された空間で可燃物が豊富にある場合や、「フラッシュオーバー」と呼ばれる現象が起こると、瞬時に室内の温度は1000℃に達することもあります。人間の骨は、それ以上の高温に長時間晒されると、完全に灰になってしまうことがあります。
ということは本能寺は全焼?
はい、本能寺の変において、本能寺は全焼しました。当時の本能寺は、単なる寺院というよりも、高い塀と深い堀で囲まれた要塞のような構造をしており、多くの宿坊を抱える広大な伽藍でしたが、明智光秀軍の襲撃と信長自身が放った火により、その大伽藍は灰燼に帰しました。
京都市内にも火災はありましたか?
はい、本能寺の変の際、本能寺の火災の他にも京都市内に影響がありました。火災の中心は本能寺でしたが、戦乱が市中で繰り広げられたことや、当時の京都市内の家屋が密集していた木造建築であったことから、火災が周囲に延焼したり、混乱の中で放火されたりする可能性は十分にありました。ただし、大規模な延焼があったという記録は多くありません。
広大な土地があっただけに、本能寺の変での類焼はなかったんでしょうね。明智の軍勢に囲まれて、信長の遺体を持ち出すチャンスはなさそうですが、もし持ち出すにしても首だけにしたはずですが、首無しの死体はなかったんでしょうか?灰になった遺体の記述も当時ありましたか?
広大な敷地と要塞のような構造から、本能寺の火災が京都市内全体に大規模に延焼した記録は少ないです。遺体の持ち出しについては、明智軍に囲まれた状況下で困難だったと推測されますが、それでも信長の近習が密かに遺体(特に首)を運び出したという説が複数存在します。焼け跡から首無しの死体が発見されたという明確な記録は見当たりません。当時の記述としては、ルイス・フロイスの『日本史』に「髪から骨までが灰燼となった」という記述があり、信長の遺体が完全に灰になったことを示唆しています。
変後に、信長の捜索は大々的に行われたんですか?
はい、本能寺の変後、明智光秀は信長の遺体の捜索を大々的に行わせました。光秀にとって、信長の首級を見つけることは、謀反の大義名分を確立し、自らの権力を正当化するために非常に重要だったからです。しかし、どれだけ念入りに探しても、信長らしき遺体は見つからなかったとされています。

 

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